ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

数奇の極み。

やっぱりまぁ今どうあるか?っていうことに尽きるよね。認識のステイトが上がったとかそれ自体は地獄のようだったけど結果的に経験になって現在に繋がっているみたいなさ、それでいうとまぁニューヨークにいたころに詐欺師に騙されたっつーのも良い経験になったって後からだと言えるんだよね。それ自体は全く人を信じられなくなるような出来事だったり人間生きるためにここまでのことをやれるのか!っていうさ、そういうところに絶望するわけだよね。でも生きるためにそういうことをするしかない人ってのもいるわけでさ、まぁようはなんつーのかな?ギャング的っていうのかな?


生きるために必死なんで徳だのなんだの綺麗ごとなんて言ってられなくて自分が生きていくためだったら人を騙したり暴力も厭わないってギャング的じゃん?ファッションギャングってのはそういうノーフューチャーなのに憧れる中流とかボンボンなんだよね。別に日本に限らずアメリカでもエミネム気取りのやつとかいるからね。実家は裕福で何不自由してないっつーのに。でも基本的にこのギャング的っていうのはやっぱりサバイブの究極的な方法だと思うんだよね。ようは普通に育ってきたら悪いことは悪いって教わるわけだから思いきったことなんてできないじゃん?でもそれをやるしかなかったっていうような環境にいた人だとさ、徳だのモラルだのってのを教わる前に生きるためにこれやるしかないっていうものを迫られるわけだよね。


そんぐらいのことをやるぐらいなら死んだほうがマシだって言えるのがそもそも育ちがまともな証拠なんだよね。あとまぁカルチャーなのかな。しょっちゅう内戦があったり常に騙して騙されあうみたいな関係性がデフォのカルチャーだったら生きるために狡猾にタフに立ち回るってのが当たり前になるもんね。本とか辞書に乗っているレベルで「信用」ということは概念的に理解できててもそれを日常的に行使できているか?っていうのは全然別だもんね。結局、徳だの人間性だのって言えるのってやっぱりさ、万人の万人に対する闘争から遠ざかってないとありえないよね。そういう意味だとやっぱりまぁホッブズの言うことってやっぱりまぁ説得力あるよね。徳だのなんだのってのはある程度治安が維持されて万人が闘争しあわなくてもいいっていう状態から生まれるって別にホッブズが言ってたわけじゃないけど、仮にそれこそfalloutみたいな状態に世界がなっちゃったとしてそこで綺麗ごと言ってられるか?って話なんだよね。


でもそういう意味でギャングと一般人って全然違うよねって当たり前なんだけどさ、俺の言いたいこのギャング性ってやっぱり生活の必要性っていうのかな?生きていくうえで必要な方法っていう凄く必要不可欠なものっていう感じがあるんだよね。もちろん生きていくために必要だからなんて理由でモラルからの逸脱ってのは正当化されないけどさ、でも生きていくうえでそれをやっていくしかないってぐらいの状態にある人間の世界観とそんなことをしなくてもやっていける人の世界観を同じ目線で語っちゃいけないってことなんだよね。もう位相が違いすぎるってのかな?同じ土壌にいないんだよね。


なんで俺がこんなに内面の修練ってのにフォーカスしようと思うようになったっていうことと凄く関係してるんだけど、結局、人間が生きてる場って精神だよね。まぁガイストってやつですね。ゴースト自体がゴーストを作り出しているっていうまぁ自我ってことなんだけど、でもそれとは別に物理世界で起こっていることってのがあるじゃん?それがまぁようはFPSでいうところのfirst personっていう目線の世界ってことなんだよね。自分が持っている世界観とか考え方とか生い立ちみたいなステータスとは全く関係なく世界は存在してるよね。で、個々が違うっていう自我が元になっている精神が元で人間ってのが動いてるわけじゃん?ちょっと機械論的な世界観になっちゃうけどそっちのほうがわかりやすいよね。


で、一応決まり事みたいなことはあるんだよね。世界には。でもそれは統一されているわけじゃないし守られているとも限らない。逸脱したとして必ず罰せられるという原理はないし、モラルに反していることがすべて罰せられるわけではないからね。逆にモラルの上で行われたことでも法律的には罰せられることもあるわけで。そういうなんつーかさ、意思とか考え方とかとは全く疎外されたいろんなマインドを持った人たちが行きかうfirst personの世界っていう箱庭をある程度管理するためのルールとか秩序ってのがあってさ、でもまぁ実際にゲームでも同じだけど仮になんか盗んだとして誰かに見られなかったら警察が追ってくるとかってことがないじゃん?じゃあ見つからなかったら何をしてもいいのか?とか誰にも分らなかったらなにをしてもいいのか?ってことになるんだよね。例えばゲームで言えばどっかの店でなんかを盗んだとして困るのはその店の店主だよね。


んでもまぁすげー変な話しちゃうと実はその店の店主ってのが超絶ブラックな人で殺されてもしょうがないぐらいのやつだったらそんぐらいいいんじゃない?なんて心情にもなるじゃん?でもそれを許しちゃうと世界がめちゃめちゃになっちゃうわけだよね。私刑ってのが禁止されているのもそこだけで済めばいいんだけど結局はそれを許しちゃうと世の中のルールがめちゃめちゃになっちゃうんだよね。


だから結局まぁさ、利己的に自分が生きるためにはしょうがないっていう理由だったらなんでも許されるのか?って許されるわけないんですよね。でも「しょうがない」という必然性は普通の人とギャングとでは違ってるんだよね。ギャングは「じゃあどうしていけばいい?」ってことになっちゃって、でも普通の人からすると「そんなことやるなんて人間辞めるのと同じようなことじゃん」っていう感覚だったりするわけじゃん?当たり前だけど生きるために人も殺すっていう世界に生きている人とそんなことしなくても生きていける人の世界って同じ共通の箱庭でも全然違うからね。そんぐらい世界が違うっていう人が隣にいたりするかもしれないんだよね。マンハッタンなんかだとそうじゃん?唸るほど金があるようなやつが住んでいる家の2ブロック先に移民が10人ぐらいで四畳半の部屋に住んでるみたいなさ、でも物理的には全く違わないっていうかようは2ブロック先にいるんだよね。そんぐらい近い。でも世界はめちゃめちゃ遠いどころか一度たりとも交わることがない位相だよね。


当然普通に生きてれば「こうある世界」みたいな世界像ってのが出来上がるわけじゃん?でもそれってfirst personの超狭い世界での話でそんな狭い世界の話で世界のことまで勝手に自分で決めちゃってるっていうことだったりするんだよね。まぁ先進国の都市部で平気でテロが起こるような世界情勢だから「永遠に交わることがない」なんてことがもうなくなってるのかもしれないけどね、まぁテロリストとか原理主義的な人たちはともかくとして、お互い害を及ぼしあわない程度ならお互いの世界に干渉しないってのが暗黙のルールだよね。まさに棲み分けってやつだよね。かといってもじゃあそれはそのままでいいのか?っていうとそれはそれで違うけど、でも棲み分けって行き着く先はニヒリズムだと思うんだよね。もちろんそこで宗教的な土壌があったりまぁそれこそなんかの信仰があったり信条があってほかの違う世界観の人たちと交わらなくても自己充足できるような世界観を持っているっていう場合、まぁ自給自足っつーのかな?だからやっぱそこで閉じちゃうとニヒリズムになるから超越的な神とかっていうそういう世界になるんだよね。あとはまぁそういう世界観ね。


でもそういう棲み分けができるっていう前提だったらやっぱ宗教っていいと思うんだけどまぁ言うまでもなく戦争の原因ってまぁ宗教だからね。でもまぁそれって今まで書いてきたようなギャングと普通の人との間の戦争みたいなことなんだよねっていうその絶対にお互いの世界観を理解しあったりできるわけがないっていう中でも関りが生まれてきてしまった結果、その異なる位相同士が触れ合うっていうその接点みたいなさ、そこから戦争が始まったりするんだよねっていうかまぁ原因がその接点でね、そこからのいろんな波及で結果的に戦争ってのが起きるんだってことだよね。まぁそんなに簡単な話じゃなくてそれこそ歴史的な話とかさいがみ合っている原因が何千年も前の戦争とか対立が原因だったりとかさ、まぁ実際はややこしいんだけどね。


まぁでもイスラム過激派とかってまぁそれの最たるもんだよね。まず理解しようと思っても無理でしょう。なぜ?というresoningの部分が「経典でそうされているから」みたいな話だったりさ、結局、それって「自分がそう思ったから」みたいな究極的な独我論っていうか独りよがりな世界なんだよね。まぁでもイスラム教とイスラム原理主義って全然違うからそこをイスラム教ってのは独りよがりな宗教とかって思っちゃいけないんだけどね。実際、どの宗教も突き詰めていけば世界の調和っていうかさ、平和なんだよね。まぁ例外もあるかもしれんけど異教徒を抹殺せよなんてことはありえないわけで。


でもまぁ生まれたときから原理主義の教育受けてきてジハードなんつって自爆するのが良いこととされてきたらまぁもうそれがデフォになっちゃうよねっていうさ、だからまぁやっぱ教育って大事なんだけど、でもこれも相対的に言えば「良い」とされる教育も結局は洗脳だからね。もちろんそれでいいんだけど「殺しあわない世界」という世界観で洗脳してるってことになるよね。で、そこでなんでもかんでもギャング性につなげるのかはともかくとして、でも暴力とか他人への危害とかさ、騙すということとかね、それが当たり前とか「なぜ悪いの?」っていうそういう世界観がデフォで生きている人に「殺しあわない世界」の論理は通用しないよね。だからなるべく殺しあわないようにお互い共存していくってことしかないんだよね。でもそれは一緒に生きるってことではなくてさっき書いたように2ブロック先に全然違う世界に住んでいる人がいるかもしれないんだけど、そもそもそれ言い出したら物理的な近さという意味で隣人がまともであるなんていう保証はどこにもないんだよね。さもまともであるかのように振舞っているだけで実際は全く分からない。


ネタですか?それは?っていうレベルでもあまりにもその度が過ぎていたりすると一周回って逆に理解されちゃったりとかあとはまぁ組織的な力とかが背後にあって逆にそれでやっていけちゃったりとかね、まぁそれこそまさにそういう世界ってことだよね。反社会的だろうが社会的だろうが生き残ったやつがタフっていうのは言うまでもないでしょう。そういう意味での太さってのは生存のためには必要なのかもね。でもそういうものを行使しなくてもやっていけたり行使する必要性が出てきたら自殺するっていう選択ができるっていうのはすでに恵まれているってことなんだよね。


その結果、そういったヒューマニズムに立脚した信念で行動し続けることができる。もちろんヒューマニズムなんてただの戯言かもしれないけどね、でもそこを世界がそういう風になっていないからといってそういう信念を捨てるってのはそれこそニヒリズムの奈落に落ちることになるんだよね。あとそれこそ世界をFPSの箱庭的な世界で考えちゃってもドライになりすぎて凄く人間であるということ自体から生まれてくるはずの物凄く価値のあるものってのを捨てることになっちゃったり、そういったものが生まれてくるかもしれない土壌ってのを退廃させるってことになるんだよね。


だからこその内面の修練なんだよね。俺はそれを比喩的な意味も含めて気をcultivateすることって言ってるけど、それは道教の思想にもあるように毒されないということであったりもするんだよね。毒されても内面の修練のおかげで中和することができるとかね、そういった外的なものから身を守るという意味でも良い気を纏っているっていうこと自体が凄く大事であったりね、まぁでも行き着く先がやっぱりまぁ仙道なんだけどね。結局まぁ隠匿ってのが一番身を守るのに適しているし内面的な修練にも一番向いてるってことになるもんね。でもまぁその一方で在野でいろいろと揉まれながらやる修行こそ本当の修行だみたいな話もあるしさ、そこはまぁバランスなんだと思うよね。


でもまぁなんつーのかな?やっぱ他は他でしょうがないんだよね。そういう世界があること自体はもうどうしようもない。ただあちら側から攻撃を仕掛けてきたりイスラム国を拡大しようとしてるみたいなことになるとやっぱり武力しかないですよねってことになるよね。そこはもう政治の問題なんであってさ、お互いの理解なんて絶対無理だよね。それこそお互いの理解なんてカルチャーが違うだけでマイナーなところでもぶつかったりするわけじゃん?普通に接している分には問題ないんだけど例えば結婚相手がタイ人とか中国人とかってことになって家族ぐるみの深い付き合いをするということになったときに生じるカルチャーのギャップってあるじゃん?普通こうだよね?って思っているところが違ったり、それを良しとする文化ってどうなの?みたいなぶつかり合いになるよね。もちろんコモンセンスのレベルではそりゃぶつからないんだけどさ、ただディープになるとやっぱりルーツっつーか文化ってことになるんだよね。


で、俺が本当に思うのはいろんな意味で「普通」ということは素晴らしいということなんだよね。もしくは普通の感覚を理解できるというコモンセンスね。俺は普通じゃないのは明らかだけど「それが普通」という感覚は理解できる。逆に「それが普通」に毒されすぎているものに関しては人一倍敏感だけどただ土壌としてのまともさって凄く重要だよね。でもそういうところってなんでも言語化する欧米みたいなカルチャーですらもタブーみたいなところがあるんだよね。日本語だと「ちょっとアレな人」とかさ、「あーそういう感じか。なるほどね」みたいなさ、逆に言葉を使わないというところで一切触れずに突き放すっていうものがあるじゃん?speechlessな感じっつーのかな?それって別に欧米でも同じなんだよね。


それだけ凄く当たり前で逆にないということがヤバいということになるというようなことなんだよね。それこそ堅気か堅気じゃないか?ぐらいの差があるよね。つまりギャングであるかそうじゃないか?ってのは堅気かどうか?ってことなんだよね。で、生きるためには手段を選ばないとか選べないって人たちはやっぱり広義な意味でギャングなんだと思うよね。「選べない人たち」は社会的にそれを強いられているから構成できるかもしれないし、だからまぁ民主主義の押し売りってネオコンみたいになっちゃうけどある程度必要なんだよね。そういう人たちをliberateするためのdemocracyのdeliverだったりするじゃん?っつーかネオコンの論理ってそれだよね。でもそれってやっぱり放っておくと人道的にヤバいことを平気であいつらは生活のためにやるぞってことで野放しにはできない!っていう切迫した論理なんだよね。


だから結局、それは行き着くところliberateできそうな人たちはなるべく無事に解放して完全にそれに染まってる人たちは排除するしかなくなるよね。でもそれは共存できないという意味でしょうがないことなんだと思うんだよね。結局、どっちか?ってことだからね。放っておいたら明日身内になんかが起こっているかもしれない。そういう原因を作りかねないものっていう要素だよね。それを潰すしかないってのは当たり前のことなんだと思うよね。まぁだからあれなんだよな、戦争反対!って言える人たちってまぁやっぱ安全圏にいる人たちなんだよね。でもそれこそ自分たちの生活圏まで侵されるようになったら考えは変わると思うんだよね。そこが結局は万人の万人に対する闘争になるってことなんだよね。


教義とか信条のレベルではいくらでもいえるけど生活圏が脅かされたらそれは人道とか哲学とかモラルとかじゃなくて「生きる術」という生存術っていうレベルになるからね。言わば霊長類的なのが前者だとすると後者は爬虫類的だよね。まぁだからこそ爬虫類的にならざるを得ないような状況でこそその人の本性が出るってことでまぁよくあるじゃん?普段高尚なこと言ってるくせに危機的状況になったら自分の身が一番ですんげー独善的になったりとかさ、で、爬虫類的にならざるを得ないような状況なんて生涯で一度もないかもしれないんだけど、でも仮にそうなっても自分のままでいれるっていう外的な要因に一切左右されない内面のfoundationだよね。まぁそこは仏教的であり道教的でもあると思うんだけど、でもそれってやっぱり理性とか理屈のレベルじゃなくて本当の意味でのスピリチュアルなレベルってことだと思うんだよね。


でもかといってもまぁそれでなんでも許せるような人間になるのか?っていうとそれはそんなことはないんだけどね。そんな人間になりたいとは俺は思わないし俺には絶対無理だからね。でも自分の原理のレベルでは他がどうであれ圧倒的な基準ってのを持っててさ、それが原理になっているっていうことだよね。だからむき出しになればなるほど原理が露わになってくるっていうそういう感じだよね。別な言い方をすればいろんな小細工をしないということだわ。理論武装したり凄そうに見せたりっていうようなことを一切せずに自然体のままでいるということだよね。そもそも認識のステイトが高かったら自分を大きく見せようとしなくたっていいわけだからね。自己顕示欲と一番遠い世界なんだよね。そういう意味で悪い意味での自己顕示欲ってまぁやっぱエゴってことだしさ、それはまぁ本当に病理だと思うよね。自分が自然と一体になってたとしたら風みたいなもんじゃん?その場にいようがいまいが存在的には風のようなものっていうさ、それ自体のプレゼンスとかそれこそ風格というぐらいのものがありつつも自我に居座らない流れるような感じっていうのかな。でもこれってある意味まぁ本当にエクストリームじゃないとそういう風になりたいって思わないと思うんだよね。


それこそ俺はすげーある意味単純なところがあって悪は滅びるべきだってマジで思ってるからね。何を悪とするべきなのか?っていうところはありつつも消えるべきものは消えたほうがいいと思ってるしそういう意味で全てに仏性があるなんて信じてないからね。でも愛するものとか自分が価値を感じる人とか物とか事柄とかに関しては愛情は尋常じゃないっていうね、それが両極端な感じだよね。でもある人にそれは人間の広さだとも言われてなるほどなーとは思ったんだよね。なんでも慈愛とか愛なんではなくて暴力ってところに振れるとそれはそれですんげーエクストリームなもんを持っているっていうさ、いや、だからやっぱ武術とかにいくのよね。居合もマジで人を斬るという理合に立脚した武術としての居合ってのが好きなわけだし、そういう意味でマーシャルアーツもそうだよね。で、それはとにかく徹底的じゃないと済まないんだよね。


いや、だからまぁ俺がいろんな意味で落ち着くってことはないんだろうなとは思うんだよね。常にそのエクストリームを行きかいながら人生についていろいろ考えるっていうそれの繰り返しなんだよね。ただそこでやっぱり内面だけではなく身体性というところにもフォーカスが行ったってのがまぁここ数年の流れでんでまぁ結果的にマーシャルアーツってことにもなってるじゃん?まぁいろいろと進んでますよね。でもどれもこれもちょっとやっただけじゃどうにもなるもんじゃなくてlife timeのレベルでやっていくっていうものなんだよね。そういうものに出会えてなおかつ研究して修練もできているという現在の環境に本当に感謝しなくちゃいけないなって思うんだよね。ところでイップマンってボンボンでさ、40歳ぐらいまで働いたことなかったらしいね(笑)で、道楽としてのカンフーをやってたら極まっちゃったっていう粋と風流を体現したような人だよね。出生ではなく実力として身分を認められて茶道を極めることができた利休なんかと通じるものがあるよね。好きこそものの上手なれだよね。で、その「好き」ってのがただの好きじゃなくて「数奇」なんだよね。


マーシャルアーツは実戦での必要性から発展したという歴史がありつつも近年の達人で数寄者みたいな人が道楽でやってて極まっちゃったみたいなエピソードがあるってのが良いよね。山で激しい修行!とか過酷な修行!とは程遠い「好きなことをやる」という自然の力だよね。それこそそこに俺はタオを感じるんだよね。それこそ象形的なrepresentationsがある太極拳とかには本当に知行合一の精神を感じるんだよね。まぁ日本の武道とかもそうなんだけどやっぱりこういう精神性のルーツって中国なんだよね。とりわけ徳が重要視されるってのはまぁ儒教ってのがありつつもやっぱりそれってエッセンシャルなことだからね。


まぁそんな感じですね。んじゃまた。