深みの外出。その14。

今回貼るやつでラカンが言及されてるけど還元主義的なのではなくてオントロジーと欲望とナンパっていう動的行為みたいなね、んで色々と思い出してみるとちょうど一年前ぐらいにフィンクのラカン本なんかを買ったりエクリなんかを読んでたりしてそういやラカンやってたけどそのままになってんなーとか思いつつ今の俺のトピックっつーかコンセプトとぴったりな感じなんでラカン関係また再読したり色々と読むかもしんないっつーか生物学と化学は?って感じだけどラカンやりかけてたし中途半端に終わってたし今の俺とぴったり合う感じだからラカンやるかもしんない。


あ、んで去年はそっからドゥルーズとかにいったんだけどなぜかドゥルーズはすげー読んでたし最近もスピノザのやつ読んだしラカンも生活の中に組み込むサブジェクトとしてありかもしれないっていうか今の現在の俺のパースペクティヴだとラカンが異様に面白いんだよね。なんかあやふやだったことが今のマインドセットとか知覚の仕方で凄くラカンが理解しやすくなっててビビったんだよね。良い感じでシンクロしてるかもしれないからこの波に乗りますね(笑)っつっても貼るやつ読めば分かるけどあくまで批判的にだけどね。依拠するつもりは全くないけどインスパイアされるところは多々あるのよね。そういう意味で凄く刺激的ではあるのよね。


ってことで続きを。


あ、でもあれなんだ、リビドーリビドー言ってるけどフロイトとかラカン的な言説って前に「人はみな妄想する」でも言及したけどドグマになってるじゃん?フロイトラカンも所謂free thinkerだったんだけどフォロワーがそれをドグマ化してフロイトラカンが書いたやつに依拠していればそれが理論機構みたいになっていて学会でそれは認められる正当な言説になるみたいなまさにラカンが批判してた学会っつーディスクールスターリニズムってことなんだけどさ、最高にファックですよね。いや、フロイトラカンってそれ自体では面白いんだよね。


でも学会が絡むとクソみたいにファックになるし逆にすげーフロイトラカン的なもので変なのは理論がフロイトとかラカンに依拠していればそれがほかに適応できた場合、応用精神分析学とでも言わんばかりの正当性を獲得するってことなんだよね。例えばそれでサブカルとか社会を語ってもドグマに依拠してればオッケーみたいなね、まぁ最高にファックですよね。だからまぁあれなんだよな、そういうアカデミアとかの閉鎖的な言説とかそういう閉鎖的な言説が作る思想のダイナミズムの硬直化みたいなのもそれをぶっ壊すのって普通の人が勝手に影響を受けて使ったりリミックスすることなんだよね。


それが正しいかどうかなんてどうでもいいわけだ。そもそも精神分析は科学じゃないから(笑)科学だったら別ですよ。でもまぁこれって理論家とか理論を作り出す人とそのフォロワーの違いなんだよね。フォロワーは理論に依拠してそこから出ないから硬直したままのことを言い続けるしドグマティックでそれがプラクティカルかどうかなんてのは別にしてどんだけ理論に忠実か?ってことを競い合うみたいなさ、でもまぁフロイトとかラカンって査読がどうのとかじゃなくて勝手に色々思いついたりなんかに影響受けたり科学の概念を乱用したりして(笑)独自の理論を生み出したわけじゃん?まぁめちゃめちゃ自由ですよね。


だから例えば俺がフロイト的な意味でのリビドーってことを言ったとしてそこでフロイト理論との整合性なんて関係ないしあとはまぁフロイト理論っつーか理論自体が整合性を求めるからドグマティックにではそのリビドーがそうだとするとフロイト的にはこうなる・・・っていう最悪の還元主義になるんだよね。思考の停止ってのとまぁ脳死ですよね。マジで。人文系なんて大体部分的に言えてたり「おお!」って思っても全部がそうじゃないからね。フロイトもたいがいにしておけよってぐらい適当だしそれはラカンも同じで特に科学系とか生物学とかの講義を見てても「残念ながらフロイトの名前を出さなきゃいけなくなるけど・・・」みたいなそういうダサいものっていうか低いものなんだよね(笑)まぁそりゃそうだ。トンデモだからな。


そうなんだけどでも例えばドゥルーズとかを読んで影響を受けたときに隅から隅まで理解してドゥルーズの言うことに忠実じゃないといけないか?っていうとそんなことはないじゃん?ドゥルーズ学やるならともかく考えるネタとしてならそりゃ自由でいいんですよね。まぁそういう意味でフロイトとかって名前を出してきたけど便利だから出してるだけなのと別にフロイトに忠実であろうなんてのはみじんも思わないし、自分のナンパっつー体験をフロイトだのラカンだのっていう化石化したような理論を転用して分析しようなんて思ってないんですよっていうかそんなのクソ過ぎてつまらないじゃん?まぁだからあくまで俺が考える・・・っていうことでまぁ時にはそういうフロイトだのラカンだのって名前が出てくるかもしれないっていうことなんだよね。まぁだからリビドーに関してもそんな感じなんですね。別にフロイト賛美したいわけじゃないので。


あ、んで早速ラカンの話だけど「人は他者の欲望を欲望する」っつーテーゼみたいなのがあるじゃん?例えばブランド品とか話題のものとか曲とかなんとかってのでそこで消費しているのは「話題になっている」っていう他者の欲望なんであって動機づけとしては「話題になっている」から買うんだみたいなことで消費社会とかを分析するのには便利なんだけど欲望を性欲に置き換えると全くそんなことないよね。性欲も欲望だと思うけど性欲は模倣じゃないからね。


俺が言いたいのはそういう性欲的な内面から湧き上がってくるもの全般ってのが言わばリビドー的なものでさ、それは徹底的に主体的に欲望するっていうことなんだよね。ただ「人は他者の欲望を欲望する」ってのが便利なのはそこに至るまでは実にそういうプロセスがあるってことなんだよね。性欲はありつつもそりゃ抑制できるし性欲=恋愛ではないんだけどそこで人生がつまらなさ過ぎて強度を求める!って言ったときに参照するのが他者の欲望なんだよね。まぁそれは自分のを欲望を満たしてきたからっていう意味でもう欲望無いけどどうしよう・・・っつって欲望することを学べるのが他者の欲望だよね。ジジェクが映画は欲望するということを教えてくれるとかって言ってるけどまさにその欲望のリファレンスなんだよね。


そのリファレンスとして性欲ってのがあってナンパっていう行動があるわけ。だからそれは模倣ではあるんだけどあくまで方法論的な模倣なんであって「よしこれだな」って思って主体性を獲得していけばそれは主体的な欲望になるし模倣ではなくなるんだよね。最初はぎこちなくてなんかちょっとナンパ男みたいなのを演じているみたいなところもあるかもしれないけどそれってのはなぜか?っていうとまだ主体性を獲得してないからなんだよね。だから模倣したりキャラを作るっていうことでやろうとするんだけどここが重要なところで主体化するにはどうしたらいいのか?ということで必要なのが内発性なんだよね。


衝動性というかspontaneousってことね。本当にそれをやりたい!と心の底から思うということなんだけどそれを製品とかに置き換えると凄い難しいよねっつーかまぁ難しくもないかな。ただまぁ心の底から欲しい!って思うもんなんてそんなに多くないよね。まぁあとあったとしてもあればそりゃもう買ってるでしょうってことになってある程度生きてればいつかは揃うってことになるよね。だからまぁ消費全般に飽きるっていうのとどんだけメディアが購買意欲をprovokeしようがなびかないんだよね。まぁ今は世界的にそうだけどね。


そんな中でではどうやったら主体的に欲望することができるのか?というのが凄く問題になるよね。そこでそのナンパってことに話を繋げるとまぁ自分のこういう刺激ジャンキー系の特有の行動とかってのは別としてもより主体的に欲望したい!って思うことってのはようはより主体的に生きたい!って思うことそのものなんだなって思ったのね。それがまさにリビドーってのは生の原動力でパワーになるっていうのはその主体性を獲得するためのパワーなんだよね。それは内発性によるものではないとダメで外界から「これいいですよ!」って薦められて好きになったりハマるということではないんだよね。まぁきっかけとしてはありなんだけど。で、その「これいいですよ」っていう段階が俺的には欲望したい段階の模倣の段階なんだよね。ようは他者の欲望をリファレンスとして使ってみるっていうことだよね。


で、恋愛ってのを自分の中でもありうる要素とか色々とディグれる素材として考えると一気に偏見が無くなってそれも研究対象みたいになるじゃん?そうなるとその恋愛そのものがリファレンスになるんだよね。ようは「みんなやっている」ということを「俺もやろう」みたいな感じになるというか燃えることがいからなんでそんなに命を懸けるのか分からないけど命を懸けてみようかな?って思うんだよね。そこでコミットすると得られる主体性とか分からなかったこととか明らかになることがあるからとりあえずやってみるってことになるんだよね。


まぁ今は実ってないから行動と概念が乖離しているとは思うけど経験していくってのはその行動と概念の差が埋まるみたいなことだよね。まぁ悪く言えば幻想とか思い込みみたいなのが打ち砕かれるってことだよね。でもそこで深いのは「あえてやろう」とかってぐらいに思わないと行動に移すまでにいかないんだけど行動に移してみた後に得られた若干の主体性からそのさっき書いた抑圧のメカニズムみたいなのが分かってくるんだよね。なんか凄く解放された気になるのはやったらいけないこととか自分としてはありえないことをやっているからっていう非日常感というのはあるにせよその他に実はやりたかったんだけど抑圧してきたものっていうのを開放しているから得られている解放感なんじゃないか?とも思ったんだよね。


ってことでまだ続きます。んじゃまた。