ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

今日はコラムです。


「コラム」っていう響きがなぜか好きで「今日はコラムです」っつっていつもの続き以外のことを書くことで続きを維持するみたいなのをやりたいなーと思って気持ち的に例の続きが仮に途絶えたら死ぬみたいな感じでいるんだよね(笑)


まぁそんな感じで今日はコラムなんですけども思うのが消費っつーか金を使うことについてなんだよね。何かと言えば貯金がいくらだの何歳まで貯金が無いと詰むだのなんだのって何歳まで生きるつもりなの?っていうかそもそも90歳ぐらいまで全部自力でやって生きようって思ったら老後のための生活資金を貯めるだけの生活になるよねっつーか若いうちから老後を考えるってどうなのよ?って気がするんだよね。なんでこんなに暗いのか?俺は単純でどうにもならなくなったら死ねばいいと思ってるんでこういうところは全然困らないんだよね(笑)いや、これってエンドレスですよね。


何かあったときに困るってことを言い出したらキリないよね。もちろん貯蓄があるに越したことはないけどお金も使いつつ貯蓄なら分かるけど元々そんなに多くない収入の中でカツカツっつー中で貯金もするから使える金が無くなるとかってもう最高にファックですよね。まさに死に金だよね。あと若いのに定年後でもやれそうな仕事を得るための資格を取っておくとかさ、いや、もっと今を楽しもうぜ!って思うんだよねっていうかそんなこと考えながら生きてて楽しいのか?っていうかそんなこと考えてるからすぐ「もうだめだ」って思って自殺したりするわけでしょう。


いや、だからあれなんだよな、数か月でいいからアメリカとかに行ってみてほしいんだよね。で、ホワイトトラッシュみたいなのを間近で見てほしいんだよね。もう本当にゴミだらけですよあの国(笑)よくこんなんで大人としてやっていけてるよな!ってやつが大半なんだよね。だからなんかどんだけ景気が悪くてもなんとかなるだろうっていう感じがアメリカにはあるんだよね。日本だとその「なんとかやっていける」のスタンダードが高すぎるんだよね。何かあったときにでも貯蓄があってなんとかなって老後もなんとかぎりぎりやっていける・・・っていう貯蓄が数千万無いともうダメみたいな基準じゃん?それが高すぎるからプレッシャーになってストレスになったりするんだよね。あと貯金をずーっとしてるのに不安が収まらないとかもうその時点で死んでるようなもんだよね(笑)


アメリカのあの馬鹿さ加減って学ぶところが多くてまぁローン大国でもあるけどあの馬鹿みたいな消費ってのは学ぶべきところはあると思うんだよねっつーかローンだらけなのにまた家電買うか!っていうさ(笑)まぁ借金することを薦めるわけじゃないんだけど将来のために貯蓄しておくっていうのを老後にしてほしくないんだよね。いや、それ言い出したら旅行とかにもいけないしデカい買い物とかできないしそれこそ海外とか行けなくなるじゃん?どうなるか分からないってことを根拠に不安ベースで金を貯蓄し続けるなんて完全に国が腐るよねっていうか文化が腐るよね。


極端だけど使い道がギャンブルだろうがホスト通いだろうがキャバクラだろうが金使ってる分にはいいよね。まだマシって言えるよね。最悪なのは全く使わないってことだよね。っつーか貯金禁止にしたほうがいいと思うんだよねマジで。っつーか老後の不安ってのを無くしたほうがいいんだよねっていうか老後が心配ってエクストリーム過ぎるんだよね。不安が。まぁ五年先とかのために貯めておくとかならいいのよ。ただまだ20代なのに老後考えてるとかもう形而上学ですよ(笑)


まぁ老後になんか田舎になんか建てて暮らすってのが夢っていうのとかはいいんだよね。まぁ問題はその夢を先送りにしたり老後にすることで現在の夢とかリアルの生活自体の退廃を見直さないとかさ、貯金できてるってことをエクスキューズにリアルのクオリティ考えないとかさ、そういうのが最高にファックだよね。なんかね、別に消費に限らずなんだけど例えば年間にフェスとかライブ行き過ぎるから出費が膨大でほぼ貯金できてないとかこれって最高ですよね。ライブとかフェスっていう体験と何より現在を大事にするっていうことにお金を使ってるじゃない?もちろんそれが日々のクソな要素に耐えていけるものだったりまぁようは生きるってことですよね。生きるためにフェスに行く!とかライブに行く!とか飲みに行く!とかさ、まぁよく俺は飲み会とか馬鹿にするけどそれが付き合いとかならともかく能動的に飲みたい!って思ってるならそれはいいんですよね。


問題は形而上学ですよ。老後というね(笑)っつーか逆に自分の話しちゃうと俺なんかは日々生きていくのに大変っつーか生きて行こうと思える素材探しみたいなもんだから老後まで自殺せずに生きていられているのか?っていうことなんだよね。別にその原因が絶望とかじゃなくて退屈とかでもヤバいわけよ。だから常に刺激を探さないといけないしまぁ今の図書館通いとかナンパとかなるべく外出するっつー外出モードもその一つだしね、あとまぁ洋服屋回るとかってのも精神の健全性のためだよね。だからそれで金を使うなんて当たり前なんだよね。まさに日々生きていくために金を使うってことだよね。逆に思うのが老後って言うけどその貯金とやらを使うことになるまで生きていられるっていう根拠がどこにあるの?って話だよね。事故で死ぬかもしれないし病気になるかもしれないしっていうかまぁその病気になって医療費がかかるとかっていうそういう心配って意味じゃなくていつ死ぬか分からないってことだよね。


あと永遠とくだらない緩み切った日常が続くってのも死の原因だよね。だからそういうものから遠ざかるっていうかさ、でも常に死を意識するってことなんだよね。逆に例えばすんげー可愛い子に抜いてもらうとか「いやーもう今死んでもいいわ」って思える瞬間を作るってことだよね。まぁその瞬間を常に作り続けるってことをやろうとするとそれは無理でそれは自殺に繋がるからやめたほうがいいんだけどポイントを作るってことだよね。「あー死んでもいいや」って思えるぐらいの強度の点を作るってことだよね。そういう点に生きてるわけじゃん?老後を心配して貯蓄するっつー考えってリニアだよね。当たり前のように今が続くと思ってる。でもそんな線じゃないでしょう。いきなり連続性が断絶されることにもなるっていうか自分たちが連続性だと思っているものってのは実はただの点の繋がりなんだよね。それこそ光みたいなもんなんだよね。極限まで見て行けば質量ゼロだけどそれを一応点としておかないと光として見たときの波っていうのが形容できないというかね、人生ってそういうもんだと思うんだよね。


まぁその物理の話とかを抜いた主観的な体感としての現在とか今とかっていう感覚ってこの質量ゼロの点みたいなもんなんだよね。ただまぁその「今」をmaximizeするために破たんしてもかまわないとかそういう極端なもんじゃなくてね、ただまぁなんつーのかな、簡単に言えばメメント・モリってことだけどとりあえず今を楽しむ必要があるっていうある種の義務だよね。自分で自分の人権守るみたいなそういう意味での義務ね。それが結局は生存に繋がるわけじゃん?俺なんかは最近本当にそれを感じてるよね。いかに日々生きるか?ということが結果的にずーっと生きるという結果になるわけだよね。逆に日々が死んでればそれは死んでるし死んでる生こそ惨めなものはないしつまらないものはないからそうなったらやっぱ死ねばいいと思うんだよね。でもそれは能動的な死だよね。でももちろんいつも書くようにそんな風になる前に努力はしろよって話なんだよね。楽しむ努力っつーか楽しくするための工夫だよね。そんなの考えなくても日々楽しいって人はまぁそれでオッケーですよね。


なんかやっぱそれって老後の蓄えなんかよりもよっぽど大事なことだよね。あとまぁ楽観的に考えれば近い将来に65歳以上は任意で安楽死が可能になる施設とかができてるかもしれないしね。まぁ海外にできたらそのために行くとかさ、なんかしらもっと楽に死ねる方法はできてると思うんだよね。たけしも冗談で言ってるけど自分が仮に都知事とかになったら65歳以上はドラッグやりまくりオッケーの安楽死施設を作ります!って言ってたけど意味合いは深いよね。全然そういう意味で冗談じゃないんだよね。たけしもシリアスにすんげーそれこそ自殺とかまで考えるほど思いつめる考え自体の深みがあるからああいうことを冗談として言えるんだと思うんだよね。実際は凄く実存的でプラクティカルな含蓄があるよね。


無駄に長く生きようとするから色々と問題になるわけだよね。無駄に金かかるし何より年老いた自分ってのをなんとかするっていう自分の将来の介護をする自分みたいなのが現在にいるっていうことになっちゃうじゃん?それって先を見ているようで何の生産性も生み出さないっていう意味での過去に生きるみたいな意味でのネガティブな感じだよね。今ってのは過去からも未来からも独立してるわけじゃん?そこを過去もそうだけど未来に縛られて今を生きるってのも過去に縛られて生きるのと同じぐらいファックなことだよね。


あとあれなんだよな、認知症のドキュメンタリーとか見てやっぱり配偶者がいないとダメだ!とかって思うとかさ、こういうのも最高にネガティブだよね。なんで認知症になるっていうことに縛られて現在を生きたり結婚しておかないとやばい!っていう考えになるのか?って話でしょう。あと仮に結婚しても認知症になるぐらいまで結婚生活が成り立ってるかも分からないわけでさ、そういう不安ベースとか老後ベースみたいなのって何も生み出さないよね。色々異論はあると思うけど今楽しんでないといきなり死んだときに最高に損をするよね。だからそこは思考実験的に任意で自分の死を決められるって思えばどうか?ってちょっとぐらいは考えてみるってのはありだよね。自分の身体を寿命まで維持しなければいけないなんていう義務はないんですよ。ダメになったら終わりっていうそれも一つですよね。まぁ健康でずーっと楽しく長生きできればそりゃそれに越したことないから別にむやみに自殺を薦めるわけではないんだけどね。


逆になんでそこまで生に執着するのか?って思っちゃうんだよね。その執着が今の苦しみを生み出すわけでしょ?どうなるか分からないっていう不安とか老後の不安とか最高にくだらない不安の数々を生み出すことになるんだよね。だったら別にそれを手放すっていう発想があってもいいでしょってことだよね。少なくともそれで今使える金が増えるとかもうちょっと楽しく生きられるなら是非そうしたほうがいいよね。若いころから老後を不安に感じ続けて貯金してる人生なんてロクでもないし俺が言うのもなんだけどそれってある意味異常だよね。生への執着が異常過ぎる。生きるということよりも活きるっていうactivityって意味での生きるっていうことを中心におかないでどんな生があるんだ?って思っちゃうんだよね。


あとなんかその形而上学的なことを考えて思考とかパワーを無駄にしている分を日々を充実させるとかより生を良いものにしていくとかそういうところにエネルギーを費やしたほうがいいって思うんだよね。若い人が老後のことを心配するとか文明病だよね。昔は50ぐらいで死んでたからそんな不安なかったんだけど今は無駄に90まで生きちゃうっつー不安があるわけだよね。なんちゅー不幸なことだ!って思うんだよね。っつーかマジで考えてみてほしいんだよね。あー楽しかったー!っつってさ、いやー飲み過ぎたなー!あーでもちょっとシャワー浴びて寝たいわーっつってシャワー浴びたら酔ってるのとかあと疲れが溜まってたんだけど酔っぱらって気が付かなくてその状態でシャワー浴びちゃって心臓に負担がかかり過ぎて心不全で急死とか普通にあるじゃん?逆にそれって救いだと思うんだよね。


誰にでもそういういきなり即死!みたいなダークソウルみたいな共通要素があるからこそ90まで生きられるなんつー根拠は無い!って言いきれるわけじゃん?どうせ90まで生きちゃうってのが確定してたらそれは逆に不幸だよね。いつ死ぬか分からないからこそ今を生きるっていう強度の思想が活きなくなるからね。自分の寿命とか将来とかを知らないほうがいい的な話の教訓ってそこだよね。それは完全に色んな意味で今の生は過去からも未来からも独立しているから現在を束縛するものなんて存在しない!っていうことなんですよね。だから死は救いなんですよね。いつ死ぬか分からないってのは恐怖であると同時に救いでもあるってことだよね。どんだけ成功してて誰からも羨ましがられるような人とかだって不治の病にかかっちゃえば死ぬわけじゃん?これほどの平等はないよね。別に「それでもあいつはいつか死ぬんだ」的な根暗みたいな発想じゃなくて今を生きるっていうことに死を有効活用するってことだよね。そういう意味で死ってのは全然忌むべきことでもなんでもないんだよね。


割とどうでも良さそうな話から壮大なスケールの話になるっていういつものウォール伝のパターンが出たっつーか最近シリーズ化してるからこういう短編もいいよねっていうか狙って書いたわけじゃなくて結果的にそうなっちゃったっていうまさに人生と同じような感じで意図せずにそうなっちゃったわけなんですがおあとがよろしいようで。いやね、ヴィクトール・フランクルの本を立て続けに読んでて色々思ったってこともあるんだけどまさにヴィクトール・フランクル的な意味での実存とかって意味でも生きるってことの尊さが前提条件もなしにそれだけがアプリオリな踏み入れてはいけない聖域としてあるじゃん?そうじゃないんだよね。質とか自分で納得してるかどうかっていうこととかそういう複合的なところも含めた生ですよね。


そういうのを抜きにしてそれでも生きるってことは素晴らしいんだ!なんてただの理想論ですよ。あとまぁヴィクトール・フランクル自身はそうじゃないにしてもでも何気に言ってることがニーチェみたいなエリーティストと同じなんだよね。「生きるに値するだけの器を持った人が」っていうのが暗黙的に了解されちゃってるんだよね。逆にそういうものがアプリオリに規定されてないと論理破たんするもんね。あんだけ現実を見てきたヴィクトール・フランクルがそんな理想論語るはずないわけでまぁだからこそそれでも人生にyes!って言えるような生を生きましょうっていうことなんだよね。そういう意味で洋物のセックスとかで「Oh! Yeah! Fuuuck!! yeaaaaah! YES YES YEEEEES!」とかって言ってるのって最大の生の肯定の瞬間だよね(笑)生殖活動と快楽活動とまさに人間としての生の要諦を満たしまくってるからあんなにYES!!なんだよね(笑)


で、ファックして子供残してれば遺伝子を残すって意味でリスクヘッジになるからいいだろうっていうまぁそういう生物学的な根拠とかがあるわけよね。まぁ実際は子供を作ろうとはしないっつーのも子供ってのが自分の生の足かせになることが多いからっていうことなんだけどまぁでも人間がファックにあんだけイエスを感じるってのも神のギフトだと思うんですよね。それは死と同じくね。実際に死を身近に感じた男ってのは死に際のゴキブリの如くいきなり性欲を高めて子孫を残そうとするらしいんだよね。そうなのよね。だから今俺が色々と考えたり読んだりしてる上で重要な欲望とか欲動ってのも凄く死ってのがレバレッジみたいに働いてるんだよなって思ってるんですよね。すげーそれって素敵なことだよね。


忌むべき死というのが実は生に潤いを与えるものになってるなんてなかなか生と性の奥義だと思うんだよね(笑)フロイト的な意味での死の欲動ってのは論理破たんしてたり意味無かったりするけど含蓄としてはそういうところだと思うよね。そこはやっぱ文字だけ読んでてもしょうがなくてやっぱ概念っていうところだからね。だからエロスとタナトスっていうことになるわけでしょう。理論化する際にうまくいかなかったりやろうとしてダメになったりしてんでも色々と言いかけたのが無駄に残っちゃったってのはあるにせよ奥義のところで言えばここですよね。まさに急所というやつですよ。まぁ別にフロイト読んでインスピレーション受けたわけではないんだけどね。


あーなんか読んでるばっかじゃなくてこうやって書くのっていいよねーやっぱ。気持ちいいわ。これもまぁやっぱ快楽だよね。個人ってのがある時点でそれはもうすでに主体性というものの囚人になってしまっているからその主体性に従属するのではなくて主体性において常に自分がマスターじゃないといけないんだよね。だから生きるも殺すも自分次第という権限を自分が持っていなきゃいけない。自分がマスターであるからこそ死すらも選ぶことが可能だからこそ主体自体の囚人にはならなくて済むわけだよね。逆に死ということがない場合、それは絶対的な生というアプリオリなものに主体性が規定されてしまうから自ずと自分自身が主体性の囚人になっちゃうんだよね。で、老後だのなんだのっていう生に従属しているが故の一種の生のヒステリーとでも言うべき俺が本文で「形而上学」って書いたようなことにまで主体が悩まされてしまうっていうことなんだよね。


いや、その「老後」を「神」とか「天変地異」とかに置き換えても同じじゃないですか?(笑)基本的に生を縛る主体を従属させる不安ベースの権力みたいなもんだよね。「いや、別に任意で死ねるし」ってことがいかにsubversiveなことか?ってことだよね。アメリカとかが日本の武士道とかの思想にヤバさを感じたのもそれこそ欧米的な主体性の概念からは想像もできないような生のあり方があったからだよね。だからそんなヤバいもんは認めるわけにはいかん!ってことになったわけだよね。まぁでもメメント・モリってのはオリジンがいつか分からんけどまぁめっちゃ古いもんって意味では普遍的な格言なわけだよね。そういう意味で形式は色々と違えど死は救いの一種になりうるって考え方も一つでしょう。まぁハイデガーなんかも言ってるように結局人間にとっての死ってのは概念でしかないからね。まさに生かすも殺すも自分次第ってところなわけですよ。


まぁそんな感じで今日はこの辺でいいかな。んじゃまたね。