保田与重郎にハマる。

とりあえず読むかー程度で読み始めた保田与重郎なんだけどドハマりしてしまってあの悪文とも言われる妖艶な文体もさることながら保田の文化的な危機意識というのが凄く鋭くてまぁ保田の本もさることながら読み直そうと思ってた橋川文三の日本浪漫派批判序説なんかも同時に読んでたりするんだけどまぁもっとちゃんと読んでから書けばいいんだけど今のところ漠然と思うのがっていうか結構このまだ読まないうちに漠然と思うっていう段階で思うことって結構重要だったりするじゃない?読み切ったら出ないような考えが出たりなんかしてっつーのは保田の危機意識っていうのは憂国の烈士のそれで色々と歴史関係から歴史的必然性とかバックグラウンドとかナショナリズムとかって言われたりするんだけど俺が思うにあれは確かに歴史的必然性もあったし時代精神もあったと思うけど圧倒的に保田与重郎っていう個の思想だったと思うんだよね。

 

ようは時代がどうであれとにかく感覚が繊細で国や文化を思う気持ちってのが凄まじくて、でもそれってのが日本的な文化への偏愛っていうところから来ていてだからこそ政治関係のことは書くにせよ別に時事がどうのとか具体的な政策がどうのっていうことではなくてひたすら情動とかナショナルなものの普遍性というのを説いたり説きながら求めるというようなスタイルになってたと思うんだよね。凡人だったら一書生だったりただの文化人で終わるところがあまりに才能が有り過ぎたっつーか頭が良すぎたからイデオローグレベルになっちゃったっていう感じだよね。

 

実際に俺もモロにハマっているというところから見てもやっぱりカリスマ性が半端じゃないのと同じく危機感を持つような人間の心を揺さぶるようなものってのが凄いあるんだよね。物凄いパワーがあるっつーかぶっちゃけ文芸評論とかってどうでもいいと思うんだけど保田の場合、文芸評論にしても保田自身が求める愛の在り方とか人間性の在り方とか文化の在り方っていうのをなんかの文芸作品を評論するということで表そうとするっていう表現者としての側面が強くてっつーよりかはむしろそれ100パーな感じでレオ・シュトラウスと同じようなものを感じるんだよね。

 

レオ・シュトラウスプラトンなりマキャベリなんかを論じたりするっていう中で一応何々論として出すんだけど実際はそこを自分の思想を書きながら形成する場と結局、そこで本人が何々政治論と書くよりもマキャベリ論なりプラトン論なりっていう枠組みで書いたほうがより伝わりやすいっつーとあれだけどモロに思想を論じてるなっていうイデオロギー臭さを感じさせることなくリサーチ論文と見せかけておいて実は自身の思想を展開しているというようなそれでまさに保田与重郎もそうなんだよね。

 

レオ・シュトラウスは言うまでもなくそれは色んな論文の主題になるぐらいニヒリズムとか相対主義の危険性を感じてて、だからこそプレモダンな正義感とか古典への回帰ってのを述べてたんだけどそれって今を見ればそれはどうあがいても必然的に相対主義的にならざるを得ないというところを過去のプレモダンな感覚で相対主義へ抗う絶対的なものとしての正義とかイデア的な意味での真実ってのを追求してたんだけどそれをそのまま保田にスライドすると保田の場合、感覚は極めてシュトラウス的なものでなおかつ地頭の良さとか持ち前の才能もさることながら卓越したテキストの読み方というか、よくそこまで読むし考えるよねっていうぐらい文芸作品やら過去の思想やら歴史的出来事から色々なものをひねり出してくるんだけど、そこにあるのは時代的な危機感で「このままじゃマジでヤバいぜ」っていうところからぶっちゃけ本人もどうしていいか分からないみたいなところがありつつも「これでいけるんじゃない?」っていうものから実験的に普遍的な相対主義に抗えるようなものってのを見出していくっていうような、それは下手するとただのこじつけになるんだけどでもそこで実存主義的なものとのリンクというのもつまりは実存的なクライシスっていうのがそのまま文化的なものへのクライシスにもなっているというか実存的クライシスの原因の一つというのが文化的クライシスで、でもそれってのは本人がそういった文化的なものとか実存的なものなんかに敏感で意識的じゃないと生まれないようなもんで全くそういう意識が無い人間から見たら「何勝手に苦悩してんの?」って感じでもあるんだけどそこで哲学青年とかの場合、その苦悩というのがあくまで個人の実存的な問題で収まるのに対して、本人の実存と言える範疇がナショナルなものまで包括しているというぐらい実存の占める度合いが大きい場合は文化的なクライシスというのがそのまま実存的な問題として本人に落ちてくるわけよね。

 

三島もまぁ言わばそういうことだよね。歴史とか文化っつーと何かしらの評論なりなんかを述べるネタにはなってもそれを自分で抱え込んで実存的に悩むということをするってのは意識的にやろうと思ってもできないことでまぁそれって生まれつきのものっつーか魂の大きさというかね、でもまぁそこで実際に政治的なことを書いてたにせよ基本的に非政治的というか政治的なアクチュアリティが無いというのもそれはようは純粋に文芸的であったり文化的であったりするからだよね。日本はこんな危機を抱えている・・・だから国はこうしなければいけないのだ!みたいな政治性ではなくて文化であったり文芸的な観点から文化の危機を述べていてそれが自ずと政治性も結果的に帯びるようになったというような結果論っつーとアレだけど、そもそもの政治性が全くないと言っても過言ではないぐらいないよね。

 

文化的な危機とか相対主義に抗うというような意味ではシュトラウスと同じなんだけどシュトラウスはあくまでその軸が政治でむしろそこから来るナショナリズムというのは政治的必然性から来るものなんだよね。つまりはシュトラウスが軸としているような政治っていうのを突き詰めると保守的にならざるを得なくなるわけだ。かといってもそれは特定の文化とか国のものに依拠するようなものではなくてドライに言っちゃえば論理的な帰結というか論理的な必然性から来るという意味で別に国は問わないわけだしシュトラウスユダヤっぽさがないとは言わないけど別にシュトラウスにとってのナショナルなものってのがユダヤ的なものとは限らないというか、それは個人と国家の差なわけだよね。

 

んでも保田の場合、シュトラウスに例えて言えば実際にシュトラウスがそう考えていたかどうかは別として仮にじゃあまぁシュトラウスのような人間がいたとして、理論武装をナショナルなものに依拠してやっていたとして、まぁあれだわ、シュトラウス的な人物がイスラエルの御用学者みたいな、ナチスにおけるカールシュミット的な位置づけでめちゃめちゃユダヤ的な文化と国の政治を繋げてナショナルなものを説いているって言えば分かりやすいって全然分かりやすくないか(笑)んでもシュトラウス的な人間の場合、実存もあっただろうけど基本的には方法論的なわけだよね。

 

でも保田の場合、それが極めて実存的なんだよね。ユニバーサルなナショナリズムというか普遍性ってなんだろうか?っていうところよりかはあくまで自分ってのが中心にあって自分はこう思いたいっていう思いが強いっつーのかな。それが政治性を帯びることになっても論理的必然性にまで至るかどうかは別で、でもそこで浪漫派的なものってのは別に論理じゃないんだって言うわけでしょ。だからそこである意味すでに政治性は捨ててるわけだよね。まぁ捨ててるっつーかアクチュアルな政治性なんて最初から持つ気はなくてまぁ結果的に持つことになったらそれは使う的な意味では持ってたとは思うけどね。

 

どれか忘れたけど保田は算術ってのは思想とか考えじゃなくて常識なんであって文化とか物事ってのもそういう常識ではなくて思想だみたいなことを言ってるわけじゃん?まぁそれは分かるよね。例えば日本的な詫び寂びに論理性があるか?っていうと独自な論理はあるにせよユニバーサルな数学のような論理体系を持っているわけではなくて、でもそこで日本というのは日本固有の論理体系を持っていてそこに依拠して考えない限り日本文化は衰退するっていうような、まぁヤバいっつっちゃーヤバいっつーかまぁ原理主義だよね。その原理を聖書にするのかコーランにするのか日本原理にするのか?っていうところででも宗教ほどその原理性は明らかではないからこそ自分の思索によっていろいろなものをディグして述べることによって日本的原理を発見してそこに依拠できるような文化的原理というのを再発見しようっていうようなことを保田は模索してた感じだよね。

 

で、まぁそろそろ終わるけどそれがウルトラナショナリズムとさえ言われるようなウルトラナショナルなものに繋がったというのはただの時代の流れなんであって文化人の言説というのが世論に及ぼす影響というのは当然あったにせよ保田のそれと日本の戦争みたいなことが直接つながっていたか?っていうとそれは時代的につながっていただけで必然性はなかったと思うんだよね。逆にそこで御用学者みたいになって体制側について色々書くっつーのもまぁ別に当時文章書いてればそんな風になってたんじゃないの?っていうところでまぁ例えば浪漫派じゃないにせよあんま知らないけど清水幾太郎とか田辺元とかですらも戦後に戦争に加担するようなことを書いてたってディスられてたらしいけどまぁ本当にありえないなって思うんだよね。

 

一気にその体制側の都合が変わってちょっとでも加担するようなことを書いてたら一気にファシスト呼ばわりされるっていうさ、まぁ日本をダメにした戦後左翼とかあくまでアメリカ統治的なものにプリンシパルを置くっていう原理なき原理というか、その統治に都合の良い論理を原理にしなさい的な魂が全くないような原理というのを民主主義のルールだとかなんだとかって勘違いしてそれを盾に戦前のものを批判するってのもまぁ完全に洗脳されてますよね。

 

まぁすげーナショナルなものがヤバいベクトルに行った感は否めないんだけどかといって別にナショナリズムとか日本文化的なものそのものが危険なわけじゃないじゃん?でもまぁなんだろう、忠義とか武士道とかさ、アメリカにはさっぱり理解できないような日本の独特な論理っつーのがヤバいからへし折ろうと考えるのはまぁ統治する側からしたらそりゃそう思うよねっていうところなんだけどそこでナショナルなものはヤバいって刷り込みを受けるってのもまぁ戦後のバックラッシュっつーかさ、そういうもんのとばっちりを受けた文化人ってのは多かったってことだよね。あとあれだ、鈴木大拙なんかも批判されてたらしいよね。ようはその禅的無っていうのがまぁそのまま特攻とかに繋がったっつーか命に固執するなみたいなものが流用されたってまぁそれ言い出したらナチスニーチェ流用とかと同じなわけでさ、んでもニーチェナチスの思想ではないじゃん?流用されたってだけでね。

 

保田にせよそこは完全に離して考えないといけないわけだよねっつっても実際に戦争を経験してた世代からするとよくもまぁあんなプロパガンダ紛いのようなことを書いてたな!って糾弾したくなるとは思うし当時の世代がムカついてたってのは分かるんだけどまぁ今って別にそれはないじゃん?マルクスと言えばマルクス主義文化大革命だのクメールルージュの大虐殺だのスターリンの大粛清だの日本赤軍のテロだのとにかくジェノサイドを起こしてきた思想の大元なんて言われたりもしてたけどまぁでも実際マルクス読むとほとんど関係ないわけじゃん?

 

で、まぁそういう時代からだいぶ時間が経ったからこそイデオロギーではない思想としてのマルクスを純粋に読めるようになったっていう時代になったみたいなことが俺が18ぐらいの時にマルクス復刊で新訳みたいなのが出ててその帯にそのようなことが書いてあったと思うんだけどまぁこれって保田も同じですよね。もちろん保田は実際に体制側の擁護をするようなことも書いていたにせよかといってそれでそのまま悪の思想とか侵略戦争をするようなファシズムに加担するような危ない思想として無視するってわけにもいかなくてっていうか実際はさっき書いた切実な実存的クライシスと文化的クライシスを乗り越えようとするような葛藤だったわけよね。

 

その時代精神ってのは受け継いでいいし確かに中間層にとってなんか虚しいなーってのかデフォルトのマインドセットであるにせよでも特に昨今のこの空虚感ってのは空虚な時代って言われてたような2000年以降のそれとは比べものにならないほど深いもんだと思うんだよね。

 

それはまぁこんなのがずーっと続くわけ?っつー絶望じゃんね。で、別に浪漫派を持ち出してルネッサンスしようとするわけじゃないんだけどんでも結局、保田がやろうとしてたのはルネッサンスだよね。文化的革命で政治的革命じゃないんだよね。かといってもその革命ってのは革命がおこった!っつってその時点から流れが変わるようなものではなくて文化的な志向性のマインドセットが変わったり指標が明らかになることで自ずとそれが革命的になるっていうような意味での復興なんであってまぁそういう復興に思いを寄せるということ自体がすでに浪漫的ではあるんだけどんでもその精神を所詮ロマン主義だって切り捨てるのは簡単なわけでさ、それがどういう影響を現在に及ぼすかどうかは別として封印しておくには勿体なさ過ぎる思想だよね。

 

別にぶっちゃけディレクション変えれば換骨奪胎してそのまま使えるような実用性もあったりするわけで使わない手はないぐらい強力な武器になりえるものだと思うんだよね。とにかく切れ味が半端じゃない。そこはシュトラウスと凄く似ていて保守でありながら下手な革命理論とか革命的とされるようなものよりよっぽど革命的っていうまぁsubversiveなものなんだよね。保守でも何を守るのか?というとそれは伝統でだからこそ表層的で安易な文化を壊すようなものはどんどん破壊していくっていうような意味での破壊性だよね。基本的にはそういう安易な近代的なものってのを壊すか壊さないにしてもプライオリティを考えて重要なものはそこじゃなくてもっと文化的なものでしょうっていうようなディレクションを与えるものだよね。

 

まぁそんな感じでどんどん今後も読んでいく感じでんじゃまた。