Ardbeq10さんへの返信。

Ardbeq10 2017/01/26 03:50


耳セミ氏お久しぶりです。


躁鬱さん初めまして!躁鬱さんのコメント凄く刺さりました、ホント。ってゆうか、「躁鬱さん初めまして!」って文字にすると面白いですね。深刻さがなくてラテンなノリが笑 鬱も人生のスパイス!みたいな大らかさが、2017年の日本に酷く足りてないテンションじゃないかなって思いました。「また夏に会いましょう!」って言ってた(イエモンがね笑)ので夏ぐらいまでは静観しようかなーなんて、オトナ感出そうとした僕が間違ってましたね。思ったら即コメントですよね、youtubeのリンクばっかりですみませんでした、ホント。(しかもイエモンでゴリ押しってゆう笑)なので、思った事をつらつらと書きますね。


というか、耳セミ氏がベロベロの同じタイミングで僕もベロベロでしたね2、3日(笑。まともな事書けねーっつー(笑)今日も絶好のArdbeg日和になりましたね。耳セミ氏と僕とのやり取りがリアルかってゆうと、やっぱり「限りなくリアルに近いハイパーリアル」だと僕は諒解していて(まあ、確実にリアルに影響してますけどねw)。躁鬱さんが依存とドラッグの話をしているので、ハイパーリアルの話で何故僕がakiraを引き合いに出したかを話のマクラにしつつ、どこまで行けるか試してみたいと思います。今日は前回のコメントで書かなかった所までアクセル踏み込む予定です。耳セミの本文を凌駕するボリュームを目指しますよっと。んで早速結論から言うと、僕の中でakiraという作品は「トリップをトリップとして作品の中で取り扱いつつ読み手をもトリップさせて、最後に全てをリアルへと着地させる唯一無二の作品である」という事なんです。


それも、結果的には大団円で全部引っくるめてグッドトリップにしてしまう。これは結構驚異的な仕事で、というのもやっぱり普通の作品は丁寧に作っても上に挙げたピースのどこかが欠けてしまうんですよね。丁寧に作り込む程と言っても良いかもしれません。
だから、シュールレアリズムの画家も、ダダの詩人も、ビートニクスの詩人や、デュシャンに始まる現代アートの旗手達も、60年代JAZZ面達も(頂点はローランドカークね)みんなakiraに嫉妬してると思う。みんな、それぞれの領域で表現手法を駆使しながらトリップをトリップとしてトリップさせたかったと言うか。だから、出来る限り既製の枠組みを解体する方向に向かったんだと思いますし、それは一面的には成功していて。でも、やっぱりその後にはペンペン草も生えないポストモダンしか残らないですよ。


大竹伸朗も「カスバの男」ってゆう作品で、タンジールに行ってるし(バロウズが住んでたとこ。因みに、タイトルは完全に宇多田ヒカルの母親である藤圭子が歌ってる「カスバの女」へのオマージュですよね)もう、芸術家の屍の山を見てもどこにも行き場なんて無いというのが明白な訳で、もうどこもかしこも残滓しか残ってないですよね。僕や耳セミ、躁鬱さんも含めて。この「どこにも行き場なんてない感じ」を現代において最も適切に取り扱って、形式主義先端部の何も起こらないような所において「何もない中で手持ちの道具で遣り繰りしながら、人生をドライブさせることは案外捨てたもんじゃない」って言い続けてるのが村上春樹な訳で。だから、作品が世界的な普遍性を持つんですよね。設定とかストーリーテリングにフォーカスして普遍性を語る村上春樹論は意味がないというか。


そういう人はブリコラージュを知らないんですね。例え、知ってても読みが浅い。もう一度レヴィ=ストロースから始めなさいってゆう、ね。「先ず、塊より始めよ。」んで、村上春樹ってストーリーテラーとしては一遍死にかけてるんですよね、僕の感覚では。世間的には駄作と見做される事の多い「アフターダーク」なんかが正にそうで。もう、惨憺たる情況ですよね、春樹の感覚からすると。あ、村上の方の話ね。角川じゃなく笑。角川の方も話し出すと長くなるからね、ホント。松方弘樹の「野性の証明」とかはやっぱりヤバ過ぎて、情報過多ですよね、オーバーフロー笑。スピード感パネエ!ってゆう、まあ端的に言うとシャブ的世界観だよね。
んで、話を村上の春樹に戻すと村上春樹ってやっぱり「現代においての神話」を紡ぎ続けてるんですよ、確実に。いやーこう書くとホントにシンドイ仕事だなあ、ストーリーテラーって。そりゃ、体力勝負ですよね。


アフターダークは本当に何も起こらない小説で。話者の視点が、防犯カメラみたいなんですよ、ホントに。冷たい視点。淡々と記録し続ける機械的な視点。情況に何か変化とか化学反応が起こりそうな結節点はたくさんあるのに、その悉くで何も起こらないってゆう。まあ、のっけから仕舞いまで始終ハルキストを裏切り続けるってゆうとんでもない作品ですよね笑 ハルキスト相手に「好きな作品はアフターダークですっ!」なんてのたまった日には、もうハルキストのサンドバックですよね笑


でも、僕には衝撃だったんですよね。もう脳天カチ割られるぐらいの衝撃だった。なんと言うか、村上春樹の本気度を確実に見たし、その態度の真剣さにぶちのめされたと言うか。実際、小説みたいなことってそんなに起こらないですよって。でも、それは表面的な態度であって、例えば作中にはコンビニの棚で震え続けている携帯電話の描写があるんですけど、登場人物はその震え続けている携帯電話を一度取って、また棚に戻すんですよ。でも、その描写の裏側で村上春樹はその震え続けている携帯電話を凄く取って欲しいと思っているし、それを取らせて何とかストーリーをドライブさせたいと思っているはずなんです。でも、登場人物はやっぱり不穏な携帯電話を棚に戻してしまう。んで「何かが起こりそうなが結節点に満ち溢れているにも関わらず結果的には何も変わらないし、登場人物は自らの方から積極的に何も変えようとはしなかった」小説になっていて。これ文字にするとホントにヤバい。初めて、文字化して自分で再認識してるわ、今。体感的には、文芸誌に原稿売れるんじゃないかってゆうレベルですよ笑


んで、村上春樹はこれじゃいけないって1Q84に繋がって行くわけです。1Q84では、チェーホフやらプルースト平家物語に内田百輭まで引用されてる。内田百輭引用して内田百輭よりも強度がある作品を紡ぐ作家は村上春樹をおいて他にいないと思う。んでやっぱり、自分だけでは足りないってゆう村上春樹なりのハイパーリアル的なリミックスですよ。結論だけ見てる人には単純な作品に映るみたいですけど、まあそれはそれでいいやw 誤読されつつ売れるというのもやはり村上春樹の真骨頂な訳で。もちろん、アフターダークの前フリとしてノンフィクションののっぴきならない「アンダーグラウンド」ってゆう仕事をやってのけてる訳で、んで、「アンダーグラウンド」の伏線に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」があって、やっぱり物凄い書き手の執念みたいなもんを感じるんですよ、読み手が勝手に。


ここまで来ると、もう様式とか文体なんかは削ぎ落とされて、残ってるのは熱量だけですよね。世界の終わりとハードボイルドワンダーランドなんかは、夢読みと計算士(シャフリング)のお話なんですけど、これ耳セミじゃん!って。化学者がとある組織の命で計算士と呼ばれている人にシャフリングってゆう能力を埋め込むんだけど、そのシャフリングってゆう能力を埋め込まれた計算士は作中に登場するただ一人を残して悉く死んでしまうってゆう、耳セミ讃歌になってる笑 で、生き残った計算士は凄くハードボイルド笑


んで、ボールパーク(金玉の遊び場)で引用したタランティーノパルプフィクションなんかは、コークしか知らなかったユマ・サーマンがヘロインでノックアウトされるってゆうね笑 「若いヤツがファションでやるとイタイ目見るぜ」的なメッセージが全編に亘って出て来るし、深作欣二のdopeな世界観をアメリカ風にリミックスした佳作だと。でも、作中で出て来るジョークで遅れてるtomato boyにcatch upってゆう感じとかがとても優しいのね。そう言う意味では、クリストファーノーランが一番近いよね。インセプションとかは何重にも重なった夢の話だし、メメントは記憶がそのまま肉体に刻まれるし、なんつーか経験とか記憶の強度ってゆうのは頼りないもんだし、すぐに忘れられるし都合よく改変されるから肉体に刻んどくに限るみたいな感じかな。


この感じってゆうのは躁鬱さんがコメントで言ってた「そういうところを見てると、ケルアック、ギンズバーグバロウズ、キージーといったビートテロリストたちの姿が浮かんできたりするんですよね。精神を暴力的に上書きして他人とすれ違うことで傷を負い傷を負わせながら自らの肉体で実験し続けてるみたいなビートニクの感じがね。」みたいなところに通じると思うんですよ。


でも、それって結局ひとりヨガリだなーって思ってしまったんですよね。なんでかっていうと、こないだ躁鬱さんがコメントしてくれたりとか、耳セミが真に受けてくれたりとかっていう一連の流れの中で、自分が物凄く喜びを感じたというか、ゴロッとしたナマの物体を転がしてみた所で、何かを確実に共有したんじゃないかという錯覚(共有してたら同位角ですよね笑)に陥ったんですね。


んで、そんな話をナチュラルハイテンションでカミさんにマシンガントークするもんだから、「また、アタマおかしくなった?」みたいな反応があったりする訳です。実際、過去に「ああこれ糖質っぽいなー」なんて時期もありましたし自覚症状と客観的な視点は常に持ってる訳で。でも、カミさんだったりチビだったり、他者が介入し続けてくれることで成立してる自分っていうものがあって。まあ、未だに十二分にデラシネですけど、そんな自分でもどうにかこうにか社会と折り合いをつけていけそうだということに気づかせてくれる存在というのは非常に大切で。


で、もっと大事なのは自分で自分の物語を書いて自分をドライブさせ続けなくてはならないということで、昔もそうなんだけどある種の枠組み(フォームって言ってもいいかも)みたいなのが瓦解したことが露わになった2017年の現状だと思うんです。まあ、それはみんなが信じたがっていた共同幻想を短期間共有してたみたいなもんで。日本国銀行券と同じでタダの紙切れになる可能性が膨らんで来たのが2010年代の流れじゃないかなと思うんです。


ただ、僕が耳セミは信頼に足るんじゃないかなあと思った所ってゆうのが、誰かが無条件の愛情を耳セミに注ぎ続けてるなーって感じた所なんですよね。


んで、こないだの投稿で「やっぱりなー」って腑に落ちた部分があってそれは大切にしないといけないし、ご母堂様が仰有る通りで。んで、耳セミもそこんとこ解ってるから必死こいてる。


これは、ホントに他所では言えない事なんだけど俺は秋葉原のK君(トラックでリアルGTAやった人ね)の行為は理解したくないし到底肯定出来るもんじゃないんだけど、彼の心情はとてもよくわかる。ここで問題なのが、行為と心情が同一視されてともすれば心情が切り捨てられるっていう危うさなのね。でも、この危うさってゆうのは少なくとも自分を絶対的に肯定してくれる他者が一人でも居ればブレーキがかかる類いの危うさであって。その、自分が例え悪だろうが善だろうが何にせよ絶対的に肯定してくれる他者というのを現代人が持ち得ていない悲哀が顕在化した一例な訳ですよ。


まあ、昨日カミさんがマイコプラズマ肺炎で入院したんだけどさ(全治10日omg!)、そんなタイミングで切実にヒリヒリ感じたりするよね。カミさんだったりチビだったり、自分が「無条件の愛」を注いだり注いでくれてたりってゆう存在が自分を確実にドライブさせて行くよね。それは、時に制約かも知れないけれど(確実に本を読む時間は激減したよ笑)それでも自分が信じている限り大丈夫なんですよ。どこかのタイミングで崩壊するかもとかって言うけどね、それはアップデートサボってるだけだから。アップデートし続けていれば離婚しようが別居しようが、裁判沙汰になろうが大丈夫な訳ですよ。もう、2010年代に生きる我々はアップデートし続けなければいけない宿命、謂わば「業」を背負っている訳で。それぞれが、それぞれの形でキリストと同じ十字架を負わされているんですよね。重さに耐えきれずに自壊する前に筋トレしようよっていうね笑


それはやっぱり肉体も健康に保つのが大事だけど、それにも増して、精神の健康的な強度みたいな所ですよ。しなやかで強靭な精神は筋トレと同じで、反復と陥穽に陥った後の超回復みたいな所なんですよね。戦闘種族でありサイヤ人な訳ですよ。


ベジータ的なスーパーサイヤ人へのアプローチこそ、今現時点で最も必要とされてるんじゃないかってね。


いつも、精神と時の部屋を提供してくれてありがとう。

まだ風邪引いたままなんですが熱が引いてきたので(笑)返信を。ということなんですが、僕もこの場自体がハイパーリアルなものだと思ってます。リアルから乖離している精神世界オンリーなのではなくリアルからのフィードバックやら引きこもりがちなので外に出よう!っていうところから得られた体験がそのままここに反映されるっていう意味でハイパーリアルですね。それは体験がヴァーチャルなものでも同じなんですよね。媒体がゲームでゲームをやってる中で得られた認識などが精神にフィードバックされるっていうそういう意味で重要なのはその体験と認識なんであって媒介するものそのものに内在しているというわけではないということですね。


それにしても本当に改めて自分の無知を曝け出すような感じになってしまったんですが(笑)村上春樹にそういうものがあったってのは全く知りませんでした。というかでもArdbeq10さんのこのようなイニシエーションが無いと仮になんかの機会があって読んだとしてもそういう風には捉えられなかったと思うんですよね。なんか言葉が見つからないんですが本当に感謝しています!


でもあれですね、ペンペン草しか残らないポストモダンのことなんですけども、一応歴史的なんかルネッサンスとかってそういうペンペン草しか残らなくなったところから復興して色々芽生えたみたいな感じがあるじゃないですか?クラシック音楽とかにしてもみんなバロックとかの古典からのリファレンスが軸でそこから時代精神を出すような、これもある種のブリコラージュだと思うんですよね。で、20世紀になってストラヴィンスキーとかの時代になってからいよいよなんかもうネタ無くなってきたよねっていうところから革新的なケージみたいな音楽の思想とか手法的にミュージック・コンクレートのような思想的にはシュールレアリズムを踏襲したような認識をズラす感覚みたいなところで色々とまた新しいのが出てきましたよね。


で、まさにその現代アートっつっても僕はあんまアート詳しくないんですけどジャズにしても解体に向かってフリージャズなんかが出てきたりして僕はアイラーが頂点だと思いますが(笑)結局ジャズも行き詰りますよね。文学もアートと同じく詳しくありませんがビートはかなり読んだので分かるんでビートで言えばまぁバロウズって特異点的な人間だとは思いますけどもただやっぱりダダとかデュシャン的なものの行き詰まりからの解体っていうコンテキストはありますよね。まぁブライオン・ガイシンに影響を受けてコラージュをやり始めたという時点でまぁ完全にそうなんですけどね。あと映画でもそうですよね。ベタですけどゴダールとかヨーロッパのアートフィルムとか前衛的なものとかってまぁやっぱり解体っていうところが凄くあって、んでまた時代もまた同じような60年代とかなんですよね。


んでもその後どうなの?っていうと芸術としての映画っていうとどうなんだろう?っていう映画にしてもペンペン草しか残らないような状態なわけですよね。そこでまぁ知ったかぶるつもりはないんですけどArdbeq10さんがおっしゃる村上春樹の普遍性みたいなのって映画で言えばタランティーノって感じがしたんですが違いますかね?もちろん全然ベクトルは違いますけどね。村上春樹はそういった何もないものに関してヤバいぐらいストイックに向き合ったという感じがしていて、タランティーノはその一方でただの映画オタクが色んな映画の要素をブリコラージュして色んなものを作ったという感じがあるんだけど「手持ちの道具で人生をドライブさせる」というところでは同じですよね。


んじゃあその最終手段とも言えるポストモダンの中で色々とドライヴさせていくということすらもやられ尽くしたら何が残るのか?っていうところですよね。まぁもしくはこの「何が残るのか?」ということ自体が資本主義的な生産主義というか「なんかやらなきゃいけない」みたいなものが強迫観念的にあってでも実際別に何も起こらないし何かやらなきゃいけないっていうことの自明性ってないよねみたいな、ニヒリズムとかシニシズムとは違うような一種の諦念ってありますよね。そこでなんだろう、僕がそういう時代だからこそっていうかそういう時代に武道とかロマン主義とか武士道とかって言ってるのも多分その耳セミ讃歌になっている「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」に書かれているのかな?と思うと読むのがワクワクするんですけども(笑)


確かに何かが共有できたかも!っていう喜びってあるけどそれは独りよがりなんだとは確かに思うんですけども、Ardbeq10さんはリアルの中でかけがえのない奥さんとチビさんという存在がいて、そこで社会と折り合いがつけられるということに気が付かせてくれる重要な存在だったりして、そういった在り方は凄く良いと思うし言わばまぁなんていうか勝ち組ですよね(笑)でもそこでそういう存在に恵まれずに独りよがりな世界に没入することでしか自分の物語を紡いでいくことができない不器用な人物というのもやっぱりいますよね。例えば最近読んでいる武道関連の文献なんかを読んでて思うんですけど武士道ってすげーエクストリームなんですよね。


武士の体面というのをようはプライドとか意地とかっていうところとは違うところで武士は死んでもそれを保つっていうところがあって、んで仮に侮辱されてそこで「てめー殺すぞ!」っつってマジで殺したら奥さんとか子供さんとか一族みんなが串刺しになるかもしれないぐらいの大事なのにでも武士はそこで体面を一番重要視するんですよね。全然社会性ないですよね(笑)今で言えば完全にヤバいやつなんだけどでも僕はそこにロマンを感じるというか独りよがりと言えばそれまでだけど例えば革命家とか過去の革命にしても家族がどうのっていうよりかは自由と独立だろ!っつって命を投げ出して革命に参加した烈士とかが社会を変えてきたわけですよね。日本にしてもそれが尊王攘夷であれ革命であれ自分の身を捨てるというか大義のために命を捨てるというような時代とか歴史の脈みたいなのってありますよね。


そういう人達は歴史的な流れで必然的にそうなった人たちもいるとは思いますが、そういうところでしか自分の物語を紡いでいくことができない人たちも多くいたと思うんですね。命を投げ出すことになるけどもでもそういう不器用な人たちに死場とか活躍の場があったわけですよね。で、今はそういう時代じゃないので完全に時代錯誤なんですが、でもそういうところに凄く自分はロマンと言いますけども、僕は凄く生の根底での凄く重要なものというのを感じるんですね。それがコアにあるからこそ生きることができるっていうような、独りよがりなんですけども、でもまぁそこで仮に時代遅れでも「革命だ!」っつってどっかに乗り込んでいったら社会的な目線としてはリアルGTAのK君と変わりないことになりますよね。全然プロセスは違うしアウトプットも違うんだけどでも結果の行為としては逸脱した行為で同等に見られてしまうというところがあって、まぁ僕は別にテロを肯定はしないしK君がやったことはただの大虐殺なのでもちろん肯定はできませんけど、でもアウトプットとしての危うさとして同質なK君的なアノミー的なアウトプットと時代錯誤なやつの危うさって違いますよね。


僕の場合、その危うさを分かっているからこそより理性を強化しようと思えるようになるんですよね。言わばその他者が一人でも居ればかかるブレーキを常に自分の理性によってコントロールしているという感じですよね。でもその一方で思想的なマジさが無いとそんなもんただの幻想というかまさにオナニーですよね。そこでマジだからこそ危うくなるというところのバランスですよね。でもだから本当にそのマジな意味での武道とか弓術なんかを追求したくなるんだと思うし、それは相手を殺傷するという意味においての中国拳法なんかでもそうなんですけども結局はドライブさせているものって自分の中の危うさなんですよ。でもそこで武道なんかは技を極めていくと人を殺傷するということには帰結しないということを言ってるわけなんですよね。


宮本武蔵みたいな何人も人を斬ってきた人間がそういうことを言ってるわけです。おそらく自分はそういうところの「極み」とか「境地」みたいなものに憧れているんですよね。でもそれは形骸化しているようなものではなくそのままでは何をしでかすか分からない危うさというのを秘めているからこそ極められる道というんですかね。それが自分にとっての学問なんですよね。だからまぁそれは伴侶といっていいものだろうしブレーキがかかる他者といってもいいぐらいの存在だと思うんです。そういう過去の文献とか先人の技とかそういうところにアクセスできるという現代の情報化の恩恵ですよね。


それがまさに自分にとってそのハイパーリアルを生きるという感覚なんですよね。で、それにはやっぱりサイバーチックな近未来っぽいITとかっていうものが欠かせないんですよね。だからそこでヴァーチャルというところが凄く大事になってくるところで、そこでの意識的な経験とかってのがドゥルーズみたいになりますけども媒体はなんであれ意識的な経験なんだというところになるんですよね。そういうハイパーリアルを生きるということがリアルタイムにリアルにせよヴァーチャルにせよ認識的に脱領域化されてハイパーリアルとして再領土化されていくということですね。でもそれをドライブしているものは少なくとも僕にとってはやはりそれは危うさなんですね。その所謂独りよがりなものです。もしかしたらこれって良い奥さんとかが見つかれば全然問題にもならないことなのかもしれませんけども(笑)でも僕はそこに良い伴侶が見つからないというところにも必然性を感じるんですね。だからこそ
自分の生が可能になっているし良いものになっているんでは?と思うんですね。


あくまでドライブさせられるものは常に張り詰めたような危うさなので愛ではないんですよね。そこでまぁ「やっぱり愛だよね」ということも思うのでウォール伝でまぁ結局は愛でしょうってことにもなるんですけども、でも出会いって偶発的なものですよね。そういった意味でArdbeq10さんは出会いに恵まれたということだしそんな良い家庭を持っているなんて最高だと思います。でも僕にはそれがないけども、結局それが無いからこそドライブさせてくれるものというのがより如実に表れてくるという感じがするんですね。まぁでもそういう意味で結論としてはArdbeq10さんと全く同じでまさに戦闘民族としてのサイヤ人のようにこの世をサヴァイヴしていくために自己をアップデートしていくべし!ってことなんですけどね。


まぁでもそこは「いや、お前はそんな社会性とか気にしなくていいかもしれないけどさ・・・」って言われると何も言えなくなりますけどね(笑)別にそれは後ろめたいとかっていうことじゃなくて確かにそうなのでそれ言われると何も言い返せないっていうのがありますよね。僕はそういう意味でアプリオリに制定されているイデオロギー的な社会とか家族というようなものに懐疑的なのでそういうものもどんどん脱構築していって脱領土化していって再領土化していくべきだと思っているのでそういう意味で常に前衛で居たいと思うんですね。別にもちろん家族を持つということが守りに入るということではないんですが、まぁそこでなんでしょうね、僕のパートナーの場合「いいんじゃない」っつって永遠に狂気の世界に付き合ってくれるような人なんだと思いますけどね(笑)


言い方は悪いんですけど常識的な人が近くにいると牙を取られそうな気がするんです。僕はこの狂気の牙こそが最大の武器だと思っているのでそれを肯定も否定もせずただとりあえず傍観者的に眺めてくれる人みたいな方がいればパートナーを作るということに全然吝かではないんですけどね。いや、そういう意味で常にオープンで家族の否定とかそういうのはないんですよね。でもまぁパートナーを作るか作らないか?って自分にゆだねられているわけじゃないし、こんな不良債権誰が買い取ってくれるのか?という話でもあるので(笑)僕が偉そうに何かを言える立場ではないんですけどね。だからまぁやっぱり自分にとって残されるものが広義の意味での身体論とか武道なども含めた学問と思想なんだと思うんですね。


そういう意味での野生のアノマリーというかノマド的なゲリラであり続けたいっていうんでしょうかね。武器を持って闘争の時代じゃないけど情報化時代における観念的な闘争という時代ではあると思うんですよね。イデオロギーとかではない明日を生きるためのサヴァイヴ術としての生き方というか考え方というか、これってまさに「ベジータ的なスーパーサイヤ人へのアプローチ」だと思うんですがいかがでしょう?


あとakiraについて全然触れませんでしたが、かなり俗っぽくて申し訳ないんですけど僕はまさにそれと同じような感じをマトリックスに強く感じました。あと他に文学関係でお前はこれ読んでおけ!っていうのがあれば是非教えていただきたいです!よろしくお願いします!