naoさんへの返信。その5。

nao 2015/05/07 23:25


ではお言葉に甘えて書きます(笑)。


なんというか、勉強はいいけど感覚が大事ってあたりでなんか齟齬があるのかと思ってたんですけどないですね。あと別にmimisemiさんに対する不信感ってないんですけど、なぜか、あの僕が返信遅れたあたりから勝手になんか、「今更返信かよって思ってるな」とか勝手に思ってて(笑)、なんか被害妄想みたいになっちゃってました。


被害妄想といえば、去年ですが、母が昼にご飯炊いとくって言ったんですけど、炊いてなかったんですね。で、ニートっぽい生活してますし、働かざるもの食うべからずでメシあたらないミタイナmのかーとか勝手に被害妄想してて、ただ炊き忘れだったんですね。あと昔祖父母と素麺食べにいこうってなって、途中どっか寄ったんですけど、車ん中にいたんですね。で、そのあと向かう方向が明らかに素麺食べに行く方向じゃなくて、「あ、さっき降りなかったから怒って素麺中止になったのか」と思ってたら店寄っただけだったっていう、アホらしい被害妄想がいくつかあるんですね。


それで感覚なんですが、まあある程度はあるとは思います(笑)。というかわからないですけど、ルイスキャロルだったかの三段論法とかは、それをうまく表現できてる気がして、感覚的に三段論法って正しいんですよね。で、実際あれは正しいでしょう。でもそれを論理的に考えると、a→b、b→cならa→cにはdが必要みたいなやつでしたっけ。それでe、f・・・って無限に続いて証明できないみたいな・・・。論理では証明できなくても感覚は正しさを示してるっていうか、正しさを感じさせるっていうか、それういう状況を分かりやすく表現してるというか。実際どういう意図でこの話があるのか分かりませんけど。


論理的に無限のプロセスを経るのは無理だけど、感覚では可能っていう。ゼノンのパラドックス系も全部その類ですよね。運動パラドックスとか一点しか見てないゆえナンセンスで、空間全体を見れば、ある、かつ、ないみたいな存在論的な矛盾もない。で、実際そこで正しさって何?っていうのをまた別次元で考えるのに、いわゆる数学的モデルとかが有用な場合もあるってことですよね。あ、ところでイデアの思考の中断のくだりは完全にそれ自体と言語的なものとをゴッチャにしてましたね。全然別次元のことなんで別に中断する必要はさらさらない。あのとき最初に書いたようにイデアを信仰したところで影響ないっていう。でもむしろその「信仰」としか確かにいえないが、それこそが正しいっていう。


正しさを追求するための論理のはずなのに、結局それだけでは証明できないこともあったり、それよりもむしろ感覚のほうが分かりやすかったり正しさを感じさせるっていうのは、皮肉的というか面白いというか。論理=機械的ですけど、数学ってようは機械的じゃないんですよね。でも感覚が正しいっていうんだったら数学って人間的ってことですよね。いや、なんか共通する美のイデアがあるように感じるってことにしても、イデア的なものが人間に組み込まれてるんじゃないかっていう気もしてきますね。そうなるとソクラテスの想起説みたいになっちゃいますけど(笑)。でも誰にも教わらないのにオナニーするっていうのもまあそういうことかもしれません。母乳吸うとか。


なんでも論理っていうか型にしようっていうのはなんか全部そうですよね。人間はなんでも習慣化していって、実はほとんど思考してないって誰か言ってた気がしますが、本当そうだよなぁーっていうか。例えば法律とかもそうだと思うんですよね。ああいうのってケースバイケースで殺人にしても動機とか状況によって善悪というか罪の重さとか変わるじゃないですか。善のイデアが変わるってことじゃなくて、コンテクストもなく、一概に殺人が悪いとはいえないっていうか。なんというか法律って一種の善悪判断のマニュアルなんですよね。でもなんか不思議なのが、それでも弁護士によって見解違ったりもしますよね。せめて法律によって全部弁護士が有罪とか同じ結論になればまだしも、いや、それが善悪とずれてたらいいとは思いませんが、でも、それすらもなくて、法律ってなんなんだ?って思いますよね。善悪ともかけ離れてる、かといって統一的な結論に導くわけでもない、存在理由が謎。弁護士は法律知っててもふつうの人はそれを知らないですし。


人間まあ楽する方向にいくんですけど、思考ってことに対しては楽してはいけないって思うんですよね。でもなんか、労働という意味での怠惰とかはダメなのに、思考とかの怠惰は頻繁にあるっていう。なんというか義務というと税金だの労働だのって上がってきますけど、善っていうか、思考だとか、僕でいえば数学やるみたいな、そういう善みたいのってある意味一番重要な「義務」じゃないですか。でもそれがないっていう。


型にしようっていうのは教育もそうですよね。なんというか客観性を重視して、型にはめるかたちになっていく。でも教育なんて主観的といっても主観的過ぎてもいけませんけど、この辺フッサールな感じで、客観的な科学にしろなににしろ、それをわれわれは知ってるわけじゃないんでむしろ逆に現実離れするっていうんですかね。うまくいえないんですが。客観性を求めると結局型っていうことになってっていう。うーん、いや、やっぱり客観性みたいなことで善のイデアみたいな方向いけばいいんでしょうけど、でも形式とか型になるんですよね。まあ思考←→思考停止ってことでいえばイデア←→型ってことになるんでしょうか。いや、そんなに単純じゃないでしょうけど。


で、論理の飛躍ですけど、これこそ位相空間的なことで、その人にとっては、通常の論理でa→b→cみたいに考えるより、ぶっ飛んだ考えのA≒Bじゃないかみたいな仮説的なのって多分a→bより近いんですよね。すごい分かりにくい例えというか強引な他とえかもしれませんけど。その人にとって、a、bよりA、Bのほうが近いっていう。その人にとってはa→bのほうがよっぽど論理の飛躍っていう。直接的に数学を分かる人ってまあそうなんだと思うんですよね。


直接考えるほうが早いし分かるしっていう。確か2+2=4って公理だか機械にとってすごい長い証明の列なんですよね。でも人間にとっては自明っていう。この思考方法の違いっていうことだと思うんですよね。機械からすれば人間に対して「2+2=4っていうぶっ飛んだ発想すげー。」みたいな。


ポアンカレモデル的な、もうあの世界に入ってしまえば距離の概念が変わりますけど、ぶっ飛んだ発想できる人の脳になればぶっ飛んでないっていうか。いや、だから凄くないとかじゃなくて、でもa→b→的な論理とかの流れよりぶっ飛んだ発想のほうが分かりやすいことってあるじゃないですか。それをビジュアル化するとかもまあ、わからない人というか論理至上みたいな人にはおそらくぶっ飛んだ発想のように思えるんじゃないですか。でも論理こねくり回すよりビジュアル化したほうが分かりやすいっていう。


で、論理的に厳密にやるなら、a→b→cとかのaとbとかを積分のときみたいに限りなく無限個にしていって(間隔0にして)、で、離散的なa→b→cが連続的になっていくっていうか、なんかだから論理は連続的にできないかなっていうか、そこまでやれば論理だってやっと厳密だっていえるだろっていう。a→bっていう離散的な時点で飛躍だぞみたいな(笑)ブルバキとかそんな感じなのかもしれませんが。しかも一方通行っていうよりなんかもっと広がっている感じのイメージですね。論理が空間的になっているというか。いや、そこまでいくとまあ「論理」の概念の拡張かもしれませんけどここまでやったらもうちょっと論理も有用になるかもしれないとか思ったりしてたんです。まあこれはただの空想です。まあこれは分析ツールですしこれでもやっぱり全部は説明できないでしょうから、感覚さえあれば別にいいんですが。


パースっていう人だったかなんかはaからb、cへいく分岐してみたいなこと行ってた気がしますね。こうすると一本道じゃなくなるみたいな、うーん、忘れました(笑)、すみません。(追。パースは二項関係の論理だと線形連鎖にしかならないんで三項関係にしてネットワーク化すべきっていうことらしいです。これが僕の論理の広がりみたいな考えに近い気がします。)


で、ワイルズですが、NHKとかの物理とかの面白いんですが、ワイルズのやつは眠かったです(笑)。で、あれって志村五郎、谷山豊の業績っていってもいいくらいで、数学業界って他の業界に比べて実力で評価されてるとは思うんですけど、フィールズ賞だのでも予想立てた人とか理論構築した人とかもっと評価されてもいいのになーって思っちゃいますっていうかそういう理由で受賞してもいいのにって思います。谷山豊全集今度見てみます。難しいらしいですけど。ちなみにちくまから志村五郎の本出てるんですが、僕には難しいです(笑)。アルキメデスももっと評価されていいですね。確かにありゃ集合論微分積分って、ギリシャ時代のカントールじゃないですけど、あの、イプシロンデルタとかも結局アルキメデスの原理の化身ですよね。まあ無限についても相当考えていたでしょう。あの時代とかって絶対伝わってないものとかありますよね。あれ以前に数学やってた人いたけど別に残ってないみたいな。そういう書き記して残す的なことやってなかったみたいな。まあでもおそらくブルドーザーとかはなかったでしょうから例えばテクノロジーの発展が残ってないだけでピラミッド可能だったとかってことにならないんですが。


公理が抜き出された理由考えないと公理主義ってドライですよね。でも理由を考えたりと思考ありきなら全然有用っていうそういうことです。定義とかでもそうで、複素数の積やらベクトルの内積やらでも、定義だからってことですが、なぜそういう定義なのかっていうのを考えていくとそこに本質があったりしますよね。おそらく凄い先を見通してそういう定義にしたんでしょう。で、複素数にしてもそれが回転とか伸縮の幾何学的なことを現していて、それってモロ行列じゃん!っていうことにまでなってきますよね。


内積もそっから関数解析的な抽象的なことに繋がっていきますよね。でも高校でベクトルやったときなんかは、「定義だから」としか言われない。まあでも関数解析とかいっちゃうからそうかーとは思うが。サイテーな数学教師なんて、若い女だったんですが「当たり前なので、説明しません」とか言ってましたもんね。いやいやそこ説明するのがお前の役目だろっていう。ノートとらなかったらキレたり。手動かせ系のやつですね。まあでも高校にも一人だけなんか分かってるなーっていう先生がいて、もう教科書とか使わないんですよね。で、何回も同じこと説明するんですよ。流れを掴むっていうか。で、この人なんかはノートなんかとったってどうせ見ないし、それなら聞いて頭ん入れろってことで分かってるなーって当時思ってました(笑)。対照的過ぎます。別にそれは暗記ってことじゃないんですよね。流れを頭に入れろっていうか。「むしろ授業で理解できるほうが引っかからない分危険なんですよ。」とかも言ってましたね。今思えばある種反シュトレーバー宣言というか。いや、実際いたんですよ。授業聞いて、今日のカンタンだったじゃんとか言ってる人。いや、この先生が担当だったんで僕はネイピア数すげーって感動できたんですけどね。それが今の数学の始まりみたいなもんですから。それにしても引っかかることによってそこから思索が始まるんで本当そうだよなって思っちゃいます。


まあ数学なんてたまたま授業面白いとかじゃない限り学校で目覚めませんよね。でも教師って僕は教える云々より興味持たせることが仕事だよなーって思うんですよ。そのための教えるというか。でも教えるために教えてる教師が多いっていうか。「このページ終わったんで」っていうような、やったから分かってるよな?みたいな。


女教師のほうはまだまだ逸話があって(笑)、極限の初歩的な質問答えられなかったっていうの聞きましたし、なんかの質問で、ようは定義がこうですっていえばとりあえずいいような質問だったらしいんですが、その定義すらも言えず分かりませんっていったっていうのを聞きました。僕もまあ5回ほど質問したことあったんですけど、3回くらい分かりませんって返ってきました。あと2回もメッチャ曖昧っていう。あと試験前期間で、突然自習になったんで、でも自習用の教材持ってきてなかった人が、まあ突然自習になったんで当たり前ですが、しょうがないんで物理やってたらキレられたそうです。ちなみに僕も物理のときに数学やってキレられたことありました。いやでも両方関連してるじゃんっていう。そういう人らは見え方が小さいというか、「数学」とか「物理」とかマニュアル的な意味でしか捉えられないんでしょう。包茎チンコの穴から亀頭覗くような視野の狭さですよ(笑)。ちなみにその物理の人も教科書使わず授業やってますたが、いわば公式覚えてるだけのような人で、たまに実験器具とか持ってきて人気釣ってたようなもんでしたね(笑)。


あの頃は性欲ふつうだったんで、いっつもあの女の教師でヌいてましたね。それと好きだのなんだのは全く別で、むしろ嫌いなやつだからこそ抜きやすい。全然抜くことへの罪悪感もいらず楽でした。あと僕はMなんですが、その人のなんかSっぽい性格がちょうどよかったですね。


あとはそれだけ質問にも答えられないくせに、試験の成績全体的に悪いだけで、授業中まるごときれて授業終わるっていうのもありました。夏休み勉強しに学校きたりする人いるんでロッカー荷物置きっぱでいいって言ってたのに、夏休み中盤になると学校行ったとき教室にロッカーの荷物持ち帰れって書いてあるんですね。あ、その人担任だったんですが。いや、学校来てない人分からないじゃんっていう。で、放置してたらゴミ袋に詰め込まれてましたね。全部ゴチャゴチャに。非論理的で非人間的。論理といっても生活レベルでは必須です。


ちなみに小学校でも算数だけ担当してる人がいて、教科書使わない授業でこれは凄いいい授業でした。説明の前にグループで考えさせて発表して最後先生が説明っていう。考えるのが授業の中心で説明は授業全体でみればあくまでも補足なんですよね。まあ二人たまたまいい先生だったんでまあ偶然ですけど、そのおかげで数学好きっていうのはあるかもしれません。


あ、で、折り紙ですが、まあ折り紙の数学とかはあるみたいですね。まあルービックキューブは抽象的に考えれば群論やなんやありますけど、ルービックキューブなんてそんなこと考えてやってる人いないだろっていうのはありますよね。それいったらまあ折り紙もただ流れ作業的に鶴折ってる人が大半でしょうけど。パズルもでもようはアプローチ方法によっては数学的にできるんですよね。でも全部解決が目標だから、プロセスはどうでもいいってことなんでしょう。学校数学然り。


ところで最近ニーチェの価値判断っていうのを知ったんですが、これって僕はイデア的だなって思ったんですね。学術的には相対主義とかって思わてるみたく、ニーチェ自体反プラトニズムと思われてるようですけど、でもこの価値判断ってオワコンシリーズそのものだなって思いましたし、多分数学の感覚が正しいって思わせる何かって、多分それって数学の価値みたいなことだと思うんですよね。これは価値があるっていうか、そういったものだからこそ知覚できるっていうんでしょうかね。ひかれるというか。それで感じるみたいな。いや、センスある人って価値あるものにコミットメントしますよね。でもそれがセンスある人の中では一致してるっていうんでしょうかね。哲学とかの思想にしてもだいたい同じ結論にいきつくのもそういうことだと思うんですね。そういういわゆる社会性とかじゃない、共通認識っていうんですかね。分かってる人同市共通の善やら美やら思想やらにいきつくっていうんですかね。いや、まあ無理矢理繋げる必要はさらさらないですね。ただそう感じただけですが、あんまうまくいえません。


でも現象学とかもそうだと思うんですよね。絶対的真理とかは想定してないっていうことらしいんですが、うーん、結局絶対的真理みたいなところに行き着くっていうんですかね。イメージ的にリーマン球というか。結局北極に行き着く的な。この無限遠点がイデアというか。僕も結構ポストモダンじゃないですけど数学で例えちゃうんで(笑)人間が何を持って確信するかってことを分析した上で、ドクサなしの方法論で絶対的真理に向かうっていうんですかね。まあこの辺初学者すぎるんでこれ以上うまくは書けませんが。


で、公理の星のやつは面白いですね。なんというか、星の並びに意味はないんですけど、それに人間が意味論を見出すっていうんですかね。数学自体も多分意味論ってないんでしょうけど、それを見出すっていう、イデア的なものを人間が持ってるって感じるのもここですね。まあ人間原理みたいになりかねないですが。イデア的なものってもっと人間が知覚できる以上に広大なものだと思うんで。


長いと思って調べたら7033文字でした(笑)。今その文を書いたので7033文字じゃなくなったってツッコむのが分析哲学


感覚に関してはそればっか言ってると何なの?って気がしてくるなぁーとは思ったんですよね。まぁ当然、基本は勉強で、でもそればかりになりがちになるので感性の涵養を重要視せねば!っていうまぁ心構えっていうんですかね。当然基本はがり勉みたいな前提が無いと成立しないですよね。自分の中ではそれが当然でも自分が「感覚が重要だ」って書いたら他の人が自分は基本本ばっか読んでるっつーかすげーbookishなやつなんだって分かるわけではないので勘違いが生まれてしまいますよね。まぁでもなんていうんですかね、ここに来てくださってる人なら僕の本ばかりの生活は当然知ってるもんだと思ってるんでそんなことはあえて書かないって感じでしょうかっていうかまぁそんなに重要な話じゃないんですが(笑)


あとまぁ被害妄想とかすげー分かりますよっていうか「いくつかある」ってだけでまだいいと思うんですよね。僕はそれが元で病んだりしますしってまぁ自分のほうが酷い自慢をしてもしょうがないんですが、でもこの辺の精神的な危うさと感性的な鋭さって近いものだなとは思ってるんですよね。鋭すぎるからこそ色々と考えが及びすぎてしまって杞憂なことばかりに心を病んでしまうみたいなことってあると思うんですよね。それこそ厳密に言えばその可能性も否定しきれないなんて言い出したら日常生活送れませんよね。


あ、んで感覚なんですけどね、直感とかってまぁそりゃ色々と定義はあると思うんですが、よくテレビドラマとかの推理モノに出てくる天才の探偵みたいなのが「ちょっと待てよ・・・」って考えるときにこの探偵の頭の中のプロセスが描かれたりするじゃないですか?で、それは凄く三段論法的なAからBからC的なプロセスを経ているような感じなんですが、実際に直感的な人ってすぐ分かるわけであんなに一個一個アナログに分析してるわけないんですよね。もちろん頭はそれをプロセスしているんだけど考え方のプロセスとしてはAからBという感じではなくて問題にしてもなんにしてもすぐパッと浮かぶんですよね。で、なんとなく浮かんだものを具体化するっていうプロセスが数学だったり文章にするということだったり事後的な分析と解読だったりするんですよね。だからプロセスが逆なんですよね。問題で言えば答えがパッと分かってそれを時間をかけて数式化したりするっていうことなんですよね。もちろんそれは問題とか扱うものにもよるんですけどね。でも取り組むときにまず1からはじめるみたいなやり方を必ずやらなくてもいいと思うんですよね。なんていうか大局的に見るっていうんですかね。ダイナミックに考えた後に細かく考えるっていうか。


ところで法律なんですけど善悪というような人間の主観から離れることができるメカニカルなシステムだからこそ法律はワークするんですよね。だから無罪な人が裁かれることもあるし逆もまた然りですし、まぁそれが良いとはいわないんですがだからこそdue prosessっていう大事なプロセスがありますよね。これは無罪を前提にしないと法律が人を裁きまくって人権侵害をしかねないので人権第一にしてるみたいな話なんですが、でもそうしないと法律って危ないんですよ。あんまり僕は行き過ぎた人権思想とかって嫌いなんですけど、でもそれこそ人間の直感からすれば違和感があるような法律のシステムというのもメカニカルにワークさせるための方法論なんですよね。主観に依存してしまったりすると私刑のようになったりまぁなんていうかプロセスが荒くなってしまうんですよね。だからこそアルゴリズミカルに処理する必要があるっていうか。まぁそんな中で当然情状酌量とかもあるわけなんですが、まぁ法律はシステムですよね。ルールってまぁある種思考停止的に完全に決め事にしてしまうっていうのはそれを機械的にプロセスするための方法論ですよね。これ自体は小さいものでも大きいものでもシステム維持のためのアルゴリズムのようなものなので統一的な結論を出すために存在するものではないですよね。


色々なことが起こりうる中で個別のことをいちいち判断してたらきりがないので大雑把に何々において何々等をすることを禁じるって決めちゃうわけですよね。アルゴリズムってそうですよね。3以上ならばダメとか入力を受け付けないとか、それがあることでシステム内の管理ができるようになるので機械的であればあるほどシステム維持システムとしてはいいんですよね。もちろんそれを設計して運用するのは人間なので扱う人間が機械的じゃダメなのは当然なんですけどね。まぁnaoさん自体がおっしゃっているように客観性を求めると結局型ってことになるということですね。でも型とイデアを同じレベルで考える必要はないですよね。型っていうのは大体まぁ例えば武術とか舞踏とかにしても何らかの動きの最善の動きとされるものの極みであったり、あとは伝統的な価値観による良しとされるものの典型だったりするんですよね。でもだからといってそれがイデアとは限らないわけですよ。型ってそういう意味でコンテキストに依存しているもので、それは法律にしても武術にしてもそれにおいての型というだけであくまでシステマティックなものなわけですよね。イデアは構造などに依存しないものなので全く別物なわけです。


あとまぁ型と呼ばれるもの全般も色々なものの積み重ねで出来上がったものなのでそれが存在する理由ってあるわけですよね。でもそれを理由から入って色々とやってると長くなるんでとりあえず型という形で身体にしろ頭にしろ方法論的に学んでその後にその型が最善とされる理由というのを分析していくっていうんでしょうかね。型自体は絶対に何らかの思考プロセスによって作られたものなので型自体が思考停止の典型というわけではないですよね。それってまぁようは人間の取り組み方で型でいいとされているからいいみたいなそういう理由だけで特に疑問も持たずにそれを盲目的にただ機械的に使っていくだけっていうこれがまさに思考停止ですよね。


でも型と言っても例えば武術とかミリタリー系のマーシャルアーツとかの動きなんかだと考えるというよりかはまずその動きをしなければ死ぬみたいなものに関してはそれが身体的に身についているということが生存に繋がるわけなのでこういったものの場合、いかに早く最善の動きをできるか?とか判断できるのか?っていうのが重要になりますよね。ミリタリートレーニングなんかで動きを反復学習をして体に叩き込むっていうのはそういうことですよね。なんていうか言いたいのは思考せずにシステマティックにすぐプロセスできるようにするっていうのはものによりけりってことなんですよね。悪い意味では型にハマり過ぎて独創性が無いとか思考力を型が奪っているみたいな場合もありますが、今出したような身体的なものの場合、むしろ型がすぐに出るとか色んな型を覚えてたほうが良いわけですよね。むしろこの場合、考えるなんていう思考のプロセスなんて経ずに反射的に特定の何かが起こったらすぐその動きをするということがいわば「善い」ことなんですよね。


こんな感じで型にしてもコンテキストで意味合いが違ってくるし、型の価値とか思考をすることとしないことのどちらが良いか?というのもものによりけりなんですよね。だからほとんどのことにおいて「あらゆるもので言えることだ」なんていう一般化はできないわけですが、でも「善い」とされるものっていうのは必ず存在しますよね。それがイデア的なものなんだと思うんですよね。それは何が良いとされるか?ということではなくて良いという概念が必ず生まれるとか介在するっていうことなんですよね。


あ、んでいきなりですけどその女教師と分かってるなーって言う先生の違いなんですけどね、naoさん以上に辛らつにその女教師をディスることになるんですが、結局その女教師的な考え方とか仕事のやり方ってようはシステムそのものなんですよね。いちいち細かいことを説明していたらキリがないか、あとはまぁ細かいところまで説明できる人じゃないと教師になれない場合、実際に数学を教えられる教師なんてそんなに多くないみたいなこともあったりして、だから学校っていうシステムの中でとりあえず教科書のここからここまでを説明するっていう役割を担う人っていうような、その人がシステム的に役割を果たすっていうことですよね。全然良いとは思わないんですけどね(笑)でもまぁなんていうか思考の経済化っていうんでしょうかね、システム的にこなせば本来なら教えられないような人も教えるようなことができることになるんですよね。これがシステムの凄いところですよね。でもまぁその女教師がすげー抜けるって分かりますね。なんか逆にすげー良い先生だったり本当に数学を愛しているような先生の場合、あんまりムラムラこないかもしれませんね。ツンツンしてて質問しても「そんなのどうでもいい」なんて言いかねないような冷たさっていうんですかね、それは僕もドMなので凄く分かりますね。なんでしょうね、奥さんだったら数学を愛してるような人がいいけど性の対象の場合、冷徹に淡々と数学を教えてるような教師としては最低な女のほうが良いですよね。


で、ニーチェの価値判断なんですけど僕自身がニーチェにめちゃめちゃ影響を受けているのでオワコンシリーズなんかが生成された理由っていうのもやっぱりベースにニーチェがあるからなんですよね。そんなにベースというほど何回も読んでいるわけではないんだけどでもやっぱ凄い影響を受けているわけですよ。で、一般的に相対主義とか反プラトニズムとかって確かに言われてるんですが、おっしゃる通りニーチェは余裕でプラトニストですね。あとニヒリストなんて言われますが誰が言い出したのか分からないけどまぁとんだ誤解ですよね。色々と考えていくと相対主義ニヒリズムに陥るので、そういうものに抗う絶対的な強度を持った「何か」というものを見つけ出すとかそれにコミットするとかそれを高く評価するということなんですよね。これこそまさにイデア的な「善い」という感覚ですよね。でもまぁそれを言い出すとこの概念自体がプラトニズムというよりかは哲学という言説における「善い」というものの概念の一つなんだとは思うんですよね。でも何を隠そうその哲学的な言説における「善さ」というのを語っていたのはソクラテスですよねっていうかまぁプラトンが描いたソクラテスですよね。あとまぁvirtueっていう概念も同じぐらい重要でね。そういう意味で僕の中でのその個々が持つ価値判断ってgoodnessとvirtueの間ぐらいにあるものなんですよね。でもまぁそれを突き通そうとすると絶対に社会とは上手くいかなくなるんですよね。それがまぁソクラテスの弁明なわけですが。なんかだからそういう意味で人生に対するコミットメントの態度の原理みたいなものですよね。それって元々あったわけじゃなくて色々と読んで確固たるものが自分の中で生まれたっていう感じですよね。


でもそれってnaoさんの話にも出てきていますが人間原理にもなりかねない話なので、でも哲学って「そういう生き方なんだ」っていうことを言ってるんではなくてあくまでイデアとの対応関係を言ってると思うんですよね。というかそういうものじゃないと意味が無いっていうか、まぁあれですね、truthって言われるやつですね。真理って書くとなんか宗教的になりますが、僕が色々と考えている限りでは「少なくとも俺が生きている中ではこれでオッケーなんだ」というような狭いものではなくて、まさにnaoさんが書いているような人間が知覚できるものなんかよりより広大なものというののほんの一部でも知覚してイデアをベースにして生きたいって思うんですよね。だからまぁやっぱり話が宗教臭くなったりあとはまぁあくまで人間が考えるイデアでしょそれって的な話になるんですけど、でもそこは違うわけで人間原理の真理なんて簡単ですから、そんなもんで納得しないし知的欲求も満たされないわけですよね。ましてや人間原理的なことには酷く失望するというかやはりスケールが小さいのでつまらないですよね。もしかしたら実際はイデアについて考えたりすることなんてできないのかもしれないけどでもそれは可能だって信じるっていうことですかね。それによりイデアは知覚可能になるって思ってるんですよね。この辺がやはり相対主義に陥るとイデアと遠くなってしまうのと人間特有の狭いパースペクティブにありがちな相対主義ニヒリズムシニシズムってのが生まれるんですよね。こうなったらやっぱり終わりですし、ニーチェがthe last manって呼んでたような終わった人たちってまさにこういうイデアへの憧れを失った人たちだと思うんですよね。それによる相対主義でシニカルに生きているならそれは完全に負けていますよね。そういうものに負けないエロスっていうんですかね。ニーチェがデュオニュソス的って呼んでるようなものなんですが。


まぁでも僕がいつも書くようなニーチェの話って僕が勝手に解釈しているニーチェなので一般的にどう言われているか?とかまぁ僕にとってはどうでもいいんですが、僕が「ニーチェなんだけど」って言ってもそれは僕のニーチェである可能性が高いってことですね。だからまぁ言うまでもないことなんですけどやっぱり数学書と同じように哲学も原書を読んでほしいです。あとあんまり自分のニーチェ感みたいなのを押し付けたくないし熱く語りすぎてそれが洗脳みたいになってても嫌なんですよね。ニーチェってやっぱ個々の人にとってのニーチェってのがあるわけですから。あ、まぁようはあんまり僕の言うことを鵜呑みにしないでくださいってことですね(笑)合っている間違えているではなく僕特有のものなので面倒ですけど原書を読んでくださいって切実に思います。もしとっくに読んでいるのだったらその場合は申し訳ないです。


んで話が前後しちゃうんですけどルービックキューブってただ手を動かすだけで考えずに解くことが可能なんですけど数学のコアってやっぱりそれを抽象化して群論として考えるとかっていうことですよね。究極までに概念を抽象化するプロセスっていうことなんだと思うんですよね。政治哲学とかで抽象化が極端に進むとくだらないものになったりするんですが数学の場合、まぁあくまで僕の価値基準ですけど抽象的になればなるほど良いと思うんですね。結局そうなるとなんたら学みたいな分類が無くなってもう完全な概念の世界になりますよね。で、そういった抽象化のプロセスを経てまた具体化というか抽象度を下げていって具体的な形にしたりっていう、まぁでもそれってまぁ哲学もそうだし恐らく学習全般そうだと思うんですよね。結局抽象化ってそれをやれる人にとっては諸概念をより扱いやすくするプロセスっていうか、なんか凄く色々と柔らかくして頭にフィットするみたいな感覚ですよね。


大体自分の中で「ビビッ!」と来る場合、哲学にしても数学にしてもこの頭にフィットする感じってあるんですよね。エロい女性の生脚にタイツがフィットしているっていうような、まぁ僕は性的にこのフィットフェチであるので重度のブーツフェチだったりもするわけなんですが、なんかでもこの性的に興奮するようなフィットの感覚っていう自分の性癖と自分の知的刺激が刺激されるようなフィットする感じってそれこそ抽象的に考えればコンテキストが違うだけで同じ興奮なんだろうなって思うんですよね。なんというか質感フェチであるしそれを感じるものとかハイレゾだとより興奮するとかっていうそういうことなので数学に関してもゴツゴツしているよりかはフィットするようなエロい感じが好きっていうんでしょうかね。凄くまぁ性癖と似ているんですね。


長くなったのでこの辺でやめますがっていうか最後に性癖の話をして終わりかよって話なんですが(笑)個々の話題に関して全てに答えられているわけではないのでその辺はすみません。別に無視しているわけではなくてちゃんと読んでいますので。言及が無いところにしても言及が無いだけで関わりはあるので結果的に全体への返信になっていると思います。相当長く書いたと思うんですが、例によってまだ色々とあればまた是非、お願いします。あ、特に返信を強いるつもりはないんですがとにかく書きたいだけ書いてください。集中できるときにまた返信したいのでちょっと時間が空くかもしれませんが。