マザーテレサ的にはアウトだろうけど。

読むことって自分にとって基本的にコストがかかるもんでっつーか体力いるじゃん?いや、こんだけ読んできてもやっぱ読書って大変なのよ。それは何を持って大変とするか?でそりゃ日々の生活が大変だったら読書なんてそこまで大変じゃないかもしれないけどさ、例えばゲームって楽ですよね。想像力無くても勝手にすげー解像度で世界が広がっててやることだらけで「次ここ行ってください」ってディレクションが出てたりしてっていうかまぁ最近の親切になったゲームにおいてだけどね。昔はそんなことなくてもっと無骨だったんだけどまぁでも楽だわ。映画も楽だけど結構これも体力いるよね。適当にゲームやってゲーム内でブラブラするとかやってなかったどうでもいいミッションをやってみるかーみたいな感じぐらいのテンションでやるゲームって時間つぶしそのものだけどさ、いや、まぁとにかく大変よ。読書って。


いや、最近ゲームへの熱が冷めてきたというかあと単純にやるゲームが無くなって来ていてかといってもバトルフィールドなんかでオンライン対戦をするほどのモチベーションもないみたいな感じでどうしたらいいか分からない感じになっていて、まぁゲームで言えばスナイパーエリートとかゴーストリコンとか出るわけだけどなんかいまいちまた鬱っぽくなってきてんのよね。そこでまぁ小説ってのがある種の逃げ場みたいになっててっつっても文学青年!というほどハマれてなくて所詮は門外漢が入門しかけてもがいてるみたいな感じでプロパーじゃない感が半端じゃないっつーかまぁそりゃそうだけどね。そんなに読んでこなかったわけだから。


でもまぁなんかさ、所詮は鬱とか虚しさに飲み込まれないように何かに必死にハマろうとしてるっていうあがきをしてるってのがここ十年ぐらいの俺なんだよね。で、今はアードベッグの綴りがあってるか分からないからカタカナで書くけどアードベッグ洗礼ってのがあって文学という世界を知って自分なりに色々と吸収してる感じなんだけど思うにこの「吸収」ということ自体が間違いなんじゃないか?って気がしてきて、ようはね、読書って大変なんだよねって書いたのもそれでもダラダラゲームやったりエロサイト見たりネット見たりしてるよりかは何かに向かってる感じっていう実感を虚偽意識的に持ち続けることで存在を常に持ち直してるみたいなさ、まぁ脆弱の極みだと思うんだけども、そこで自分が何か得るためとしての読書ってのに向かうのもようは虚しさがあるからだよね。


あとまぁ自分なりの社会参加というかさ、デフォだと浮世離れし過ぎてるからなんか身になるものを!って必死になってるんだけどでも自分が興味が出る分野と言えば何か実学を!って思ってんのに全くマネーに結びつかないような代物ばっかでそれでもメイクマネーしてジャンボになってやる!って勝手に思ってるわけなんだよね。でも大体そのジャンボの夢を持ったジェットが迂回する感じで「まぁいいかー」って感じでソフトランディングしながら結局一日終わるみたいなそんな日々ですよね。


生きるだけでパワーがいるわけでだからパワーの源とか全く役に立ちそうじゃなくても何もやらないよりかはいいだろう!っつって好きなことに没頭するってのもまぁなんつーか鬱予防なんだよね。んでも例えば弓の歴史とか武道の歴史とか調べてそれがマネーに結びつくのか?ってある意味一番遠いところにあるよね。まだそれで言うと哲学のほうがマシかもしれないよね。んでレジャー程度にやればいいものをマジになっちゃうもんだから余計にマネーから遠ざかるみたいなさ、意図的にやろうとしてるわけじゃなくてやってるとそうなっちゃうんだよね。だからママンから「いつかは自分でやっていけるようにしないと私たちは最初に居なくなるんだからねっ!」っていつも言われるんだよね。


でもなんだろうな、ムカつくのがさ、中原中也とかって「俺は天才だ!だから仕送りを送ってくれ!」とかってずーっとニート生活してたただのダメ人間じゃないですか?でもよく分からない文学的評価ってのが下されることで偉人になるんだよね。その差は何なのか?って思うんだよね。だってもう生活だけ見ればただのイタイやつじゃないですか?大体まぁ特に文芸関係なんてダメなやつばっかだよね。哲学者でもそういうのが多いか。でも哲学者ってまだ分かるのよね。「いや、やっぱ偉大だな」ってのがあるじゃん?でも文学となると「垂れ流しブログとあんま差ないよね」って全く文学的センスとか素養が無い俺としてはそう感じちゃったりもして、んでもそんなダメ人間が偉人とされてるんだから世の中のダメ人間っつーか俺はダメ人間ではないと思うし必死に色々自分なりの社会化をしようとしててまぁローラみたいになるべくファッションを極める!とかってやってるわけなんだけどもでもまぁやることなすことマネーに繋がらぬっていうかむしろ散財ばかりしてるっていうところで生産性ゼロってことでダメ人間と言われてもしょうがないっていうかまぁそういうところに異を唱えたいところではあるんだけどね。


なんでそんな生産性っていう価値観だけで人を判断するのか?っていうさ、いや、くだらんパチンコとかと同じような欲望のダダ漏れみたいなのを機構とするようなソシャゲーみたいなのを欲望エンジニアリングとでも言うようなシステム作って金吸い上げてるみたいなしょうもないもんを作ってマイクマネーしてるようなやつとかもいるわけでっつってもそれは世の中的には金になってるからいいんだろうけどさ、でも村上春樹先生も言っておられるでしょう。中には全く金とかそういうもんとは無縁の中でただ文学だけやってるとか創作だけやってるみたいな人たちがいたっていいしそれがインテレクチュアルってことなんじゃないでしょうか?みたいなこと言ってたでしょう?俺が言っても説得力無いけど春樹先生みたいなベストセラー作家がそういうわけだから説得力あるでしょうそれは。


そうなってくるとさ、所謂、インテリっつーよりかはもう無為を極めたくなるよね。ジャンボになってメイクマネーするというギラつきは常に持ちつつやることなすこと役に立たないものばっかになるってところをもうそれがあるがままなんだからそれはもうしょうがないでしょうっつって諦めるっていうね、でも別にそれはメイクマネーを諦めるということではないし脱社会化するというわけでもなくてむしろ社会へ向かっていくという生きていくというベクトルなんだよね。だからそれで言うとさ、和辻哲郎を熟読してるとかっつーとまだ思想じゃん?あんな人間ライブラリーみたいな人が書いたもんなんだから無駄なもんとは言え無駄じゃないっつーかまぁ教養っすよね。でもなんかさ、文学って無駄なもんばっかだよね。そうじゃないのもあるんだけど無駄なもんも多いよね。というか読んだ後に何も残らないというのもあるわけでっつってもそれって当たり前で別にそれを通して何かを伝えるとか「こう生きろ!」みたいな熱いメッセージ性があったりするわけでもなくてハネケの映画の後みたいな置いてけぼり感だけが残るみたいなさ、でもそんな置いてけぼり感を残すものってある意味すげーよなって思うんだよね。


むしろそんなもんに没入するなんて無駄の極みでしょう。だから下手すると文学って最強の反体制的っつーかめちゃめちゃ尖り続けるということでもあるかもしれないよね。もちろん嫌なのはそういうのもまたステレオタイプとか商品化されたりコモディティ化されて実際の文学が持ってる強烈な威力みたいなのが無力になっちゃうっていうところなんだけどさ、そこをむしろ俺みたいな無用者が体現していかなきゃいけないところなんじゃないか!って使命感すら感じるレベルだよね。マジで。


出力としては文芸的な価値はゼロだけど考えてることとかそこから生まれてくる行動とかそこで起こった出来事とかってまぁ無用者じゃないとできないみたいな文芸的な生き方ってのはできるからね。思えば自分にしたって色んなものに飽きて絶望しきって「はぁー・・・」とか思いつつ武道とか武士道とかへのロマンってのは現実への虚しさと反するようにどんどんロマンばかりが膨らむっていうさ、そこで「いや、ファークライとかで弓好きなんだったら自分が実際にやればいいじゃん!」っつって実際にやってるっていう今の俺ですよね。なんかもうそれで充分なんじゃない?って気がしてきてさ、だからこそなんかあれなんだよな、どれとは言わんけど無難な文芸作品とかにパッケージ化されたものってのに嫌悪感を感じるんだよね。そうじゃなくて生き様とか美学とか無用者の良いダラけ方とかなんだったら俺もなかなかのものを持ってるわけで文章じゃ無理だけど生き方なら偉人に対抗できるに違いない!とかって勝手に思ってるよね。


だからこそ読んでも何にもならんようなもんに情熱を抱くとか「うわー意味無いけどなんか心に刺さるわー」みたいなものってのを文芸から感じたらそれって良いことですよね。というかそういう情操教育を自分で施す必要があると思ってだからもうゲームどころじゃないんだよね。ひたすら色んな物語とか文芸とかあと映画にしても面倒だから見ないようなレベルのもんでも3倍速ぐらいで浴びるように見てとにかく経験値増やすことだなってあぁーまた経験値っていうプラクティカルなところに帰結してるなーとは思いつつもまぁ「映画今月200本見たよ!」って言っても何も自慢にならないっていうまぁそういう自慢にならないことをやり続けるってことだよね。村上春樹なんかはジャズ喫茶やってたころは浴びるようにジャズ聴いててんでもまぁそれってすげー文化的な生活だったわけじゃない?結局それが作家になる道へのイントロになっていたかもしれないわけでさ、んでも別に偉大な作家にならなくても文化的な生活をするって大事だよね。


だからもうあれなんだよね、ツタヤのダブルプラスでNetflixGyaoも入っちゃう!ぐらいの感じで映画も浴びるように見なければ!って勝手に思って実際に入会しましたよね。まぁ思うに自分の10代って浴びるように映画見て音楽聴いてたしそれがすげー良い蓄積になってたわけで今もまたその第二期というかさ、まぁそんな多感な時期ほどのインプットはできないにせよでもそれなりに強度がある生活を送れるもんなんだなって関心してんのよね。だって村上春樹ほぼコンプリートみたいな大人買いしたのがまだ先週なんだもんねってこないだも書いたけど一週間とちょっとしか経ってないのに体感はもう何か月も経ってるみたいな、それって凄いことだよね。


まぁそれも最初だけで慣れればまた飽きるさってことにもなるんだろうけどまぁとりあえずいいじゃないですか。今はそれでいいんだから。とにかくこのクソゲー過ぎる人生をどう生きるか?ってことなわけでさ、メイクマネーもジャンボになることも所詮はオプションなんですよね。メイクマネーできればやれることが増えたりするし生活のこと考えなくても良くなるから体感の幸福度は若干底上げできますよってな感じなわけででも根本の人生のクソゲー感が金によってなんとかなるか?っていうとならないわけだよね。だから永遠とこのクソゲーと戦い続けなきゃいけない。文学ってのはそういうクソゲーを生きるための武器の一つなんだなって気が付いたのね。本当に憎たらしいよね、このクソゲー感。なんで例えばなんか買ったりさ、Flight Clubがナメてんのか?って思うぐらい発送が遅くて頭おかしくなりそうになりつつ届いちゃったらお楽しみのピークをそこで迎えちゃうってのを永遠と先延ばしにできてるからそう思えばエンタメ性があるよなって思うだとかさ、んでも届いたらそれがピークなんだよね。なんでもっとなんつーかなんか買ってハッピーになれないんだろうな?って思うわ。消費によって自己実現するしかなくなっているとかって言われるけどそんなもんで自己実現できてるならそれはすごくハッピーですよ。クソゲーじゃなくなってるわけでしょ?


本当の絶望なんですよね。クルーザー買おうが高級車買おうが衣類をローラ並に揃えようが人生のクソゲー性というのは依然としてヒミズに出てくる例の謎の怪物みたいにずーっとこっちを見続けてるわけだよね。んで「決まってるんだ」とかって不気味な声で言うわけだよね。「何が決まってんの?」って一瞬思うんだけど「あークソゲーということが確定してるってことね」ってすぐ分かるわけね。だから永遠とこのクソゲー性との戦いなんだよね。まぁあれっすよ、メイクマネーしてジャンボになってローラ並に洋服買うってのは夢の一つですけどね、まぁそういう意味でメイクマネーしても別にジャンボになる必要はないから金だけありゃいいんだけどさ、そこであれなんだよね、文学的生活っつって清貧を貫くとかそういうのは大嫌いなんだよね。あと清貧を貫いてるように見えて実は実家が金持ちで好きで貧乏やってるみたいな、ビートのやつらってそんなやつらばっかだったもんね。


貧困笑えないキャラにもならない貧困クリアしてもクソゲー終わらないどうすればいいの?だよね。本当に。モテればなんとかなるだろう!ジャンボになればなんとかなるだろう!人から承認されればハッピーになるに違いない!っていうどれもこれもただの思い違いの幻想ってのがぶっ壊れてるって中でどこに幻想があるのか?っていうともう徹底的に文化的な生活を送ってしかも資本主義的な囲い込みをされずに文化的生活を極めることだ!っていうそれに尽きるよね。クソゲーに対する最高のリベンジですよね。優雅に生きることがリベンジという人もいるかもしれないけど残念ながら俺はそこまで金があるわけじゃないからまぁそこでメイクマネーして文化的生活を送りつつ金もじゃぶじゃぶ使って優雅に暮らせればそれはそれでいいよね。でもまぁそれもさっき書いたようにただのオプションなんであってクソゲーっつラスボスを倒すことはできないよねっつーかラスボス倒すことが目的じゃないんだよね。ラスボスと共存するしかないんだよね。そこで蓋然的な意味で愛みたいなのが輝く場合もあるけどそれは運だしそれよりかはもっと自分の取り組み次第でなんとかなるレベルの文化的生活というところにフォーカスしたいなと思うんですよね。


「いや、あなた、十分文化的ですよ」って言ってくれる人もいるかもしれないけどそうじゃなくてもうそこをエクストリームなものにしていくことにしたっていうとにかくもうそのクソゲーへの憎悪が半端じゃなくてね、だからそんな感じになってるんだわ。もちろんなんかスピリチュアルな世界とかだとそういうリベンジとかマザーテレサ的な元が愛に立脚してないものは良くないっていうけどさ、いや、でも愛と言われても難しいよね。そこまで俺は文学を愛することもできないだろうし愛していたと思っていたものに関しても改めてみるとかなりドライなんだよね。それこそ村上春樹の小説に出てくる淡泊なセックスみたいなそんな感じなんだよね。所詮は虚しさを埋めるためのあがきでしかないっていうね、かといっても「何か」があるかもしれないなんていう淡い思いは無いわけですよ。少なくとも自分にはないよね。


でも取り組みの中で外部からもたらされることはあると思ってるわけ。それが「何か」だからつまりはその蓋然性を高めよ!ってことなわけで自分なりの一応実学としている哲学とか科学とか数学とかっていう知識がとんどん広がるタイプのものじゃなくても物語とか文学なんかからも「何か」がもたらされる可能性はあるかもしれないっていうところなんだよね。それがまぁ端的に色々とまとめるとクソゲーへのリベンジってことになるわけでそこまでまぁ強烈な憎悪ベースではないですよ。でもまぁ愛ではないのは確かなのでマザーテレサ的にはアウトだろうけどまぁそんなの関係ないっすよね。


まぁそんな感じだわ。んじゃまたね。