ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ヴァーチャル系の話。その17。

では続きを。


でもその監視者って誰なの?っていうと誰でもないんだよね。まぁみんなであると同時に誰でもない。ただでも何かあったことが切り取れてアップできちゃうということ自体が監視者のような力を持ってるっていうことだよね。ムムム・・・ラカンの第三項と似ておるぞ(笑)まぁでもラカンって最強と言われる所以がなんでもラカンに結びつけられるってことだよね。なんでもそこに還元できちゃう。まぁでもそんなの意味無いし。


まぁその監視者の話はいいや。ようは言いたいのは「こうなるであろう」と予想はできるけど例えばこのインスタなりツイッターっていうすぐ現実を切り取れるという機能が結果的に主がいない監視者みたいなのを生み出したみたいなことと同じように何かがインフラ化したり環世界化すると思いもしない作用が生まれるってことだよね。まぁあれじゃないですか。繰り返しになるけどこないだも書いたけど俺みたいなのが昔はネットに幻想を抱いていて左翼的な意味でネットは武器になる!っつってて今は冷静に考えてみると武器どころか監視機能のほうが強いっていうね、まぁ多様性が担保されてればいいんだけどあれなんだよな、あとね、そのなんでも情報になるってのはいいとしてっつーかあれだまずこれ言わせて。


なんでフランス語やろうと思ったか?っていうとラカンのセミネールが凄く自由連想的で窮屈なフォロワーとか学者の書いたものとは全く違って凄まじい自由度とそれこそドゥルーズとかもいうような言葉が言葉を生むみたいなさ、ドゥルーズガタリはまさにそれをやり尽くして一連のシリーズ生み出したわけじゃん?で、まぁそれが凄く言語とかね、まぁそりゃ語られている言語に概念が依存するってのはあるんだけどラカンの場合、特にそのパロールっていう意味での発話に概念が依存とまではいかないけど相関関係にあるんだよね。パロールエクリチュールの違いは?っつーとっていうかまぁ喋りとか講演会の書き起こしと書いたものって違うわけじゃん?で、喋りってまぁやっぱその場でのインプロもたまにあるわけでさ、まぁ書いたものをそのまま読んでるのとかもあるからそういうのは別としてまぁインプロなんだよね。


そういう言葉のインプロとしてのディスクールの次元ってありますよね。だからそこは書かれたものというよりかは発話されたものというフレーバーが強いものに関してはそれそのままで理解したほうが良いっていうか面白いはずなんだよね。翻訳するとどうしてものぺーっとした文章になりがちだからね。まぁ書き起こし自体でもそういうことが起こるけどそれをさらに翻訳したらパロール特有のリズムとかフレーバーが失われるよね。


だからまぁそれは自由連想で発話されているものなわけで「ガーッ」と喋ってるみたいな理解でいいんだよね。ただ明らかに間違いだと思うのがそれをあたかもテキストのように理解してドグマ化するということなんだよね。元が自由連想の場合、言葉とか概念に縛られてないわけよね。だからエクリチュールみたいな概念の厳密性はないけど良い意味での攻撃的なリズムがあるわけよね。それをその場で聴いてるように理解しないといけないんだよね。まぁあれですわ、アルバートアイラーとか阿部薫の演奏をそのまま聴くって話ですよね。それを譜面化したり聖典化してそれをシミュレートするとかってことになっちゃうとただのイディオムになるじゃん?そういうstaticなものではなくてdynamicなものなのにstaticなものにしちゃうとフレーバーが変わっちゃうんだよね。


で、さっきっつーかこないだ事象もエクリチュールのように解釈するってことなんだけどね、俺が言いたかったのは結局のところ自分というのは自分という身体の使用だったり使用することで得られる実感から来る認識ってことなんだけどこれってまぁ前も書いたけど武井壮なんだよね(笑)つまりは自分が武井壮を使用することなんだって本人が言ってたけどこれってアガンベンも同じようなこと言ってるんだよね。あ、それは「身体の使用」っていう本ですげー良い本なんだけどこの「使用」という感覚ってのがようは安易なデータ化とか抽象化を許さないんだよねっつーのが例えば今の現実というのはヴァーチャルとリアルが複合的に混ざったユビキタスな現実なんだって言ったところでそれって所詮は概念のレベルじゃないですか?


そうじゃないんだよね。そういう現実に生きることで出てくる実感とはなんなのか?っていうそれがまぁ何を持って使用とするかはともかくそういう世界内にいる自分という存在が実感するということで出てくるリアリティだよね。別になんでもそれを主観に依存させる必要はないんだけどリアリティの知覚自体がこうなるからそのユビキタスな現実ってのを知覚する主体ってのが感じる現実なんだよね。で、それを元に振る舞いとか考え方が出てきたり特に意識しなくてもそういうものを前提とした振る舞いになるんだよね。


それってのがまぁ「なんでもツイッターにあがっちゃう」っていう実感から得られる主がいない監視者の存在だよね。それはすげーイマジナリーなもんだしそんなの考えようではあるんだけどまぁそれってあれなんだわな、ナンパのリスクについて書いたときにすげー思ったんだよね。一概にナンパといってもここ数十年において行動するということ自体の根源がもう変わりつつあるっていうかさ、別に必ずしも個人が特定されたりするわけではないんだけどただデータ化されやすい現実になってるからナンパ自体の気楽さってのがないんだよね。それこそヤッた後の写真とか知らないうちに撮られてるだとかさ、まぁ女性からすれば安全っつーと変だけどまぁ武器にはなるよね。まぁただこれってリベンジポルノとかもそうだけど恋愛離れの一因としてこれって絶対あると思うんだよね。恋愛っつー煩雑でファジーなもんにネットとかが絡んでくるから相手が勝手にツイッターでなんかの写真上げてるとかさ、実は日記書いてたとかさ、まぁそんなこと言い出したらキリないんだけど色々と持ち越しやすいっていうか後腐れが残りやすいんだよね。終わったらもう終わったって言えるほどさっぱりしてないっつーのかな。


ってことでまだ続きます。んじゃまた。