ヴァーチャル系の話。その3。

なんだろうね、だからこれって機能に存在があるか?みたいなことだよね。例えばグーグルは存在なのか?ってまぁ企業はそりゃ存在だけどじゃあグーグルマップは存在なのか?っていうね、でもまぁ実際にあるのとないのとではだいぶ違うっつってもまぁ使わない人にとっては関係ない話でもネット的なものってのがよりインフラ化しちゃったら使う使わない以前にネット的なものがあるから可能になってることだらけになっちゃって自ずとその現前性を感じずにはいられないということになるよね。そういう実感として存在が迫ってくるってことだよね。


じゃあその存在って何なの?ってことだよね。実在論唯名論みたいな話になるんだけどまぁ何が言いたいのか?っていうとヴァーチャルとして見がちなものだけがヴァーチャルなんじゃないってことね。実際は一昔前はヴァーチャルと言われてたものが今ではただの機能になっていてもはやそれをヴァーチャルと呼ぶ人はいないみたいなことなんだよね。ヴァーチャルメールなんて言い方しないでしょ(笑)音楽はレコードやCDが無ければ実在が無いのか?ってそんなわけないよね。聞けばいいわけだから。


ようはでもなんかファイルを買うってのに違和感を感じるのってやっぱり前時代的な名残だよね。音楽ってのはCDとかレコードとして所有してナンボっていう人間にとっての存在論として便利な「そこにあるもの」という存在がそれ自体で与えられていたっていういわば箱だよね。CDっつー媒体を通して音楽を聴くということが音楽そのものだったわけじゃん?まぁそこまで大げさな話ではないんだけどね。でもまぁんでぶっちゃけストリーミングで全部聞けちゃうアルバムとかあるじゃん?さっきもとっくの昔に売ったケミカルブラザーズのファーストをいきなり思い出して調べたらyoutubeにフルであって(笑)


それ聞いてたんだけど中二ぐらいの時には当時はまだそこまで普及してなかったネットで「テクノのCD売ります」っていうどっかの書き込みを見てその人に連絡してLFOのAdvanceとかプロディジーのThe Fat Of The Landとか買ったんだったよなーとかってことを思い出してさてじゃあ今は何を聞いているのか?ってまぁそりゃ聞いてるものは変わらないけど聞き方が変わったってことだよね。まぁ気に入ればCD買えよって話なんだけどまぁちょっと一回聞いてみたくなったっつーんでネットのストリーミングで聴いてるって本当に実在性無いよね。でも聞いてるんだよね(笑)


まぁこの「何を聞いているのだろう」っていう感覚が古臭い感覚なんだよね。むしろネットがデフォの世代なんてそれが当たり前なんだろうしっつってもまぁそこまでCDとかレコードが異物ではないだろうけど別にストリーミングで聴くことにそこまで違和感はないよね。いまだに俺は違和感があるんだけどでもそれは知らなかったやつを試しに聴くとかは自然にやるんだけど元々持ってたものとか特に金が無いときに思い切って買ったやつとかって思い入れがあるじゃん?それが今はネットで聴きたい放題かーって思うとねーっていうそこがもうすでにさ、感覚ってのが完全に主観に依存してるよね。いや、当たり前なんだけどね。これも。まぁようはそういう情報関係ってのが何らかの具体的なものってのを媒介しなくてもダイレクトに接することができるようになってるって意味でさ、なんつーかな、まぁ昔はCDで聴いていたってのもただの記憶だよね。


音楽自体は音楽としてあるわけで。なんだろうね、PCが普及してなかった頃はPCでも音楽が聴けてヴァーチャルジュークボックスみたいにもなります!なんて言い方ができたかもしれないけど今じゃ当たり前だもんね。でも別にPCで音楽を聴くということ自体は変わってないんだよね。そこで面白いのがもはやヴァーチャルジュークボックスなんて言い方しないだろうってのがようはインフラ化っつーかそれがデフォになってきてるからって意味でヴァーチャルがヴァーチャルじゃなくなってるってことなんだよね。


だからまぁ何が言いたいのか?っていうとそれ自体は別に主観に依存してるわけで機能はヴァーチャルだろうがなんだろうが関係ないってことだよね。それはそれ自体としてあるわけだから。でもまぁあれだよね、まだそりゃリアルとヴァーチャルってわけれるぐらい両者の差が歴然だったりヴァーチャルの世界に逃げ込むみたいな言い方がまだ通用するけど今後凄まじい勢いでそういうのが無くなっていくわけだよね。両者が統合するというわけではないんだけどその区別自体がバカバカしくなるぐらい今現在まだ「ヴァーチャル」とかって呼べるものが当たり前のモノとか存在になるわけだよね。


だからそういう意味での俺の最近のリアル志向って今後はヴァーチャルだ!ってことではなくてそういう境が無くなるってことなわけだしヴァーチャルの世界もまたそれをリアルとの兼ね合いとか関係性でどんだけ楽しくしていけるのか?ってのがある面リアル世界に依存するようにもなったりするわけだよね。まぁただそれはコンテンツというよりもオントロジー自体が変わっちゃったってことで分ける必要が無いからこそどっち派なんてことはなくてあえて言うならインドア派かアウトドア派ってことなんだけどまぁでもポケモンGoを見ても分かるようにヴァーチャルの世界ってのがメインになっててもリアルな面で言えば具体的に外に出ているっていうアウトドアってことになるわけでもはやこのインドアかアウトドアかってのも境が無くなるってことだよね。


まぁそれは趣味が山登りをするとかっていう意味でのアウトドアで趣味が読書とかゲームっていうインドアっていう意味での両者の違いはあるんだけどもっと色々な制約外しちゃって考えると今この「違い」と思っているものってのは必然的に今のテクノロジーの限界ってのを指してるから恣意的なそういう両者の違いってのが存在するわけで環世界が変わればいくらでも変わるっていう可変世界の話なんだってことになるよね。脳もそれに適応して言って脳の可塑性ってのは永遠とそれによって進められてそういうものと一緒に人類ってのが進歩といっていいかは分からないけどまぁ生きていくわけだよね。


テクノロジー万歳!ってことじゃなくてただ単純にそういうことだよねっていうことだよね。まぁそこでなんだろうな、佐々木中みたいな人が「いや、そんなものに規定されてはいけないんだ!」ってまぁロマン主義っぽく言い続けるとは思うけど(笑)そうあるべきではないっていうべき論と実際にそうなっているっていう現前性は別だからね。どんだけデータベース社会ってのを批判しようがそうなってるのは事実でそれを認められるかどうかってのが好き嫌いの次元になっちゃってたら誤謬も甚だしいんだよね。まぁどうでもいい話だけどねこの辺は(笑)論理エラーを起こしてる場合どうしようもないからそんな話をしててもしょうがないからね。


あ、んで哲学とか文学みたいなのがまぁ佐々木中ディスるつもりはないんだけどまぁああいう感じの「アツい人」が色々と言い続けるのはいいとしてまぁそれは時代遅れなロマン主義とかまぁそういう人もいていいのではっていう話なんだけどそれを真に受けて哲学とかを書斎とか古臭いフレームワークの中とかに留めて置いたりそれはそういうもんなんだ!みたいに勝手に決める人の話を真に受けてそれだけで考えてるとクソみたいな産物になるからそこは籠らせちゃダメってことなんだよね。テキストに向かうのだ!とかって言いたいのは分かるけどまぁ色々と読みつつ実際に今の時代を生きて色々と知って人々がどう考えるか?とか環境の著しい変化でこういう風に変わってきているということとかね、そういうもんだからね。哲学は。


そういう意味で色んな意味で生きてないと全く意味無いのね。だから本当に引きこもって本を読んでるだけだと本当に意味無いんだよね。あとまぁ本だけの世界ってのは異様な世界なわけでそれこそ凄まじい精度でギリシャ神話を体感できます!みたいなヴァーチャルマシーンがあったらギリシャ神話を読むのもいいけど体感するのも大事ってことになるよね。重要なのは概念とか何を考えるかであってテキストを読む!みたいなところに真価を見出したりしたら完全にアウトってことですね。だからまぁそれこそ今哲学やるってのは必然的にテクノロジーだとか科学全般とか知らないといけないしもっと言えば世界情勢とか経済とかも知ってなきゃいけないし逆にそれなしで享楽がどうの対象aがどうのってだけ言っててもなんも意味無いしactualityが無いからね。そういうのは。


だからまぁ実質的に今哲学をやるってのは扱う情報量が桁違い過ぎて実質不可能になってるんだよね。でもその不可能性を認めたくないから恣意的な線引きをして哲学はこうやるのだ!みたいに言ってやれる範囲でやることで成立するっていうパラダイムを作り上げたくなるんだけどまぁそれこそまさに「想像的なもの」なんですよね。勝手な想像による恣意的な線引きなんであってその結果、学者特有の異様な論理の世界とか変な哲学の世界ってのができちゃうんだよね。まぁでもそれは先人に非はないですよ。むしろ少なくとも最近よく話に出すフロイトとかラカンとかだったら今の時代生きてたらすんげー色々なことに手を出してるはずだしそれによって分かることがあるから必然的にそれで理論も変わってくるはずだからね。それがなく過去のものだけ見てどうこういってても本当にどうにもならないからね。


いや、「どんなもんかな」と思ってまぁ結果的にディスりまくっちゃってる佐々木中の「夜戦と永遠」を読んでるんだけどまさにこういう独特の世界ですよね。あと俺が最近ディスってるポストモダン左翼が恣意的に切り取ってくるラカンっていう変なラカンラカンを語るっていうお決まりのやり方しちゃってるしね。なんでラカンと言えば対象aとか享楽とかシニフィアンシニフィエとかなのか?ってこれってラカンを語る人たちが作り上げてきたラカンの言説なんだよね。実際のラカンの言説を見れば分かるようにいつも対象aの話をしてるのか?っていうとそんなことないどころかほぼ話の半分以上をギリシャ哲学の話をしてたりその場の発話っつー自由連想をしてたりでリジッドな理論とは程遠いものなんだよね。いや、その流れ出る自由連想こそがラカンの神髄じゃないですか?ラカンが言ったことってのがディスクール化しちゃったらもうそれは終わりですよね。まぁそれは哲学全般そうなんだけどね。


だからまぁ昔からディスってることだけど哲学者の死体の解剖を永遠とやるようなことってのを哲学研究としてほしくないよね。まぁ論文ってそういう解剖をしないと書けないからだからまぁ考えるってことをやろうと思ったらそういう作業やらないほうがいいよね。哲学者を素材に哲学について永遠と語ってちょっと自分の言いたいことも足すってことをしててそれが思想か?って言われると違うよね。思想家ってのは軸が自分だからね。ニーチェがどうとかラカンがどうとかハイデガーがどうとかじゃなくて自分も同等なはずだからね。主体的に考える人って意味でね。同じランクってわけではないよ(笑)まぁでもドゥルーズみたいに解剖から初めてだんだん自分の哲学を自分の言葉で語るようになるっていうその初期段階として解剖ってのがあってもいいんだけどね。言わばたたき上げの場としてね。レオ・シュトラウスなんかもそうだしアルチュセールなんかもそうだしね。


ってことでまだ続きます。んじゃまた。