逆説的にアーチェリーを始めるわけだが。

弓道の自主練が出来なくなったことで自主練によって得られていたスポーツ的というか身体的な快楽ってのが無くなっていてまぁ体を動かすって楽しいね!ってことに気がついたってのはだいぶ前に書いたけど完全に今はそれが封印されて無くなっちゃってるんだよね。アーチェリー場にも行ってないし練習もできないから体を動かす機会が無くてまぁせいぜいゴム弓で強引な筋トレとぽっこりお腹解消のあんまり気合が入ってない合間にやるようなやる気が無い腹筋ぐらいなんだよね。

 

まぁでもなんだろうね、この腹筋というのもさ、来るべき日に備えて体を準備しているっていうところだと基本的に革命家と変わらないよねっていうか昔よく俺が言ってたイデオロギーを磨いておけ!ってことなんだけど今は身体だよね。まぁんでその来るべき日ってのが凄まじい恋愛をする日だよね。まぁ別に個別に日じゃなくてもまぁそういうきっかけでもいいんだけどまぁこないだも外出っつっても病院ぐらいしかほぼ外行かないから病院行ったときとかにませたJCが買い食いしてるのを見てんでまぁ食べてる姿ってエロいじゃん?口のエロスだよね。

 

んでまぁすんげー可愛くてさ、あんな子に玉舐められたら実存的な苦痛とかいろいろある悩みとかが吹っ飛びそうだな!っていうぐらいそのエロスと快楽が苦痛をキャンセルする感じってのを感じるよね。なんかまぁ日常的な平凡すぎる苦痛さとかもまぁ前に書いたけど「こんな子とヤレているなんて!」っていう瞬間的な強度で全部オッケーになるみたいなさ、あまりにも凄すぎて他色々と許せるようになっちゃうみたいなそんなことだよね。んで別にそれってその子と長く付き合うことになるとか結婚するとかそういうことじゃなくてその瞬間的な強度だよね。それが確実にそこで得られた場合、そりゃやっぱ現実の認識が変わるんだよねっていうようなことを書いたらアードさんから芥川龍之介の蜜柑を紹介されたんだけど

 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43017_17431.html

 

この最後の「下等な、退屈な人生を僅わずかに忘れる事が出来たのである」っていうそこだよね。基本退屈でしょうがなくてなおかつつまらないんだけど何らかの瞬間的な出来事によってそれを忘れることができるっていうさ、でもそれは逃避ではなくて常に向き合う中でそういうものをキャンセルできるようなものなんだよね。

 

だからかといっても恋愛中毒になるとそれ自体に依存するようになって恋愛依存になるしずーっと俺はある意味そうだけど空虚感とかストレスを解消するために買い物をするってのもあるしまぁそれってretail therapyとかって言うらしいけどまぁ根源的な解決には向かわない刹那的なものだよね。でもまぁなんとか日々をやっていくために必要なその場しのぎでもなんとかやってけそうだなって思える何かって必要だよね。

 

かといってもそこで恋愛にそういうのを求めるというのは違うしようは偶発的にこの芥川の蜜柑みたいにそんな瞬間が訪れることもあるっていうその潜在性なんだよね。で、話は腹筋に戻ってその訪れに際して腹が出てたり体形が完全に崩れてたらJCとセックスは犯罪だからアレにしてもまぁ若い子と恋愛するってことになったときにまぁまず腹が出てたら若い子から恋愛対象として見られないよね。

 

もしくは年頃の女の子が憧れたりもする40過ぎの素敵なおじさんとかってジャンルにもならないよね。そういうジャンルに入るためには猛烈な努力が必要でしょう。毎日なんの精神性もなくただ惰性で過ごしてると所謂おっさん体形になるんだよね。ビールうまい焼き鳥うまいは分かるけどそれで太ってたら何にもならないよね。そういう食的なところに快楽の比重を置くのも分かるけどそれだったらその食を我慢してでもその瞬間に訪れるかもしれない凄まじい強度のために我慢するよね。っつーか我慢できるんだよね。

 

それはまだ得てないんだけど得るだろうという確信があるからだよね。だから腹が出ているというのはありえないわけだ。なんかこれってモテとも違うんだよね。モテるために体形を維持するとか筋肉つけるとかってことじゃなくて蓋然性の潜在性を絶やさないためにやる努力なんだよね。結局恋愛とかも諦めてっつーか恋愛したい!って思ってるけど全然精神性とかが伴ってない場合、例えば全然見た目気にしなくなるとか体もブルンブルンに太ってもなんの危機感も感じないとかさ、本当に恋愛したいって思ってるなら身体性が伴わないと全く意味ないよね。

 

普通にしててもなんとかなるって時期は完全に終わったんだよね。もう色々とケアしていかないとどんどんいろんなものが劣化していく年齢になってるってことだ。それはメンタル面でもそうだよね。ちょっとでもだらだら過ごせばどんどん脳は衰えるでしょう。だからまぁ死ぬほど考えないといけないし頭を使わないといけないわけだ。そういうのは辛いといっても自分的には頭を使わなくなって体も太りたい放題っつーほうがよっぽど苦痛だから色々なものをキープしつつ色々と上げていくっていうことに苦痛は感じないよね。むしろそれは快楽に向かっている潜在性なわけでさ、やりがいがあるでしょう。

 

んでもそれって例えば気の利いたセリフを言えるようになるためにそういうのがいっぱい出てきそうな小説を読むとか映画を読むとかデートコースに詳しくなるとかそういう卑近なことじゃないんだよね。別にそんなのはどうでもよくてあくまで自然体の自分に訪れるかもしれない瞬間だよね。その時のために日々鍛錬するわけだよね。んでそれってさ、いやね、俺が中世とか戦国とかの侍とか騎士とかに憧れるのとかって普段子供のころから武術とか身体的なトレーニングとかしてもう凄まじい時間をそういうトレーニングに費やしてきてるわけじゃん?

 

んで戦になりましたっつって仮にそこで奥さんとか子供がいても戦に参加するのが武士なわけでさ、それまで築き上げてきたものとかも例えば一瞬の流れ矢とかで終わるかもしれないわけだしさ、それって弓関連で言うと中世のイギリスの騎士のロングボウとかなんだけどさ、すんげーロングボウを兵器のレベルで使いこなせるまでにはそれこそ子供のころからすんげートレーニングしてないと無理なわけで一人のアーチャーを作るのにえらい大変だったわけだよね。んでも現実にはどんだけ凄いアーチャーだろうが戦死するわけよね。そこで誰でもやれるクロスボウってのは便利だったっつーのは合理的だよねっつってもクロスボウは金がかかり過ぎて一概にそうとも言えなかったみたいだけどんでもなんかさ、一瞬で終わる人生かもしれないのにその死の瞬間まで全力でトレーニングしてるって凄いよね。

 

いつ死ぬか分からないからこそ奥方とのセックスなんかもそりゃ燃えただろうね。もしくは遊女とヤリまくるにしてもいつ死ぬか分からないからとりあえずヤリまくっておくってことになるよね。まぁ今の俺は本当にそういう心境だよね。色々とやり尽くしてきた中で恋愛は手付かずだしヤリまくってもいないしんでも恋愛は別にプラトニックでも強度があればいいしんでもこんな恋愛したいんですよねーなんて思ってても実際的なことが伴ってないと全くダメでしょう。そこの一つがやっぱこのプルンとしたお腹を何とかするっていうところに集約されるんだよね。んでまぁあと定期的に運動をして体力をつけるとかまぁ運動自体がメンタルにいいから運動自体の効果ってのもあるんだけど体を鍛えておくってことだよね。

 

まぁそんな色々と交錯したコンセプトがある中で思いついたのが弓が自主練できないんだったらアーチェリーやればいいんじゃない?ってことに尽きるんだよね。使う筋肉は若干違うかもしれないけど背筋とかは使うだろうしそもそも体力使うから筋トレ必要だろうし同じスキルが弓道にアプライできるとかってのは全く考えないでただまぁ体を動かせるってのとまぁあとアーチェリー場で真剣だけどレジャーとしての弓をやれるっていうところでもあるんだよね。まぁそんなんだったら弓やってる暇あったら女の子とデートしたほうがよさそうなもんだけど(笑)

 

まぁ実際そうにしてもまぁとりあえずあれだよね、自分の中の流れとしてそれを作るっていうことだよね。実際にまぁアーチェリー場でやるのって楽しいわけだしまぁ本当にスポーツ的な楽しさだよね。実際に弓引いてるから筋肉も鍛えられてるわけだし15キロとかはさすがにもう余裕で引けるようになってるしね。

 

それもまぁ自主練の是非はともかく自分でやってきたことの結果だよね。まぁただ弓道的に言うと厳密で繊細な型の問題があるからそういう身体的なことだったらよりスポーツ的なアーチェリーやればいいじゃん!っていうそこになったんだよね。自分的に。あ、んで行ってるアーチェリー場は道具のレンタルしてるし普通にすぐやれるんだよね。ただアーチェリーって道具が異様に高いんだけど俺がやりたいのはさっき書いたイングリッシュ・ロングボウなんだよね。

 

ようはスカイリムとかロードオブザリングとかに出てくる木のやつだよね。別にアーチェリーをディスるつもりはないんだけどあまりにも弓自体の精度が高すぎるものってのはあんまり興味無くてベアボウでサイト無しでそういうアーチャーとしての勘みたいなのも鍛えるっていう意味でハードコアに難しいのをやりたいんだよね。んでも自分がやってるのはロングボウですからっつって精度が低いことにエクスキューズはしないっていうね。

 

・・・と思って木のロングボウを買おうとしてもまぁ実際無いんですよね売ってるところが(笑)まぁあとあれですよ、自分が弓やって侍がどう弓を引いていたか?とかどういう心境だったのか?みたいなのを感じたいっていうまぁそれは居合でもそうなんだけどこれは散々居合でも書いたけど刀を抜く瞬間ってすごいことなんだよね。こっちは明らかに攻撃に入るからミスったら反撃食らって死ぬかもしれないわけだしんでもまぁ抜くんだよね。まぁそんぐらい肝が座ってないと侍になんてなれないってことなんだろうけどまぁそういう臨場感だよね。

 

そういう意味でまぁ中世のイギリスの騎士の子供のころからずーっとトレーニングしてマスターレベルのスキルのアーチャーになって戦場で弓を引いてても別にそのスキルとは関係なしに戦争だから一瞬で死ぬ可能性があるし死んだアーチャーはいっぱいいるっていうようなそういうところだよね。そこはなんつーかまぁ言い方がアレだけど雑兵がすぐ使える手頃な武器を持たされて戦争に駆りだたされているというのとは全然違うよね。

 

農民がクロスボウ持って「わー!」じゃなくて凄まじいトレーニングの蓄積がある騎士が戦場に行くっていうことだよね。まぁそれは現代でも特殊部隊とかスナイパーとかまさにそんな感じでだからまぁ一時期俺は真剣にスナイパーになろうと思ってたぐらいで(笑)凄いよね。ただ訓練してますっていうことじゃなくて訓練していて能力的に凄まじいエリートですっていう人だけが特殊部隊とかスナイパーになれるんだけどんでもまぁ戦死はするわけでさ、そんだけすげートレーニングしてて優秀なのに死ぬんだよね。まさにメメントモリなんですよね。

 

田辺元じゃないけどさ、死があってこその生なんだよねってまぁ田辺元関係はだいぶ前に読んだからそんなに覚えてないけど(笑)長く生きるために科学的にどうするだのなんだのっていうこと自体が結果的に生の強度を奪っているっていうさ、その最たるもんが自分で死ぬことは許されないからチューブに繋がれてでも生きなきゃいけないっていう死んだ生だよね。

 

まぁね、俺が昔の侍とか騎士とか居合の抜刀する瞬間とかさ、弓道にしても矢を引く瞬間なんてのも生死の境目だよね。当たれば生き延びるかもしれないけどミスったら死ぬかもしれないとかさ、そういう意味で俺が那須与一のあの扇のエピソードなんかに感動するのもあれは射ち損じたらもう生きていけないからミスったら弓を折って死ぬ覚悟だっていうことで引いたわけじゃん?その瞬間たるや壮絶なもんだよね。そういう瞬間なんだよね。

 

そんな厳しい瞬間を求めないけどね、んでもまぁ死が身近にあるとかトレーニングってこともただの自己顕示欲とかではなくて結局は死があるからこそのトレーニングっていうかさ、今が永遠に続くっていうのは現代的な錯覚だよね。仮に永遠に続いたとしても老いていくし放置すれば色々とダメになっていくわけじゃん?だからまぁ色んな意味で死が前提なんだよね。ある意味ハイデガー的でもあるけどまぁ別にハイデガーとは言わずにこれは普遍的なんだよね。

 

だからこそそういう体験を追体験する弓道とか今後やるアーチェリーとか明日死ぬかもしれない武士にとってのセックスだとかさ、そういう覚悟の強度だよね。まぁもしかしたら昔の武士にしてもトレーニングはしてたけどその力を振るうことなく世の中が平和になって振るう機会が無くなるってこともあるんだけどんでもそれは分からないじゃん?機会が無いかもしれないっつって何もやらないなんて死んだも同然だよね。まさに死に体ですよ。

 

だからまぁそれってのはなんつーかいつ死ぬかが分かってても分からなくて足掻くことで色々と変えていけるかもしれない!っていう期待を持ちながら生きるにしてもどの道死ぬまで生きるんだ!っつー実存的なコミットメントをするっていうステイトメントだよね。だからそれは結局いつ死ぬか?なんてのは問題じゃなくなっていつ死ぬか分かってる、もしくは分からなくてもまぁどの道死ぬのは明らかだからこそ今を生きる!っていうことに繋がるわけよね。そういうもんだと思うんだよね。

 

だから若いうちから良い老人ホームに入ろうとすればこんだけの費用が必要で・・・とかさ、老後にこんだけの蓄えが無いと詰みますよ!的な言説とかさ、もう最高にクソだよね。そんなんでみんな守りに入って金を使わなくなるんだとすればもう法律で禁止してもいいぐらいの害悪だよね。そういう考えって。

 

っつーか嫌じゃない?そこそこ若いのにもう老後がどうだとか貯金がどうだとかってことを言うやつなんかと付き合おうと思わないでしょ。そんなの大体つまんないやつだよね。まぁ色々やってて金が貯まっちゃってるならそれはいいんだけど意図的に現在を生きないかクソみたいな考えで生きてて老後の蓄えがどうとか若いうちから言ってるみたいなやつの保身っつーかさ、あとまぁそんな設計したって一気に国がダメになるかもしれないしなんかがあって避難しなきゃいけないとか災害的なこととかも含めてそんな何もないまま想定通りいくわけないじゃん?

 

いや、あらゆる意味で死ぬかもしれないし色々とプランニングしてたのがダメになるかもしれないんだよね。だからこそそんなもんいらないわけなんだよね。むしろ強度の積み重ねで人生を形成していかないといけないわけでさ、現在が死に体である限りそれが実際に生きてるか死んでるかはともかくとしてもうそんなもん死んでるんだよね。だから生きなきゃダメなわけだ。

 

まぁそんな感じなんでまぁアーチェリー始めるわけなんですけど(笑)錯綜した実存とコンセプトの中で実践ってのが生まれてるってのがなんかいいでしょ。凄くいいなって
思うんですよね。

 

そんな感じでんじゃまた。