昨日のちょっとした続き。

続き貼ろうと思ったけど昨日の続きみたいな感じで書くけどさ、例の性関係とは独立した快楽なんだけどね、これってまぁ何気に自明なことだよね。でもこれってオナニーで代替できるからオナニーで済ませる人が多くなってる結果、性関係も含んだ男女交際が少なくなってる原因にもなってるってことなんだけどこれが示唆するのはまさにこの独立性なんだよね。で、これは一見「代替」で済ませているように見えるんだけどこれがまぁ昨日書いた重要なことで正常なセックスを基準にすると代替とかってことになるけどそもそもセックスとは独立した快楽なわけだから例えばまぁヴァーチャル元年って前に書いたけどさ、ヴァーチャルセックスなんて余裕でしょう。


で、それは本当のセックスとは違うけど本当のセックスとは独立した快楽を提供するのは間違いないよね。で、それは「いや、でも本当のセックスはこうなんだよ」って言っても単純な快楽という意味だと合理的にそっちのほうが良かったりするわけだよね。まぁそれでも俺がリアルに重要性を置いているのは究極の性における快楽は愛が伴った女性との関係性も含めた上でのオーガズムとかセックスってことだと思うんでそれは譲れないよねっていうかまぁだからそういう意味で最上級のものがそれであることは間違いないんだけどそれはまぁ高度ですよね。それってでも関係性っていうセックスとは別の次元での快楽があるわけじゃん?で、「一つになった!」みたいな感覚を得られるとかさ、まぁそれが愛のすばらしさではあるとは思うけどヴァーチャルセックスとか倒錯したオナニーとかってのはそれを頂点とするものに従属はしてないんだよね。それ自体で独立している性の快楽なわけで観念的なものだよね。


でもそう考えると究極のエロス自体が観念的なものでセックスは身体性が伴うからというよりかは観念的なエロスとロマン主義的な愛ってのが包括されているからそれで得られるオーガズムというのが特別なものになるわけででもそれってのは作用としては観念だよね。で、それは錯覚とか幻想も含めたものだよね。その時点では最高でも後になってその相手のことをより知るようになったら冷めたとかセックスで燃えなくなったとか馴化とは別に「あの時はなんだったんだ!」っていうような感覚を生み出すと思うんだよね。でもそれは「あの時」ってのが幻想も含めた上で観念的なエロスってのが成立してるからなんだよね。「こんな最高な女性とヤレるなんて!」みたいなことも含めた意味での幻想とか観念で相手を知るようになれば実は最高じゃなかったとか思ってたのとは違ったってことがあるんだよね。


だからこそそんなの知らないで幻想のレベルで勝手にエロスを限界にまで高めてセックスしたほうがその場での強度は凄いものになるっていう強度のために自分を騙すっていうことがあるよねっていうか大体そんなもんだよな。色々と知らないし知らない部分も「そうなんだろう」っていうめちゃめちゃポジティヴなバイアスがかかってる認知によって成立してる幻想だよね。だからそれは幻想だから現実を知るとぶっ壊れるわけだよね。


それはリアルな恋愛をしたところで根本的にそれは幻想と裏切りの構造だから結局は観念なんだよね。まぁそれも含めて恋愛とかセックスしまくらないと床だけに臨床データが得られないから考えてばっかじゃなくて実際に体験するってことが大事なんだけどね、まぁそこでロマン主義的にエロスを追い求めることで永遠に満たされない対象a的なものを飼いならすっていうね、まぁ飼いならすのは無理なんだけどね、まぁ下手すると青い鳥症候群みたいになるんだけどそこはまた別であくまで原動力としてのリビドーとしてそれを使うっていうことでそれが「いや、もっと良い子がいるかもしれない!」っていうような永遠とありもしない理想を思い求めるっていう意味でのダメな幻想にはならないってことだよね。


まぁでもあれなんだよな、モテてない!とかセックスできていない!ということ自体が不満になったりルサンチマンの原因になったりする場合、セックスってのは害悪ですらあるよねっていうかようは性関係を前提とするようなセックスって言わば規範じゃん?物語だよね。こういう男女のプロセスを経てベッドイン的なものをドラマだの映画だのなんだのっていうものによって植えつけられて「そういうものだ」と思い込んでるだけなんだよね。で、今はその物語が機能しなくなったり幻想をぶっ壊す女の本性みたいなのを露呈させるネットだのツイッターでのってのがあって女性嫌悪みたいなのも加速してるわけじゃん?まぁ俺も完全にそれだし長らくそれだけどそれだと人生がつまらなくなるから基本クソが多くても女性のすべてがそうなわけではないから過剰な一般化は避けて素敵な出会いを引き寄せるのだ!って思いながら生活していたりそれに向かっていたほうが生きようって気になるよね。まぁまさに生きるということの原動力ということなんだけども。


まぁんでクソが多い論になるとまぁ人間ってそういうもんじゃん?それ言い出すと馬鹿が多いみたいなのも大体構造は同じだよね。でもそれは単に蓋然的なものだし「多い」と「全て」ってのは全然違うからね。まぁそこでロマン主義的なやり方として仮に8割がクソでも残りの2割か2割以下のレアグルーヴをディグる!っていうロマンだよね。で、それは確実に存在するからね。でも出会えるかどうかは運というかあとはまぁ自分が引き寄せる努力をしてるか?っていうことにもなるしさ、まぁ場数踏むということでもあるしやる価値のあることだよね。「あーつまんねー」っつってやり尽くしたゲームをただ惰性でやってるだけみたいな最高なクソな時間を過ごすより全然いいんだよね。


ただでもそんな運ゲーでなおかつそんなに良い子だったら競争率半端じゃないよなっていうゲームに参加しないっていうのは成立しちゃうよね。負けないために勝てないゲームには参加しないっていう生き方ってのはあるからね。で、それは振る舞いとして賢いんだけどそこから無理にでも競争率が凄いところに飛び込むというゲームをやるのではなくて別のゲームを違った目線からやるっていう挑戦はできないものか?みたいなところではあるよね。


そこで重要なのがセックスが全てじゃないどころかセックスと享楽とは必ずしも一致しないし自分がセックスに求めるものとか性的な欲望に関してノーマルなセックスをすることでそれが満たされるとは限らないし完全に倒錯している場合、オナニーが究極の快楽でもあったりするから別に軸をセックスに置かなくていいんだよね。ナンパっつーとセックスするためっていう感じがあるけどこれってまぁかなり脆弱だよね。「ただのセックス」っていうものに目的を置くことで関係性は物凄く薄っぺらいものになったりするしナンパの先に何もないというのは賢ければ分かっちゃうからそもそもやろうと思わないよね。そういう意味で肉食の人は短絡的にナンパしてそれで満足できるんだと思うけど観念的な人はそれは無理だよね。


で、そういう観念的な人が「ただのセックス」ではない究極のセックスとか凄まじい強度を得るためのプロセスとか自己修身とかも含めた自己啓発的な意味合いとかね、まぁそれは相手を利用するということではなくてそういう関係を通してより人生の深みに達するということだよね。で、それは性愛のプロセスを経ないと分からないこともあるだろうってことなんだよね。まぁようは人間の心を知るって自分の心だけ分析しててもしょうがないし泥臭い人間関係の中で学んで行ったり知っていくっていうことが必要で人の心が分かるようになるとは思わないけどカッコつきの「人の心が分かる」っていうのはまぁ端的に人間関係の場数を踏んでるか?とか家庭を持ってるか?とか恋愛経験がどんぐらいあるか?とかっていうことだよね。そこを勉強だけやってると偏った偏屈な人間になりがちでまぁ実際学者とかそんなのばっかだからね。そういうのはすげー嫌だなって思うんですよね。


っつーか最近マジで時間無いんだよなやること多すぎて(笑)ちょっと更新が間が空いたりするかもしれんけどそこは勘弁っつーかもう書いたやつ貼ればいいだけなんだけどねっつーかだったらやれよって話なんですが。もう気が付いたら毎日朝になってんのよね。そんだけ時間を忘れてるってことなんだけど。


そんな感じで続きはまた明日貼るわ。んじゃまた。