「何か」を求めて。

小説ばっか読んでると「俺にも書けるかも」的な野心が生まれてくるよね。多分、「俺は何かをやる」と思い込んでいる人間が大体決まって「いざとなったら小説を書く」みたいなことを言うのもその虚しい野心の象徴なんだろうなって思うよね。「俺は映画を撮る」というのはあまりにも非現実的すぎる。っつーのも何より金かかるしスキルとか人とか色んなもんが必要とされるから「俺はこれをやる」と言うことにリアリティが無くなるんだよね。元々ないんだけど元々ないものを「やるのだ」って言うことで成り立たせる虚構みたいなのが最初から虚構だと分かり切っているがために成立しないみたいな、そういう機能不全を起こすわけよね。


「俺は政治家になる」とか「俳優になる」とか他にもいろいろあると思うけど大体まぁ例によってそういう機能不全を起こしがちじゃないですか?それに比べて「小説を書く」ということの絶妙なハッタリ感というのは虚構の機能不全を起こすほどそこまで非現実的ではなくて村上春樹なんかが言うように義務教育終えたぐらいの国語力があって紙とペンなり今だったらまぁ安いパソコンなりなんなりがあれば書けるっていう予算のかからなさと「何か」を持っている人間が発揮する場としての媒体のリアリズムがあるんだよね。


「俺は音楽を作りたい。誰も聞いたことがないような」なんてハッタリをかますのはいいけど「じゃあ作ってみれば?」っつって作れるなら作れるからね。で、まぁそういうハッタリをかましてるやつがそんな誰も聞いたことがないような音楽を作れるわけがなくて虚構の機能不全を起こすよねっていうかそれは「じゃあ作ってみれば?」ってところからの機能不全じゃなくて結局は映画監督と同じレベルの最初から分かりきった機能不全を起こすわけよね。


それに比べて小説と来たら。何もかもがダメで夢がないポストモダンの果てでもまだ幻想を抱き続けられる場としての小説とか何かを書くことへのロマンってのはこの手軽さなんだよね。誰にでも可能だということだよね。でもそれはある意味で予算があれば適当なプロットと低予算の俳優集めればロジャー・コーマンみたいなレベルなんだったら映画は作れるっていうところに対して小説と来たら確かに誰でも書けるけどロジャー・コーマンレベルのものでも書くのが大変っていう現実に直面するわけよね。そんなの分かり切っているのにね。でも手軽だからロマンを抱き続けられるんだよね。


「俺は絵描きになりたい」っつー場合とかでもさっき言った音楽とかと同じで「じゃあ描いてみれば?」ってことになって才能の無さとかセンスの無さがすぐ露呈するからそこまでロマンを描けないまぁこれも虚構の機能不全を起こしやすいものなんですよね。じゃあ小説は?というとすぐに画力とかセンスとか色彩のセンスの無さとかがすぐ露呈する絵なんかに比べて「いや、まだ構想中なんだ」って言い続けられるものだよね。ヘンリー・フール的な感じよね。「なんかすごい構想があるみたいだねー」「んーまぁねーそうでもないけどねー」なんつってそれらしい雰囲気だけを醸し出しつつ実際は何も持ってないっていうね、でもその「構想中」の雰囲気を出すためにそれっぽい服装したり雰囲気とか本だけは読むから独特のボキャブラリーなんかを発揮してそういうオーラだけを出し続けるっていうね、音楽もまぁ似たようなところあるよね。ロックンローラーっぽい感じの人たち全般とか何かやれると思ってるやつら全般そうだけどでもまぁラップにしてもまぁフリースタイルが全部じゃないけどまぁ大体語彙のセンスの無さとか全然やり取りが上手くないとかリズム感が無いとかってスキル云々以前にもう露呈するじゃん?すぐダメだって分かっちゃうんだよね。


音楽もそうだよね。内田裕也ばりに雰囲気は出してるけど声量無くて歌が下手とかね、雰囲気だけで実際何やってるの?っつーと「まぁアヴァンギャルドとでもいうのかな」と言いつつ聞いてみるとただスキルの無さをなんちゃってデレクベイリー的奏法で誤魔化して永遠とその誤魔化しをし続けるっていうその「誤魔化し続ける」っていうのがただの下手なノイズっていう音のアウトプットとして出て何よりそいつの人となりというか存在そのものっていう薄っぺらさに結実するわけよね。


これならまだいいほうだよね。「アングラだねー」っつってその誤魔化しに付き合ってくれる取り巻きとかクルーがいたりすれば永遠とアングラのロッケンローラー気取りで居れなくもないし、詭弁をもってすれば「これは今後の社会で重要なポイントとなる今を生きる緩い横の繋がりの実践なんだ!」なんて言えなくもないしね。実際にそれに付き合ってくれる人とか全然ライブとかやらないくせにライブハウスだけにはよく出入りしててベテランぶって組んだばっかのバンドとかの批評をしつつ打ち上げだけにはそのバンドとかライブ自体のクオリティに関わらず参加して甘やかしてくれる人が出してくれる酒代というか、「え?500円でいいの?」っつって一番酒飲んでるみたいなね、そういうダメの永遠ループをできなくもないわけよね。まぁある意味で素敵な横の繋がりでしょうよ。これは。


でも小説家となるとどうなんだ?っていうね、小説家というか作家だよね。売れない作家とかワナビー作家という存在なり実存なり振る舞い方ってのはあるにせよこれが悲劇的なのはなにより才能なんて持ち合わせてないってことが一番分かっているのが自分という侘しさですよね。音楽ならデレクベイリー風に弾いてアングラ気取ってればアングラ好きのちょっと可愛いめの美大生とかをお持ち帰りできるぐらいの状態を一時的であれ維持できたりするでしょう。でも作家となるとそういうのないですからね。いや、あるのかもしれないけど恐らくないでしょう。何より才能がないわけだから。


音楽みたいに誤魔化せるわけでもなくっていうかまぁ誤魔化せるんだろうけどその誤魔化しと佇まいを一致させるほど例えば取り巻きに酒代出させるみたいなしょうもないピンプっぷりを発揮することもできずに一応作家の先生になるわけだからインテリぶってなきゃいけないんだけどでも突っ込まれると地頭の悪さとか知識の無さを露呈させるからあんま突っ込んだ話とかもしたくないっつーんで人付き合いとかもイマイチだったりするわけで「緩い繋がり」もないまま「何か」を抱えたまま寂しく死んでいくんだなぁーって思うとやるせない気持ちになりますよね。


そう思うとまだイカツさだけで虚勢を張ってる実際は下手でスキルもへったくれもない雰囲気だけのラッパー気取りとかね、今書いたアングラな雰囲気だけ出してる偽灰野敬二みたいな人とかね、なんかまぁロックでもヒップホップでもやってると無駄に才能の無さを露呈させている時間だけ一応それが芸歴みたいな感じになって分からないペーペーから先輩扱いされて日本独特の縦社会に勝手にただのその無駄に長い芸歴だけで縦社会の縦軸の何個か上に乗れるっていうね、まだ何かを抱えたまま死んでいくワナビー達のほうが実存的にはっきりしていてまだマシって思えるぐらいの往生際の悪さがあるよねっていうかその往生際に居ながらにしてその悪さによって永遠と現世に居続けるみたいな存在的などうしようもなさがあるんだけどでもそれってまぁ人にもよるけどただの害悪みたいな存在だったら多分酒代すらも出してくれないわけで人がついてこないでしょう。


「あーAさんは500円でいいよー」で済ませてくれるような取り巻きのやさしさの恩恵を受けられないでしょう。そういう意味でそういう座に君臨し続けるというのもある意味処世術というか渡世の在り方の一つだったりもするわけよね。それでおちゃめだったり才能ないし金もないんだけどやたらその業界の決まり事みたいな無駄なことばっかり知っててそういうのばかりを新人にアドバイスするみたいな老害みたいな感じもあり方によってはそこまで悪くないのかもしれないよね。「あんな風にならないように頑張ろう!」って若手が思えるならそれは良い反面教師なわけでしょう。


それに比べてまぁ「なんたら論を書こうと思ってるけどまだ準備中」とか「構想中」っつって先延ばしにしながらそれを「何か」にして無駄に生きている人たちの人畜無害さといったらないよね。いや、人畜無害だからいいんだよね。さっき出てきた雰囲気だけのラッパーとかアングラ気取りのロッケンローラーより迷惑かけてないもんね。そういう人達には「うざいなー」って思われる一面もあるけど人によっては「まぁしょうがねーか」っつって酒代ぐらいは出してやろうって気にもなるぐらいの存在感があるんだけど文筆関係のワナビーの場合、存在をもってそのワナビーさをアピールするみたいな場とかもないし、かといっても無知な人たちにハッタリだけはかますことができるみたいなもんもないし、んでまぁその「何か」を求めて書こうと思ってもそこに見えるのは圧倒的な「何か」が「無い」という現実感だけでしょう。


媒体がギターな場合、ギターっつーよりかは佇まいと実際は大したことないんだけどとりあえず圧倒させるような凶悪な音を出すとかっていうモノに頼ることができるじゃん?ラッパーにしてもそいつが元々持ってる怖い感じとか実際は全然強くないんだけど体がでかくて屈強そうっていう雰囲気だけとかね、そういうのが往生際の悪さという居直りみたいなものにプラスになるわけですよね。だからやってけたりするわけだ。でも文章の場合、やってけないもんね。


だから結局、それで「いや、まだ文学を読んでないから書けないんだ!」とかって勝手に思うようにしてとりあえず本を読むっていうところに集中して先延ばしにするとか、本だけ買ったはいいけど実際はそんな情熱なんてなかったりしてんで結局日々くだらないことばかりに時間を無駄に費やして過ぎていくみたいなね、そういうどうしようもなさって別にワナビーであるから生じてくるどうしようもなさじゃなくて大体の人が少なからず持ってるであろうどうしようもなさとほぼ同類だからこそ闇が深いんだよね。だからそういうもんを社会的地位だの社会的承認だのセックスだのモテだの消費だの快楽だのってことで誤魔化しながら生きていくもんなんだよね。社会的地位もないし承認もないしモテないし・・・っつって絶望しててもしょうがなくて別にそれがあってもその根本的な闇はどうにもならないって意味で実際はそんなに嘆くようなことでもないんだっていうことだよね。嘆くべきはその「何か」が実際は無いことなんであってモテないから幸せになれないとか人から認められないから幸せになれないとかっていうそういうことじゃないんだよね。


まぁ一時的にその「何か」を何かで埋め合わせてその場で勝ち組気取っても最終的に残るのは虚しさだけだよね。あとまぁ歳取ったら終わりとか、黄金期が去ったらあとはどうにもならないとかね、まぁ少なからずそういう刹那的なもんなわけでしょう。まぁでもそれでやってけるならそれはいいんだよね。それこそさっき書いた威勢だけは良いラッパーとか雰囲気だけはアングラっぽいロッケンローラーとかね、やってければそれでいいんじゃない?ってことになるよね。そういう意味で何もないことにそんなに嘆く必要はないんだよね。でもそこでやっぱり俺みたいな人種は往生際の悪さを限界まで発揮して「何か」を見つけたくなってしまうんだよね。それもまたとりあえずやっていくっていうことが成立していればとりあえずそれはその場ではそれでいいんじゃない?ってことにもなるよね。まぁようは威勢だけ良いラッパーとかアングラ気取りの雰囲気だけの実際やってるのはデレクベイリーのパチものとノイズを混ぜた中途半端なものだったりしてもそいつなりに「これだ!」という瞬間とかを求めてるのかもしれないからね。


文学ってそういう言葉にならないけど「そんなのダメだよ」とか「論理的に考えて明らかにダメですね」みたいなメカニカルなジャッジを早々に下したりしないっていうようなヒューマニズムとかヒューマニズム的ではないけど人間的なものってのを教えてくれたりするんだろうなって読んでて凄く思ったんですよ。小説読んでるとEQが上がるだのそれを読んでいる間はそれを経験しているのとほぼ同じようなふるまいを脳がプロセスするだのなんだのってまぁ仮説なんだろうけどまぁでもとにかく人間的なものだよね。まぁ別に文学=人間的なものとは限らないんだけどただまぁ理詰めじゃないんだよねーっていう重要なところがあるよね。それは自分の中にあるかもしれない「何か」っつーよりかは認識というレベルでの「何か」を気づかせてくれるかもしれないっていう希望を抱かせてくれるよね。そんなもんリアル社会を前にしたらすぐ吹っ飛ぶようなもんだっつっても人間的な意味で重要なところってまぁ情操とかって言うけどもさ、そういうテイストだったりするわけじゃない?


そういう「もしかしたらそうかもなー」っていう気づきの前触れみたいなのがありつつ色々と小説を読み漁るというのは時間の過ごし方として悪くないどころか凄く有意義なもんだってことに気が付いちゃってさ、だからまぁ色々と古今東西ジャンルを問わず色々と触れてこなかった文学的なものってのに触れてみようっていう感じになってるっていうのが今の俺って感じですね。


まぁそんな感じっすね。んじゃまた。