ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

精神分析について。その2。

性機能障害改善のためにサインバルタからリフレックスに移行するってことなんだけどさ、いや、んで途中なわけじゃん?今。サインバルタもリフレックスも飲んでるんだけどこの組み合わせってカリフォルニアロケットとかって言うらしくて(笑)なかなか調子が良いんですよね。寝る前にリフレックス飲むからなのかもしれないけど起床後のこの世の終わりのような気分が無くなっていつも正常になるまでが大変なんだけどかなり楽なんだよね。食欲が増すらしいけど確かに増したっつーか味がするようになってさ(笑)セブンイレブンのたこ焼きとかってただの小麦粉の塊とかって思ってたんだけどあんなだしの味がするとは!とかって色々感動ですね。


っつーかまぁ調子いいからこれでいいかも。カリフォルニアロケットでいいかもね。リフレックスオンリーにして異様に眠くなったり逆にあんま調子良くなくなったりしても嫌だからこのままでいいかも。


あとね、やっとWings届いたんすよ!!注文日から毎日トラッキングをする日々でどんだけ暇なんだ!って話ですけど(笑)注文からちょうど10日ぐらいですかね。いやーその間のワクワク感といったらね、たまらないよね。ってことでお写真を。



まぁそんな感じで黄金の羽を手に入れたところで早速履き倒したいので近々横浜行ってきますね。なんだかんだで前回から一か月ぐらい経ってるけどやっぱまぁ図書館で本借りて返しに行かなきゃいけないからそれで強制的に外出るようになって実践も捗るっていう力学を使うのがいいですね。あ、まぁでも本買わないっつってもさすがにラカンは気に入り過ぎたから買うし「これは!」って思ったのはやっぱ買いますよね。セミネールはPolityから新版みたいなのが出てるみたいだしまぁその気に入ったのが「転移」ってやつなんだけど転移っつーかプラトンの饗宴読解なんだよね内容が(笑)




いや、騙されたと思って一度読んでみてほしいんだよね。高いから図書館でもいいし本屋行って置いてあったらちょっとでも読んでみてほしいんだけどこんな名著を精神分析みたいなオワコンのジャンルにとどめておくのがもったいないぐらいの哲学の名著なんですよ。


っつーかシュトラウスの本読んでるときみたいな感覚に陥るね。っつーかラカンってフォロワーとかラカンについての本を書く人たちが過度に理論家し過ぎててあのわけのわからん父の名だとかなんだとかそういうのばっか言及される感じだけど実際にエクリも含めて見渡してみると奇妙な理論が出てくるのってほんの一部なんだよね。それこそラカンが語っていたり書いていることのほんの一部で他はまぁセミネールまだ読破してないけど本当に厳密な哲学というか言葉と意味合いとか概念とは?とか本当に哲学だよね。目線が精神分析というだけでほぼ哲学なんだよね。フォロワーとか学者の本がいかに悪いか?ってのがセミネールを読んで分かったから今後はオリジナルメインに行く感じですね。逆に学者がなんであんな分かりづらいもんを書いてたり異様な面ばかりを取り上げて理論化してるのかがさっぱり分からないんだよね。


臨床ってことだからなのかな?全然プラトンとかの言及とか無いしね。全編にわたってギリシャ哲学の話とかしてたりするのに学者とかフォロワーの本ってラカンの部分的なの取り上げてそれをドグマ化して理論化してあとはそれの言い換えと解説だけだよね。しかも超バッドな解説ばっか。だから意味分からないって言われるんだろうな。本人はすげー分かりやすく言ってるのに。まぁエクリはともかくセミネールはめちゃめちゃいいね。他も楽しみだけど「転移」はもう俺的名著っつーか殿堂入りした感じだよね。滅多にないぜこんなの。別にビッグネームだから贔屓にしてるとかじゃないんだよね。本当に素晴らしいのよ。愛とは?欲望とは?ってのがよくラカン学者の本に出てくるようなファルスがどうのとか父の名がどうのとかってことじゃなくて本当にそれが哲学的に語られてたりするんだよね。


それ言い出すとドゥルーズとかもそうなんだけど学者とかフォロワーの手によって部分的な概念がね、リゾームとかさ、でもああいうのってそれだけ取り出して来ても何もならないじゃん?ドゥルーズっつーコンテキストあってのものなわけだからさ、それでまぁそういうのを抽出して小難しくしてるんだけどドゥルーズ自身はすげー明快に語ってたりするんだよね。ディスられがちだけど。色々と語り過ぎて語りのモードが広くなり過ぎてややこしくなってるって感じなんだけどとにかく語ることでそれが生成になるみたいにドゥルーズは考えてたわけだし言葉自体が語られてないものへの言及も可能にするかもしれないみたいなことを言ってたじゃん?そこなんだよね。やっぱ。で、ドゥルーズ自体は哲学者である以前にすんげー優秀な哲学学者だし文献の理解とかすげー深いからねっていうかまぁスタートがそこなんだけどそれはラカンも同じだねっつーかラカンは天才肌だね。相当頭良かったんだなっていまさら分かった感じ(笑)


フォロワーとか学者に馬鹿が多いだけなんだっていうのが本当に理解できた。それはドゥルーズ然りだけどね。オリジナルをダメにしてるものってのがすんげーあるからあの辺はダメって言われちゃうんだよね。あとまぁ時代遅れとかもうそういう時代ではないとかね、いや、でもドゥルーズにしてもラカンにしても根源的にラディカルに考えるって意味でロールモデル的な思想家だし思考のプロセスがそのまま垣間見れるような感じになってるからその激しさとダイナミズムを感じられるんだよね。哲学の躍動感というかさ、エランヴィタールだよね。あとね、ドゥルーズの哲学がドゥルーズリゾームとかまぁガタリになっちゃうけど闘争機械とかさ、そういうのに還元されたりしないようにっていうかあれもただの語りの中で出てくる概念装置だからね。


そんなに重きを置くようなもんでもないしそこにバイアスがかかり過ぎるとドゥルーズ自体が持ってる思考のダイナミズムを捉えられなくなっちゃうよね。で、それはラカンも同じなんだよね。ぶっちゃけ解説書とか学者が書いてる理論的なやつなんて全く意味ないなって思ったねっていうかまさに還元主義やっちゃってるし分かりづらくしてるしでも読めば分かるけどラカン自体の思考はラカンの言説の中ですらも還元的にならないしフロイトが原理なわけでもなければラカンの諸概念が原理なわけでもなくて自由な語りなんだよね。他の哲学者が考えてたことをガーッ!と書くのと同じで思ったこととか考えたことを語ってるに過ぎないんだよね。だから良い意味で厳密ではない。だからこそ柔らかさと威力があるわけよ。理論に還元できないからそれは生の思想であり続けるんだよね。それをつかんだ俺はもう最強のラカニアンでしょう(笑)まぁ別にラカニアンになる必要ないけどすげー深く理解できそうでっつーかすでに色々と来てるのよ。哲学者と繋がったときに感じる「これだ!」という脳に直にくる感じね。それがまさに今来てる感じ。別にカリフォルニアロケットにしたからとかじゃなくてね(笑)


まぁそんな感じで昨日の続きね。


これって革命的な契機だよね。「自分を抑圧していたのはこれだったのか!」ということが分かってそれを克服しようとしたりとりあえず敵が分かることでやるべきことが明らかになるわけだよね。まぁそんなに一枚岩であるほど単純なものではないにせよ色んな意味である種の自己啓発的な契機を含んでるってことだよね。もちろんそれはそれが明らかになってそれに抗ったり克服しようとするかどうか?っていうのは本人次第だからそこは主体に託されていてまぁんでよく言われることだけど「いやだなー」と思いつつも現状を変えようとは思わないっていう無意識の抵抗とかがあったりしてそれが明らかになっていけばいくほど明らかにしたがらなかったり病院に来なかったりする患者もいるってことなんだよね。それは無意識的に従属を選んでるとか抵抗することで生まれる軋轢とか心の葛藤とか明らかになることで抽象的な不安とか絶望ってのが具体化することである種言い訳ができなくなってしまうからそれはなんかそういう兆候をもたらす「何か」っていうことにしておきたいみたいな感情が働くんだよね。対象Xとかって名づけるか(笑)


明らかになったほうがいいんだけど明らかになると本人にとって都合の悪いもんってことだね。例えばそれが根源的な生きることの虚しさだったり「やべー人生って意味なくない?」みたいなのも対象Xだよね。気づきかけてるしなんとなく分かっているけど蓋をしておいたほうがいいものだよね。そういうのを精神分析ってのはどんどん明らかにしていくわけじゃない?だから患者の抵抗があるのは当たり前だよね。なにしろその対象XがXじゃなくなって具体的なものとして顕在化するわけだから脅威ですよね。だからまぁ大なり小なりそれは意味論が必ず介在するものだったりするんだよね。


その人と実存の対峙であったり世界との対峙であったり親との関係だったり人間関係全般であったりコンプレックスだったり・・・っていうね、で、重要なのはフロイトとかラカンってのはそういうものを明らかにするために明らかになるかもしれないネタってのを文芸とか古今東西の哲学とか色んなものを引っ張り出して来て実験的に分析して仮説を立てていたってことなんだよね。そういう仮説を立てるためのアナロジーだったり何かにヒントを得るとかインスパイアされるとかっていうことなんだよね。


でも今の場合、何かを明らかにするためっていうまぁフロイトとかラカンだったらそれが精神だったり精神病だったりしたものをフロイトとかラカン自体を明らかにするとかそれに依拠して何かを分析するとかっていうそれ自体が自己目的になっちゃっててそれの補強のために色んなところからネタ取ってきたりアナロジー使ったりっつー本末転倒なんだよね。オリジネーター達が色んなところから色んなものを取って来たり文化人類学だとかの理論から色々と拝借してリミックスしたりとかしてたっつーのも明らかにしたい対象があるっていうところからのイノベーションだったわけだよね。明らかにしたい!ということに貪欲だったからこそ勇み足しまくって論理破たんとかも関係なく色々とやってたわけじゃん?そういう意味で知的に超アグレッシヴだし攻めてるしかっこいいよね。


でもフォロワーはどうか?っていうと彼らを教祖として教祖が言ったこと以外は認めないだとかなんでも教祖のロジックに還元するだとかっていう教祖がやってたことと真逆のことやってるんだよね。フロイトとかラカンがめちゃめちゃアグレッシヴでラディカルなんだとしたらフォロワーはすんげー保守的で権威的ってことだよね。まぁそれはマルクス主義にしてもなんでもそうなりがちだけどね。フロイトにせよラカンにせよ現代の神経医学とかで分かった事実とかを踏まえていたら恐らくは撤回していたこととかも相当あると思うんだけど権威化された世界に生きる人たちは逆にフロイトとかラカンが言ってたことを無理やりにでもこじつけて「間違ってはいない!」とかって主張することに必死になってるって感じだよね。


だから今フロイトとかラカンを読むんだとすればそれを絶対的なものとしてみなすんではなくてラディカルな思想家として読むべきなんだよね。で、自分がどう明らかにしたいものと対峙するか?ということへのヒントにするとか彼らの知的な激しさ自体に刺激を感じてそれを考える燃料にするとかっていうまぁミメーシスみたいなことだよね。あ、んでそうそうずーっと書こうと思っててすげー長くなったけど例のad hocっていうことなんだけどね、フロイトとかラカンad hocな話をするために文芸だの神話だの逸話だのから色々と話を持ってきて語ったりしてたんだけどそれはあくまでその対象におけるディスクール内ってことだよね。フォロワーがやってるのは逆で凄く狭いad hocなものを一般化してそれをサブカルチャーだの政治だの映画だのっていう評論の道具にしたり言葉遊びの道具にしたりしてるんだよね。それはすげーシリアスな問題として今ほど薬もない中で精神病ってどうしたらいいわけ?っていう中で生み出されたものの上辺だけを掬って言葉遊びしてるんだよね。


言葉遊び感が半端ないのは主にフォロワーのせいだと思うしオリジナルがラディカルな思想家のものでもアカデミアみたいな権威づけがされると一気に硬直化してクソになるのと柔軟性が無くなるっていう意味でオリジンの功績を貶めるようなことをしてるわけだよね。まぁそのままでは臨床で使いづらいとかっていう理由で色々と改良したいのは分かるけどそこまで理論に忠実である必要は無いしむしろそれを活かして何をやるか?だよね。まぁでも大体あえてフロイトとかラカンみたいなのを出して来ちゃうともうそれはいかにもなこじつけっぽくなっちゃうよね。だからまぁそういう意味で精神分析は死んだとかって言われてるんだろうけどまぁそれ言い出したら精神分析は最初から死んでるよね。


でもそれは制度とかシステマタイズされた精神分析においてなんであって精神という不可解で謎が多いものを考えるうえでのヒントになることは間違いないって何回も書いてるけどさ(笑)そこですよね。で、示唆的なのは「これはこれでこういう症状なんで病名はこうです。だからこの薬を出しておきます。んで様子見てください」的な診療じゃ心の闇を克服することはできないよってことなんだよね。かといっても別に精神分析が万能なわけではないんだけど精神分析が示唆するところは人間は意味論に生きているからどんだけシステマティックに病気が分かってどういう症状が出ていてこういう薬が有効だってことが分かっても扱っているのは心だからそこには機械的な世界とは程遠い人間臭すぎる意味論の世界があるってことなんだよね。そういう意味でのシニフィアンの連鎖なんでしょう。


もちろんそれを過度になんでもシニフィアンだとすることで記号主義みたいになったりとかなんでも象徴と解釈するみたいなこじつけが生まれちゃうんだけどまぁそれはフロイトとかラカンの時代ならしょうがないですよね。体系化するのに必死だっただろうし。でも今それやる必要ないよね。でも意味論に生きてるよねっていう示唆的な事実は変わらないよねってことだよね。そこでね、精神分析とかを読んでて思うのはっていうかフロイトとかもそうだけど自分の心でなんか分からないけどこないだ見た女芸人のネタが忘れられないとか顔が浮かんじゃうとかっていうのを自分の心における心象っつーかまぁそれを何かの顕在化として考えると恐らく引っかかる理由とかがあるんだよね。いや、無いかもしれない。でもあるかもしれないっつって考えるのが精神分析だよね。ないならないでいいしただインパクトがある女芸人だったからっていうような理由とかでもいいんだけど実は昔なんかで交流があっただれだれっていう人に似てるとかネタで扱っていたものが自分の幼少期の記憶における何々を象徴的に表しているものだ・・・とか色々とやれるよね。体系的には無理だけど仮説的にだけどね。


なんかそれが浮かぶってことは意味があるんだろうねって考えるのが精神分析なんじゃない?って思うんだよね。だからこそ被害妄想とかにしてもそれをただの脳機能の暴走とか機能障害とかとして考えるんじゃなくて徴候的なものとして考えるんだよね。まさにアルチュセールの徴候的読解だけどアルチュセールの徴候的読解が精神分析に由来するものだったかは忘れたけどまぁ明らかにそんな気がするけどそこを精神分析として考えるんじゃなくてアルチュセールの徴候的読解として考えると精神分析っつーイデオロギーからフリーになれていいんだよね。


ようは何かを表す徴候というのがその精神に現れたイメージとして現前化しているんだけどそれは何かの不在を表すイメージであったり無意識に抑圧している何かの強い心に影響を及ぼす作用素みたいなものの断片だったりするかもしれないってことなんだよね。合理性から考えると全然非合理的でそれこそ精神病者の妄想だからまともじゃないって意味で主体として考えられないんだけどでもそこに主体性を見出すわけだよね。当然ながらその妄想に意味があってそこに確信があるかどうかはともかくとしてそれは徴候なわけだからその症状を分析する絶好のヒントになるんだよね。そこを仮に「ただの妄想」としてたらすんげー勿体ないってことだよね。妄想ってのは何かの顕在化なわけだから。


っつーかまぁこんな感じでいいかなっつーか最近のパターンだとずーっと書いててトイレとか腹減ったとかで中断してんでまぁ相変わらずADHDだからなんかほかのことやっちゃって放置になって続き書くころには頭のモードが変わっているというね(笑)まぁこれもそんな感じなんだけどまぁどの道色々読んでるからまた続きに色々書くんでよろしくね。


ってことで今日はこの辺で。明日からは続き貼ります。