ユクスキュル・ラカン・ホフマイヤーだ!って思ったね。

ユクスキュル・ラカン・ホフマイヤーだ!って思ったね(笑)まぁこれで原理が分かる!なんてものではないんだけど、意味が多義的で一意的ではないってことの源流ってのがつまりは記号の解釈なんだよね。それ自体が表しているということ自体が解釈なんであってそこに論理的整合性とか一貫性があれば世界観として形成されうるんだけど、そもそも論理のチェックなんて行われてないし相当ファジーなんだよね。なんつーかな、主体ってのを考えると主体がなくなるのと同様、社会とか意味ってのを考えるとそれ自体がなくなるんだよねっつってもまぁ想像の共同体的な考えはいやなんだけど、現実的に自衛隊がいて機能しているっていうことと自衛隊がいるということの意味って同じじゃないもんねっつーか最近全然話に出さないけど根本的に政治ってこういうところの意味論の合意できない差異なんだよね。


でも物理的に守るものは必要でしょうっていう当たり前の議論と軍隊を持つことの違憲性を唱える話ってクロスしてるようでしてないからね。全く違う次元の話同士があたかも対話をしているような様相を見せて実際は完全に両者ともに独立した論理なんだよね。すんげーシンプルに卑近な例にしても言った言わないの水掛け論ってあるじゃん?あれも言ったか言わないかってのが大きなウェイトを占めてて言ったのにこういう結果じゃおかしいってのとそもそも言ってないからそんな責任の追及のされ方をしても困るっていうさ、でも記録が残っているわけじゃないしそれ自体が主観だもんね。こんなファジーなもんが至るところにあるんだもんな。まぁ普通に生活してりゃこれがあたりまえなんだけど人とあんま話さない俺としては凄くエクストリームに考えちゃうね。


言ったという事実があるか無いかで論理的妥当性みたいなのがその話の体系の中で凄く重要な位置を占めるからそれにかかわるものが言ったということを共通前提として認識していないといけないんだけど記憶が曖昧だったり伝わったと思って伝わってなかったりそれこそこっちがなんかの作為によって記号的に表したものが意図した形で伝わらなかったりだとかさ、でもそもそもなんでそれが伝わると思えるのか?っていうことなんだよね。いや、それ言い出すとさ、見た目は普通で普通にやっていけてるようで話するとこの人普段どうやって生活してるんだろう?とか会社みたいな場所ではどういう風に振る舞っているんだろう?っていうさ、いや、こういうことを色々考えてて水曜日のダウンタウンのゴミ屋敷のおっさんがキレてるシーン見てさ、狂気を感じたと同時に正常と狂気の境が分からなくなったよね。そんなにナイーヴじゃないんだけどあそこまで完全に振り切ってなくても程度の問題であの程度のクレイジネスって誰でも持ってるよね。


あのおっさんの振る舞いとゴミ屋敷っつー見栄えと暴力性の瞬間的な爆発ってのが狂気に見せるんだけどあのおっさんの中では普通の家に住んでいて誰かが入り込んできてあんまいじられたくないものとかが積まれているところを勝手にいろいろといじられたっつー認識なんだもんね。狂人ってまぁ大体こんな感じでさ、何かがエクストリームになっただけなんだよね。まぁ完全に意味論が崩壊したスキゾなのもいるけど変人って大体エクストリームなだけだよね。すげー大きく解釈すれば「普通の人からすればこうだろう」っていう解釈が可能なんだもんね。それが成立している土台が違うだけで論理システムみたいなのって同じってことだったら実際はそこまで狂ってないんだよな。


最近思うのは狂っているということに対して寛大であるみたいなリベラルなふるまいをするよりも当たり前のことってのがそこまで強く存在しないっつー何もかもが浮遊したような世界で自分なりに解釈するっていうことが結果的に認証ってことになるのかな?とかって思ったよね。自分なりに解釈っつってもまたその妥当性ってのはこないだ書いたようなsuper egoが判断するのよ。結果的にまぁ「あーそうかもね」って言えるような常識的な話になるんだけど、でも「そうかもねー」っていうものを掘るっていうさ、そこなんだよね。まぁでも掘るためには当然正常じゃなければいけないんだよね。あとある程度の知識と知性が必要だよね。でも多分、相当なことが無い限りそこそこ知識があって知性がある人ってのは理性によって狂気には向かわないんだよね。あとはオカルト的過ぎたり反社会的過ぎたりして考察の対象にならないっていう。


結局まぁ臨床とかもそうだもんな。精神分析なんか完全にただの意味付けだしさ、まぁだからやっぱ脳のMRIの検査とかなんかの分泌濃度とかそういうのも含めた総合的な判断ってことになるんだよね。でもこれって結局、なんかのパラメーターの配分がおかしくてそうなってるわけでさ、かといっても精神分析的な意味論ってすげー重要なんだよね。精神分析が妥当化はともかくとして、数値がこうだからこうだとか認知が歪んでいるから治すとかそういう即物的ではない記号のカオスみたいな意味での根本的な精神っつーのかな?それ自体が常に不安定で意味論の中を生きているじゃん?だからこれって意味論が先なのか脳のなんかの欠陥が先で意味論が形成されてるのかわからないよね。幼少期の育て方に問題があっただとかさ、トラウマがどうとかってまぁ全部が全部そうとは言い切れないっつーすんげー複雑なもんだよね。


でもやっぱり思うのは想像の上をいくような量子力学とかはともかく精神っていう現象においてはやっぱり顕在化とか意味化とか言語化っつー具体的な現象があるから取っ掛かりはあるよね。もちろん顕在化したものだけで判断はできないんだけど、でも少なくともまぁそういう記号的なものがぐしゃぐしゃになって存在してたりするもんじゃん?あと同じ論理を持っていて共役性みたいなのが成立してると思えるからこそ正常な人同士の会話だ!なんて思えたりするっつーバックグラウンドも実は共役性は見せ掛けで個々の論理形成のプロセスって違うから大枠のコミュニケーションが問題なく成立するっていうレベルで共役性があるように見えるだけで実際は何にも成立してないかもしれないんだよね。あとまぁその論理形成のプロセスとか個々の意味論まで考えるとそもそも同じ人なんていないわけだから同じように感じる人なんていないなんていうこれまたエクストリームなことにもなるよね。でも何気にこれって常識だよね。意外にも常識なんだよな。なんだけど普段はなぜか通じるとか分かり合えるとかって思うんだよね。多分それはそういう前提が無いと何もかも崩壊するから成立してるように見せかけるっていうような傀儡のシステムなんだよな。


そう思うとあっちもこっちも無いんだよね。全部がある意味平等なんだよな。もちろん異常性には耐えられないけどね。それで認証できるようになるということでもないんだけど、ただいっちゃってる論理とか完全にプッツン気味な考え方とかってあるじゃん?でも思ったよりプッツンでもないんだよね。やはり原型は人間の思考っていうさ、ただそれがモンスター化したっつーのかな?あとはモンスター化してるように見えても実際は見た目だけで中身は無害な場合もあるしね。先進国に精神病が多いのって社会が複雑化しているからってのはまぁごもっともだけどラベリングできるやつらが多いからってのもあるよね。精神病として見なせるから発展途上国とかだとまぁ明らかに変わっててもまぁ独特の村とかのシステムとかでやっていけてる類のような人たちが特に資本主義みたいなシステム化では使えないやつとして排除されるじゃん?で、理由として精神病を告げられるっていうね、でも仮にまぁ本人が死ぬほど苦しんでいたらともかくとして、金とか生産性ってのを別にしたら無害な精神病ってのも結構あるはずなんだよね。経済性みたいなのが自明なやることとしておかれているからこそできないってことが病気とか不適合ってことになるんだよね。でも生きるってことだけで言えばそれで死ぬほど苦しんでいる人ならともかくなんとかやっていける人っているよね。まぁこれも当たり前か。別にこんなあえて書くようなことでもないんだよな(笑)


すげー元は複雑な話なんだけど落としどころはすげー普通だよね。まぁ当然のことを書いてるから当然の帰結しかでないんだろう。恐らく。まぁこれを当然のこととするのはちょっとアレかもしれないけど、まぁでも別に落としどころってわけでもないんだけどね。帰結でもないし。ただでもすげー思うのは違和感を感じるというところからの排除とか異様に感じるからっつってそれを認められないっていう心理だよね。それは逸脱が怖いのかそれを許すとシステムがズボズボになるからできないのかさ、でもなんで逆に直感的に「え?」っておかしいな?って思えたりするんだろうね?っていうところだよね。かといっても普通気づきそうなところで気が付かなかったりとかね、まぁそこは心理テクニック的なことも含めてなんだけど、運動力学的なのってまぁメンタリズムとかってそうじゃん?


でも心理って運動だけじゃないからそれでわかることもあるけど深層はわからないんだよね。それは運動力学的なものではなくさっき書いたここの勝手な論理とか常識とか精神とかの形成に依存するから人の数ほどパターンがあるんだよね。なんでこの人にとってこれがこんな大きなことを意味しているんだろう?ってのはそれこそ運動力学ではわからなくて意味論じゃん?でも客観的に見るとたとえば変な話、その人にとって大きなことを意味するようになる何かってのを得るきっかけの再現VTRみたいなのがあったとして、それを見れば100人が100人納得できるって話でもないんだよね。え?だからなんなの?っていうさ、わかる人もいるんだろうけどそれが意味することになったっていうその場での心の現象だからね。そこには当時のカオスがあるわけじゃん?勝手な意味論とかそれこそオカルト的な偶然とかそのときに影響を受けていたものとか見ていたドラマとかやってたゲームとかさ、でもそんなことまで記憶してるわけじゃないからね、でもまぁ実際に意味形成に影響を及ぼしてるのってある意味全部じゃん?


そういうものの積み重ねだからそもそもわかるわけがないんだよな。あとまぁそれはもはや精神っつーよりプライベートな領域と言ってもいいぐらいのものなんだよね。でもまぁ何が言いたいのか?っていうと実際は常にそういうプライベート同士のやり取りなんだよね。もちろんいきなり直だとあれだから壁を作るし万能に振る舞えるような言葉とかしぐさとか振る舞いってのを使ったりするんだけど誰でもベースはプライベートだよね。感じる心ってのがまぁプライベートなんだよな。でもまぁ逆にそのプライベートが無かったり壁しかなかったり逆に壁が作れなかったりっていう心理的な距離感とかバランスの置き方ってのもまぁ個々によって違うしね、で、適正って言われるのはまぁとりあえず問題が起きないっつー妥当なレベルなんだよね。普通とか正常って基準はいつもそれによって決まるよね。つまりは秩序が欲しいってことだよね。どれもこれも正常も異常もないんだけど秩序が乱れると困るから正常値みたいなのを決めるっていう恣意的なものだよね。まぁそこまで極端じゃないにしてもまぁ卑近な例で言うと「使えるやつと使えないやつ」みたいなさ、まぁこれって経済性とか生産性が基準値だもんね。資本主義だとなんでもかんでも経済性とか労働力ってのに基準が行きがちでさ、で、何気にいろんな分野にそれが広まるんだよね。当たり前のように。だから変な話、精神の病理ってのからですらも資本主義っつー審判システムみたいなのを感じ取れるわけだよね。


まぁあとはあれだよね、資本主義はしょうがないとして人として有能か否か?ってのを判断するのになんでもかんでも金とか実益ってのを中心にすんなよなーって話だよね。そこはこないだドラクエやってて思ったんだけどさ、ある人と話しててまぁ俺がいろんなジャンルのあらゆるゲームを楽しんできたってことを言ったらまぁ自分でもその度合いが尋常じゃないのを自覚はしてるけどそれは才能だよねって言われたんだよね。「え?」って思って「ああそうか!」ってなったんだよね。それを才能だなんて一回も感じたことなかったもん。まぁ無くはないか。ただやっぱこれって自分の中で勝手に決まってる価値システムなんだよね。才能って社会に有用なもんじゃないと才能と言えないっていうさ、だからゲームを楽しむ才能って言われないとわからないんだよね。でもまぁ言われてみればみんながみんな俺がやってきた同じゲームを与えられて隅から隅まで遊びつくせるか?ってそれは確かに無理だろうなとは思ったよね。


で、そこで俺は自虐的に「社会性ゼロの才能だけどねー」なんつったらその人は「そうかもしれないけど人生って意味においては有意義じゃん?」って言っててこれまた「おお!」ってなってさ、いや、そうなんだよなーって改めて思ったんですよ。ここまで好きになってハマれるとかあとほとんど苦手ジャンルとかなくて格ゲーからFPSからRPGからパズルまでなんでもやるってのはある意味才能なんだよねっていうね、あ、でもまぁ何が言いたいのか?っていうとまぁそうだと気が付かないという盲点ってのが何気にこの今のコンテキストで言うところの資本主義的な価値判断システムなんだよね。才能ってのは有用なものっていう勝手な思い込みがあるからゲームをやる才能なんてわからないんだよね。いや、まぁでもどんなゲームが好きでどんなのやってきたか?なんて永遠としゃべれるってまぁ同じゲーマーじゃないとなかなかそういう機会はないからドラクエが俺に与えた影響はすげー大きいね。そこで会った人とのやり取りとかフレとかさ、すんげー意味が大きいんだよな。これこそまさに俺の中の意味論の大きさなんですよね。象徴的であるってレベルなぐらい大きいんだよね。でも客観的に見れば高等遊民みたいな生活してて外界との接触はオンゲーぐらいしかないからそうなるんだろってことになるんだけどこの客観性ってのもほんと、有用性がベースだもんな。だから何?ってことなんだけどじゃあバリバリ仕事してる中で自分の自分では知らなかった才能ってのに気が付けばいいのか?って別に場って関係ないじゃないですか?なんでそれが職場とかキャリアじゃなきゃいけないんだ?ってことだよね(笑)


あ、まぁでも間違いなく言えるのは人と関わるってのはすんげー大事ってことだね。これはもう完全に確信したしドラクエから多く学んだよね。客観的になんでオンラインゲーム程度でそんなに感動してんの?って話なんだけど、俺軸ではドラクエ内で逆にリアルじゃ体験できないようなすげー経験をすげーしてるんだよね。だから余計にリアルを蔑むようになってるってのはあるかもね(笑)リアルはクソゲーだって考え方は相変わらず変わらないし事実なんだよな。でもまぁそこを例のオワコンシリーズからの流れで考えるとドラクエもリアルじゃん?そもそも現実世界でやってて自分の内面とかに影響があるし誰かとの関わり合いってのが生まれてるんだからさ、そこはドゥルーズが哲学についてだったかの最初のほうのヴァーチャルのオントロジーみたいなことで言ってたと思うんだけどオントロジーってのが基本的には何かが関与して生成されればそれはもう存在なんであってそれが物理的に存在するかどうかなんてのはどうでもいいみたいなね、ドゥルーズがこう考えてたかはともかくまぁ似たようなことは書いてあったんよ(笑)で、これって人間の意味論にとってはむしろデフォなんだよね。


きっかけとか思いとかって経験とかその時の人間関係とかさ、生きてるってこと自体に感謝しなきゃいけないんだ!って思った瞬間とかって別に物質的に何かが存在してたりするわけじゃないじゃん?意味論なんだよね。ここでやっぱり意味と存在ってのがすんげープライベートな領域での話と物質的な意味での唯物論的な存在が交差するんだけど、いろんな考え方ってのも何を軸に置くか?ってだけでやっぱ根底は一緒なんだよね。物が軸なのか快楽なのか生存本能なのか欲望なのかとかさ、でも基本システムは当然人間が使ってるもんだからどれも同じなんだよね。どこに重きを置くか?っていう意味論の問題なんであって構造と言えないけどまぁただそこにあるカオスってのは依然としてカオスなままなんだよね。それをそのままとしてみるということがいかに難しいか?ってことだよね。あとまぁ基本的に意味論に生きている人間にとってそれ自体として見るなんて無理なんだよね。でもそこもリアルタイムの恣意性があって意味論として見なきゃいけないところを何も感じてなかったり逆に意味論なんてないかあったとしても相当スキゾだったり霊感商法的な意味でのスピリチュアルだったりするのに大きなものを感じちゃったりとかさ、まぁそこを大きなものを感じ続けるってのはまぁまさに分裂病だよね。でもなんつーのかな?被害妄想とか誰かが毒電波を発している!みたいなそういうのとは無関係な分裂気質って絶対あるよね。でも見た目は普通に生活してるから病気とは思われないんだけど場合によってはすげー有用に使えてるかもしれないんだよね。なんかこのちょっと違えば劇的に違うっていうようなアレはあるよねやっぱ。まぁちょっとでもないのか。あーでもこの俺が今言った「有用に使える」っていうこれ自体が相当害悪なんだよな。これがそもそも経済性とか生産性っつーものが基準になってるもんね。


ただまぁでもそれがないと金子みすずみたいな世界観になるじゃないですか?(笑)それでいいんだけど相当メルヘンなんだよね。問題なのが現実問題に対してのアクチュアリティがなくなるんじゃないか?っていうことだよね。そこはやっぱり懸念するところだからanything goesの世界観と現実的な世界観とまぁこないだ書いたようなマルチな認識っつーのかな?でもそれは作るというよりかは受容するという枠組みを広げるっていうことなんだよね。これによって意味を成さなかったり特に何も感じなかったことからも何かを感じられるようになったりさ、でもまぁ行き過ぎると狂気にすげー近くなるんだけどまぁこの辺の理性のバランスっつーのかな?


なんか思ったより長くなったけどこんな感じなんですよねー。あーでもまぁあれなんだよな、anything goesっつってもファイヤアーベント的なアナーキズムとか相対主義じゃないんだよな。俺が言うメルヘンな世界でもすげー強固な論理のシステムはあるからね。まぁそれが普通より柔らかいっていうまぁぐにゃぐにゃって意味でトポロジカルっていうのかね?でもまぁそれは様相なんであってシステム的にトポロジカルなわけじゃないからね。そもそも意味とか形成自体が主観とかプライベートな思い込みとかによって作られるわけだからシステマティックなものとは正反対のものだよね。


って感じでいきなり終わるけどまぁ人間的に優しくなれるっていうのかね?結局まぁ単純化すれば多様性ってことだからね、相当な悪なもんはともかくその時の様相も含めて一応は認めるっていう感じかな。また放置とは違うんだけどね。矯正が必要なものがあるのはそりゃそうなんだけど、でもとりあえず排除しないということから生まれてくるものっていっぱいあるよね。それが何気に資本主義的な論理で言うところの生産性に結果的に繋がると思うんだよね。それが目的じゃないけど思いもよらないところで資本主義的な生産性とかみ合うっていうね、日本は今逆ですよね(笑)


続きがまだあったっぽいけど今度書くね。んじゃまた。