ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

またコラムです。その3。

あ、んでそろそろやめるけどねっつーかまぁまた今度書いてもいいんだけど最近ほりえもんすきやばし次郎のDVDに対して10年で卵焼きが焼けるようになるなんてバカバカしいっつーコメントをしたのが話題になってたけどっつーかそこでこれってまさに最近色々と考えてたこの「消費」そのものにまつわることだよなと思って早速そのすきやばし次郎の映画見たんだけどね、まさに寿司屋ってこれだよね。いや、今書いてきたことそのものだよね。別にネタなんつっても出所は海でどこも一緒だし少なからず来る人はその店自体のステータスとか「銀座の寿司屋」っていう記号とかを消費してるわけだよね。


あとまぁ高いっていうことがよりステータス感を高めるってのもあるしまぁ本当に洋服と一緒だよね。で、まぁ映画見て思ったのが無駄とも言えなくもない期間修行しないと握らせてもらえないというところで保ってる威厳とかブランドの建前だよね。それこそ寿司スクールみたいなのに三か月行っただけで寿司屋をやるなんてとんでもない!って職人は思うかもしれないけどそれって都合の悪い面があるからだよね。ぶっちゃけそれだけでやれることも多いからだよね。それこそそれがマニュアル化ってことでまぁアルゴリズム化すればいくら職人の技!と言えども全部は数字とかなんかの比率で表せるわけだしそれってまぁファストファッションとかもそうじゃん?元が職人が培ってきた技であったにしても合理化してマニュアル化すればそれだけで伝わらなかったりする暗黙知の次元が多いわけだけどでも表面的なところではそれでなんとかなる面も多分にあるんだよね。


まぁ俺はあれだけどね、映画見て思ったのは独特のせりのかけ声とかさ、あとまぁコネだよね。この人なら信用してこの人からの素材を買える!っていうバイヤーとの強い絆だよね。まぁそれはすげー日本的っていうかアジア的なもんだよね。良い意味で閉鎖的で部外者とかが合理性で入ってこれる世界じゃないからこそ保てる質もあれば職人にとって都合のよいブランドを維持できる要素にもなってるわけだよね。あとまぁ絵に描いたような時代劇にでも出てきそうな米問屋が映画に出てくるんだけど「ちゃんと飯炊ける店じゃないとうちのコメ卸したくないですからねー」みたいなこと言ってて笑えたんだけどさ(笑)


まぁんでどっかの有名なホテルだったから「うちにもその米くれ」って来たらしいんだけどそんな他から来た口だけのやつにうちのコメは出せないし口だけじゃコメは炊けないですよねー旦那ーみたいなすげー江戸前な感じなんだけど(笑)悪くないよね。not badどころかまさにこういうところが排外的と言えばそうだけどなんでも合理性でシステム化しようとするある種シンボリックなグローバリゼーションっていうのに抗えるローカルな力だよね。まぁその米問屋が金積まれまくって他にも卸すようになったら別なんだろうけどまぁでもあれじゃんね、その次郎さんが培ってきた色んなもんだよね。それがあの寿司屋ってのに凝縮されててそういうもののエッセンスなんだよね。


だからまぁそこで食べるということは観念的なことでもあるんだけどでも俺が「これだ!」って眼鏡を買ったときに感じるような「ここで買えてよかったな」的な自己満足と言えば自己満足なんだけどまぁでもそれ言い出したら食べるとか消費すること自体が自己満足だからでもまぁそういう満足感も満たせるっていうスノッブ的なところのサービス要素ってのもあるわけだよね。だからその次郎さんのコンテキストってのを分かって食べにくる人もいればステータスとして食べにくる人もいれば色々な人がいるんだけどそこがまぁ記号とエッセンスと消費のされ方っていうある種の解釈学的なところとかさ、そういう複合的なところになるわけだよね。ただまぁやっぱりなんつーかまぁ卵焼きに10年って話はともかくとしてなんでも解体して取り出して来て合理的に安価で提供するっていうところに違和感を感じるってことは必要だよね。そこは合理性だけじゃないじゃん?やっぱ技とかそりゃ盗めば同じものを作れるかもしれないけどそりゃ盗んだもんでしょ?とかさ、いや、若干高くてもやっぱオリジナルのほうがいいよ!って思う心理なんじゃないかな?って思うよね。


まぁあとやっぱり暗黙知の次元だよね。特にああいう職人の世界特有のものではっきりいって寿司食うだけじゃどうでもいい話とか食べても分からない話ってのが職人の世界にあるわけだよね。で、それは合理性だけじゃない精神性とかも含めてってところなんだけどさ、まぁでも負の面もそりゃあるとは思うけどでもまぁ卵焼きに10年というところだけ見て批判するのは的外れだよね。そういう独特の世界の中で一言で言えば卵焼きに10年ということになるんだけど実はそれだけじゃないっていう世界の話なんだよね。まぁそれが良いかどうかは別だけどね。まぁでもそういう独特の職人の世界とかって観念的なもんだし別に寿司握るだけならそんな何十年もかける必要ないよねって言うのは簡単だよね。でもそれはただの一面でしかないよね。


まぁあとその職人の世界の是非とか非合理性とかはともかくとしてでもまぁ次郎さんが究極的な合理主義者ってのは本人はそういう観念的なものを作り上げるっていうブランディングっていうところにも無粋な言い方かもしれないけど意識的に分かってるしそういうところにお客さんは金払ってるって要素もありますでしょ?ってのが分かってやってるんだよね。もちろんそれはただの結果そういう合理的なことになったっていうことなんだけどまぁでもんで自分が居れば店が成り立ってブランディングも成り立つし別に自分が握らなくてもお客さんは来てくれるんです。だから一番得をしてるのは僕なんですって冗談半分に言ってたけど別に冗談じゃないんだよね。それが本当のことだからね。


結果的に乗せられるのがほかの代替可能なものでは代替できないというところではまさに本人とかその店っていうブランディングのところなわけでさ、そこを乗せてるからああいう値段なんだよね。まぁもちろん手間暇かかってるしブランディングのためだけに高い値段にしてるっていうことではないけどね。まぁでも色んな意味で寿司屋っつーかまぁああいう職人の世界とか暗黙知の次元とかね、で、それは裏方の話なのにでも結果的にそれが付加価値を帯びるようになって人がそれを消費するようになるみたいなこととか別な意味での物象的な唯物論っぽいっつーかさ、物神崇拝だよね。


でもそれは物神崇拝だ!と馬鹿にするのは簡単なんだけど一概にそうとも言えないというか結果的に物神崇拝的なことになっているにしてもそれが物神として崇拝されるという、それが物神として対象化されるというところに本質があるよね。まさにその本質があるからこそ物神崇拝が成り立っているしそれをそれこそ「テイスト」とか「違い」とか「本物の職人の技」とかっていう個々がそれを消費する際に物象化して物神化する観念のプロセスってのがようは個々の考え方とかどこに金を出すか?っていうところに通じてるからだからそういう意味で崇拝といっても教祖的な意味ではなくて「だから凄いんだよね。だから金を払うんだよね」っていうところに納得して払っているという意味で物神化されているっていうのがポイントだよね。


これってまぁ規模は小さいけど俺がさっき眼鏡の話でした観念的で自己満足的だけど「ここで買えてよかったな」って思える要素ってことだよね。で、まさにこれって店が店である必然というかさ、それが全てではないけどそういう固有の価値を持っている店というのは潰れないし消費自体がネットで同じものを買うとか同じ寿司を注文して食べるっていうことでは代替不可能っていう意味で固有性があって価値があるわけだよね。でもそれは価値があるんですというイデオロギーなんじゃなくてそこに価値を認められるというところに価値があるっていうことだよね。まぁあとそれは価値のすべてを表すものではなくてそれも価値の構成要素の一つという意味ね。まぁんでそれこそ日本的な数奇だとか粋だとか雅だとかっていう価値とか美学とか美的感覚とかってそういう観念的なところに内在してるもんだよね。


まぁそれこそホリエモンみたいなテイストが理解できない人には一生分からないような世界だよね(笑)まぁこういうのはダサい意味での唯物論だよね。テイストを理解せずにあとはその価値自体がなぜ生じているのか?ということを検証せずにただ合理性だけで判断してダメだ!とかって言うのは野暮の極みじゃないですか?超ダサいよね(笑)でも別にそれは次郎を評価することがかっこいいということを意味するわけじゃないんだよね。ようは短絡的で表層的な物事の理解と判断ってのがダサいってことなんだよね。まぁそれが一番最初に書いたポケモンGoの話にも繋がるんだけどね。まぁあと単純に合理性というところから見ても次郎さんは究極の合理主義者っていうところも含めてホリエモンより何枚も上手だからだからまぁホリエモンがダサいわけね(笑)


って感じでこの長くなった短編コラムは終わりなんだけどっつーかひと段落した感じなんだけどなんでもマニュアル化っつーかようは「テイスト」とか「粋」とかされるところまでも分析して分解して数値的に理解してマニュアル化とかレシピ化するみたいなところに違和感を感じないといけないっつーか大半の人はテイストとか粋を理解してないから無粋なやつが無粋な上辺だけを取ってきたようなサンプリングをしてもその元が粋とされるものだったら表層的な意味でのパッと見は素人には分からない世界ってことになるんだよね。そういうもんに飼いならされちゃいけないっつーかまぁ通でありなさいってことに尽きるんだけどでも高橋悠治小林秀雄の述べるモーツァルトの楽しみ方ってのが骨董マニアがマニアにしか分からないようなツボの価値みたいなのを薄汚い地下室で目出ているような不気味さとかになっちゃいけないんだよね。


通とか粋とかってそういうスノビズムと表裏一体だし小林秀雄もさることながら世間的に評価されてるエッセイストって大体そんな感じだもんね。それは大衆の思う「通」とか「粋」ってのを想像可能な対象として抽出して述べているように見えるから理解しやすくて「粋な世界だな」って感じられるっていうことが概念の伝達性を表してるっていうかそれがまぁ安易だからこそ大衆に支持されるんだよね。「分かる人には分かる」というのも本質的な意味でのそれとコピーライターが書くような安易でコマーシャル的な意味でのそれとは全然意味が違うからね。


で、すきやばし次郎の話に戻ると消費のされ方という意味では多義的なんだよね。それはスノッブなやつらがステータス感を出したいがために消費する場合もあれば本当の通が来る場合もあれば色々でまぁそれも含めた物象化と物神化なんだってことなんだけどそこで押さえておきたいのが本質的な意味での「分かっている」っていう意味でのテイストの部分だよね。それが分かってない人が多いから文化はダメになるし上辺だけのものを取ってきたような魂がこもってないようなもんでも違いが分からなくてようはコピーと本物の違いが表層的なレベルでは分からないっていうことになっちゃうんだよね。でもまぁ「テイスト」ってスポイルされやすいよね。本来はそれが理解できるのは変な奴らとか変わった感性を持った人たちで人種的にはマージナルで社会適応性とかがゼロっぽいような人たちの世界だったりしても一旦それが社会的に認められると一気にそれがステータスになるじゃん?で、囲い込みが始まってそういうテイストのフォーディズムみたいなのが始まるんだよね。で、それがステータスとか「イケてるもの」みたいな記号的な消費をされるようになるんだよね。


利休の侘び寂びもまさにこれだからね。100円のレコードに侘び寂を感じてたんだけどそれが「面白い数奇なテイスト」として認知されだすとその100円レコードの価値が高騰するんだよね。で、そういうものを持っていたり聞いたりするということがステータス化するわけだよね。本来はそういうものに違うテイストを感じるっていう感性の話なんだけどいつの間にかそういうのは物象化されて消費されるものになるんだよね。まぁある種ドゥルーズが言うような「外部」という実際は不可能かもしれないようなことかもしれないんだけど囲い込みがされえないような純然たるテイストの世界ってことだよね。構造をそのままサンプリングして大量生産したりするっていう無粋な世界とは無縁の完全なテイストの世界ね。まぁでもそういうのってそういうものに接し続けて感性を磨くっていうことでもあるわけだしそういう意味で経済性とか合理性みたいなものとは無縁なところにこそテイストってあるんだと思うんだよね。


まぁそんな感じですね。んじゃまた今度続き貼りますね。