Naoさんへの返信。その2。

NAo

 

どうやらアンチョコとかなんとか論全般を乱読するっていう方法は大抵の人にとって抵抗があるみたいです。まぁ気持ちはわからなくもないんですがね。僕も最初にウォール伝で「アンチョコ読みまくればいい」みたいのを読んだ時にが戸惑いましたもん(笑)

 

 

例えば数学書で言えばアンチョコ的なものは「数学書らしくない」とか哲学だったらアンチョコは原書のネタバレみたいだから嫌だっていう意見があってだけど数学書らしさとかどうでもいいしアンチョコ読むことがネタバレになるわけではないっていう気はするんですがまぁひとそれぞれなんでしょう。ただ原書主義みたいな人もいて大雑把に言うとドクサをなくすのが哲学だとするとさすがにこれは哲学と真逆の行為だなっていう。

 


アカデミックな数学の方法論はどうやるのかわかりませんが少なくとも厳密な一歩一歩理解していく方法でなんか自分で作ったり書いたりするのって難しいとか通り越して無理じゃないかって思うわけでして。行列だのあとは偏微分の計算だのどうでもいいのは本当そう思います。原始関数を求めるとかももう暗記(sin^-1の原始関数はなんちゃらみたいな)かそれこそ大抵は不可能だから(存在しない)なんかもうどうでもいいというか、計算的な意味では微分<積分と云う難易度ですが概念的には逆ですよね。

 

 

そういうある種のエラー起こるんでよくないんじゃないかって思います。まぁこれは計算というより積分=原始関数みたいなイメージの植え付けに問題がある気はしますが。大学の授業にしてもなんかそれこそアンチョコ授業見たいのがあってもいいと思うんですよね。どうせ厳密に授業やったってみんな何やってるかわからないわけでっていつも思います。

 

 

試験は割と文系の一般科目なら自分の考えを紙一枚に書きまくる試験があるんですがそれの数学バージョンやってもいいと思うんですよね。証明なんて暗記さえしてれば理解してなくても書けるわけで、でもどうしても証明で試験するならせめて時間制限を無限時間にするとかって必要ですよね。

 

 

考え抜くことができるか?っていうのも一種の数学の能力ですし、それこそフェルマー予想とかもっと角の三等分問題とかある意味1500年~2000年くらいかかってますよね(笑)それくらい数学の解決って時間を要するものを例えば「60分」とかって制限するのはいかがなものか?って思っちゃいます。それで言えばセンター試験とか最悪ですよね。ただの時限爆弾処理でしかないっていう(笑)いかに時間的なことで焦らず正しい計算ができるか見たいな。

 


高次の数学の概念があれば高校数学が楽になるっていうのは僕も禿同です。これまた大抵の人には受け付けないらしいですが(笑)例えば高校の微積分なんかは望月先生はほとんどモチーフ理論の一部とおっしゃってますがそういう視点があったら本当楽だし面白いのにっていう。行列とか高校で若干やりましたが全く意味不明でしたしあと微積分も結局計算が中心なので不毛でしたね(笑)

 

 

三角関数も当時は理解してたつもりでしたが今から思えば全く理解できてなかったわけで。そもそも理解っていろんなアプローチとか幅広い観点があって初めて理解と言える気がするので局所的な厳密性とか保証されているところで理解とは言えないんじゃないかって思うんですよね。まぁ高校数学の場合その厳密性すらもないんですが。

 

 

なんかいい例えじゃないですがが、部屋探しをするのに間取りとか何もなく実際中に入ることもできず、覗きだけで部屋を選ばないといけないっていうくらいシュールで視界が悪いのが高校数学っていう感じですよね。高校数学的なものこそが「アブストラクト・ナンセンス」ですよね。圏論とかむしろ視界が良いので。

 


「素行が悪いもの」に関してはそれを抽象化していくことで大局的な概念的に扱えるようになると「素行がよいもの」として扱えるっていうところが数学の素晴らしさかなって思ってますね。古典的な数学の分類で言うところの解析が代数的になっていく感じの流れにそれを感じますかね。でも微分方程式や複雑な不等式で記述をせざるをえなかったものが微分構造とか位相構造を通して(コ)ホモロジーホモトピー的な観点から記述できるとかフーリエ的なものも表現論的なパラダイムで記述できたりベクトル解析なんかもテンソル代数的なもので記述できますよね。

 

 

ベクトル解析=汚いっていう偏見があったし応用数学かと思ってましたが純粋数学じゃん!って思った時は感動しました。あとは個々の対象は素行が悪くても対象を全部集めちゃえばそれ自体は素行が良いみたいなこともありますよね。関数空間なんかその例ですかね。これも一様構造とか線形構造とか作用素系を通して代数化されてるっていう。

 

 

まぁこれをさらに進めていくと圏論とかスキーム論とかですよね。なぜか抽象化するとそこに代数構造とか圏論的なパラダイムとかが浮かび上がってくるっていう。これはまぁほとんど線型性を通して代数化されてるようなもんなんで非線形だのカオス理論だの量子論的なものやら確率論的なものやらっていうことがやっぱりテーマになっていきますよね。

 

 

まぁ量子論はおそらく十分に代数化されてるのでもちろん代数化=素行が良いとかって一概に言えないのはあえて言うまでもないですが。高校数学のような人為的な素行の悪さにせよ物理数学とかの素行の悪さにしろ、素行が悪いっていうのはある観点からそう思えるっていうだけでアプローチ次第では違うかもしれず、その「素行が悪い」っていうドクサの解放が数学っていう感じなんじゃないかと。そう考えるとどんなに不可解だったり一見ぐちゃぐちゃで複雑なものでも理解できるかもしれないという希望があるっていいますか。それがスキームだったりラングランズ計画だったりQFTだったりっていう。それにしても数学の自由性というものをここ最近僕は忘れてた気がしました。

 

アンチョコとか何とか論全般乱読に抵抗があるのは学問を神聖化し過ぎてたり地頭を過信し過ぎたりあとはそういうのはダサいからかっこよくやりたいみたいなそんなことだと思うんですけどね(笑)あとまぁ時間って有限だしフォーカスできる時間ってさらに有限だから効率化を最大化しないといけませんよね。それだけやるならともかく色々とやりたい中で推理小説を読むように張り付いて哲学書や数学書を読んでたんではそのまま人生終わっちゃいますよね。

 

むしろ重要なのってネタバレ後なんですよね。こうこうこういうことを言っているというのが分かっていて最新の研究はこういう感じになっていると。まずそこに立つだけでも時間がかかるわけで、本質的に数学なり哲学するってのはこういうネタバレ後の思考なんですよね。だからドクサを無くすためにも一刻も早く思考を純化しないといけないわけなんですよね。純化されてない思考はバカの思考みたいなもんだしまぁプロセスの中で色々と気がついたり学ぶってことも重要なんですがそれで学問やってる気になっちゃうのがマズいんですよね。

 

まず現代でのその分野の最前線にまで自分の知的水準を高めなきゃいけないわけですよね。で、そこからはじめてやることができるんですよね。だからそのためには手段を選ばないわけで最速で最先端につける方法があるなら当然それを取るわけですよね。

 

そういう意味でこれって楽するアンチョコじゃないんですよね。基礎を身にみにつけてまともに学問をやるためのアンチョコっていうんですかね。あ、んで今エントリーに書いてるんですけどいきさつはともかく今ちょっと将棋にハマりだしましてんでまぁ将棋も当然基本があってまぁそれって最善の一手だったりする定跡っていうことなんですが、まぁこの辺は昔囲碁をやってたんでやる感覚は分かるんですがその定跡を自分で編み出そうとしてもそれって時間の無駄ですよね。

 

羽生名人みたいな人がありえない頭脳で定跡を解説しているのを理解して覚えたほうがいいわけですよ。そこはもう最高の頭脳を借りてくるってのが一番なわけですよね。いや、何も読まず自力でやる!ってのも一つだとは思うんですけど相当な時間のロスですよね。そんだけ労力と時間を費やすパワーがあるなら棋力を上げる方にフォーカスすればいいのに・・・ってことになりますよね。

 

計算に関しては全くおっしゃる通りで偏微分みたいなもんの細かいところで何が起こってるか?を把握してる人なんて滅多にいないわけですよね。偏微分レベルならまだいるかもしれないけど量子力学レベルとなると分かるはずがないんですよね(笑)だから本当にNaoさんがおっしゃるように計算するっつーよりかは概念を説明するとかそれこそ文系の小論文的なテストとかのほうがよっぽどいいと思いますよね。

 

でも学校って計算で学力が計られちゃうから結果的にごり押しの暗記をするやつとかが大半になっちゃって、んでそれができるからっつって得意だと勘違いして学科に入ったらガチの人たちに出会って才能のなさに絶望するっていうね(笑)僕も若干学校で数学は一応やってたっていうか単位にならないような基礎レベルですが(笑)数学の先生は「暗記は絶対ダメだ」って言ってましたからね。ようは理解しないといけないってことなんですよね。でも特に日本の数学教育なんて比重がモロに暗記ですよね。あんなのやるだけ無駄ですよね。三角関数の暗記なんてしても何の意味もないし役に立たないんですよね。

 

あとNaoさんもおっしゃってますけど概念的には簡単だけど計算が煩雑でそれが難しいとされるような概念エラーが起こるってのも本当に計算重視の弊害だと思うんですよね。んでその時間無制限って本当に重要だなって思うんですよね。一週間ぐらいの猶予が与えられてそれで解くとかまぁ誰かに聞くとかっていうチートが可能になるので原理的に不可能でだから60分の縛りをかけられるような問題に限られちゃうわけなんですけど、本質的にはおっしゃる通りでそれに一週間ぐらい取り組めるか?っていう忍耐強さとか能力っていうことだと思うんでだからまぁ数学ってとりわけ学校的な評価と本質的な数学力みたいなのが相関してないなって思うんですよね。

 

IQテストが全く本当のIQを計るのにいかがなものか?っていうものになってるのと同じで数学も本当にそうですよね。まぁただやっぱり東大とか京大とかはその本質的なセンスが問われるようなものが入試にあったりするらしいんでまぁ結局は最高学府しかないよねってことになりますよね。

 

センター試験が時限爆弾処理って言い得て妙!ですね(笑)塾とかでも学力というよりかは当日腹痛になったり緊張しないために同じような状況をシミュレートして模擬をやらせるみたいな、ただの度胸試しになってるっていう(笑)まぁでも廃止になるんですよね。確か。遅すぎるだろ!って思うんですけどね。

 

数学は局所的な厳密性に固執しても何もならないってまさにそうなんですよね。現状で最上と言える理論とか最高級の抽象的な理論なんかに照らし合わせて理解が出来なければほぼ意味がないというか、井の中の蛙ですよね。初級者レベルみたいなところで厳密性を細かくやっても全く意味ないんですよね。だからより早く最上級に行くために乱読をしなきゃいけないっていうことになるわけですよね、高校レベルの数学だけにとどまるような数学ってまさに素行が悪いものを素行が悪いまま扱うような荒っぽいものなんであって、それを素行が良いものとして扱うためには大学以上の数学が必要になるんですけどでもそれありきですよね。数学って。特定の低いレベルだけの知識にとどまってやる必要なんて全くないんですよね。

 

前に相対論とか量子力学を数学的にエレガントな素行が良いものとして理解できる道筋があるような本を図書館で発見したって書きましたけどこれってまさにNaoさんが言う数学の素晴らしさなんですよね。素では手を付けようと思わないものも数学的に整理されていると理解が簡単だしふるまいの悪さに戸惑うこともないわけなんですよね。まさに対象を集めてしまえばそれ自体の素行は良いかもしれないわけなんですよね。それって僕はやっぱり数学のイデアだと思ってまして絶対的に正しいものは究極的なエレガンスを兼ね備えてると思うんです。

 

まさにそれってのがNaoさんがおっしゃるようなドクサの解放なんであってつまりはそれってイデアへの道ってことなんですよね。僕はそれがあると確信しているので複雑そうな物理とか確率論とかにまで手を出せるわけなんですよね。結局ふるまいの悪さは見え方っていう認識の問題なんであってその認識のパラダイムなり眼鏡を変えればくっきりとシンプルに映る場合もあるわけですよね。

 

そうなるとこれってもはや認識論なんですよね。いかに数学とか物理の世界を見るか?っていうことにかかっているっていう、それは地頭というよりかは見るセンスですよね。美学などにおける美的感覚とかに近いものがあると思います。まぁこういうのを徹底的に批判する人もいますが(笑)まぁそれは見え方だから任意で強制ではないですよね。

 

あとまぁ超ひも理論なんかは全く逆で概念的にはエレガントなんだけど数学的にごちゃごちゃ過ぎてカオスを極め尽くしてるっていうこの逆は完全にダメですよね。概念的にすげー難しくても数学的構造がエレガントということが重要なんであってNHKスペシャルとかでも放送できるぐらい簡素な概念=エレガンスではないっていうことですよね。数学者は怠惰だからなるべく簡素化したがるみたいな格言がありますけどこれってようはイデアへの憧憬を常に数学者たちは抱いてるってことなんですよね。イデアの追求ってリアルでやろうとするとなかなか大変なものがありますけど加藤先生なんかも言ってますが数学はそれが報われる世界なんですよね。だから夢があるし現実の煩雑さとはかけ離れた天空の世界みたいな清々しい感じがありますよね。

 

ブッダもこの辺は似たようなことを言っていてそれって渇望しないと顕在化しないんですよね。それがまさにイデアへの憧れっていうエロスなんであってここは自分においてのヴァーチューとか正義ということにそのまま直結するんですよね。リアル社会がどうか?ってのは関係なくそれはあるわけで自分はそういう状況やコンフリクトに囚われずそれを貫徹するっていうことなんですよね。

 

そういう態度を貫け通せる人には常に開かれてる世界だと思いますね。本当に夢がありますよね。数学はそれが明確だけど正義だの徳だのっていうことはそれが明確じゃないんだけどでも構造的には一緒だって思えると数学からむしろイデアへの憧憬の重要さを学べるところがあって、だからリアルをシニカルに生きるみたいなことを一切やめることができるみたいなインスピレーションが得られるんですよね。

 

ゴミみたいな人間とか社会とかシステムがあってもそんなのは関係ないんですよね。どう生きるか?なんであってそれは端的にやっぱり善くあるということに尽きるわけでそれで何かをしようとするとかではなくただそうあればいいっていう、それでもちろん自分の利があったりするわけではないんですが少なくとも数学においては利がありますよね。理があるとも言えますね。

 

そんなイデアと学問が直結しているものなんて滅多にないんで数学は自分にとっての至宝だって改めて最近思います。