ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

塑さんへの返信。

塑 2017/01/21 09:45


コメント失礼します。


「観念的にわかっていない」状態で弓を引くことによって体感できるものについてはどうお考えでしょうか? ぼくはこういうものの価値ってやっぱりあると思うんですよね。あやふやな感覚だったり、なにかがおかしいという感覚だったり、あるいはよくわからないけどうまくいってしまって怖い、という感覚だったり。観念的に押さえたあとで弓を引くという路線を徹底するとそれらの体感が可能性レベルで消えてしまってちょっともったいない気がしませんか? もちろん想像はできるでしょうけど、それは往々にして切迫感を伴いません。経験なしで読む哲学書のような。


なんというかあれですよ。小説家とか音楽家にとって経験はやっぱりそれが全てではないにせよ重要なものじゃないですか? 作品をつくるうえで武器になることは間違いない。けどもう売れに売れまくった小説家が、たとえばあるとき神待ち掲示板かなにかを使ってJKと援交する経験って具体的にどんなものなのかを知りたいと思ったり、あるいはどっかの風俗店とかに行ってそこで体験できる独特の虚しさのようなものを身にしみて感じたいと思ったとしても、それはもう無理なわけです。だってその人はもう売れに売れてしまっていて、顔も世間に知れ渡っていて、だから援交とか風俗店なんかに手を出した日にはスキャンダル、失墜だから。もちろん話のわかる人間は作品の価値が作者の素行によって貶められるとはかぎらないと知っていますが、世の中そんな話のわかる人間ばかりではありません。失墜した人間の小説、というフィルターを介してしか世間に受容されなくなってしまう。書いたはずのことが適切に読み取られなくなってしまう。むしろ書いていないことばかり読み取られてしまう。だから顔が売れる前に援交しときゃよかった、となるわけです。そう思いながら口には出さず、書斎で静かに次作の長編を執筆する。そしてなんとなく制限された感じがする、と。


こういう不可逆性がある。


趣味の絡むところではあるかもしれませんが、ぼくは「顔が売れる前に援交しとく」ほうが好みです。mimisemiさんはどちらが好みでしょう?


分かっていない状態で引くこと」はある意味素人がやろうとすれば誰でもそうなる・・・というところから来るエラーは悪癖になりかねないので最初から自分の中に師範レベルの先生をビルドして自分で教官をやる・・・というのが方法論的に実際可能かどうかはともかくとして物凄い盲点だったのは僕のこの方法論が可能として仮定するとしてそれで失われるのは塑さんのおっしゃるような「分かっていない状態で引く」という体験そのものですね。道場に入門すれば手取り足取り教えてくれるかはともかくとして徐々に教えてもらいながら試行錯誤して「うまくいかないなー」ってことを思いながら指導されてやっていくっていうそれ自体が経験になるわけですよね。そこで純粋に経験されるのは分からないながらも教えてもらいながら試行錯誤するというプロセスなんであってそのプロセス自体に価値があると思いますし塑さんがおっしゃるような価値全般にも価値があると思います。


あと確かに切迫感は無くなるかなと思いました。例えばこの切迫感って僕が弓を買いに行ったときに店員さんに弦の張り方を例外的に指導してもらったときに頭が必死になってやろうとして同時に三つの動作をやろうとしたりしてパニクってしまう・・・とかっていうことでもありますよね。では果たしてこのパニクるという経験が無駄か?というとむしろ有用ですよね。経験的に価値の有無は別として体験として強度がありますし後にできたときに何がダメだったのか?というのが教えてもらったばかりの時にできなかった自分というのがあるからこそ分かったり「そうか!」と思えるものがあったりしますよね。


売れっ子の小説家の援交の例えは見事ですね。僕も言うまでもなく「顔が売れる前に援交しとく」ほうが好みです(笑)あと自分なりに今バージョンを考えてみましたが、これもあるかなと思いましたというかちょっと違うかもしれませんけど書いてみますけど実家が金持ちだったりするのに過去の貧乏だった作家や芸術家に憧れて「自分は親の力を借りない!」と言って貧乏暮らしを続けながら必死に創作活動をする人とかっていますけどこれの場合、生得的な不可逆性ということになりますよね。ようはもう家が金持ちなら貧乏じゃないわけだし選んでやる貧乏なんて本当の貧乏じゃないですよね。これはなんでしょう、本当に貧乏な人はそれがガチだからこそそれを切迫感として感じていたり所謂ハングリー精神というのが自ずと出てきてしまうわけで、まぁそういう人ばかりとは限りませんけど本当のハングリー精神ってこれですよね。もしくは貧乏時代を経験していて後に成功しても貧乏時代のハングリー精神というのは体験として残っているので仮にその人がビッグになったところでその体験自体は不変ですよね。


それに比べて方法論的なハングリー精神というのはただのシミュレーションというか模倣にしか過ぎなくて結局どうにもならなくてもどうにもならないぐらいの遺産なり財産があるんだったらそれを頼りにしないと言ってもそれがあるだけで逆に貧乏をゲーム感覚で楽しめるぐらいになるかもしれないですよね。「どうしよう・・・」という本当のヤバさがないということですよね。別にまぁ実家が金持ちでもハングリー精神で努力する人はいますし実家の資産は努力そのものとは関係ないとも言える場合もあると思うので全部が全部そうだと言うわけではないんですが、本当のハングリーさはガチの人たちにしか分からないですよね。別にそれがあるからといって成功するとは限らないしハングリー精神なりハングリー体験がそのまま価値があるものという風にはなりませんけどただなんていうんでしょう、仮に貧乏から這い上がって成り上がった成功者が「いやー貧乏だったものでね」と言いながら「いや、裕福だったらこんなに頑張らなかったと思うよ(笑)」とかって言ってたらまさにそれ!っていうことなんですよね。


この成り上がりの成功者の場合は元々金に困らない人たちには体験できないような貧乏体験というのがあるから成功できたという意味でまさに似たような不可逆性ですよねといってもまぁ成功したからといってそこから転落する場合もあるのでなんとも言えないんですが(笑)そこで僕の弓の話に戻すと僕の場合は「観念的に分かってない状態で弓を引く」という経験が可能である現在にその経験を捨てて「観念的に分かった状態で弓を引く」ということに行こうとしてるわけですよね。でもそれは分かってしまったら分かってない状態で引くことはできなくなってしまうので、その分からないもやもやした中で試行錯誤するとか分かってないが故に体験できることというのをパスしちゃってるってことになりますよね。観念的に分かってない状態で引いていたとしてもいつかは分かるようになるので結果的に分かった状態で引くようになるので経験の豊富さとないが故に得られる体験を得ているという意味で分からない状態でも引いたほうがいいということになりますね。


あと結果的に分かるようになって引くようになると言っても分からないうちにも引いていたことがあるという経験がある場合とない場合とでは観念的に分かるようになっているレベルでも質が違いますよね。良し悪しではなくて経験してきたことが違う上で成り立っているので両者は似ているようで別物ってことになりますよね。とにかく色んな意味での盲点を塑さんに射抜かれた感じで「おお!」という感じがあるんですが、なんでしょうね、それは「自分が弓をやる上で」というよりかは「生きるうえで」という意味において示唆的に思えましたし、それがまさに「顔が売れる前に援交」という落としどころに端的に表れてる気がしたんですよね。


相手がJKかはともかくとして(笑)まさにその好みの問題ですよね。どちらが好きか?というどちらの経験がお好み?ということですよね。ただまぁ弓はともかくとして恋愛となると逆に弓の話で出したバートルビー的な「I would prefer not to」で居続けたいみたいなところはありますよね。それをなんでやらないのか?というのを考えたときに相手がいないというのがシンプルな解答なわけですが色々と経験して分かってしまうということが嫌な領域なんだと思うんですね。これは概念的なもの全般においてそうですね。なんたら全集みたいなのを買ってきて安心するんだけど読み終えちゃったらどうしよう・・・と不安になってしまう。なんでも読めるようになると逆になんでも読めることが不安に繋がるんですよね。「え?これでいいの。分かっちゃったよ」とまぁ分かるまでに壮絶な労力と時間を割いているはずなんですがでも分かるということに恐怖感があるんですよね。それはそれでそれが完結してしまうというような風に感じてしまうということの不安感ですね。


逆に自分は常にそれがあるので「観念的に分かる」ということが実質的にありえないんですよね。色々読んでるけど結局は常に分からない状態であやふやでもやもやした状態になっちゃうんですよね。色々やってきてまた最近実存主義関係にのめり込んでるというのもまぁリアルでの経験などのフィードバックもありますが、結局はこれは分からないこととなぜか悩みが常にあり続けるという切迫感から来るものなんですよね。だから安定することがないし精神も安定しないどころかまともにしてるとやってられないんで何かに没頭するかヴァーチャルの世界に没入するか酔っぱらうかぐらいしかないんですよね。


そんな中で武道の世界にも没頭して切実に武士道と武道について考えたり実際に刀や弓を触ったり調べたりして体感するということをしているんですが、多分そこで観念的に分かるということはないんだと思ったんですね。これがようは中国の道教などの影響にある「なんたら道」全般においてのことなんですよね。あと僕は前から能が好きなんですが世阿弥風姿花伝に見られるような幽玄の世界の言葉とか形にならないある種形而上学みたいな次元の技術の現れとか技術的な帰結なり極まったときに出る不可解な凄いものみたいなものに惹かれ続けてるんですよね。


そこには畏敬するような何かっていうのがあってカントで言うところの「崇高」のような美学の世界でもあるんですよね。そこが分かる・分からないとか知った・知っていないというような二元論では語れないような常に分からないながらも幽玄的な現実的なものとそうではないものを超越するような観点というところでもあるんですよね。まさにそれが普段書いているリアルとヴァーチャルという話で僕のメタリアル路線というのもまさにこれに尽きるわけなんですが、ただでもこれは確かに良い路線だし問題ないんだけど素朴な体験とか経験の契機が不足してしまうという問題がありますよね。自分で言うのもなんですが最初から洗練され過ぎているがあまり素朴な経験というのが素の状態で体験されないっていうんですかね。


ただそこであれなんですよね、自分のリアルで言うとなんだかんだで色々分からんしただまぁとにかく酔っぱらってやるゲームとか酔っぱらって見る映画は最高だ!みたいなものがあってそれが凄く素の状態なんですよね。その状態で真剣にゲーム内で弓を引いている自分というのと実際の弓に向かっている自分というのが全く違う次元の位相のものが同相になってフェイズしていくみたいな感じですかね。こないだブルバキなんかを出して代数系がどうのとかって言いましたけどようはこの位相空間とか位相次元なんですよね。もしくは位相上で全く同じとされるような現象でもそれを現象としてみるとそうだけど身体や体験や精神を通してみると全く異質なもの同士に感じられるとかっていうまぁこの辺が昔から書いているハイパーリアリズムみたいなところでもあるんですが、そこでなんとも言えない「おお!」という瞬間があってそれは観念的に弓を引いて射るときでも実際に弓を引いて射るときでも起こりうることなんですよね。でもそれは凄く偶発的で合理性とかなんらかの変数をいじれば出来上がるような工学的なものではなく現象的なまぐれだったりそれが気づきに繋がるみたいなところで結局その体験というのが弓に還元されない普遍的な現実の認識論を与えてくれるみたいなところですよね。


そういう意味でも分からない状態で引く弓とかは明らかに契機が色々ありますよね。JKと援交するのはリスキーだけど弓においてもJKと援交するぐらいのリスキーさというのを知らない状態で引くということに感じるわけなんですよね。だからヤルときはゴムを付けて弓の場合は弽をつけて・・・とまぁ下ネタはともかくとしてリスク計算ばかりしていると体感できないものがあるということですよね。別にそれはリスクを犯せ!ということではないんですが、ただ結局、そこで僕がいつもエロスという言葉に最後に帰着するようにバタイユにおけるエロスってまさにこの禁止と侵犯にあったわけなんですよね。そこを理性に支配させずに剥き出しの欲望や「やりたいんだ!」というような内発性を大事にするということですよね。ただ身を亡ぼす結果になってしまうとダメなのでやっぱり理性が勝ち気味にはなってしまうんですけどね。


ただでも結局は僕も「顔が売れる前に援交しとく」ほうが好みなんですね。だからそれは色々と読んでまた色々と硬くなる前に柔軟にプリミティヴな欲望みたいなのを大事にして色々と取り組んでいきたいと思いますね。あとやはり凄く思ったのが理性の領域を拡大すると無くなるものがあるということですね。そしてそれはモノによっては不可逆性がある場合もあるということですね。


だいぶ長くなってしまいましたが(笑)とりあえずこんな感じです。正鵠を得た書き込みにインスパイアされて色々出てきた感じで非常に感謝しております。また返信などあれば是非、書き込みください。