ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

日々の修練。

今後はずーっと気と精神と内面と内家拳の技術の修養に費やそうと思うんだよね。ただまぁ簡単に堕落しちゃうからな。disciplineってのは大変だよね。訓練を持続せずに安易なことに流れちゃったりさ、その辺のストイックさが逆に自分の人生をつまらなくして暗くしてるって思ってたけど違うんだよね。むしろそういう道のほうがその場その場で幸福感を感じないかもしれないけどトータルで見たときの人生のクオリティって高くなる気がするんだよね。まぁもう完全に仙人モードに入りますっていう宣言になっちゃうんだけどさ、いつまでもいろんな可能性がどうのってことでもないっつーかまぁ年齢のせいにする気はないけどまぁ色々と良い意味で分かってくるからね。明らかにできないこととか興味があってやりたくてもそこそこの才能ぐらいしかないとかそれだけ見てれば絶望せざるを得ないぐらいのものなんだけどさ、でもそれを受け入れるってことだよね。


「やれない」と思い込んでいるかもしれないみたいなのって甘やかしでもあるからね。俺はまだ本気出してない的なさ、でもやっぱないもんはないって認めないとね。あとまぁハードコアな気質だから極められないと分かるとやる気がなくなるんだよね。だから自分にできそうなことをやろう!っていう身の丈に合ったことをやるってことになるわけだ。で、そういうわけで仙人コースって感じなんだよね。まぁでもある意味で宗教的なものへの回帰というか開眼なのかな。まぁようは今の自分とか今までの自分の経験とかも含めたうえで道教ってのは特に何かを信じたりドグマをインストールしなくても自然なままできるっていうのかな?ただまぁメソッドとして道教ってのを使うからだから結果的にやることが気功になったり太極拳になったりするってことだよね。まぁあと瞑想だよね。まぁようは自然な形としてそれがありうるってことだよね。特に生活形態を極端に変えることがないままできるっていうね、まぁただ「これしかない!」って決めつけないで色々興味ができたらやってみるってのはいいんだけどただまぁメインの道としてはこれって感じだよね。


なんだろう、まぁ色々やった上で色々な経験もあった上で神秘主義になったみたいな感じではあるのかな。客観的には。でもそんな安易なものじゃないよね。結局まぁやっぱりtranscendenceを求めてるっていうのかな。あとまぁこれしかないんだなとも思ったしね。自分が求めてるのってreasonとかlogicじゃないんだよね。もちろんfoundationとしてそういうのは必要なんだけど理を極めるということではなくやはり精神性の部分だよね。spiritualityっつーと宗教臭くなっちゃうけどそういうんじゃない内面の修練って意味でのspiritualityだよね。あとはまぁやっぱ自分がやりたいことというかどこに重きを置くか?ってところでやっぱり精神性なんだよな。明日死んでもいいやって思えるぐらいになってたいしそれが楽だからね。そういう意味で長生きしたいとも思わないし生に執着もしない。でもそういう精神性で体も精神も修練して気をcultivateしていくということで結果的にそれが養生に繋がってまぁ結局それが仙術ってことになったりするんだと思うんだよねっていう視座が見えたから「これかな?」って思ってる段階ってことなんだけどね。


今の自分でできるし何か新しく始めることもなく道具もいらないしそれこそ学ぶ姿勢と修練していくっていう精神性があればできるから現実的なんだよね。今実際にやってるしこのスタイルをもっと洗練させて習慣化させていくってことだよね。結果的にそれって社会に還元できるような実践性を備えたものになると思うんだよね。それこそビジネスマンとかが身につけていたほうがいいような心の安定のさせ方とか瞑想法とかさ、そういう意味で現実世界からの逃亡とかじゃないんだよね。より現実に生きていくからこそ内面の修練というのが必要になるっていう認識だよね。堅苦しいけどそういうdisciplineとprincipalがあったほうが生きやすいよね。生活も行動も思想も基本的にそれが原理になるからね。


それでも迷ったり悩んだりすることもあるんだけど凄く強固な原理ってのが自分の中に存在するっていうのかな。それを動力の原理にしていくっていう感じか。結果的にそれはいろんな行動を生み出す源つまりはソースを作り出すっていうことなんだよね。易ってのは基本的に変化のもんなんであって原理は変化するという動力なんだよね。動力が原理なのか原理が動力なのかそこはまぁただの言葉の問題だよね。そのぐらい動力と原理というのが一致しているっていうね、自分がそれ自体になるっていうことだよね。結果的にそれがbeingということになってbeingから始まったbeing自体が結果的に原理と同化することで無になるんだよね。でもそれは無くなるというわけではなく原理と同化するということなんだよね。でもそれは日々の修練ありきのもので「はい。同化できました」で済むような話じゃないんだよね。


だからこそ同化するための修練というのが必要になるんだよね。そういうのがタオでは全部繋がってるんだよね。太極拳はマーシャルアーツ的な部分も当然ありつつその中に気をcultivateするとかmeditativeな要素ってのがあって結果的にそれをやるということが気をcultivateするということになるんだよね。もちろんマーシャルアーツ的なサイドにフォーカスしまくるって方法もあると思うけど俺はやっぱ両方やりたいよね。全身が凶器と化すぐらいのヤバさでやりつつ凄くstaticというか静的なstasisを持っているっていうことだよね。この辺やっぱり普通だと静的な部分にばかりフォーカスがいってまぁ結果的にマーシャルアーツ的な部分がおろそかになっちゃうっつーかまぁ健康のためとかさ、日々やることってことになるとまぁ普通はそうなるよね。でもタオという大きな世界観と道という意味だとさ、それも構成要素なんだよね。拳法を練習するということと気をcultivateするってのは太極拳ではセットなんだよね。これって凄い合理的なんだよな。気功だけやるのではなくマーシャルアーツをやるだけでもなくタオの総合的な修練というのが太極拳でセットになってるっていうのかな。だからまぁまさにdaily basisでプラクティスしていくものってことになるんだよね。


それとは別にっていうか寝る前にやる気功ってのも毎日やるから毎日やってればやっぱ単純に蓄積が凄いよね。長時間やるのもいいけどやっぱそこはバランスだよね。あ、あとまぁあれだな中国語の勉強ね。マーシャルアーツと気功ばっかで全然やれてないからやらないとな。


まぁそんな感じね。んじゃまた。