保田与重郎にハマる。その2。

PS3届いて龍が如く4とか早速クリアしたけどほぼムービーゲーという感じだったけどむしろシリーズやり過ぎて戦闘とか飽きてる身からするとがっつりストーリーに没入できるゲームって意味ですげー良かった。んでもPS3ってやりたいやつをすでにPCでやってたりするのが多くて意外とやりたいタイトル少ないんだけどまぁスパロボやれるだけで十分かなって感じですね。

 

まぁそんな感じでゲームやりつつ保田与重郎どっぷりな日々なんだけども、なんかね、久々にロールモデルと言えるぐらいの人を見つけた!って感じだよね。自分の歴史だとチョムスキーショーペンハウエルニーチェレオ・シュトラウスって感じだったんだけどまぁそういう意味でシュトラウス以来の「これだ!」というのを発見した感じがある。

 

シュトラウスにハマってた頃の俺のハマりっぷりって尋常じゃなかったと思うけどそれと同じぐらいの没入感があるね。なんか求めてたものが得られた感じっつーか毎年年末になると次の年に取り組むテーマみたいなのが必ず偶然的に見つかるっつー法則が俺の中であるけどってこないだも書いたけどホント、これ!って感じだわ。ロボアニメもさることながらそれ以上に保田与重郎はデカいな。もう隋の髄までしゃぶりつくしたいぐらい。

 

あとさっきロールモデルって書いたけど明らかに自分じゃ無理なことを目標に設定して何かやるといいってよく自己啓発とかで書いてあるけどロールモデルにも言えるんだよね。才能あり過ぎて頭良すぎてどうあがいても何回生まれ変わっても到達不可能だなっていう人物をロールモデルにすることで自分の惨めさをあらわにするっつーかなんて俺はバカなんだっていうか洗練されてないし本当にアホだなっていうのを痛感するっつーか安易なコンフォートゾーンに安住するのを避けるのにも本当にそれは良い方法なんだけどそこでまぁ俺は保田師匠をロールモデルに設定しよう!って思ったのね。

 

それはもう保田師匠の思想や文章もさることながら生活とか文化とは暮らしであるっていうような考え方とかセンスや美意識に至るまで本当にあこがれの対象っていうぐらい凄い人物でさ、もう完全に夢中ですね。自分のクソみたいなコンフォートゾーンをダメージゾーンにするっつーのにも最適なわけでね、なんかまたネクストレベルに行けそうなきっかけを得た感じだね。まぁそんな感じでめっちゃ充実しててまた最近めちゃめちゃ調子よくなってるんだよね。

 

ロボアニメに目覚めてから一気に調子よくなってよく寝れるようにもなったんだけどそこにさらに保田師匠が加わったことで万全って感じだね。あと当面暇だなーっつーのを感じなくなるっつーかまぁ膨大な文献があるからね。んでスラスラ読めるような代物じゃないしあと知識を得るようなタイプの読んだらオッケーっつーようなタイプのものじゃなくて自分の血肉にするっていう意味での魂の読書みたいなのを必要とするから良い意味でなかなか進まないんだよねっつっても毎日読んでればそりゃ進むんだけどもね。何しろ何気ないところに「ムムム!!」と感じるようなことが普通に書いててヤバいんだよね。情報の密度もさることながら思想の切れ味が半端じゃない。烏滸がましいけど自分でこれを編み出したかった!ってぐらいのものが普通にゴロゴロしてて本当にヤバいんだよね。ミメーシスだらけというかなんというか。

 

まぁそんな感じで来年っつーか当分は安泰だなって感じになったわけなんだけど今日書きたいのは保田が右翼のボスとかファシズムのボスみたいに扱われたっていうようなことがまぁいかに戦後的な価値観で能無しの連中の飯のタネのためにやられたただの批判ビジネスだったってのが本当に読んでて明らかになったってことなんだけどまぁそれを保田はなんだったっけな?身のこなしだか処世術だかとりあえず「食っていくために」って意味で文化をなんにでも食うためみたいな経済活動に従属させるっていうことを凄く嫌ってたっつーかあんだけの根っからの文人ならそりゃ当然なんだけどでも食うために書いてた文人とか保田みたいに金に困ってなかった人ってのもいたかもしれないけど金のために書かざるを得ないっていう人もいたわけで、まぁアカデミズムなんかでもそうだけど基本的に自分から何かひねり出すネタが無い人はなんかのどうでもいい比較とかをしてそれっぽい論文を仕上げたりして一応作品として書くわけじゃない?

 

で、保田に関わらず戦前にあくまで戦後的な価値観でこれは批判論として成立するっつーかまぁようは戦後的な価値観だったらアカデミズムにせよなんにせよ戦後民主主義的な価値観とか悪い意味での日本をダメにした能無し左翼の価値観からするとすげーウェルカムなんだよね。

 

ナショナリズム?おお!批判してくれたまえ!みたいな、だからまぁクソみたいな批判が量産されたんだなっていうのは簡単に想像できるよね。保田に限らず鬼の首を獲ったかのように戦前に戦争に加担したとされるような文人とか哲学者への批判って多かったわけなんだけど特に保田の場合、それが特にハーシュだったっつーのはまぁ分かるよね。論理的に戦争の合理性とかを説いていたというよりかは日本的なナショナルな価値観とか伝統とかを持ち出して擁護もしていたっていうところで戦後では悪の象徴であるようなナショナリズムとか伝統みたいな悪の要素が完全にセットになってるみたいな悪の権化みたいな感じだったからなんだと思うけどまぁ俺は元左翼だからよく分かるけど左翼って国旗だけ見ても過剰に反応するからね(笑)

 

なんか右翼っぽいものはとにかく生理的に嫌うからね。紋付の袴とかも右翼っぽいだとか(笑)ちょっとでも日本っぽい要素があるとなぜか一気にファシズムだ!みたいになるようなさ、まぁんで戦後っつーとマルクス主義やらとにかく左翼的なもんやら革命ってのが時代精神っつーよりかはただのヨーロッパとかの猿真似とか輸入で盛り上がってたんだよね。一部だけどニューアカの頃とかと同じでしょう。そういうの読んでるのがかっこいいから資本論とかを例えばなんだろう勝手な想像だけどバッグとかにしまっておけばいいのに資本論読んでるぜってことをアピりたいがために小脇に表紙が見えるように抱えるとかね(笑)

 

そういう流行ってのは絶対あったしアカデミズムが急速にそういう方向になってたからまぁ言わば需要と供給のバランスがあったわけだよね。とにかくまぁ左翼的だったり革命的だったりするならオッケーみたいな感じで、そういう左翼ビジネスの中で戦前の戦争に加担してたと言えなくもないよねってこじつけレベルでも言えるようなものを批判するっつーのが流行ったっつーかさ、あとまぁなんか左翼ってなんたらなんたら批判みたいな、これもマルクスの真似なのかもしれないけどなんか批判すりゃいいと思ってるところがあるからね。

 

そんなこじつけのくだらないもん書いてるなら左翼でも左翼なりに有用な革命理論とか左翼的な立場から見た文化防衛論とかを書けばいいのに才能無いから誰かの批判するしかないんだよね。まぁそれは今も変わらないけどね。自分から書くってのはすげー大変だからね。オリジナルなのが何も浮かばないやつはなんか取ってくるしかないからね。っつってもまぁ保田は批判されてもしょうがないっていう要素は色々あるにせよそれは所詮は戦後的な急速な価値観とか体制の変化ととりあえずファシズム打倒!みたいなさ、もうファシズム終わってるのに永遠とファシズム打倒!って言ってればいいみたいなね、んでもまぁファシストと呼ばれる人たちの中でも有用なことを言ってたりする人たちもいるわけじゃん?保守の思想家然りだよね。でもまぁ時代の流れでそういうのはあんま流行らなくなったんだろうね。

 

で、まぁ俺もそうだけど日本浪漫派っつーとまず橋川文三っつーかさ、とにかくやっぱ戦争に加担した危険な思想っつーバイアスがすげーかかるわけだよね。だから読むのもそういうバイアスがかかっちゃうんだけど一連の文芸評論とか社会批評とかっつーかまぁ一部しか読んでないけど色々読み始めてそんなのは簡単に吹き飛んだよねっつーのが保田が戦争に加担したとか後に批判されるようなことを書いてたにせよそれは全体から見れば一部でむしろ中心になってるのはって言えるほどまだ読んでないけどまぁあえて言えばそりゃやっぱ日本原理の発見とか文化ってことなんだよね。そういう意味でのナショナリズムだよね。

 

といってもそれは国を愛するということが国益なんだみたいな論理の話じゃなくて極めて日本に立脚した日本原理っつーかさ、だからそのままそれを位相してどっかの国のナショナリズム理論にはそのまま使えないような、本当に日本的なものなんだよね。でもまぁ民族的なものなんてそうでしょう。それは文化そのものだから例えばそれは中国にせよ中東にせよヨーロッパにせよ個々の文化があってそこに生まれて育たないと分からないものとかさ、それが功利的な合理性で営まれてるっつーよりかは合理性から見れば非合理的だけど文化として残っててみんなそれをフォローしてるみたいなものってのがあって、それは凄く何気ないものなんだけど実は原理を支える凄く大事なものでそういったものに意識的でなおかつそれをナショナルなものとして涵養していくような精神の地盤とか感性の地盤だよね。

 

それはジャック・ランシエールの概念であるっつーかオリジナルがランチエールかはともかくDistribution of the Sensibleってことなんだよね。感性的なものの布置ね。まぁ俺流の理解で言うとこれはまぁ生政治的な経験を規定するような権力ってことなんだけどまぁ簡単に書き過ぎるとアレだけどまぁでも簡単に越したことないから簡単に言えばまぁ例えば反権力は良いことですよとかね、左翼的であるのは良いことですよ、戦争はダメですよだから学校の図書館に漫画を置くのはダメだけどはだしのゲンならいいでしょうっつって学校の図書館にはだしのゲンを置くようなことなんだよね。それが感性を
規定するというよりかは感性が勝手にディレクションされちゃうっていうことだよね。もちろんランシエールが言う感性的なものとはだいぶ違うけどまぁ枠組みは合ってますわ恐らく。

 

かといってもイデオロギーってわけじゃないんだよね。そういう大きいものではなくてもっと細かいものなんだよね。それこそ生活単位での細かいもので例えば学校の図書館なんてのも最たるもんだよね。今日は図書館の時間ってことで図書館でなんか本を読みましょうっつってまぁ本を読むっつーたまに授業が図書館に入れ替わって図書館で読むことがあったりしたでしょ?小学生のころとかね。そこでまぁどんな本が置いてあったかはともかくまぁとにかく左翼的なもんばっか置いてあったらそりゃ感性的に規定されちゃうよね。理屈なしに戦争は悪である!とか右翼は悪である!みたいなそこまで踏み込んだ本はないにせよかなりディレクションは規定されるよね。

 

まぁもっともそんなに熱心に本を読むなんつー小学生も多くはないと思うけどまぁでもはだしのゲンが多くの小学生にトラウマを残したっつーのもまぁ左翼の大勝利ですよね。ああいうのの植え付けだけで戦争=悪とか核=悪とかってまぁ植え付けられるって意味で楽だもんね。なんでダメなのか?ってのを考えさせないで絵のインパクトで感情的に動員しちゃうっていうね、まぁ最悪のやり方ですよね。

 

で、まぁそこで保田的な感性的なものの布置ってのはこういうはだしのゲンレベルで情操教育というとアレだけど、美的感覚とか何気に普段やっていることや使っているものや従っているルールっていうものに対しての文化性を明示するっていうかそれは文化的なコンテキストにあるんだっていう観念的な位置づけをするみたいなことでもあるんだよね。これによって何気なかったものがかけがえのないものになったり実はすげー歴史のあることだったんだって分かったりとかそれでもっと次に行くとそれがどう社会的に意識されて行動に移されているのか?とかね、まぁ一概にそれは良いものだけじゃないんだけどまぁそこで語弊があるけどロマン主義的なものってのは何らかの形で帰依できるような古典的なもののまさに浪漫的な部分を切り取ってrefineするっつーかそこがロマン的なのは部分的っていうところなんだよね。

 

ようは恋愛はロマンか?っていうとそうじゃないでしょ?ロマンだけで言えばロマン映画を見れば恋愛のロマンってのがロマンとして体感されるけど実際に恋愛ってのをやってみると苦しみの連続であったりそれこそファジーでリアルなところを言えば例えばメール出したのに帰ってこない!とかなんか不機嫌でよく原因が分からない!とかね、良いことばっかじゃないじゃん?でもまぁカッコつきのロマン映画ってのはそんなファジーなところは描かないよね。まぁ恋愛映画ならそれはあり得るかもしれないけどロマン的な恋愛映画ってのは観念化された恋愛というのを描くでしょ。だから完全なフィクションで観念だよね。

 

んでまぁロマン主義ってぶっちゃけそれですよね。古典とはいっても昔なんつったら昭和初期とかよりよっぽどインフラがクソで優雅な生活っつっても死体とかが街に転がってるとかどっかで領土争いの戦争をしてるとかまぁロクなことがないわけだよね。んでもそこで文人とか歌人が残したようなテキストだけを見れば昔の優雅な価値観とかってのを抽象化して考えられるよね。それだけ取り出せるわけだよね。んでも実際はそういう文章を残せるぐらいの有閑階級とかなんらかの余裕があるような人とかとにかくまぁ農民じゃないわけでさ、生活の苦しさとか日々の辛さとかって別に抽象化される対象にならないじゃん?まぁ言わばいいとこどりだよね。江戸文化の美化とかに似てるわ。江戸時代はこんなに良かった!てのがこんなに悪かった!ってのが考察されないで良いところだけ見て観念化するっていうさ、んでも実際は疫病が流行ってたり辻斬りがあったりインフラが不便だったり大抵の人が貧乏だったり火事ですぐなんか無くなったりとか現代の人じゃ耐えられないことだらけなんだけどでも良いところだけを見ると江戸って良かったんだなーとかって勝手に観念的に思うわけじゃん?

 

今だってそりゃそうだよね。良いところって今だから見えないけどまぁとにかくインフラがヤバいぐらい発展してるとかなんでもネットで見れちゃうとかさ、文化的な生活送ろうと思ってもようはそいつの素質だけで昔ほどの金を必要としなくなったからやろうと思えば簡単っていうことだとかね、でもまぁそれだけじゃないよね。それによってつまらなくなったこともあれば現代ならではの例えばなんでもネットに書かれちゃうとか監視社会化がより進むとかあとテレビで伊集院光が言ってたような、ランキングサイトに価値観が支配されているみたいなこととかさ、良いところって悪いところとセットですよね。時代ともセットだわ。

 

でもそこをロマンってのは勝手に抽象化するからそういうのは考慮されないんだけどでもそれってようはそういう古典回帰を促すことで反近代ってのは言い過ぎにしても古典を古典として置くのではなくて近代に生きた現代のものとして現代の人があたかも今のもののようにそれを実践したり価値観とするっていうような、まぁ簡単に言えば古典が新刊として復刊されますよみたいなことだよね。

 

でもまぁ読んだことない人からすれば古典とされていても新刊として出てたら見え方としては新刊だよね。で、まぁ現代的な何もかも経済とか自分のためっていうようなエゴとかどう社会で生き延びるか?みたいなこととかに結局はイニシアチブをとられちゃってるような文化全般を古来の文化そのものによってクソみたいな現在の功利的な価値観をぶっ壊そうっつーかそれは壊すっつーよりなんて貧しい考え方なんだろう・・・って相対的に感じるような感性を育むってことだよね。

 

もちろんそれを政治的に動員すればファシズムとかにもなりうるけどそれってただの時代の流れなんであってね、仮にそれは逆の左翼的なものですらも動員によってはファシズムじゃないにしてもなんらかの全体主義的なものに繋がったりだとか、でもそれってただの動員っつーよりかは時代とか人々がそういうのに流れつつあるっつー時代の必然の中で追い打ちをかけるかのように思想なり文芸ってのがよりそれを促進させるものとして利用されたりそれがデフォの流れだったらその流れを促進するようなものを書いたりもするわけだよね。

 

そういう時代の流れだったっつーことをわきまえないで何もかもをただの戦後的な価値観だけで断罪するってのは全く意味ないですよね。何しろナショナルなものを意識するなんて別に必然的にファシズムに繋がるわけじゃないじゃん?そういう歴史があったにせよ例えばね、鎌倉行くと思うっつーか毎回最高だなって思うんだけど都市部から来たような、あとは関西の都市部とかからも来てるオシャレな若い子とかが普通にテーマパークみたいに古都でキャッキャ楽しんでるんだよね。これってすごいことだなって思うわけよ。それをディズニーランドの如く、古いお寺とか歴史がある建造物なんかを見てテーマパークのように楽しむっていうさ、あと当然それはまぁ同じ人工物にせよフェイクのお城とかじゃなくてお寺とか建造物はリアルだから写真を撮る意味合いもテーマパークのそれとは全然違うよね。

 

んでカップルによっては夏なんかは浴衣姿で歩いてたりさ、んでダレルと鎌倉廻りしてたときにダレルが「浴衣でデートするって普通なの?」って聞くから「いやーこれは古都ということを意識してやってるロマンなんだよ」なんて答えると「へぇー彼らはロマンチストなんだねー」なんつー回答が返ってきてんでなんかさ、ここで「へへーん!どうだ!」みたいな感じになるんだよね。ジャパンっていいでしょ?みたいな(笑)それはネトウヨ的な盲目的で排他的な感じなんじゃなくてそりゃヨーロッパも他のアジアもいいところはいっぱいあるし独特の文化とか素敵だねーとか粋だねーって思うようなところってあるわけでしょ?

 

んでもまぁそこでナショナルなものってまぁ自分はこのナショナルのところで生まれて育ってまぁこういう文化が残ってるし例えばカップルが浴衣でデートするなんてのもその片鱗なんだって考えるとまぁ本当に素敵な文化だなって思うよねっつってもまぁこれはまさにロマン主義なんだけどね。その浴衣でデートしてるカップルの男性か女性かどっちかの片割れが実は二股してるとかさ(笑)まぁその場だけ見ればロマンチックだねーってことになるけどファジーなところ見ればそうでもないんだけどでもまぁ現れとしてのその浴衣でデートってのはとりあえず抽象化された文化的なヘリテージと美の現代的現れってところでとりあえず細かいところは別としておさめておきましょうやってところなんだよね。

 

だから理屈じゃないし理屈で武装するような類のものではないんだよね。あらーまぁーあんな彼氏もイケメン彼女もめっちゃ可愛いみたいなパーフェクトなカップルが鎌倉を浴衣でデートなんて素敵ねーっていうもうそこに理屈いらないよね。素敵なんだから。まぁんで保田師匠ってのはこういう細かいところに良さとか美を見出す達人でまぁ俺の場合、鎌倉を浴衣でデートするカップルなところを(笑)保田師匠の場合、昔の和歌とか美術とかまぁハイコンテキストなところでナショナルなものってのを見出して評価するっていう耽美主義者なわけよね。あ、んでまぁ俺がロボアニメはナショナルなもんだっつーのもまぁそういうことってこないだ書いたっつーかまぁこのロボアニメのナショナル感がヒントになって保田師匠を読むことになったんだけどまぁ最高のきっかけでしたねっていう。

 

まぁだからこのね、浴衣デートは別にファシズムとか戦争に繋がらないでしょう?ナショナルなものってニュートラルなんですよね。ただまぁ戦後の戦前のファシズムなんかにも加担してた文人とか哲学者批判っつーのも時代の流れとして加担してたように思われてしまう文章を書いていたっていうのはそりゃ時代の流れなんだからしょうがないっていう部分もあるでしょうっていうところと全く同じことが戦後の戦争加担関係のもの批判全般に言えるんだよね。

 

これもまた戦後の流れっつー中で生まれてきたものだからね。だからまぁ今はそんな呪縛はないわけですよ。イデオロギーからフリーな状態で読めるしファシズム的なところはファシズム的だって分かるわけでしょう。んでもまぁ保田師匠って所謂いかにも右翼って人たちが読みながら色々と内輪で語ってても人畜無害で真に有効なのは文化的なものや知的なものに飢えている若者が普通に手に取って読めるっていうアクセシビリティなんだよね。

 

孤独のグルメ的な「これは凄くいいぞ!」っていう「いいね!」がハイコンテキストなものではなくカジュアルなものとして浸透するっていうところなんだよねっつってもまぁやっぱ難しいからこれはなかなか現実的ではないんだけどね。ただでも有効性が発揮できるのは古い右翼とかじゃない今の世代の人が凄まじく活きたヴィヴィッドな思想としてそれに感嘆してナショナルなものを再考したり感じたりするっていうところにあるんだよね。まぁ実際一昔前だと右左関係なく保田ファンは多かったらしいけどね。ただいかんせん難しいからある程度のレベルの本を読むのが昔はデフォだったっつーのがどんどん下がるとより難しいものは昔以上に読まれなくなっちゃうからね。

 

まぁそんな感じで読書に戻るけど最近ね、いや、孤独のグルメなんだけど(笑)こないだ精神状態がボロボロの中で焼肉食ったら一気に復活したって書いたけど実際に肉ってすげー効果があるらしくて一気に食に対する思想が変わってとにかく良い肉を食う!っつー精神の薬膳っつー感覚になってるんだけど思想然りなんだよね。やっぱり栄養価が高いものは精神に効くよね。そんなわけで保田師匠は今の俺にとっての最高の抗うつ剤になってますな。これとロボアニメとうまいものを食べたり肉を食うっつーことと並行してやっていけば精神の健全性は維持されつつより高みに向かうに違いないって思いますね。知・ロボアニメ・グルメの三位一体ですね。

 

んじゃまた。