存在の了解。

まぁーでもあれだな、思ったんだけどさ、ノスタルジー的なもんをディスったけどそもそもの俺の図書館通いっつーのも原型としてはレコード屋通いなんだよねっていうかレコード屋通いの醍醐味って行くまでのドキドキ感とかさ、あーまだ横浜かー的な電車の中でのそわそわ感とかさ、そういうのも含めた「体験」なんですよね。で、それがまぁいろいろ便利になってっつーか生活がデジタル化してレコード屋とか本屋に行かなくなったっつってまぁこれは時代の流れですよね。まぁ別にアナログ好きな人だったら掘り続けてるとは思うんだけどさ、まぁそれはともかく地元の図書館じゃないデカい図書館に行って「こんなに読むのがあれば一生これでやってけるぜ!」的なまぁ実存的な空虚さを埋める方法でもあるんだけどまぁこれは非常に貧しいですよね。能動的ならいいんだけどね。知りたくてたまらない!という感じだったらともかくリタイアした人の余生の過ごし方みたいなヴァイヴだとダメだよね。


まぁんでそのドーパミンが出そうな環境ってのを作るっつーのもさっつーかさっき原型がレコード屋通いだって書いたけど何かを目の前にして「うわー!」ってなりたいっていうまぁこれってノスタルジーそのものですよね(笑)まぁこないだ本屋に行って完全に火が付いたってのはあるけどね。でもまぁこれってようはこのドーパミン体験自体に依存しているっていう意味でギャンブル依存とかゲーム依存とかと変わらないんだよね。まぁそれ言い出すとウキウキ体験自体の否定になりそうだけどさ、まぁそれを否定するつもりはないんだがね、ただまぁその常にそういう体験を求めているということ自体がガタが来る構造になってるんだよねっつってもまぁそこがまぁ興味のあるところなんだよね。まぁ俺って典型的なドーパミンジャンキーなんだけどさ、まぁでもポジティブに捉えれば前頭葉が発達してるから常に知的刺激だの性的刺激を求めるっていうことになるよね。まぁそうだと思うんですよ。


まぁそれが故に悩むこともあるけどプラスなところで言えば刺激を求めるということが行動原理になっていてそれが人生そのものの形成に繋がるんだよね。ようは知的刺激を求めようと思ったら色々と知る必要が出てきてそれが膨大でも楽しいからやっちゃうわけじゃん?だからまぁやりたいことなんですよね。で、それによって得られた知識ってのがあってんでまたそっから色々なものに繋がるっていうね、今の俺で言えば数学やったから科学全般やれそうな全能感があるっつーか(笑)まぁ勝手に自分を文系だって思いこんでいた頃とは雲泥の差なわけですがこれもまぁ蓄積ですよね。


あとまぁ数学も「やったから」ではなくて同じ概念でも数学的概念が化学とか生物学とかで出てくるっていうことでさらに原理的な意味での数学の理解をさらに深めるということにもなるんだよね。まぁようは応用数学をやってその媒体から数学をより理解するってことだよね。あとまぁ純粋数学的にそれを考えてまぁーそれって恣意的な使い方だよなーとかさ、いちゃもんつけるってのもありだしっていうか数学的にマジで厳密なのそれ?とかっていう突っ込みとかさ、まぁあんま数学を頂点として全てを見下すみたいな感じになっちゃいけないしそんなヒエラルキーなんてのはないんだけどね、ただまぁ数学やってることで色々とやれるようになるってのはあるよねっていうか敷居が下がるよね。


逆に数学苦手だと興味ある分野でもちょっと数式が出てきたら「うわ!」って思って数学アレルギーですよね。ようは。出版業界の常識でも本を売るためにはなるべく数式を出さないようにするみたいな鉄則があるらしいんだけどまぁそれもそうだよね。でもまぁ逆に克服するどころか好きになっちゃうとちゃんと数式とかが出てきてたほうが根拠があるとかさ、逆に数式になってるほうが理解できるとかね、数学を手掛かりにしていろいろと理解できるようになるよね。まぁなんかね、今の感じだと結局まぁなんかノンリニアなカオスってのをカオス理論そのものというよりかはそれを生物学の文脈でやるっていう感じになりそうってのはあるよね。脳神経学とかは化学と生物ちゃんと理解してないとやれないっつーか理解が適当になっちゃうから結構先になると思うんだけどまぁいろいろと考えるとリア充ってわけじゃないけど充実はしてますよね。でもまぁこれで満足しないってことだよね。知的刺激もいいけど性的刺激も必要だしいろいろなもんが相互的に絡まるのが人生じゃないですか?


あとまぁ単純にたまに外に出て歩くってことをするだけでも気分的に違うっていうようなことかもしれないんだけどさ、あ、まぁでもこれは安易な運動をすることでごまかすっていうことになるからそういう風なものには陥らないようにするんだけどね。あ、あとまぁあれだよね、人間関係的なものをもっと重視することだよねってそれはさんざん書いたけど学問やれればいいやーじゃなくて重要性として人間関係とかの重要性とかもあるわけでっていうか下に見がちだけどそれは偏見なんだってことだよね。そういう意味での認知バイアスをなくすっつーのかな?まぁなくすだけでいいんだよね。それで別に積極的に友達作ろう!とかって思わなくてもまぁ開いてればいいってことだよね。前にも書いたけどメンタル的に閉じてるってのがダメなわけで。


いや、学校行ってた頃のさ、イントロ哲学で仲が良かったクラスメートとの会話を思い出したんだけどっつーかその頃の記憶ぐらいしかロールバックできるネタがないってのもあるんだけど(笑)まぁホント、今と変わらないようなことを言ってたんだよね。で、まぁ「いや、今地下に住んでるんだけど理想的な環境なんだよね。隠者みたいな生活がしたいから」とかって言ってたんだけどね、アメリカ行ってんのにもったいねーなって今なら思うけどまぁしょうがないか(笑)で、まぁそいつも結構闇がある感じのやつなんだけどっつーかまぁ仲が良くなるってことはまぁそりゃそういう傾向にあるやつかちょっとダークネスを纏ってないとまず仲良くならないよね。まぁんでそいつが言ってたのはそれは俺も似たようなことを考えるし現実逃避もしたくなるけど外の世界もクソだし他人にも期待できないけどただその「どうせつまらない」って思っているところに関してはそれは仮定じゃんね?ってことなんだよね。そりゃassumptionだろって言われたんだよね。


実際にいろいろな人と接したり外の世界で色々やってそうなってんのとassumptionでそうなってるのとでは全然違うってまぁまさに正論なんだけどさ、まぁかといっても別に外の世界とか他人に過度の期待を持つということではなくてその仮定っつー認知バイアスを無くせってことですよね。いまさらながら「なるほどな」って思いましたよね。でもまぁそいつは当時22歳ぐらいのやつだったから時間差だけどすげー若者にいまさら説得されてるって感じだよね(笑)


まぁでもそういうのってあるじゃん?あーあいつが言ってたのはこういうことか!ってすげー時間差があって思うとか考えが変わって納得できるようになるとかさ、まぁ柔軟性ですよねっていうかそれなくなったら終わりって気がするけどさ、まぁでもとっかかりが欲望するということとかでもいいんだよねっつーかむしろ初期のフロイトで言えば例えばナンパってことが行動自体に直結するって意味だとまさにリビドーによって動かされてるってことになるんだけど後期のフロイトだとリビドーって性的衝動に限らず生そのものの原動力を指す言葉になってたんだよね。まぁこれも還元主義っぽくなっちゃうかもしれないけど俺的に言えばめっちゃスピノザ的なんだわ。そういう力能なんだよね。potensiaね。


スピノザの神学とかはおいておいても仮にすべてのもんが神によって作られてたらそれは「有」のもの以外ありえないっていう考え方よねっていうか存在自体を何かの顕在化として考えるとそれは内在性の発露だったり表現だったりするんだよね。それがまさに「有」ということの属性であるっていうさ、スピノザヤバいよね。マジで。まぁこれはwishful thinkingではあるんだよね。もっとまぁ存在って空虚っつーかそんなに大したもんじゃないんだけどでもスピノザオントロジーってそこに内在性を原理とする生の肯定ってのがあるんだよね。まぁ自己啓発的と言えばそれまでなんだけどまぁそういう意味でスピリチュアルではあるよね。スピノザ的な神学の一部ではあるからね。


でもそれってパースペクティヴの問題でそう考えてもそういう考えの中で存在というのを認識するっていうモードもあるじゃん?相対主義が行きつくのはニヒリズムってのはまぁ客観的にみるとなんでもないのが明らかだからだよね。でもまぁそれはすげーdepressiveだからもっとマシな世界観を獲得しようっていうかそれがつまりはオントロジーの規定になるんだよね。つまりは自己をどう生きるか?っていうこととかスピノザの属性で言うところの「有」としての表現ということだよね。生きるということ自体がそのオントロジーの記述になるんだよね。


でもそれは客観的にそうなるというよりかはそうなるようなオントロジーでありたいっていう自己規定というか自己の世界像の選び方だよね。そこで考えを変えてもどうしようもないまったくコントロールが効かないものとかが介在してるとダメなんだけど自己の世界像ってのは自己規定だからね。基本は。だからクソじゃダメだ!っつー今の俺の激しい抵抗とかもつまりはオントロジー的にダメだっていうさ、連続体のrepresentationとして成立していない!っていう自己批判だよね。まぁそれを批判的に見るかどうか?っつーよりかは明らかにそうだってのが分かってるからこそより鬱っぽくなっちゃうんだよね。だからマズいから変えていける範囲で変えていけるところとか最近書いているクソゲー化を加速させるような要素があったら再検討しなきゃいけないってことになるんだよね。まぁまさにそれは内省そのものなわけですが。


何も別にスピノザがどうのってことではなくてまさにその後期フロイトにおけるリビドーなんですよねっていうかそれもフロイトとか関係なくて生の根源的なエネルギーだよね。バタイユだとそれがエロティシズムなんだけどまぁそういうエネルギーの原理だよね。これって面白いんだけどニューエイジ的な思想とかにおける「生体エネルギー」みたいなのも何気に一緒なんだよね(笑)面白いのがそこだよね。宗教とかオカルトとかニューエイジでもオントロジーの部分で相似してるところがあるっていうさ、まぁ別に哲学的な記述が現代における科学による記述ぐらいの正当性を持っているっていう風にする必要はないんだけどさ、ただまぁ一概にだからね、オカルトとかに傾倒っつーよりかは何気に結構重要な概念あるな!って思ったってのもそういうところですよね。だからまぁそれが色々と言ってたことで目覚めたっつーよりかは従来のすでに規定されている概念と対応するっていう意味で別に目覚めたりしなくても「そういう言い方もあるよね」っていうことになるんだよね。


まぁそういう意味でヤバい世界にハマることなくあくまで理性的に捉えれるからこそヤバそうな世界のことも色眼鏡をかけずに見れるようになるってことだよね。だからまぁその世界観とかがやばいからといって恐れる必要はないんだよね。そこはもう自分の知性と理性を信用すればいいっつーかまぁ信用できるぐらいのものに磨き上げていくってことなんだけどこれですよね、まさに。別に男磨き!とかって意識しなくても生の原理ということを考えているとcultivateするということが必須になるんだよね。だから別にナンパするために男磨き!とかじゃなくてそもそも磨くことがデフォになるんだよね。まぁ今までもそうであったんだけど早すぎる中年クライシスに陥った自分が改めて重要性を感じたところだよね。オントロジーそのものを磨き上げる感覚だよね。


だからそういう意味でそれをやってれば別に社会とか他社がクソでも関係ないからね。ただそれはクソだと決めつけずに常に磨き上げている自分が関われそうなこととかっていうかまぁそれはイベントとかって意味じゃなくて人間関係だよね。そこはクソが多かろうが関係ないんだよね。逆にクソが多いということが避ける理由になってしまってはいけないってのがまぁさっきの哲学の授業でのクラスメートだったやつのassumptionはいけないって話になるんだよね。まぁそれでも常に失望の連続ではあるとは思うんだけどまぁそもそも期待しなきゃいいわけだし期待するわけないじゃん?こんだけいろんなもんをクソ呼ばわりしてるんだから(笑)でもそこでニヒリスティックなデスペラードみたいになってべらんめぇな感じで生きるわけじゃなくてね、メンタリティ的にはデスペラードとか無頼派!みたいな感じなんだけど根本がロマン派ってことなんだよね。


それはまぁ最近書いているロマンティストであるということの重要性だよね。つまりはイデアへの憧れを現実がクソだからみたいな理由で無くさないということだよね。むしろ現実がクソだからこそイデアは必要になるんだよね。でもそれは理想とかってことではなくて現実っつー虚構とかクソみたいなことに影響をされて物事を考える癖をやめるっていうことだよね。まぁ逆にそれは現実に生きていると難しいんだけどっつーかそういう意味でクソなことだらけなんだけどね、んでもまぁだからこそのイデアなんだよね。二次元っていうことではなくてね(笑)


そういうもんを選別するということだよね。「これだ!」と思うもので満たしていくってことだよね。だからこそ知においては臆見とかではないちゃんとした知識を欲するわけだし恋愛においてもマジな愛ってのを欲するわけだよねっていうかそれは愛されたい!とかではなくてプラクティカルな愛ってことだよね。そういうpraxisなんだよね。まさに実践的という意味でプラグマティズムなんだけどでもそれは結果のプラグマティズムなんであって有用かどうか?っていうことが選別の基準になるということではないんだよね。自ずとイデア性とか真実性とか自分が納得できるというあり方とプラグマティックなものが一致するっていうことなんだよね。まさに知行合一なんだよね。知識と行動は相互補完的なんだよね。でもそれは実際にそうか?という妥当性よりも「そうありたい」という願望でいいと思うんだよね。それが真実だからそうあるべきなのだということではなくてそれを一つの世界観として考えてそういった中でのオントロジーというのを成立させるっていう投企だよね。まさにプロジェクトするってことですよ。いや、まさに改めて考えなおして再構成するって意味でまさにハイデガーの言う投企そのものになるんだよね。


まぁでもだからといってやることが崇高だったりする必要はなくて俺みたいに単純にナンパしてみよう!とかでいいんだよね。背景にそういう色々と考えた結果ってのがあるんだけどそれってまぁ努力っつーとおかしいけど向き合ってきて真摯に考えた結果じゃん?結果っていうまぁ終わりではないんだけどね。通過点ではあるんだけどんまぁでも行動だけ見れば短絡的に見えて特に何も考えてないやつとかから見たら余計に実存的クライシスがあるから恋愛に何かを求めようとしているとかっていう解釈になるんだけどそこがまさに自分じゃどうにもならないことでそういう解釈をされようが全然関係ない!って話なんだよね。コンテキストは自分なわけでさ、そこでの意味論と実践ですよね。


まぁでも「なんでそんなことやってんの?」って言われて簡単に説明できることではないよね(笑)まぁかといっても別に「こういう崇高な考えがあるのだ!」っつって威張るとか考えが崇高だから行動も正当化されるとかそういうことではなくて単純な自分の了解だよね。まさにオントロジーの了解ってことなんですよね。まぁ誰かに理解されようと思ったらそれは絶望的だけどさ、まぁでもそれはなかなかリアルではそうはいかないって話でもまぁ現にこうやって書いてて共感してくれる人とか自分もそういう考えになったんだって人とかいるわけでさ、だから理解されないっていうことに絶望を感じる必要はないよね。まずまぁここまで考えてる人が少ないっていうだけで別にそれについて絶望してもどうにもならないしね。まぁ逆にここまで考え尽くしてることのほうが異常だよね(笑)まぁ異常っつってもそれが根本的な健全性を保つ結果になっているわけだけどね。


まぁ今日はそんな感じですね。んじゃまた。