深みの外出。その15。

では。


で、ナンパが普通にありという風に考えると一気に色々と考えが変わることがあるって散々書いたけど結果的にこういうマインドがやる気とかミックスを作りたくなるみたいな些細なことからまぁそういうバイタリティに繋がっているっていうのがつまりは抑圧を開放しているからそこでのストレスがゼロになるわけじゃないけど緩和されるっていうことなんだと思うよね。もちろんだったら鬱なら何かが抑圧されているからそれを開放しなきゃいけない!ってことにはならないんだけどただまぁ性的なものをこじらせるってことはメンタル的にすげー厄介なんだなって思ったんだよね。


それは開放してみて得られた実感だよね。で、その「とりあえずやってみる」っていう他者の欲望なり行動の模倣なりっていうことからまず外に出てみるということをロールプレイ的にやるんだけどそこで散々書いたように体幹を気にするようになるとかマーシャルアーツの話とかようはそのやっている環境と身体性っていうのが繋がってくるんだよね。それまではナンパというただのアイデアとかある形式だったものが体感されることによって主観化されて徐々に主体化していくんだよね。


そのプロセスの中で抑圧していた性欲とか実際は可愛い子と喋りたいとかヤリまくりたいっていう肉食な自分というのを開放していく中でいかに自分が自分を抑圧してきていたのか?っていうのに気が付くのと同時にそこまで抑圧していたということは抑圧するだけ強いものっていうことになるからその本能性に目覚めるんだよね。別に抑えなくても問題ないものをあえて抑圧する必要もないじゃん?でも抑えるということはそれだけ強いものっていうことでまぁオカルトとかで言うところの封印とかに近いよね。


で、まぁさっきも書いたように抗うつ剤を飲むということがデフォになっている自分ってのは基本立たないとか性的不能であるっていうことが内在化してるっていうか去勢されているっていう概念が内在化しちゃってるんだよね。だからまぁそれを変えていく必要があるということでもあるんだけどあとはまぁ実際にそうなのか?という観察が必要だよね。散々書いたけどシモに自信を持てるということがいかに人格に影響するか?だよね。あとまぁ男性性という意味でもそうなんだけど。そういう色んなものっていうのがシンプルな欲望をすることで人生を主体的に生きるとか主体性を欲望によって獲得するって例えば自分の場合そこで性的なものを取り戻すということがファルスの獲得みたいなプロセスになるんだよね。それは自分が「男であること」という象徴的ファルスというのが抑圧と二次的な意味合いでの抗うつ剤というもので去勢されていたということに気が付くんだよね。


じゃあ自分とはファルスなのか?ってことになるけどこれってのがすげー示唆的というかジェンダースタディとかをちょっと研究したくなるような素材でさ、自分はまぁ別に困っていなかったけど早すぎる中年クライシスによって・・・ってまぁそれは散々書いてきたけど男性性とは何なのか?とかってのを考えるようになって物理的なファルスということもさることながら象徴的ファルスが持つ人格への影響ってのが気になりだしたんだよね。


それは例えば睾丸を摘出したらその人の人生にどう影響を及ぼすか?みたいなことと似ててバージョンは違うけど女性の大事なものとしての乳房というのを切っちゃったらそれが本人にどう影響を及ぼすのか?っていうことだよね。それは見た目とかというよりもやはり性的な意味合いが強いわけだよね。睾丸が無いってことはヤレないってことだし乳房が除去されているというのは必ずしもそうではないけど一般的な象徴的な意味合いとして女性としての魅力が削られているっていう精神的ダメージになるんだよね。


それは数少ない欲望ということにおいて他者の欲望であったり模倣ではない根源的な欲望である性欲というものに関わるわけで、今回俺が色々と書いていることだとそれは根源的なパワーに関することになるんだよね。それは例えば男だったらテストステロンが出なくなるとか除去したらどうなるのか分からないけどまぁそういうところもさることながら無いしヤレないということが及ぼす精神的な影響ってのがパワー自体の生成への影響ということになるんだよね。つまりは主体的に生きるための根源的なパワーを失うということになるわけだ。なんでもかんでも性欲に結びつける必要は無いしこういう考え方がジェンダー的なPCとかではあんま良くないってのは分かるんだけどただ男性性なんてのをそこまで意識していなかった自分としてはその重要性に気が付いてるっていう感じなんだよね。


だからつまりはその物理的なファルスと象徴的なファルスを持っているとか機能しているということが自分が機能しているというオントロジーに繋がっているっていうことになるんだよね。別な言い方をすればそういったものを意識していなかった自分というのは自分を生き切れていないというか存在しきれていないということになるんだよね。ようは男であるということ自体が及ぼす生活とか行動とか考え方の影響とか、そもそも人間自体の根本的な属性として性というのがあるからそれ自体を意識するということはもはや実存に内在されているんだよね。もちろん色々なバージョンがあるわけだよね。


男でも心が女性な場合それは障害というよりかはただのパターンで障害でもなんでもないよね。それを障害とするのは男が女の心持っていると気持ち悪いっていうただの世間の目という問題なんであって生き物として障害があるわけじゃないからね。ノンケだけど身体感覚は女性で女装してたほうが元気でいられるとかもまさにそういう性に関係することだよね。


全てを性に還元する必要はないんだけどジェンダー自体が実存に食い込んでいて存在するということ自体が当たり前なんだけどジェンダーを生きるということになってるんだよね。これは男性性ってのを今回のことをきっかけに色々と考えるようになってっつーかすげー感じてね、オントロジー自体に自分が男であるということが当然なんだけど組み込まれていてその男性であるということが意味する色んな属性とか身体的なレベルでの機能というのが存在に直結しているんだよね。


それをなんで「男である」ということが影響しているのか?って思うのか?っていうと実存っつー抽象概念だと「実存」とか「存在」っていう言葉自体が勝手に一人歩きしてるっていうかさ、まぁそれもそうだけどこうやって生きててどうなのよ?っていうところの実感ってのは抽象化されないんだよねっていうかそこがさ、例えば言葉の意味での「存在」といったときにこうやって考えるときにすでにその概念自体が哲学的概念に引っ張られてたりすでにあるディスクールの中における意味での存在ということであったりしてそれは言葉とか文献上での存在なんであって自分ではないんだよねっていうかまぁ自分ではないということでもないんだけどどちらかと言えば抽象化すればするほど自分という実感とは離れていくよね。


ってことで続きはまた明日。