ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

身体性を伴うランガージュについて。

続きをって思ったけどちょっと思ったことを書いたんでそれにしますね。


ラカン的主体というか欲望とは他者の欲望である的なこととか思うにこれは攻殻機動隊におけるゴーストみたいなもんだよね。体がロボット化している場合、身体と精神の連続性ってのが断絶されて精神と身体が独立したものとして振る舞っているかのように思えるようになるっていうこの連続性の断絶こそが主体の不在という名の主体なんだよね。体がロボットで精神は自分のままっていう状況のときにはその断絶性が凄く自明なんだけど主体の不在の場合、一般的な意味で言うところの主体というのは実は主体の不在であるっていう意味での主体なんだってことなんだけど、そういう意味でデフォで疎外されてるってことなんだよね。


なんでもラカンに還元するかはともかくとして例えば自分が欲望していると明らかに自明である主体性というのも実は他者の欲望をリファレンスとした模倣であったり他者が欲望しているのを見て自分も欲望するっていう行為体における意思決定というのが常にワンクッション置いているというか主体と意識ってのは断絶していなくで直なものだということは自明に思えるんだけど実はそこに断絶があるってことだよね。


そういう意味でこういう主体の不在っていうのは構造主義なんかと親和性が高いのも頷けるよね。その間接性という意味でではその主体の意思決定なり欲望するということがどう規定されているのか?っていうのがいろんな要素のintersectionによるものだったりね、でもこれが奥深いのは主体なんてのは無いのだ!とか疎外されているのだ!ということなのではなくて要素のintersectionとか他者の欲望の介在とかも含めた意味でのどこに主体があるのか分からないと認識した上で出てくる主体のawarenessというのがさらにまた主体の断絶を生み出すっていう断絶の連鎖を生み出すというところにあるんだよね。ここまで概念的ではなくても直感的にこれって気が付いてたりするんだよね。嘔吐のロカンタンが感じる存在の偶然性というのも完全に一致するかはともかくとして理知的な概念の産物みたいな主体の不在という概念が何気に実存主義的な「存在のなんでもない感じ」に繋がっているというところに普遍性を感じるよね。


何か意味があるとか必然性があるとかって思いたいんだけどそもそもが疎外されているので主体性なんて持ちようがないという意味での主体性の不在もさることながら仮にそうであったとしてもそんなもんは考え方だから「いや、これは主体性があることなんだ!」って仮に思っていても根本の存在の偶然性は乗り越えられないんだよね。「いや、これは主体的なことなんだ!」って思う意志は理屈っぽい主体の不在というものを認めないか乗り越えるように感じられるみたいなことを可能にするんだけど面白いのは意志がどうであれ存在自体の偶然性という属性は言わば所与のものだから変わりようがないっていうところなんだよね。


そこで諦めるというかそれを認識してペシミスティックになったりするってのがニヒリズムだよね。でもこれは主義とか思想なのではなくてある種の客観的事実なんだよね。で、そこでニーチェにせよスピノザとかにせよ力とか意志みたいなのをキー概念とするような哲学者がなんでそこまで力とか意志というところにこだわったのか?っていうのが簡単に言っちゃえばニヒリズムの克服というか超越なんだよね。でもそれは超越するための思想!とかではなくて主体の不在という根本的な属性を認識したうえで主体はどうしていくべきなのか?という意志の選択を求めるものなんだよね。そこでニーチェとかスピノザと言わずプラトンにまで遡ってもそれは結局、その意志の選択とか主体の不在という現象に自明であるからこそ生まれてくる根源的な生のパワーっていうのがあってそれってのがつまりはエロスということなんですよね。


主体は身体と切り離されているとか意識とも切り離されているとか色々と言えるけど仮にそうであっても意志のエロスというのは物理的制約を受けないからね。ようはそれ自体を求めるということに身体性を必要としないということなんだよね。でも結果的にそれを渇望するということ自体が身体性の獲得に繋がるんだよね。主体の不在という事実は変わらないにしてもそういったことへの気づきがあるからこそエロスを軸として主体性の確立を目指すっていうような、ようは主体の不在という事実との共存の方法なんだよね。それを乗り越えて不在という事実を無くすとか乗り越えるということではなくてそれを自明なものとして受け止めたうえで決められる意志のコミットメントだよね。むしろロマン主義的かもしれないけど人間に内在しているエロスをprovokeさせることでしか人間は主体性を得られないと言っても過言ではないかもしれないよね。主意主義的でなおかつ主知主義的なんだよね。


で、それには身体性が必要不可欠であるっていうね、人間という性質とか身体とか感覚とかけ離れたところで意識だけでエロスをprovokeさせるというのは不可能でそれは人間が人間であるという制約からこそ発生しているprovokeの条件なんだよね。で、そこで攻殻機動隊とかの場合、体が機械なんで精神と体との断絶というのが自明なんだけど今書いた主体の不在というところで言うと実は普通の人間もそれは同じなんだっていうことだよね。つまりはエロスというのは身体と意識との連続性を必要としないんだよね。でもそれは体が無くてもエロスは可能ということではなくて人間を人間たらしめる身体とか環境とか社会とか他者っていう諸要素を必要不可欠なものとして可能とするんだよね。だからそれは体がロボットだったり一部電脳化していても可能なんだけどでもそれは限りなく身体に近いそのままでは体が実は義体であるっていうことに気が付かないぐらいの状態じゃないといけないんだよね。


まぁあくまで「そうあってほしい」というモデルだけど主体の不在から主体性を取り戻すという運動体としての主体ってのは常にそのエロスに導かれているプロセスの最中でなおかつそれは有機的に色んなものと関わっているっていうまぁ帰結をシステム理論にしたりする必要はないにせよでもまぁホワイトヘッド的な意味でのプロセスにある有機体だよね。まぁんでナンパの実践というのはまさにそのプロセスにある自分という有機体なんだよね。もちろんこうやって考えてなんか書くこと自体ですでにそれもプロセスなんだけど重要なのは「環境と共にある」ということで相関するプロセスの要素としての外部というのを内部に取り入れていくということだよね。


まぁそんなの元々所与のもんであるっつっても実はそれが主体性とかどういう主体か?ということを規定する生成的な構成要素の一つだから逆に引きこもり過ぎるってのはその構成要素の複雑性とかエントロピーみたいなのを下げちゃうっていうことにもなりかねないんだよねっつってもまぁそこはバランスなのと外っつってもまぁそれも関わり方次第なんだけど一気に話が飛んじゃうようだけど右翼がテロとかをやるときに「肉体言語」って言うけどこの身体的言語っていう感覚だよね。まさに俺のナンパの実践もそういう意味で肉体言語なんだよな。身体性を伴うランガージュだよね。


で、行うこと自体がディスクールになるっていうプロセスだよね。むしろこれが無いと思想なんてもんは成立しないんだと思うしそういう意味で常にpraxisってことなんだよね。でもそれは常にプロセスの中にあるし色々とインプットしたうえでの肉体言語でしょうっていうことでもなくて行うこととインプットすることってのが同時に行われるんだよね。それがまさにプロセスの最中にあり続けるっていうことだし有機体っていうのはそういうものだよね。そこで生成的であるというよりかは生成的であるということを渇望する態度だよね。それは「生成的になった」みたいに達成されるものではなくて常に原動力としての願望とか欲求としてそれが動的エネルギーになるんだよね。


で、それは知的な意味でのエロスとかに限らず肉体的なエロスから観念的なものまでいろいろなものを含んだエロスなんだよね。だからその根源的な動的エネルギー自体が肯定できるものじゃないといけないしそれが下種なもんだと結局はそれが主体が下種になるっていう結果を生み出すんだよね。でもこればかりはコントロールが難しいし人間性みたいなところなんでやろうと思ってできるもんではないけどでも生の肯定ってそういうことなんだと思うよね。まぁベクトルというかdispositionというか言葉としてはdispositionってのが一番しっくりくる感じはあるけどね。人間的な実存とか存在のあり方と可能性っつーかまぁ蓋然性という意味での可能性というのが内在されてるもんね。


まぁそんな感じですわ。続きはまた貼るね。んじゃまた。