ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

精神分析について。

ちょっちまた続きは今度にしてラカンについてなんだけど色々と読んでて思うのはっつーかセミネールって読んだことなくて読んでるんだけどあんなに読みやすいとは思わなかったねっていうか秘教的になってる宗教みたいなラカン信者が書くようなものに比べるとめちゃめちゃクリアで鋭いよね。カリスマ性があるのは本当に頷けるわ。あとラカン理論とか精神分析抜きに普通に哲学者として一流なのが凄いっていうかソクラテスとかプラトンの読み方が深いしイメージと違って思想の実践を第一とする思想家としての力量っつーのかね、煙に巻くイメージがあるけど全然そんなことないのね。


ただあれなんだよね、その読んでて思ったことなんだけどラカン信者とかラカン派が誰とは言わないけどフロイトとかラカン的な概念をそのまま流用して色んな評論とか分析とか他の哲学との比較みたいなのをやったりしてるけどジジェクなんかも含めてなんでああいうのがダメなんだろうな?って思ったときにまさしくそれはラカンに還れ!ってことなんだけどすげー重要だと思うんだけどこれは精神分析におけるディスクールなんだっていうことだよね。例えば哲学なんかでは実存とか差異とか解釈とかが語られたりしてそれは普遍的概念を含んでいたり一般性があるものもあったりしてそういう意味で「何々が実存についてこう言っていたところのアレだね」みたいな言及が可能なんだけどフロイトとかラカンに関してはそれが精神分析とかフロイトラカン自体のディスクールから離れると一気に意味が乖離するっていうか分散するっていうかナンセンスになるんだよね。


それはあくまで精神とか精神病とか心についてのディスクールなんであってそのディスクールが必要とするものは語られたり分析されたりするものが持っている特有の属性なんだよね。分からん、一般化できるか分からないけど書いてみるけどね、例えば「火」についてのディスクールってのがあったとしてそのディスクールは「火」自体が持っている固有の属性に依存するんだよね。どうその属性を表したらいいのか分からんけど(笑)なんだろうね、可燃性とか熱いとか燃え移るだとかなんだとかディスクールっつーかまぁ特徴っつったほうがいいのかな。で、その火に関するディスクールが火という文脈を離れて語られたとしたらそれはアナロジーでしかないよね。燃える心とか熱さが燃え移るとか燃えるような情熱とか燃える愛とかなんとか。で、その火に関するディスクールってのがアナロジーも含めて色んなところで語られたらその語られてるものの多くは火の固有の属性とはかけ離れたものになるよね。ようは本来の火というところとは関係ない「火に関するディスクール」という火自体とは独立した独特の言論空間みたいなのを生み出すよね。


で、さらにそれは増殖するじゃん?それについて語るということが生産的な活動とされればイニシアチヴがあるんで火に関することではなくても類似するものと類似するものにさらに類似するものに関するディスクールになって異様なものになるよね。言論の再生産とでも言うのかな。なんたらっていう人が言っていたこととなんたら主義とは必ずしも一致しないことがあるしなんたら主義みたいなのを継承して永遠とそれをドグマとしてやってるようなのは本来のそのなんたらが言ってたこととはだいぶかけ離れる場合もあるなんてのもこの乖離だよね。結局はただのアナロジー化してしまった言説ってのが生み出す劣化コピーでしかないわけ。もちろん全部ダメだということではなくて有効である場合もあるけど例えば普通に考えてフロイトの理論を社会学とか政治学に応用しましたっつってんなわけねーだろってことになるじゃないですか?


例えばフロイトの言う「抑圧」と社会的「抑圧」って同じ抑圧でも全く意味が違うしフロイトの言説の中ですらもそれは違うしフロイトとかラカンにしてもフロイト主義とかラカン主義の人たちが信じることとは違って彼らはすげーfree thinkerだったから言葉の定義なんてのに縛られてないし厳密でもなかったからいくらでも意味ってのは変わってたわけだよね。だからこそその文脈とか言おうとしていることの中でのここの意味での「抑圧」とはなんなのか?ってのを考えなきゃいけないんだよね。それは過去にフロイトによって定義された「抑圧」とも違うかもしれないしあとは本人は過去に自分で定義したものと同じものだと考えていても実は違ってたり新しい属性とかが入ってるかもしれないわけだよね。だから必ずしもテキストを文字通り読めば理解できるということではない眼光紙背に徹すってことが必要になるわけだよね。


フロイトにしてもそれが性に関する抑圧なのかトラウマとか嫌なことに関する抑圧なのか?っていうことでも抑圧の意味合いは違うよね。まぁフロイトそんなに読んでないから分からないけどまぁそのうち読むけど恐らくはそんな言葉の厳密な定義なんてしてないと思うんだよね。過去に自分が依拠した意味での抑圧という理論的な意味での抑圧という抑圧のこともあればそのときに恣意的に出てきた抑圧という概念かもしれないよね。あとは言葉が見つからないからとりあえず抑圧って言っておけばいっかー的なものとかあとは抑圧と言えなくもないけどまぁ微妙に違うけどそれで説明がつくからいっかーっていうような流用とかだよね。


だからまぁ思想のアクチュアリティってここなんだよね。ドグマ化することではなくてそのテキスト上で生きているものを捉えるということだよね。エクリチュールは死んでるってデリダとか言ってるけどそんなこたぁーないよね。まぁその辺の線引きは難しいけどね。多義的でどうとでも捉えられるというところに可能性を感じる人もいれば言葉の適当さとか恣意性とかを指摘する人もいるよね。ただ少なくとも精神分析とかにおいてはめちゃめちゃad hocなものってことだよね。


それがヒステリーについて語られているものであったらむしろ一般化するべきではなくてそれはその場で語られているヒステリーに関するディスクールなんだよね。だからそれはそこで語られているその患者特有のヒステリーっていう諸属性が無いと成立しないディスクールだからそこで語られている患者という文脈が無くなってしまっては意味をなさなくなるんだよね。っつってもまぁ必ずしもそうとは限らないんだけどそこをラカンとかは科学的にしようと思ってダメだこりゃって思ったわけだよね。ad hocなもんじゃなくて科学的な言説にしたかったんだけど無理だったからそれは文芸的な技巧なんだみたいな結論になったわけよね。


でもその技巧が科学ではなかったということで意味がなかったか?というとそんなことはないよね。むしろ複雑な心というのを解読するのに凄く有効な手立てであることもあるし直接的な方法論にはならないかもしれないにせよ凄く示唆的であることは間違いないよね。でもそれはあくまで哲学としてなのであって排他的な原理としてではないんだよね。ドグマ化ってのがまぁようは原理化なのよ。フロイトがこう言っているとかラカンがこう言っているってのが数学で言うところの公理みたいになってその体系でやっている人の間では疑うこともできない基礎概念になってんのよね。free thinkerがべらべらしゃべってることがなんでドグマになるのか?って話だよね(笑)自由に喋って思い付きでアナロジーとかを平気で使うような人の言葉がなんでドグマ化されるのか?ってことだよね。


前にも散々書いたけどフロイトが赤ちゃんの話するじゃん?糸遊びのダーとかオーオーとかのやつ。あれって「まぁ俺はそう思ってこういう仮説を唱えようと思うんだけどねー」っていうアイデアだもんね。その赤ちゃんの糸遊びが科学的にフロイトが解釈した意味での精神分析的な意味合いを含んでいるなんてのを立証することは不可能だしそれ言い出したら「いないいないバー」にしても似たようなもんかもしれないしどうとでも言えるよね。それはただの思い付きでアイデアで「絶対的に正しいもの」としてドグマ化されるようなものではないんだけどただアイデアとしては面白いし分析として色々と示唆的なことはあるじゃん?そういうところを読んでいくってことだよね。権威化することじゃないよね。


いや、こないだ医学やるって話したけどさ、精神科医ってどうやったらなれるの?って思って調べたら医大出なきゃいけないってことで「えー!」ってことになったんだけどさ(笑)いや、俺が精神科医になるということではないんだけど医大出てんのか!ってことに驚きがあったんだよね。ようは医大とか出ててよくフロイトとかラカンみたいな理論に疑問を持たないよなってことなんだよね(笑)医学の大半がハードサイエンスじゃん?文系と理系で恣意的に分けたとしてのバリバリの理系だよねっつってもバリバリの理系に比べたら文系寄りって話もあるけどまぁんでよくあるじゃん?


バリバリの理系の人が哲学をディスるときに使うアレよ。言葉の定義すらもされてないのにそんなんで展開されても困るし恣意的な言葉のチョイスで勝手なことを色々言っているなんて全く意味がないっていうようなさ、ようは色々なもんが数学みたいに公理化されてて絶対的に正しいものに依拠してないと意味ないみたいな感じなんだよね。まぁあと絶対的に正しくなくても少なくとも体系的にやるなら言葉はちゃんと定義されているべきだとかって考えるやり方ですよね。


でも考えってそんなんじゃないじゃん?そもそも思想自体がそんなもんじゃないよねっつっても言葉のチョイスが恣意的でも構わないという話ではないんだけどただそんなに数学みたいにガチガチじゃなくてもいいってことだよね。で、そこをあれなんだよね、フロイトとかラカンに依拠する人たちはいまだにその科学性を信じているか体系的にやるということを意識しているからドグマ化してるってことなんだよね。


ようはそれがラカンとかフロイトが言っていることなら正しいっつーかまぁ引用してきたり文脈的にそういうのに依拠してればそれは認められるものになるっていうただの全体主義だよね。勘違いも甚だしいよねー。いや、それが極めて科学に近い言説ならまだ分かるんだけどフロイトとかラカンなんて科学とは程遠いじゃん?でもそれをドグマ化して科学のように見せかけたり正しいものとして見せかけるなんてのは元々のフロイトとかラカンが色々と試行錯誤していた「思考すること」っていうプロセスとは程遠いよね。言っていることとかテキストってのをドグマ化してスピリットは全然継承されてないってことだよね。


だからジジェクとかにしてもつまんないのは全部還元主義だからなんだよね。最近ジジェクのレクチャー流しながらゲームやってたんだけど最近ラカン読んでるから理解が割と前よりあるからよりラカン的に言っていることは理解できるんだけどただの言い換えなんだよね。それを政治に適用したり映画評論とかジョークとかアニメのなんたらがラカン的なこういう世界観を表してるとかただの評論なんだよね。ラカンの理論を応用して何かやってるならいいんだけど全部還元主義的なんだよね。まぁそこを過去にディスられたときに本人は開き直って「自分はラカニアンの理論家だから関係ないんだ」みたいなことを言ってたけどこれってようは全体主義の容認ってことだよね。


閉鎖的なディスクールっていうことを認めちゃってることになるよね。そもそも概念が科学ではない何かのドグマに依拠するということ自体がもう排除的で全体主義的だよね。まぁ別な言い方をすれば乱暴だけど依拠していいのは科学だけですよね。でもそこで問題なのが脳科学だよね。科学的ではないという理由で神経症とかフロイトとかラカンがやってきたようなことを無視してDSM的なチャート式に精神病を入れ込んじゃうっていうさ、最近の俺で言うとそこでまぁ自分の鬱とか憂鬱さというのを色々と分析して初めてっていうかどういう感じでナンパってことになったのか忘れたけどっつーかあれか、小森さんに「そんなに原宿に可愛い子いるならナンパしたら?」って言われて「よっしゃほんならやってやるわ」ってことでやり始めたんだった(笑)


まぁいいや(笑)まぁそっから色々と分析とかが入って来て・・・っていう流れだったか。まぁそれはともかくそこから色々と見えてきたことってのがあるんだよねってのがようは鬱とか気分障害をただメカニカルに「頭がこうなってるから」とかって考えずに何か根本的な心的な原因を探ってみるってことだよね。それが必ずしも心的な要因に由来するかはともかく精神分析的に言うと神経症的なところを探ってみるってことだよね。まぁようは全部がそうかはともかく「これならこうですね」っていうチャート式みたいなのは対症療法しか生み出さないってことだよねっていうかまさにこれが資本主義的なドラッグプッシャーとしての精神科医ってことだよね。症状があってそれを緩和させるっつー薬を出すということしかしない。


まぁそこでいつも書くようなあれなんだよね、ましてやその対症療法に従属するっていうこと自体がこのファックな現実に従属するとか適応しようとするっていうことじゃん?例えばその鬱なり凄く嫌な気分になって気分が不安定になるっていう原因がクソみたいな労働環境にあったとしたらそこをやめるのが一番いいわけだよね。でも社会的にそれは許されなかったり本人が路頭に迷うことになって実質的に続けるしか選択肢が無いってことになるわけだよね。で、そこで耐えるために薬を飲みながらやってくださいっつーすげーヤバい奴隷の構造を生み出すわけだよね。脳科学的といっていいかはともかくとして対症療法的なのはこういう従属しか生み出さないよね。そこであえて精神分析的という言い方をするけど根源的なそれをもたらしてる原因は何なのか?っていうことを探るっていうことになると本人のコンプレックスだったり両親との関係だったりまぁあと分かりやすくクソみたいな労働環境だったりしてまぁでもそれが明らかになるわけだよねっていうか必ずしもそうじゃないにしても明らかになる場合もあるんだよね。


っつーか途中のやつが途中でこれも途中でとりあえずこれ終わったら続き貼るから続きの続きはまた今度ね。で、次回は続きを貼るので。ではまたね。