ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

欲望についての話。

また続きになるけどね、これだろうなって思ってるような示されているものに関する本質的な不在ってのが欲望と深い関わりを持つわけだけど、その示そうとしているものが仮に存在しなかったとしても、その示そうとしているものの関係性によってそれがあたかもあるものかのように機能するんだよね。まぁこれは他のことでも前に書いたんだけど、そこでの本質的な不在ってのが欲望と快楽を想起させるような不安材料なんだよね。逆に欲望が想起可能というかこれが欲望なんだってこを示すことができた場合はそれが満たされた自分ってのを想像しやすいわけじゃん?そうなると一気に欲望って無くなるよね?っていうかまぁオナニーでよくない?って帰結になるってやっぱここだと思うんだよね。


でもそうじゃない欠落かもしくは永遠に取り出すことができないようなものを欲望し続けるってのはさ、まぁまず示しやすい欲望の対象が必要なんだけどでもそこに欠落が無いといけないんだよね。でもこれってファンタジーの余地を作っておくっていうようなことではなくて、欲望するということにおける本質的な不安だよね。まぁそれが全面的に欠落によるものなのかはともかくとして、それは満たしきらないだろうっていうようなね、でも満たされたいっていうような欲求と本質的な不可能性っつーのかな?あと蓋然性ね。こうなればこうなってこうすればああなる的な予想ができないっつーかそういう不完全性も概念のレベルでは不安に結びつくじゃん?で、結局その観念的な内部フィードバックみたいなのがより欲望するということを刺激するんだよね。で、これが性的倒錯とかの場合は永遠に倒錯をこじらせて異性の体には寸分も触れないまま永遠と欲望を膨らませるっていうことになるんだけど、これってやっぱ抽象的でレベル高いよね。


肉欲ってまぁようはちんぽとかまんこへの摩擦とか沸きあがってくる欲望みたいなのを満たすっていう食欲を満たすみたいな抽象性が低いものじゃん?でも抽象性が高い欲望ってのは今書いたような欲望の体系とか欲望の再生産ってのがあるんだよね。で、今思ったのはこれは外部的なものに規定されたりもするのか?っていうね、さっき言ったような蓋然性ってのは外部的な蓋然性なのか?ってことなんだけど、それはダイナミズムとしてみたときに外部も内部も無いっていうか、全てにおける蓋然性だよね。内部の場合、その時の欲望とかそれこそ精神状態とか体調とか志向しているものとかね、あとそれこそそのときに就いてる職業とか人間関係に至るまで全部がその内部性のダイナミズムだよね。外部性も言わずもがなで同じような恒常性が無いようなカオスだよね。まぁ内部の場合、恒常性を保つっていう心的な動きってのが常に働くけど、そこでは欲望は生まれなくてさ、もしくはその抽象性が高いような欲望ってのはカオスに射精するようなもんなんだよね。


こうなるとさ、ただのピストン運動である性行為っつーのも象徴的で記号的な意味な意味合いでのさ、ブラックホールに射精するような快感っつーのかな?子宮がブラックホール的なね、まぁ同性愛の場合、アナルでもなんでもいいんだけど、ただやっぱり言えるのはただの摩擦はオナニーで済むからセックスをするためには欲望をしなきゃいけないってことなんだと思うんだよね。セックスをしないカップルとかが増えてるっつーのもまぁそういうことだよね。簡単な欲望なら満たすことができたりあとは抽象的な欲望というのを涵養するきっかけがなかったりさ、あとはまぁ最初に書いたようなラカン的に言うなら享楽における必要不可欠な要素としての苦痛と不安だよね。それに耐えられないかコミットしないのか、もしくは欲望ってもの自体がSM的な性倒錯なのかもしれないしさ、でもまぁ普通のセックスはつまらないかあとはまぁ自給自足でオッケーって人が増えるのもまぁ当たり前なんだよね。情報量とか摩擦のための方法ってのが色々とあるからただの肉欲の場合、自分で満たせることが多くなるわけだよね。でもこれってテクノロジーの進歩と比例してるっつーかさ、いや、普通そうなるよねってことだよね。


そういう中で欲望について考えるってのは変態性を涵養したり発散させるっていうよりかはよりそれに意識的になって倒錯せよ!ってことだと思うんだよね。で、その不安と不完全性とどうせ満たされないかもしれないっていうような不安とか苦痛も含めて欲望するんだよねっていうかそれがないと欲望できないんだよね。最近書いている感性的なものというのを涵養するっていうプロセスでもあるよね。これ。どれがあーなってこうなるみたいな理屈の世界じゃないっていうかさ、ある種の超越論的な話でもあると思うんだよね。そもそもオーガズムってのがそういうもんなんだってことなんじゃないの?って思うよね。まぁ摩擦でも作り出せるけどやっぱり本当のものっていうのは観念的な欲望の発露なんじゃないか?って思うんだよね。


たかだかドラクエだけどされどドラクエでさ、ドラクエやっててもこんなに色々と思うことがあるわけよ(笑)無駄なことないよね。全部考える材料になるわ。まぁ色々と書いてることも仮説みたいなことであってもそれを実証するのってようは自分が欲望してそれを語るとか実践するということを通してそれを作っていくってことだよね。まさに俺がオワコンシリーズで気がついた例の自分の世界を作るっていう価値創造のプロセスなんだよね。ただでもこれは仮説の立証っていうことになっちゃうと自己成熟予言みたいになっちゃうから客観性がなくなるよね。まぁそもそも欲望に客観性もクソもないだろうとは思いつつも「やっぱりそうだったんだ!」ってのを自分で思いこむことでそれが達成されたかのように思っちゃうとそれはただの妄想だからね。まぁそもそも欲望自体が妄想だから分けるのは難しいけど、でもまぁ言いたいこと分かるでしょ?やっぱりこうだった!って思える基準をズボズボのダルダルにするか凄く厳密的にするか?ってことだよね。そのさじ加減。で、俺は断然後者なわけねっていうかそれ以外ありえないっしょっていう。


まぁでも一種の社会構築主義ではあるよね。あと自分が読んできて影響を受けたものって意味でのコンテキストって意味でもモロにそれだなとは思いつつそこに還元する必要はないし、あえて言うなら類似は感じるぐらいのもんでいいんだと思うんだよね。でもなんかこれって場の話でさ、社会ってことになると想像の共同体みたいなさ、俺が大嫌いな空想的な社会理論っつーの?(笑)そういうのになりえるけど観念とか精神とか欲望っていう個々の内面的な行為とか志向っていうのかな?それが主体を作り出しているって考え方は割といけるよね。ただまぁもちろんこれも還元的になる必要はなくてあくまで俺がどう考えるか?ってのをベースにして考えるんだけどね。いや、散々こんなものは考えつくしたんだけど、最近は欲望っていうものをベースにまたそういった自我とか自己みたいなのを考えたり出来るなって凄く思ってるのね。


まぁでもあれだよね、すげー正規の哲学のパラダイム内のことではあるよね。めちゃめちゃ変なさ、俺が色々と考えた末に考え付いた独特のものであってほしいとは思いつつも冷静に眺めるとまぁ基本はノエシスノエマ構造だなっていうのは感じるのね(笑)でも俺はそこでそうなんだと還元したくないんだよね。あくまで類似なんであってそれに完全対応しているかどうかは常に留保を置いておくってのと変にドグマティックにならないように常に観察するっていうか熟考して考えを導き出すっていうね、だってそもそもノエシスノエマ構造だなんつっちゃったらもうそこで還元できちゃうもんね。それがまぁ非常につまらんしあとそんなに単純なことでもないと思うし。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。


あと書き忘れ。蓋然性はラクラウが社会理論とかで使ってる「浮遊するシニフィアン」っていう意味合いもあるんだけど、今回書いた蓋然性ってのは全てを含めた蓋然性ね。社会に限らず個人的であったりそれこそ妄想的であったり分裂病的であるようなものも含めた作用としてのシニフィアンね。で、これは客観性ってのが無くて社会的なシニフィアンと言えるような厳密なものから個々の妄想に至るまでシュールレアリズムっぽい感じで、幻想と現実の境が曖昧になってるみたいな意味でのシニフィアンとそういった世界感における欲望ね。これを考えると興奮度って高まるでしょ?これは相当ヤバいと思ってるんだよねっていうかこないだすげー発見だ!って書いたんだけどまさにそれなんだよね。でもまぁブニュエルとかってそれやってたんだなって改めて思ったよ。何を今更!って感じかもしれんがね(笑)