ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ShooterとShooting。

ゲームぼちぼちやるの無くなってきて(笑)あとWatch Dogs2の不具合でCTDがあるんだけどまぁ近々パッチ来るだろうしあとなんか一気にやって終わらせたくないんでちょっとずつやってるんだけどね、まぁんでそうなってくるとだんだんリアルの比率が高くなるんだけどまぁそんな感じで関心はひたすら弓に向かう感じで買った本を読んでるんだけどこれって手元に無いと意味ないなーとかって思って早く弓を手に入れたい!という欲望がマックスになってる感じですわ。


まぁ良い傾向だよね。あとまぁなんかそれで手元に弓がないからやりたいことができないっつーんで手持無沙汰みたいになるんだけどそこでもう三か月ぐらい返してないツタヤのDVDを見つつこれがまぁなかなかっていうかトレイラー貼っとくか。やっぱ映画っていいっすよね!って感じになったのとそうなんですよ!今のディスプレイで見る映画はやはり違う!っていうかノートがデフォってどうなのよ?って話ではあるんだけどまぁいいよね。そんな感じで映画に没頭してるとまた勝手に時間が過ぎて行ってもう一月も5日になってんのね(笑)こないだ年末だったのにーって感じでまぁ本当に30過ぎたらあっという間ですよねー。



ヒメアノールはヤバいよ。マジで。ロブスターもヤバいけどね。


あ、んで思弁的実在論に関して言及したけどまぁ色々あるんだけどyoutubeで事足りる感じなんで本は買ってないんだけどさ、Speculative Realismってやつですけどね、まぁそれに還元するつもりはないんだけど身体無き存在ってのはどういうことなのか?とかね、まぁようはまぁ俺の勝手な解釈だけど弓の禅的境地って言わばそうなんだよね。雨に打たれた葉っぱから雨が落ちるようにそこに意志とか人間ってのが介在しない自然さというか無の感じというかさ、まぁ形而上学なんだけどでもまぁあれなんだよな、一気に話がゲームになるけどWatch Dogs2でサテライト経由で韓国とか中国とかにハッキングするミッションあるじゃん?まさにあれなんだよな。


視点がセキュリティカメラとか警備員のスマホのカメラとかなんだけど所謂「戻る」が無いんだよね。もちろんそれはハッキングしている視点を見ているゲーム内の主人公ってのがいるわけなんだけど攻殻機動隊の素子の目線ってまさにあれですよね。あんな感じで色んなところに潜り込めるわけだ。まぁ潜り込めるっていう事実はともかくとして身体が介在しない状態で視覚とかカメラフィードとかっていうレベルで視野を確保するっていうね、で、そこがダメになってもそれは別にマスターに影響を及ぼすわけじゃなくてそのカメラという視覚が失われただけでそのカメラをぶっ壊されたからっつって別に自分がダメになったりしないじゃん?また他の別の視覚を確保できるようなところをハッキングすればいいってことになる。


でもまぁこれって一気に飛躍するけど仏教でいうところの「自在」に近いと思うんだよね。まぁでもそれは本来の自分とか自分自身っつーオントロジーに帰結するんじゃなくて一時性の連続性によって出来上がる積分的なものを微分してようは指を差して「これが存在」っていうようなもんでまぁ禅の公案とかにも出てくる話なんだけどじゃあさっきのハッキングしている目線ってのは誰なのか?っていうね、まぁそれがようはハッキングしてそこの視覚を得ているというところに自在するわけよね。


でもそれは一時的なもんなんだけどそれ言い出すと別に存在自体一時的なもんだし何も身体というのを前提にしなくても存在はありえるってことになるよねってまぁそれは道理で言えば当たり前なんだけどね。弓と禅に出てくるような無の境地で弓を射るってのはまぁこのハッキング感覚に近いよね。リアルで色々あるとか昔色々あったとか人間関係がどうだとかっていうような色んなファジーな情報からフリーになって体を一時的にハッキングして全部を弓を射ることに集中するっていうね、まさにハックなんだよね。マインドハックか。


そうなった場合、その射る人が誰であるのか?とかそういうバックグラウンドとか関係なくなるんだよね。もう本当に弓と的という話になる。で、人間ってのはそれに介在する媒介みたいなもんであくまででもマネキンのような感じでいるっていうね、まぁ弓術全般に言えるかどうかはともかくとして無というのはそういう感じでしょう。でもそれは何も考えなければ誰でもできるのか?ってことになってまぁそれにはすんげー技術を必要とするんだよね。ある意味全然自然じゃない弓を引いているという状態で無に至るってのはそれを支える体捌きとか力の入れ方と抜き方とか技術が必要じゃん?その技術ってのがようは身体をハックするという感じなんだよね。


だからそこでオントロジーのジレンマというかさ、形而上学的にちょっと飛躍して弓を引いているのは誰なのか?とかっていうことになるんだよね。胡蝶の夢と同じ図式だね。でもその誰なのか?っていうことがmatterにならない自由さだよね。それがまぁ俺がこないだ書いたフリーフローってことでだからこそ何かの体験を得るとか認識を得るとかなんとかっていうソースがリアルだろうかヴァーチャルだろうが関係ないっていう話になるんだよね。まぁでもそれも別に複雑に考えなくても本来それは当たり前なんだよね。それこそ小説とか映画とかにインスパイアされたりするわけだしまぁ小説とか映画をヴァーチャルとするかはともかくとしてまぁ現実ではないものだよね。ファンタジーもそういうことになるけどでもそこから何かを得るなり現実を考えるうえでのインスピレーションとかアイデアを得るっていう意味ではそれはありえるわけじゃん?そういう意味でソースは別に問題にならないということなんだよね。


なんか腹減ったからそろそろやめるけど(笑)っつーかまぁ色々と考えてる最中なんでまた今度書くけどさ、まぁんで胡蝶の夢と言ってもそれもまぁ形而上学的目線ではあるのよね。ただファジーなことを言えば自分というコンテキストからは自由にはなれないからね。それこそ身体的な持病とか悪い癖とかそれまでやってきたこととかやっていることとかっていうね、別に柵というわけじゃないけどでも自分というコンテキストは常に存在するよね。でもそれはただの関係性なんであって存在性にリミットをかけるようなものではないんだよね。そこでまさに俺の言いたかったあれなんだよね、FPSで例えばFar Cryで弓を使っているということに没頭している自分と現実で弓を引いていることに没頭している自分と両者ともにFPSなんだってことなんだよね。ゲームはSの部分がshooterで現実の弓の場合、shootingになるよね。shooterの場合、介在しているものがゲームというインターフェースでそれによってそのshooterという能力を得ているという状態だよね。shootingの場合、精度の問題はあるけど誰でもそもそも目線は一人称なわけだし弓なりなんらかの撃つものってのを手にして何かを狙ってるときはもうそれはshootingだよね。


でも存在というのはそれがshooterだろうがshootingだろうが関係ないというね、そこにあるのはshootするものっていうものだけっていうような空の世界だよね。かといってもそれは別に仏教の空という概念に還元する必要もなくてただまぁでも禅的無であったりナーガルジュナ的な空であったり西洋の形而上学的無とかempty formっていうことだったりするんだけどそれはemptyだからこそそれがshooterであろうがshootingであろうが全く問題にならないっていうただの主観の問題っていうことになるんだよね。もちろん意味論的にはshooterの場合、そもそも例えばfar cryとかをやってるわけでそれに関わる体験とか経験ってのはあるし弓なら弓でそれをやっている自分と身体とか腕が疲れるとか弓用品を買いに行くだとかなんだとかっていうリアルのコンテキストが出てくるけどそれは全くempty formには関係しないものだよね。そういうものとは独立したところにshooterとかshootingがあるんだよね。


まぁその辺がハイデガー的な超越性と有限性みたいな話にも繋がるんだけどかといってもそれでハイデガー存在論と禅的存在論を一緒くたにするってのはまたそれは違う話でさ、あと俺が言いたいのもそういうことでもないし、ただ俺がフォーカスしてるのはそういうオントロジー的な考え方がありつつ自分が何にフォーカスをして何を経験するのか?っていう体験なんだよね。その体験から生まれる自分の生という自己生成だよね。まぁこれはすげーニーチェ的なのは言うまでもないけどでもニヒリズムを突き詰めたところにそういう生成論の本質があるってのは言うまでもないよねっていうかまぁ言うまでもないじゃなくてまたちゃんと書くけどね。


でもまぁその現前性の一つなんですよね。色んなものに絶望したり死ぬかと思うぐらいなクライシスを経験して気が付くっていうでもそれはやっぱり人生って素晴らしい!みたいなことじゃなくてどんどんニヒリズムが深まるんだけどそこで見えてくるオントロジーの次元ってがあるっていうことなんだよね。で、その生成にフォーカスをすると体験的に面白いものというのは考え方次第で色々あるわけで存在に悩むよりかは体験と生成にフォーカスしたほうがいいっていうことだよね。存在ってのはあくまでさっきも書いたけど連続性の微分だからね。まぁその多様体においてはソースがなんであれ生成に影響を及ぼすという意味においてはそのソースの実在性とかリアリティなんてのは関係ないっていうことだよね。でもここが難しいんだけどそれ言い出すとまぁなんか通俗的なオートポイエーシス論とかアフォーダンス論みたいになっちゃうんだけどそうじゃないんだよな。そこで重要なのはその多様体と形成とか形態とか作用ということではなくてあくまでempty formというオントロジーなんだよね。そういうコアがあって多様体とかっていう存在の考え方も出てくるっていうことなんだよね。


まぁそんな感じだわ。まぁまだあると思うんでなんかあったらまた書くけどまぁ今日はそんな感じで。んじゃまたね。