○さんへの返信。

○ 2015/07/25 09:14
読んでます。こりゃ何度でも読んで理解したい文章です。最後の、幻想と現在の境がとけだすとか、広い意味でのシニフィアンとか、若干興奮します。確かにヤバいかも。


ラカンなんかを読んでいると思うのは普段主体があるって当たり前のように思っている自明性って全然無いってことなんですよね。昔から知ってはいたけどそのコンテキストを現在の自分にするとまた違った意味合いや印象が出てくるので面白いところなんですよね。色々と客観的事実とか環境とかってのがあってそんな中で実存的に自分の人生を引き受けて生きているという風に思うんだけど、でもそれは主観に埋没しているだけなんであって、もっと他の象徴的な意味合いや幻想なども含めた主観や現実とは定義されないバーチャルリアリティも現実とみなして見るというような認識のあり方であったりとか、まぁシニフィアンが主観化するとも言えるんですが、そもそもシニフィアンシニフィエ構造自体の自明性が怪しいってことになるんですよね。まぁそれは客観的に事実だけど、じゃあ主観的にどうなのか?っていうと科学とかは抜きにして曖昧ですよね。その曖昧さを残すというか、あとまぁ解明しきれないんだけどその曖昧さの中での広い意味でのシニフィアンの浮遊というのを許すっていうんですかね。これは行き過ぎるとオカルトみたいになりますけど、そこはやはりリアリスト的な面があれば大丈夫だと思うんですよね。


メタ的であるからこそシニフィアンシニフィエの関係性を広げることができるっていうんでしょうかね。オカルトみたいな話にもなるんですが僕が言いたいのはそういうことではなくて個々が持っている意味論ってのは物凄くパーソナルなものだから、そこで起こっているシニフィアンの浮遊というのはむしろ主観的じゃないとありえないみたいなことになるんですよね。まぁだから構造的にフッサールとかと似てくるわけなんですが、そこをポストモダン要素なんかも含めて自由なダイナミズムが作り出すカオスみたいなのをエンジョイするっていうんですかね。まぁそのカオスに興奮するってことですよね。本当にヤバいですよこれは(笑)自己破滅的でもあるし、でも強度を求めるが故に理性をあえて無くすというような超越性へのコミットかもしれないし、僕は今そんな感じの世界感でいますね。


あと興奮するような対象aに限らず理性やモラルや常識などが禁止するものってのが多くて、その禁止を同じく欠落と見なすことで欲望の原動力にするってことになると俄然と生きるパワーが湧いてくるっていうんですかね?(笑)自分が考える対象a的な欠落とはまた違うものですが、根源的に欲望するということ自体のパワーってのを感じざるを得ないですよね。理性について分かりきったら次は理性とか悟性を捨てていくってことなのかもしれないですね。かといってもスピリチュアルとか神秘主義にはならないでいつつ超越的な強度に浸るっていうんですかね。かなりヤバいですねこれは。まさに分裂病的世界感なわけですが、そこに理性や悟性を介在させるということが教養とか良識ってことだったりすると思うので、必然的に倫理の哲学ということにもなりうるんですよね。そこにおいて考えるということがすでにナンセンスかもしれない非論理的なことをも内在しうるっていうことになるんですよね。そこのスリリングさと興奮度ですよね。「うん。これも世界感だな」と認識することで形成される世界ですよね。それが日々変わっていくということですね。