ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

医者になります。

あ、なんかすげー宣言しちゃうけど今やってることとやりたいことを統合すると大枠での医学ということになったんで今後は医学やります(笑)そりゃそうだよね。神経医学・生物学・発生学・遺伝学・化学・心理学・精神医学・・・って医学だもんね。目指せメンタルヘルス界のブラックジャック


ってことで続きです。


あーちょっとまたバラバラになるけど図書館で借りた本の中に國分功一朗の「暇と退屈の倫理学」があるんだけどまぁなんか元も子もない話をしてしまうとそもそも退屈を考えるうえでなぜハイデガーの退屈の概念を出してくる必要があるのか?ってことだよね。それだとハイデガーの退屈論に依拠した退屈論の評論と分析になっちゃうじゃん?まぁこれがいわゆる文献学というやつなんだけど俺が哲学にそこまで入れ込まなくなったのもこの構造に気が付いたってのは大きいよねっつーか昔から言ってるようにそれを述べたのがニーチェだろうがおっさんだろうが論自体の妥当性というのは図れないんだよね。じゃあなんでニーチェはこういったとかハイデガーはこういったっていうのか?って権威だからだよね。


さっきラカンについてのことでも書いたけど言論の権威化ってこれなんだよね。例えばキルケゴールが失恋してどん底の気分にいたとき・・・とかって一節があったとしてなんでそれがキルケゴールじゃなきゃいけないのか?って話なんだよね。別にそれ自体を述べるうえでは「自分の弟が失恋して・・・」でもいいはずなのになんでキルケゴールなのか?ってことだよね。普通にリアル世界であることはそれが偉人の身に起こったことであろうが自分に起こったことだろうが家族に起こったころだろうが関係ないよね。まぁ偉人の出来事のほうが文献として扱いやすいってのがあるけどまぁそういう便宜上の問題だよね。


それならまだ分かるけど別に國分功一朗に限らずなんだけど例えば社会のなんたら構造を分析する上でフロイトのなんたらの理論を使って・・・とかってのもあるじゃん?なんで社会のなんたら構造を分析するのにフロイトの理論を使うのか?ってことだよね。その妥当性を証明するために色々と論を進めるにしてもあたかも代数のようにフロイトの理論で色々と説明している心の力学構造とかがそのまま社会構造にも言える的なさ、さすがにこういうのってもう流行ってないしやってたら失笑を買うレベルだと思うけど、買うほどではないけど名前よく見るから読んでみようと思ったものとして大澤真幸の「自由の条件」ってのがあるんだけどまぁもう数ページ読んだだけで「ダメだこりゃ」だったよね(笑)


こんなんばっかだから日本語の哲学関係の本って読む気がしないんだけどまぁんで久々に読んでは見たけどっつーか買おうとは思わないから読むことができたってのが図書館の利点ではあるんだけどやっぱまぁダメだったなっていうかそれ自体で色々と「そうか!」と思うことがあればいいんだけど無いんだよね。論の論で自分で考えてないから。暇と退屈ってのは普遍的なことだと思うんだけどなんでそれを哲学っていう狭い言論の中のみの言葉で語ろうとするのか?ってことになるよね。まぁジャンルが哲学だからっていっちゃえばそれまでだけど哲学やってる人が書く本って大抵こういう感じだよね。何かを述べるうえで何百年も前の人のなんたら論に依拠してやるってもうそれだけで読む気失せるよね。


っつーかそれで参照にするものっつったら古今東西の暇に関するエッセイとかそういうのがテーマになった文学とか映画とかあと自分の経験とかさ、まぁそういうのに依拠しなくてもいいんだけどねっていうかなんで文献に依拠するというのが前提なのか?ってことだよね。あとハイデガーの退屈論も取り立てて取り上げるほどのもんでもないしね。偉大な哲学者だからっていうことで妥当性があるに違いないとか名前の威力があるってことでやってるって部分もあるんだろうけど、自分が述べたい退屈論においてハイデガーの退屈論に依拠すると何かと便利だから依拠するということならまだ分かるんだけど全編に至って暇と退屈の話というよりかは文献とかハイデガーがどうのとかっていうそういう話ばっかになっちゃってるもんね。これだから哲学学者が書いた本ってつまらないんだよね。


逆に退屈とか暇についてとかって文学者とかが書いたエッセイとかそういうほうがよっぽど「おお!」ってなることが多いんだよね。凄く生活感があるっていうかそこはやっぱ文学者だから生活の質感の中で語るじゃん?で、自分の幼少期の話とかも色々出して語ったりするじゃん?まぁモノにもよるんだけどね。なんだろうね、「そう私は思うのである」では論文にならないから権威のある思想家の概念装置を利用して卑近なことを扱ってみるとかっていうことになっちゃうんだろうなってのはあるけどね。ただ本当に昔から書いてるけど哲学だったら「俺はこう思う」で良くない?って思うんよね。なんでギリシャの話とか中世のなんたらの何々みたいな話とか大げさな感じとスケールで色々と引いてくる必要があるのかな?って本当に疑問だし読んでみて別にあの話出してこなくてもよかったよねってことが多いし、ハイデガーの退屈論なんてどうでもいいからそういうところを適当に読んでるとほぼ読むところないよね。


というか別に本自体はよく書けていると思うんだけど特に國分功一朗がどうのってわけじゃなくてこういう文系の論の立て方にうんざりしているってことだよね。なぜハイデガー?っていうのとまぁあとそのさっきも書いた権威ってことだけどハイデガーっつー後ろ盾があれば評価されるだろうっていうことだよね。人文系がなぜそういう権威に頼るのか?ってのは全部それだもんね。有名どころを出してくればそれ自体に批判はいき辛いしアカデミックに認められているものだと余計にそうじゃん?自分が実際にそういう権威的なものに洗脳されてたからよく分かるんだよねっつーか読み始めの頃なんて全くそういうのに疑問を持たなかったからね。


ってことなんだけど医学なんて権威が医師会だから下手なアカデミアより挑戦し甲斐があるよね(笑)ってことで続きはまた今度。