Naoさんへの返信。

Nao

 

早速シュヴァルツの自伝、注文しました。


僕はやっぱり大胆な数学をやっていきたいんですよね。それは相当センスがある人じゃないと厳しいのかもしれませんが、でもやっぱり一個一個理解していくというようなやり方は自分の性に合わないんだなって今回改めて思いました。厳密な理解ができてないことで苦しむっていうかそれで落ち込んだり場合によっては数学が嫌になったりあるいは「あとはディティールだ」って思ってロマンを抱いてた理論が冷めたりとなんか逆に一個一個丁寧にやっていくやり方は危険だなっていう。精読ならぬ精毒だなと。


僕もどちらかというと乱読派だったんですが、証明がちゃんと書けないことからだんだん精読になっていったんだと思いますが、そもそも今思えば数学書を読むことで別に証明がちゃんと書けるようになるわけじゃないわけで関係ないなって思いました。

 

それは書き方の訓練だからまた別なわけで。まぁ問題なのは理論的な抜けもありますが、大抵なんか勝手に自明じゃんって思ったりしているからそこの部分の証明が抜けているみたいなことが多くて、もちろんそれを徹底的に考えていくことも重要なんですが、なんかそれならある程度なんとかなるかなっていう楽観的な感じにはなってきました(笑)

 

そもそも大量のインプットと思索と無意識化での処理があればそんなのなんとかなるだろうと。どうしても一個一個やっていくやり方って時間的な意味でも限界がありますよね。何百年と時間があれば別ですがそんな何百年もかけて一個一個検証していくなんて退屈でしょうがないですよね(笑)

 

なんで大胆な視野がありつつも抜けのない厳密な、しかも美しい証明の記述ができるのか?って数学者には圧倒されるばかりなんですが、でもそれも一個一個丁寧にやっていくというよりは大量のインプットの結果ですよねっていうかまあそれはひとそれぞれでしょうけど大量のインプットが結果的に一個一個丁寧にやることにつながるだろうっていう。だからこっちの純粋な知識欲に任せていく淫乱読みでいいよなって今回改めて思いました。


なんというか、アイデアなく形骸化された証明を書くより、拙くてもアイデアありきで書いた証明の方がいいっていうか、もちろん美しい記述ができるに越したことはないですが、そもそも僕は何でちゃんと書く必要があるのかな?って考えた時にもちろん学校の試験とかレポートとか何とかを乗り越えるっていう意味でも不毛なツッコミとか変な誤解を避けるっていう意味でもちゃんと書ける必要がありますが、まぁ日本の大学の場合意外とそこ曖昧でも何とかなりますよね、全く何の知識ない人でも一夜漬けだけで普通に単位取れたりするのが現状ですからね(笑)

 

だからそれはむしろそんなに恐れる必要がなくてやっぱりヤバイ数学書を書きたいっていうのが一応あるからなんですよね(笑)それならそれに必要なのはどのみち大胆な理解ですから大量のインプットでいいですよねっていう考えに至りました。


スキーム論が覚めたというのも完全に精毒ですね。数論のような地道にやるとつまらないものがスキーム論とかの概念装置によって理解できるっていうのがまさにロマンなわけで、逆にそういうロマンを忘れさせるのが精毒だったりするわけで(笑)

 

で、僕もスキーム論は圏論とかトポスと同等かそれ以上に重要な基盤?というかフレームワーク的なものとして捉えてます。それはイデアがスキームなんじゃないか?ってなんとなく思った時とか以前Jacob Lurie先生の動画をmimisemiさんに紹介されてみた時も結局全部スキーム論じゃんって思ったのでスキーム論のごり押しに関しては僕も同じです(笑)逆にスキームじゃない数学を探すのは大変でしょう。大雑把に言っちゃうとなんらかの構造が入ってる”空間”は全部スキームですからね


例えば誤解を恐れずに書けばhyperfunctionにしてもそれは複素平面上とか実数上の層構造とほとんど言えますからこれもスキームですよね。


あと素数なり零点の分布とか固有値・スペクトル的なものの分布とか確率の分布とか分布系って全部なんかスキームですよね。っていうかスキームというと分布とかリーマン面を抽象化したようなものをイメージしてます。多様体だの何だのだと離散とか素行が悪いものは多様体じゃないと思うのですが、離散的なものとかいわゆる素行がものすごく悪い状態のものから素行のものすごくいいものまで全部網羅しているのがスキームっていう感じですかね。

 

だからスキームじゃない数学って探すの大変ですよね。物理はほとんど手を出してませんが例えば量子論って離散的だったり確率論的な世界観だったりするんである意味スキームって言えるかもしれませんね。まぁこじつけかもしれませんが。


ちなみに物理はQFTの本とか飾ってあるので当然今後やっていくつもりですでもそれにはある程度数学の知識いるなって思ったんですが、
まぁそれも今回を機に大胆に読もうとは思います。まぁ物理は数学的フレーバーにしか興味無い感じだったりします。物性とか素粒子がどうとか興味無いんで。ただhyperfunctionにせよスキーム理論にしろ指数定理にしろ物理学的な意味論がある方が絶対にいいですよね。視野が広い方が絶対にいいので。

 

そうそう。精読は精毒にもなりえますよ。例えば哲学なんかではそれが顕著ですよね。例えばカントを読んでいて一語一句言葉を理解しようと思って読み進めてもまず無理なわけです。だからまず概論的にサラッと全体を読んでしまって、それでアンチョコ的な解説書なりカント論全般を読むなりしてとにかく読み続けるということですよね。で、結果的に立ち止まらずに読み続けることで最終的にカントの原典に戻ってきたときにそれが理解できるようになっているというようなことなんであって、一語一句その場で完全に理解しようとするようなやり方だとこういう感じは無理ですよね。

 

アカデミックな数学が方法論的にどうやるのかは知りませんが、それで言うと別に僕は哲学に関しても独学ですし、これが一番良いやり方だと思ってるし効果が出ているっていう実証もあるので確信は揺るぎないですよね。証明が書けるって言わばクイズみたいなもんですよね。多分学校のテストだとカントが言おうとしていたことはこれとこれと
あと一つはなんでしょう?っていうまぁ三つの概念があるとしてこれとこれとあとなんだったっけな?って思ってても別にそれが答えれるということでカントの理解をしているかどうか?なんて全く計れないわけですよね。

 

それこそ「テストに出る」的な感じで暗記で乗り越える人も多いでしょう。でもこんなの最高にくだらないことですよね。重要なのはカント哲学の理解で細部のディティールというか、ここで何をどう言っていたか?なんてのを一個一個暗記するほどに覚えているなんていう必要はないわけですよね。むしろ哲学やるならそんなもんは全く無益で古今東西の文献を色々と乱読して膨大なインプットを手に入れるっていうのが重要なわけでそんなクイズ的なところに時間を費やしていては永遠に理解は進まないですよね。

 

数学の証明って本当にどうでもいいなって思っていて(笑)確かに計算を進めてて右辺のなんたらが消えるからそれが分かるってやり方もあるとは思うんですけどそもそも概念が説明されてるような本だとその例の右辺のなんたらが消えている式がすでにあるわけで、別にそれをゼロから計算して右辺を消すプロセスをしなければいけないというわけではないんですよね。それ言い出すと行列の計算なんかまどろっこしくてやってられないですよね。

 

これは昔から書いていることですけど立式さえ出来ればあとはmathematicaとかそういうソフトがあるんで計算なんてソフトにやらせればいいわけなんですよ。まぁそれでも紙に書いて計算をすることの重要さを言う人もいるしそれはそれで否定はしませんが、例えば煩雑を究めるような物理数学がmathematicaのようなソフトで可能だったらそれはソフトにやらせればいいわけですよね。

 

別にそれって卑近な割り算とか掛け算にしてもそうですよね。簡単なやつならともかく計算が面倒な場合、電卓がベストなわけですよね。でも別に手で計算しているからといって計算を理解しているということにはならないわけでただ煩雑なものを手でやるかソフトでやるか?っていうそういうことの違いですよね。

 

数学関係の本を読んでるととりあえず紙に書いてペンを動かすんだ!みたいなことを重要視してる人とかもいたりするんですけど全然あれは違うと思いますね。むしろ計算なんてもんに時間を取られるなんて最悪なんですよね。それよりも概念的な理解とより多く読むということですよね。機械ができることをあえて人がやる必要ってないですよね。まぁそんなもんをテストと称してやらせるのが学校教育だったりするんで全くそういうのには同感できないんでやっぱり僕は自分流を貫くだけだっていう感じがしますよね。

 

証明を徹底的に考えるというのもそれはTPOですよね。例えば僕の場合、なんだったか忘れましたけど恐らく連続体仮説関係の証明で凄く考える必要があるのがあって、でもそれはその証明を厳密に細かく考えるというのが理論の理解や道筋などを頭に入れるという作業において必要不可欠でなおかつ凄く重要だったからそれについて永遠と考えてたようなことがありますね。あ、なんかなんとなく思い出したんですけどZFC公理関係だったと思いますね。こういう場合は必要ですよね。でもそれは自分が「めちゃめちゃこれは大事で急所だな」って思うからやるんであって盲目的にやるわけではないんですよね。

 

あとやっぱり一個一個厳密にやっていくみたいなのが退屈でしょうがないって感じるならそれはやらなくていいってことだと思うんですよ(笑)そういうのが好きな人もいるしそういうスタイルでやっている人もいるけど別にそれがデフォルトじゃないですよね。ゲーデルが母親が自分の息子がどんな仕事をしてるのか知りたいと思って数学書を読もうとしたときにどう読んでいいか分からないという感じになったときにゲーデルが母親に言ったのが「小説を読むように読みなさい」っていうことだったんですよね。

 

まさにこれって真髄というか奥義だと思うんですよね。全体を壮大なスケールの数学物語の一部として読むみたいなことですよね。で、結果的に色んなジャンルを横断して乱読して膨大なインプットをしているっていう頭があれば過去に読んだ文献でちょっと分からなかった証明なんかも膨大なインプットをした後の頭でそれを検証するっていうのはもはやもうレベルが違いますよね。言わば数学的な超人になるっていうことですよね。そうすれば必然的に何もかも分かるようになると思うんですよね。まぁあくまで卑近なレベルのものですけどね(笑)でもその積み重ねでまだ理解がそこまで進んでない理論なんかも理解できるようになるって思ってますよね。

 

Naoさんもおっしゃってるようにちゃんと書く必要って結局はアカデミックなシステムの産物なんですよね。一応テストにパスするとか学位を取るために必要なんだけどでも数学そのものとして考えたときにそれが必要か?っていうとそうじゃないものが大半だと思うんですよね。まぁ凄く必要なものも中にはあるとは思いますけどね。でもそれってやってれば分かりますよね。これは証明とかのプロセスが凄く重要だなっていうのとなんでこんなのやらなきゃいけないの?っていうのとね(笑)まぁそれが分かってれば大学とかでやる数学は別に一緒に飲みたいとは思わないけど最低限の付き合い程度に一緒に飲まないといけないみたいな会社の同僚とか上司との飲み会ぐらいに思っておけばいいと思うんですよね。

 

日本の大学がその辺が曖昧なのはいいんじゃないですかね?アメリカの大学みたいに一個一個の試験の点数がそのままグレードの繋がっちゃってめちゃめちゃ理解してるんだけどんでもそのテスト対策なんてどうでもいいと思ってやってなかったっていうことでグレードがめちゃめちゃ下がっちゃうっていうよりかは全然いいと思いますね。数学のテストなんてぶっちゃけ意味ないですからね。

 

「ロマンを忘れさせるのが精毒」って本当にその通りだと思います。一般的にはそういうようなロマンを忘れさせるような数学を強いられるのが現状なのでだからこそ数学ロマン派としてはロマンをキープしないといけないですよね。で、世界がバターのようにとろけるような抽象の極みみたいな数学をやる必要があるわけなんですよね。ホント、スキームってイデアなんですよ。そういう意味でグロタンディークは神の使者なんですよね。ホント、Naoさんがおっしゃるようにスキームじゃない数学を探すのが大変なぐらい普遍的なわけですよね。それこそ高校とかの基礎段階でやらされる線形代数なんかもスキームの概念とかもっと高次の数学の概念があれば楽なのに高校生はそういう意味で大変ですよね。不毛の極みみたいなものを線形代数やら三角関数でやらされるわけですからね。

 

Naoさんがおっしゃる「素行が悪いもの」という言葉に感銘を受けたんですが、僕的に言うと素行が悪いのってダントツに物理数学なんですよね(笑)おいおい、もっとちゃんと大局的にまとめようぜっていうね。そこを数学的なアプローチで量子力学とか超ひも理論なんかをやろうじゃないかっていうのが僕の読破できないバイブルのQuantum Fields and Strings: A Course for Mathematiciansなわけなんですけど今回の数学覚醒を機に読破しようと決心しましたね。

 

Pierre Deligneなんかはエレガントの極みというようなほどの数学をやる人なのでそういう人がQuantum Field関係のものを数学的にやっているわけで、むしろ物理学的なものは数学プロパー的な観点からのほうがより多角的なアプローチができるんじゃないか?って思ってますよね。実際にリーマン予想なんかは最先端の物理学と数学が混ざり合うようなものですし、Naoさんがおっしゃっている確率論的であったり離散的であるものすらもスキーム的であるかもしれないっていうのは本当のその通りなんですよね。

 

別にスキーム的だからといって確率論的なことが予測できるということなのではなくて抽象的な枠組みとしてはスキーム的と言えなくもないということですよね。そういう意味で僕はそれは全然こじつけだと思わないんですよね。なぜなら僕はグロタンディーク的なものが数学の統一理論だと僕は思っているので。

 

まぁでも本当に意味論って大事ですよね。物理数学ではなく純粋数学的なアプローチができる物理学ってのは意味論と具体性と卑近な現象と抽象的な数学の関わり合いというのが感じられるものだったりして、そういう意味で相対論も量子力学も結局は純粋数学の理解をより深めるためのパラダイムなんだなって気がしてるんですよね。まぁ些か行き過ぎた純粋数学主義だとは思うんですが(笑)僕は哲学的にも数学的にも根っこからのプラトニストであるのとブルバキ主義者でもあるのでそれに普遍性があるかはともかく自分のそういう形成した数学観で楽しく数学をやっていきたいって思いますよね。

 

今書いてて思ったんですけどやはりブルバキとグロタンディークは自分にとっての神ですね。数学のドグマといっても過言でないぐらいの存在ですね。カントールは数学の本質はその自由性にあるって言ってましたが、ブルバキとかグロタンディークがliberatorって感じがしますよね。