Meditations on The Train。その2。

では続きね。


まぁんでモンドに戻ろうか。まぁ逆説的だけどね、価値を認められるってことはまぁそれがコモディティ化するってことですよね。モンドがモンドで無くなる瞬間がまさにモンドとして売られるときだよね。まぁもちろんそれが手に入るということ自体はありがたいことなんだけどディガーとしてはそれがつまらないっていうね、だからやっぱあれでしょ、日本は洗練され過ぎてるからアレだけどまぁ地方の雑貨屋とかに昔のものとしてレコードも懐かしの品として置いてあるみたいなところにモンド的なヴァイブスがあるわけだよね。まぁそれはレアグルーヴ然りだけどね。


なんかロランバルト引用してきてなんかあると思ったけど意外と何にもなかったけど(笑)なんかまだ言いたいことがあった気がするな。あ、そうそう独身貴族だわ。あ、別に俺は金があるわけではないんだけどね、ようは俺はこれは前にも書いたけどエンゲル係数だと思ってるわけね。使えるお金の範囲内のほぼ全部が実用性が皆無な道楽的な趣味に費やされているってのがバチェラー度ってことなんだけどさ、まぁ洋服とかレコードは日々の生活で機能するから実用性が低いわけじゃないんだけどただまぁこれもよくある話だよね。付き合ってるときは洋服が好きだったり音楽が好きだったりで話題が色々と尽きない魅力的な男性ってことなんだけど仮に結婚するとなるとロジックが一変して道楽に金を使い過ぎる非合理的で家庭を顧みない男ってことになるわけだよね。まぁ結婚してもバチェラースタイル変えない人に限っての話だけどね。


そこがまぁようは示唆的なんだよね。なぜバチェラーなのか?ってのは別にスペースエイジバチェラーパッドミュージックに関わらずに道楽全般に言えることなんだけどとにかく自分のことにお金を使うっていうそれに尽きるよね。まさにそれは「自分自身」なんだよね。昨今の場合、そんなに派手にお金を使わない人のほうがいいわけだよねっていうかまぁそれが家庭的とされるわけだからっつーのはまぁ昔から変わらないと思うけどだからこそのバチェラーなんだと思うんだよね。膨大な時間と労力とお金を趣味につぎ込めるというのはこれ以上の幸福は無いと断言できるわけよね。


じゃあナンパはどうすんの?っていうとまぁ気に入った良い服とか眼鏡をかけて外出した結果、仮にその時のコーデがまぐれでかっこよかったとして、それはまぁ気を使ってるっていう結果なんだけどそれは記号論的に「見た目に気を使う人」ということになっても本質的には道楽に金を使う人なわけだよね。完全に俺の場合そうじゃん?仮にちょっとおしゃれに見えたとしても金がかかってるように見えたとしても別にそれが経済性を表すわけでもないし金があるから道楽やってるわけじゃなくて道楽のために生きてるからそういう見た目になるんだよってことなんだよね(笑)だからすげー逆説的なんですよね。そこが面白いなと思って。


前はまぁメタリアル路線として本ばっか買ってないで他のことにもっとお金を使おう!ってのととにかくなんでもネットで済ませないで外に出よう!ってことになったっていうことでさ、んでまぁ洋服とか眼鏡買うようになって色々と散財してるわけだけどその散財がまさにナンパしよう!というロジックと両立しないんだよねっていうのがまぁ色々あってまずはまぁ余裕があってやってるわけではなくて使える限りのものを全力でぶっこんでるっていうまぁかっこよくいうと自分磨きに投資し過ぎてるっていうね(笑)研磨料金高すぎでしょうっていうね、でもまぁそういやって自分を磨いてるなんて素敵!って仮に見えても実はそれは違って自分磨きにしか興味が無い自己中心的な男ってことなんだよね(笑)


まぁ俺はそこまで自己チューではないけどもでもまぁやっぱ自分にまつわることが好きなんだよね。だから自分の知識を増やすとか自分の体験とか日々の日常に埋没しないような強度を求める感じとかね、それがまさにバチェラー的な価値観と似ているっていうね、スペースエイジのバチェラーって家庭のためとか子供のためにお金を使おうなんて思わないわけだよね。オーディオに使ったり他の趣味に使ったりするわけじゃん?だからそもそも家庭なんて持てるはずがないんだよね。別に他人のこととか家族のことを考えられないやつっていうわけではなくて趣味が豊富過ぎてそれに生きているから何かが入れる余地が無いっていうそれに尽きるよね。


いや、そろそろロランバルトを引用した甲斐が出てきたけど(笑)ようは俺がおしゃれが嫌いなのってそれって見栄えが中心だからじゃん?お!おっしゃれー!とかかっこいい!とかっていう客観性に立脚してるわけよね。そうじゃないんだよね。結果的におしゃれならそれはただの道楽をやっているアウトプットの一つとしてそうなる場合もあるわけであくまで軸は道楽じゃないといけないんだよねっつってももちろん似合う似合わないってのはあるからそりゃもちろん似合うものを身に着けはするんだけどイケてるかどうか?とか流行がどうだとか女子ウケがどうだとかなんてのは不純物なんだよね。道楽ってのは究極的なある意味禅的でもあるような己との対峙なわけですよね。究極的な自分の世界だよね。まさにオワコンシリーズの俺の思想そのものなんだけどそのオワコンシリーズの思想ってのがメタリアル路線で応用された結果、今の俺の行動原理に結びついてるっていう感じだよね。


だから結局なんで俺がモンドを愛するのか?とかまぁ別にそれはモンドに限らないんだけど好きなこと全般なんで好きなのか?ってそれが好きだからでそれ以上でも以下でもないんだよね。で、そこに「モテたいから」なんていう動機があったら最悪なわけだよね。こんな音楽に詳しかったらモテそう!とかそれほどダサいもんはないでしょう。まさにモテ狙いのファッションがダサいのもそれだよね。それはどんだけ見た目がかっこよかろうが動機が不純だからってことに尽きるよね。自己との対峙じゃなくて女を釣るためのファッションなのか!ってことでしょう?別にロランバルトが定義するダンディズムを厳密にフォローしなくてもっつーかそれは結果的にロランバルトが定義するダンディズムに近いものになるっていうただの結果なんであって最初からロランバルトなんてまぁ関係ないんだよね。ただまぁ結果的に結びつくっていうことなんであって。


だからなんつーのかな?いや、着倒れるって最高に粋だな!って前にも書いたけどようはそれはバチェラーの極みとしても自分が極めたい道の一つなんであろうなという気がしてるのよね。ようはそれでどうのとかモテるとかおしゃれになる!とか男を磨く!ということではなくて徹底的に道楽を極めてそれに耽溺するっていうディオニュソス的陶酔なんだよね。そう。まさにニーチェなんすよ。まぁ還元的になり過ぎるとつまらないしなんでもニーチェに結びつけるのはつまらないんだけどただまぁいつもの俺のパターンですよね。ニヒリズムに抗う究極の形としてのデュオニュソス的陶酔だよね。


でもまぁそこで学問とか音楽と違って洋服の場合、スノビズムスレスレなんだよね。そこの常連になって店員さんと仲良くなるとかイケてる恰好で街を歩くとかそういう俺が一番嫌悪するタイプのものと凄く親和性が高い。かといっても俺はコミュニケーションに飢えてるから(笑)無駄に店員さんと話すようにしてるわけだけどそこである種嫌悪感を感じるのは常連ぶってるっていうか常連になろうとしてるわけ?っていうさ、ファッションシーンにデビューでもするつもりなのお前?っていうそういうところがあるんだよね。そこは絶対いやなんだよな。だからおしゃれが嫌いなんだよね。ああいう読者モデルがどうだとかコーデがどうだとかっていうああいうファッションに関わるものがとにかく嫌いなんですよね。


もちろん歴史とかカルチャーとしてのファッションは大好きだし日本特有のファッションカルチャーってのも凄く俺的に今はその歴史的に見る視点でホットなことなんだけどでも自分がプレイヤーとしてone of themになって自分もファッションをする側になるというところは絶対違うんだよね。そこはあくまで俺はモンドな好事家なのであってファッション好きではないんだよね。ゴミの中からモンドを漁るのは大好きだけどセレクトされて価格が付いているモンドに興味は無いっていうそれだよね。まぁそれは別にあれですよ、ある店ではワゴンセールの中にあって別な店ではモンドの名盤として売られているということで価格ってのは相対的で偶発的なもんなんであって本質的な価値に関わるものではないという感じがするとは思うんだけどそこが違うんだよね。ゴミで売られているからこそモンドなんだよね。


それをファッションということにすると超おしゃれなセレクトショップでイケてるアイテムとして置かれている商品に興味は無くて自分が好きとかこれいいな!と思ったものがそういう店に置かれている場合もあるということなんであってそこは資本主義的なファッションの論理には飲まれないっていうかそういうところに刃向かわないとただのスノッブとかブルジョワ趣味になるからね。そこはやっぱ俺は根本クソ左翼だからブルジョワ臭いものが大嫌いなんだよね。まぁおしゃれっていうところで言うとまぁ俺はいわゆるおしゃれと言われるようなラウンジミュージックとかはプロパーなところではあるけどそれはモテとかおしゃれというところに本質があるわけじゃなくて「好きなテイスト」なんだよね。Incredibly Strange Music Vol.1でモンドの父であるV.Valeが書いているような「taste」なんだよね。


ってことでまだ続きます。んじゃまた。