ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

発狂寸前。

あ、んで最近なんだけどまぁちょっと色々大変なことがありましてね、だからまぁあんま更新してないんだけどでもまぁあれなんだよね、凄く思うのはさ、意味と認識だよねーやっぱり。まぁ最近書いていることの続きになるんだけど客観的な意味なんて科学とか数学とか以外ありえねーじゃんっていうさ、一応の基準としてあるだけで自分達が客観と言っているものすらも合意なんてないんだよね。それは自明だけどでもだからまぁ意味って通じなかったりさ、まぁもちろん厳密な言葉が意味する意味と喋りとかまぁ定義みたいなね、そういうのをまぁ常識とするんだけどでも実際はその常識って相当怪しいし、まぁそんなもん古典的な懐疑論なんだけどただパラノイア的とかスキゾ的っつーのかな?パラノイアってのが直接的ではないにせよあまり関係がないんだけど意味されそうな感じがちょっとあるものってのを過剰に意味づけて発生するもんでスキゾってのは関係ないもんがいろいろと勝手に意味形成をしちゃうみたいな感じで捉えるとさ、両者ともに主体はないんだよね。あくまで意味とか意味同士とか起こった事っていうことの現前性において意味が立ち上がってきたりその場での意味を作ったりして、でもそれはawareness云々ではなくむしろ現象なんだなって思うわけね。


それを解釈するのが主体であるのは間違いないんだけど、イメージ的にディラックの波みたいな感じなんだよね。意味って。意味したり意味されるものってのがいろいろと流れていてでもほとんどが実際は蓋然性と恣意的な主体の解釈に依存しているっていうね、生活圏の話と厳密なものとしての言語ってのを同じにしちゃいけないんだけど、でもそうなんだとすれば生活圏における我々の一番身近にある言語とは離れた言語っていったいなんなのか?ってことだよね。むしろファジー過ぎて困っちゃうのが言語で話が成立しているように見えても実際はそれはただの振る舞い上の見た目なんであって意味の合意とか意思疎通ができているなんて保証はどこにもないっつーか意思疎通なんて無理なんだよねってまぁ不可能ではないんだけどただでも相手が何を考えているか?ってわからないじゃん?


あとその時の会話の力の入れ方とかもあるじゃん?適当に答えているときとすげー真剣なときとさ、意味とかそもそもマインドセットが変わってるよね。意味とか言語の基盤自体がリアルタイムに変化していてその瞬間瞬間で微分的にランダムに意味が生成されていたりコミュニケーションとされるものが成立したりして、その過程を見れば積分的なやり取りの記録だとか文字起こしにせよ記録が見れるんだけどすでにそれはもう発話からは阻害された独立した言語なんだよねってまぁデリダみたいになるけどさ、書かれたものが死んでいるかはともかくとして、その微分的でなおかつ主体のマインドに依存するようなこれといった決め手がない意味作用の地盤同士のやりあいの中で成立しているものなんてそもそも成立していないんじゃないか?ってことになるんだよね。成立しているように振る舞わないと生活していけないから特に配慮しないだけなんであってそれは言わば常識がそれを成立させてるんだよね。この程度でいいだろうというような適当さも含めて。


っていうか厳密な意味なんて一個一個の言葉に求めないよね。やりすぎるとそれこそアスペみたいになるけどでも実際の厳密性ってのを考えるとむしろアスペが正常って感じがしてくるんだよね。異常なのは社会生活を送る上でそれが邪魔だったり何かと言えば何かが円滑に進まないみたいな理由で障害とされているけどそれってまぁ社会的便宜性っつーのかな?便宜性がなかったり反社会的にもなりうるって意味で狂気っつーラベリングをするっていうね、まぁこの辺はフーコーだよね。まぁ言葉って意味でもフーコーか。別に特にフーコーを意識しているわけではないんだけど、厳密な言語形態と形成とかそれと文化ってことを分析すればするほどそれが成立している基盤の恣意性に不安を感じずにはいられないっていうかさ、それも結局は現時点でのなんとなくの意味論の地盤によって解釈された歴史なんであってそれが確固としたものかどうかなんてわからないんだよねってことを言いすぎると極端な相対主義になっちゃうんだけどさ、いや、そこで別に民俗学とか歴史学ディスるつもりはないけど、でも例えば日本の民俗学にしたってまぁすげーああいうのって調査している人の認識と思考形態に依存するじゃん?


そもそもそこで解釈が行われてるんだよね。それは学術的にやっておかなきゃいけないっていう便宜的なものなんだけど、でも実際の村に伝わる話だとか怪談だとかなんだとかってのがどんな意味合いを持っているか?なんてのはそもそも伝承されている時点で失われてるっていうかもともとないんだと思うんだよね。でも伝承されていてそれが誰かによって発話されるとそこでの微分的な恣意的な意味合いとか雰囲気ってのが生まれてまたそれが伝えられていくんだけどでもそりゃ伝わり方なんて厳密じゃないから色々変わっちゃったりするじゃん?


むしろそれが当たり前なんだけどね、でもなんで直感的には伝わっているんだろうって思うのか?ってやっぱり常識っつーイデオロギーなんだよね。それをいっちゃーおしまいよー的な話にしないための一貫性っつーかさ、成立させないと壊れるものが多すぎて根本的に問えないものってのが多いんだよね。もちろんそれがあるからうまくいく部分があるわけだから壊す必要があるものばかりではないんだけど、ただそういった必要のなさから根本的に問えるかどうか?っていうラディカルさが失われるんだよねっていうか失われてるんだなって思ったのね。逆に今まで俺はその辺をどうしてたんだろう?って思うぐらい最近は混乱してるんだよね。


まぁ配慮がいってなくてあとまぁ無意識にごまかしてたりそういうもんだって決めつけて思考力の節約をしてたりっていう脳が自動的にやりそうなことをやってただけなんだと思うんだよね。別に無駄ばかりではないんだけど、それってまぁ自分の中ではそういう形でやっていけばとりあえず他とも問題起こらないしほかに迷惑かけることもないし自分でもやっていけるみたいなフォームみたいなのに寄り添っているだけなんだよね。それが安定ってことだと思うんだよね。で、そこを問いだすとほぼ狂気だけどでも凄く真摯に考えれば考えるほど安定なんてことはありえないっていうか安定なんて思考停止なんだって思うようになってくるんだよね。頭をあまり無駄に使わないということを頭が覚えているだけでもともとは意味とか主観的な世界の受け止め方なんてカオスじゃん?そこを固定したイメージとか納得するイメージとかあとはイデオロギーとか信条みたいなのと折り合いをつけてイメージってのを作ってるだけなんだよね。むしろそのイメージが主体でさじゃあ自分ってなんなの?ってことになるんだよね。


ちょっと狂い始めてるのは自分でも分かってるけど(笑)まぁだからもうどうでもよくなってるんだよな。あんま書かなくなってるっつーのもそういうことなんだよね。言語自体に凄まじい違和感を感じているのと意味するだろうって思いこんでいることの誤謬ね。もちろんまぁそんなのも含めて勝手にいろいろと解釈されるのが面白いわけだし、そんなに厳密に伝えようとしてるわけではないんだけどさ、でもまぁ俺は俺として最近起こっている心の混乱ってのはやっぱり記録しておきたいしこの場があるから書く気にもなるんだなとか思ったりしてちょっと救われてるかな。


ただ認識が変わってることで何かを読んでいたり普段にしても「お!」っていう勘所みたいなのが変わってくよねっていうかまぁ新たに加わるって感じなのかな。あとまぁなんか異様に不安に襲われたりして情緒不安定なんだけどその不安のソースってやっぱ明らかではない何かによるものなんだよね。芥川的な抽象的な不安とでも言うのか。で、それに押し殺されそうになったときにふと頭がやった操作ってのがそれを関数として考えるっていう処理の仕方ね。ソースが明らかではない抽象的なものから自分の情緒によって不安ってのが想起されたときに自分の中に入ってくる場所ってのが無くてそれは関数なんだっていうね。まぁさっきの微分的なコミュニケーションってのも全部偏微分ってことなんだけど、まぁでも特にこういう固定的な不安ってのはそれが顕著なんだよね。でもまぁコミュニケーションってのはそこで勝手に生じるものなんだけど、処理自体を微分的に考えるってのもある種の対応の仕方なのかな?とは思ったよね。それで安心するかはともかくなんかが関数的に処理されて不安が想起されてるなーって感じるときに関数だとソースが辿りやすいっつーのかな?不安が直だとそのまま不安なんだけど関数的なcomputationだって思うとでは何がソースなのだろう?というメタ的なレベルで考えられるっていうのかな?で、まぁソースはこれなんだよなっつってまぁどうにもならないことだよねってことになって納得はしないんだけど起こっている状況というのはよくわかるようになるよねっつってもこれ言い出すと全部脳機能学的な考え方になっちゃって何がそうさせているのか?っていう心の部分が解明できないから何の解決にもならないんだけどただまぁ機能の一種なんだよねってことなんだよね。


あ、んで最近さ、オープンダイアローグっつーフィンランドかなんかで効果が出てると実証されて積極的に使われ始めてるセラピーがあってさ、ラカンの本とかを色々とアマゾンで見てる時に斉藤環の近著として出ててね、んで買ってみたら面白いんだなこれが。セイックラっつー人が第一人者で依拠してる理論のベースってのがミハイル・バフチンポリフォニーって概念だったりするんだけどバフチンと言えば読もうと思って読んでなかった「小説の言葉」ってのがあってさ、おーこれか!と思って読み始めたりなんかしてまぁ色々と新境地なのとあとまぁ今の俺の感覚とそういうのがリンクしてるっつーのかな?まぁ俺の中で起こっているのは混乱でもしかしたらinner dialogueなのかな?って思ったんだけどまぁ普段は独白じゃないですか?で、最近の混乱ってのは自分の中の対話がベースになってるんじゃないか?って思ったんだよね。独白の場合、統合されているけど対話の場合、いくつかの独立した独立した者同士の間では場合によっては論理的整合性が得られないようなものがあったりして、それが凄くクロスしてるっつーのかな?すごく疲れるんだけどね。


あ、別にこれはオープンダイアローグがきっかけでそうなったんじゃなくてまぁその例の色々あることの中で起こった事なんだけどね。なんかそれがきっかけで混乱が起こったような流れになったわけではなくて混乱があってその中で色々と読んでいる中でオープンダイアローグのことがあったりそれつながりでバフチンとかが出てきたりってことなんだけどね。あくまでだから自分の認識が向いている志向性ありきのものなんだよね。これがバフチンを読んでこうなったってことならバフチンを読むと狂うみたいな感じになっちゃうけどそうではないってことなので(笑)


潜在的な意識の志向性があるからこそ起こることや重なる偶然に見える必然がある・・・とかって完全にユングの世界だけど志向性が自分の世界を構築するのは間違いないよね。つまりは線形性からは物事の本質は見えてこないってことだ。なんか勝手に自分の中で真理に近づいてる感じがするんだけど気のせい?(笑)ポストモダンとかも経由してっつーかむしろポストモダン的などうしようもない状態からこういう認識になってるってのが面白いんだよね。あとまぁ非線形的な世界観に妙な意味合いを感じちゃうのはまぁ複雑系の影響は当然あるけどね。でも直感的に線形的なものには論理的な必然性とか事柄の蓋然性という意味からの必然性を感じて納得したり意味として捉えられたりするんだけど非線形的なものになると急に否定的になるのってやっぱり近代的なオカルトとか神秘主義的なものの否定だよね。いや、別に俺はオカルト論者にはならんけどさ(笑)変な未知の領域にも理性をもって挑むってことだね。


今回の微分的なっつーのはまぁすげースキゾだけどイメージ的に無限にある並行世界の地平線の上でたまたま重なりあった何かってのが事柄を生み出してそれを解釈する主体ってのがあってっていうのが無限小の単位で起こってるってことだね。あれかまぁ株のフラッシュトレードみたいなもんか。ああいうのをもっと拡大したのが世界だねっつーか逆なんだよな。あれが世界の成り立ちの縮図でもあったりするんだよねっつってもまぁ部分的にだけどね。ましてや株ってフラッシュ以外にもいつも書くように主観的な勝手な意味論とか客観性が無いような興奮とか気分でも左右されたりするわけじゃん?客観的に妥当だろうがなんだろうがその主観的な行為が世界に影響を与えてるってのがね、いや、まぁ考えれば当たり前なんだけどもっとそれを超ミクロに考えるとさ、発狂するぐらいな世界観にならない?っていうか思春期の頃とかになんとなくそれが分かったとたんに頭が処理できなくて病的な兆候を見せるようになるようなああいう感じだよね。


でも理性的に見るとカオスだけど一貫性はあるんだよね。むしろそれで当たり前なんだけど脳はそんな処理しないわけだよね。その辺の差異ってのがまた世界の形成になってるんだよな。コミュニケーション然り。まぁこんな病的な発想ではないけどバフチンの本にも言葉ってことについて似たようなことが書いてあってシンクロニシティを感じずにはいられなかったね。なんでこういうところにawarenessが向かっているときにバフチンの本が手元にあるんだろう?っていう不思議な感じね。まぁ大体俺の場合、哲学と数学に関してはこういうことの繰り返しだったけどでもまぁ強弱あるじゃん?強烈なほどのものって実はそんなに多くなくて、でもまぁ今回はすげー強烈なんだよね。ちょっとなんつーのかな?不思議の世界に迷い込んじゃった感じっつーの?理性とまぁまぁの知識があるからオカルトとかに走らないって感じだわ(笑)いくつかの相反する世界観がぶつからずにでも合意がないまま偏在してるって感じかな。それが増えるとそれだけ知覚できる世界の次元が増えるっていうのかな?でもまぁsuper ego的なコモンセンスとsanityってのを持った世界ってのが当然あってのことなんだけどね。でもこの偏在が増えるってことは確固たる間違いない!みたいな信念が場合によっては揺らぐこともあるってことなんだよね。今はそういうのをすごく感じるわ。もちろん自分がvirtueとして思っているようなものは変わらないしまぁあくまでプラスな意味で揺らぐってことだよね。多様性が生まれて選択肢が増えると言ってもいいかもしれない。でも常にリスクがあるんだよね。何しろ相反してるわけだからね。行き過ぎるとガチで分裂病になるんだろうなって思うよね。


なんか書いたらすっきりしたわ。また書くわ。んじゃまた。


追加っつーか関数とかって書いたけどイメージ的にはこういう感じね。


https://en.wikipedia.org/wiki/Spectral_sequence


https://en.wikipedia.org/wiki/Quasi-category


ただこういうようなcomputationが決められた演算のルールに従うわけではなくて恣意的な演算でグループの性質や構造自体がいくらでも変わってしまうというようなカオスだね。俺が言う「混乱」というのはこういう感じ。いや、すげー疲れてて毎日13時間とか寝ちゃうんだけど、寝るとまぁこういうのを思いついたりするっていうかまぁ寝てる間に処理してるんだろうね。だから「あーあれじゃん」って思って貼ってみました。