ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

Ardbeq10さんへの返信6。

Ardbeq10 2017/02/12 01:26


こんばんは。


"「お待たせしました。いや、お待たせし過ぎたかもしれません」的バイブレーションが凄い!"


耳セミの村西とおるを華麗にスルーしてしまっていたArdbeq10 です。土曜日の夜、皆様いかがお過ごしでしょうか。


というわけで、冒頭から一発。


「全裸監督」村西とおる


「シンギュラリティとでも言いましょうか? いやシンギュラリティに過ぎると言っても過言ではありません」


"というか最近ずーっと本読み過ぎていて股に湿疹というかカビみたいなのが生えたんですよね(笑)座学のし過ぎというか、オナニーの頻度も減っているのでちんこ周りの通気性が無いんですよね(笑)"


「節子、それカビと違う。それ疥癬や!」


という訳で、村西とおる作品で抜く事をオススメしときますよっと笑


とまあ、そんな感じで村西とおるの方はさておき、耳セミとのやり取りの中で私の方で色々と理解が深まった部分が大いにありまして。


"それをバカバカしいとあざ笑うのは簡単ですけどもそれをあざ笑うレベルでは変革なんて何も得られないということなんですよね。その結果が今の世の中だと思うんですよね。みんなマジなものをあざ笑うポーズを決めて身の保身にばかりフォーカスしているっていうね、僕がそこで「危うさがドライブするんであって愛じゃない」っていう根拠もやはりここなんですよね。"


これは、刺さりました。こういう現在の状況って、もう三島由紀夫の自決の時点(1970年11月25日)で既にセットされてたんだなあと耳セミのコメントで気づいてしまって改めて身慄いしています。現在に通じる状況というのが1970年時点においてセットされていなかったならば、少なくとも弁舌を奮う三島由紀夫に対して自衛隊員からの野次は飛んで来なかったんじゃないかなあと思うんです。だからこその「憂国」だったんですよね。


で、そこからまた花の都パリに戻るんですけども、


天井桟敷の人々」ジャック・プレヴェール


なんかは、パリの矜持が感じられる訳ですよ。少なくとも、1945年第二次世界大戦只中のパリにおいてドイツに占領されるか否かっていうような状況下でこれだけの映画を撮影して上演するという気概ですよ(当時世界一の予算で撮影してるってゆう。国家プロジェクトかってw)。というか、そんな状況下であるから奇跡的に作られたのかも知れない。ジブリのおっさん二人(パヤオとイサオね)は確実にジャック・プレヴェールにはイかされてますよ。まあ「じゃりン子チエ」なんかにはジャック・プレヴェールのエッセンスが出まくってますよね。そんな出来事を振り返ってみると、オリバー・ストーンが「スノーデン」の制作過程でアメリカから総スカン食らったっていうのはとても暗い感じがするよね、やっぱり。


んで、big brother でしたね。


なんだ、読まないって言ってたけど耳セミはオーウェルとか読んでんじゃんw ちなみに、big brother1Q84にも登場します。って当たり前だよねwんで、オーウェルなんだけど全米で大ベストセラーみたいですね。ただ、個人的には1984よりも、


動物農場ジョージ・オーウェル(山形浩生訳)


ですよね。はい、これ山形浩生ですw


https://youtu.be/QyP28w7ffFs


このタイミングで新訳出すかってゆう。僕が無条件に信用している書き手というのが数人いるんですけども、山形浩生はもちろんその一人で。まあ、僕もまだ読んでないんですが、タイミングが良すぎて「過去に書かれた物語が世界を作っている」ような錯覚に陥りそうな気がしてきますよ、正直なところ。


んで、村上春樹の「アフターダーク」のアルファビルだったっけ。


"あれってラブホの名前がアルファヴィルじゃなかったらまた雰囲気違うと思うんですけど名前がアルファヴィルだからこそ見えてくるモノクロの中で部分的にネオンとか夜の薄暗い青みたいなのだけがカラーとして見えるみたいな、そういう霞んだリアリズムですよね。"


俺から言わせると(やれやれ、ひどく偉そうだなw)みんな、ゴダール単体で解釈しようとするから的外れになるというか。やっぱり、ゴダールは色んなもんの集積な訳ですよ。コラージュ以上でもコラージュ以下でもない。ただ、21世紀に生きる我々と比較した時に一つだけ確実に言える事があって。それは「コンテクストの鬼」という事なんですね。んで、そういうことをポロッと言ったりすると「じゃあ、何の集積なんだよ!?」とかって訊かれるんだけど、くどくど説明したってわからんような、勘が鈍くてコンテクストの読み込みも浅いヤツに説明する言葉はねえ!って煙に巻いてるんだけど、個人的には「やっぱゴダールは、映像化されたマラルメだわ」って思ってて。ハルキムラカミはラブホの名前をアルファビルにした時点で、ゴダールを通り越してマラルメまで到達してる。これは確実に言える。


んで、やっとここまで来れましたよっと。


「場所と産霊」
「祝祭の書物
安藤礼二


高橋ヨシキのシネマストリップ風にざっくり一言解説すると、安藤礼二は文学領域の飯島洋一ですよ。


耳セミがジョンケージにチラッと触れてたけども、ジョンケージって鈴木大拙に師事してるのね。んで、大体の人は鈴木大拙=禅で終わるんだけど、安藤礼二はもっと踏み込んで行くんだよね。これは、場所と産霊の受け売りになるんだけど、クスブリ時代のロンドン在住南方熊楠と、クスブリ時代のシカゴ在住鈴木大拙が私信を取り交わしてたってゆう所が面白くて。鈴木大拙って最初はスウェーデンボルグを日本に紹介する所から頭角を現すのね。んでまあ、当時4次元全盛期にロンドン在住の南方熊楠と往復書簡やり取りしてるから世界の情勢とか欧州のしょうもなさみたいなのは十二分に感じてて「もうなんかええやろ」みらいな感じで日本に帰ってきて、もう一回自分の出自浚って「禅リミックス」なアルバム引っ提げてアメリカに戻ったらミリオンセラーみたいなwんで、大拙に師事したジョンケージもやっぱキノコ調べまくってるのねw 完全に熊楠の世界観やーんw


んで、後年松岡正剛が熊楠の本棚に「4次元に関連した本があるはずだ」って探しに行って、実際に発見するんだけども、鈴木大拙の方は「禅」に関連した業績が偉大過ぎてスウェーデンボルグの翻訳に関連した黒歴史は「触らぬ神に祟りなし」的な扱いで。まあ、何つーか鈴木大拙黒歴史ってゆうのが「無かったことにされてる違和感」みたいなのはすげー感じる訳ですよ。でも、南方熊楠との往復書簡でやり取りしてるのは4次元ネタなわけで、クスブリ同士が自由闊達に会話してる奔放さが感じられるんですよ。


何が言いたいかというと、上に挙げた人たちと我々にあんまり差は無いわけ。南方熊楠は確実に躁鬱◯型みたいな診断受けるやろうし、鈴木大拙スウェーデンボルグを日本に紹介してるみたいな、後生の鈴木大拙マンセーな人からすると一見黒歴史な過去があるわけで。


てな感じでやっぱり着地点はないので支離滅裂感は否めませんが、今宵はとりあえずこんな所で。


https://youtu.be/QxRKZ-1wwZM?list=RDQxRKZ-1wwZM


編集後記


"やっぱジャズならアナログっしょーとかフルポンのコントみたいになるけどはっきり言って春樹の気取り方って完全にネタだよね。見た目も落語家っぽいから「いよっ!師匠のお家芸!」って感じだよね。いよっ!飯っ!女っ!酒っ!射精っ!音楽っ!みたいなね、全部後に小さい「つ」を入れられるのが偶然だと思えないぐらいのレゾンデトールなんだけども(笑)"


これメチャメチャ笑わしてもらったわw


そろそろ、女来るんじゃねーか?
「いよっ、女! 待ってました師匠っ!」


なんて、寄席の世界ですよねw でもその寄席的な一体感を小説において再現している書き手を挙げてみろって言われると、村上春樹以外にはなかなか思いつかなくて。池波正太郎なんかが近いと思うんだけどさ。池波正太郎と同じくらい(まあ、ベクトルは真逆と言っていいと思いますが)の「師匠、待ってました感」を出せるってかなり凄い事ですよ。あと、美味そうな飯の描写ってゆう点でも、先に挙げた両者は共通してるよね。呑み方、食い方、作り方を真似したくなるというか。


「散歩の途中でなにか食べたくなって」
「もし僕らの言葉がウイスキーだったなら」


と言うことは、村上春樹池波正太郎クラスにエンターテイメントへの指向性を持っていると言うことで、そういう意味でも特異点であるのかも知れません。


後は、耳セミヨロシクっ!

どうも。で、不躾なんですが、町田康の「告白」をおススメしてもらって、まぁ町田はTacoの歌手だぐらいの認識しかなかったんですが作家としての町田というのを意識し始めてんでこないだ村上春樹大人買いのついでに町田も大人買いしてだいぶまとめて読んだんですけども僕が所謂、なんで文学的なものに惹かれないのか?というのがよく分かったんですよねというのも町田を例に出す必要はないんですがただなんていうんでしょうね、私小説的なものとかってその人間の世界観が当然出ますよね。で、あんな狭い自意識の中で行き来してあーだこーだ言ってるんだなっていうお気楽さに唖然としたんですよね(笑)もっとなんか深い実存的なものがあるのかと思ったらただの自意識と「売れないパンク歌手としてのダメな自分」ってのをナルシズム的に描くっていうことでしかなくてしかもムカつくのはそれでいて「俺はパンク歌手だから」みたいなキャラを維持してるところですよね。いやいや、全然パンクじゃないから(笑)っていう。


CDが売れないのは自分が世間に迎合できていないだからだとかって思いこんで普段は俗っぽいと毛嫌いして見下しているようなものに関してもコミットしていかないとCDは売れないんだと思ってあえて俗っぽいことに飛び込んでみる的な小市民的な小ささと世界観のスケールの小ささですよね。こういうのってまさにああいう80年代的なサブカルの申し子みたいな感じで余裕がある時代はそういうカッコつきの「堕落」とかもそれっぽく表現することでそれが芸になったかもしれないんだけどゼロ世代が持ってるような根本的な絶望とかから見ると「なんじゃそりゃ」って思うような悩みのレベルで全然リアリティが無いというか、世代的な温度差を感じますよね。


僕らの世代って今僕とArdbeq10さんの間でなされてるような根本的な行き詰まりとかに関しての閉そく感ってのを感じてる世代なわけでそれって不可避的なグローバリゼーションとかイスラム原理主義的な全く対話という方法が成り立たないテロリストという存在だとかBig Brotherとしてのアメリカとかっていうなんかまぁデフォで生きてるだけで絶望が大きいわけですよね。「自分と甲斐性が無い自分」みたいな自意識の中だけでやっていけることのお気楽さってのを町田康に凄く感じますねっていうかああいう世代のお気楽さだよなーって思ったんですよねー。


でも文学ってそうじゃないとは思うしオーウェルは何気に読んでますっていうかAnimal Farmはアメリカにいたときの語学学校の時に教材として読まされたってのもあってっていうとグレートギャツビーなんかもそういう意味で原著で読んでるわけで、「読んでない」と言いつつも結構読んでるのかもしれないけどまぁなんでしょうね、相対的に自分の中で読んでいるものに対して圧倒的に量が少ないんで「読んでない」って思うのかもしれませんね。スノーデンの暴露的リアリズムが1984の再ブームを生み出してるみたいな現実の在り方には文学の凄さを感じますけども、ただ春樹の1Q84みたいな所詮は文学者のお気楽な世界観という枠を出ない感じのリアリティとかには幻滅しますけどもね。


まぁ別に春樹にそんなものを求めてもしょうがないんだけどただやっぱデフォだとリアルの政治とか思想とかばっか読んでる人間からするとすげーお気楽だなって思っちゃうんですよね。もっと根本的な人間疎外とかそれ自体が経済っていうシステムから持たさされるものであったり情報化ということ自体が生み出す便利さと人間疎外の関係性とかまぁそれが描けてないなんて言うつもりはないし別にそういうのを描かなくてもいいんだけどただ今の時代にあれはないよなーって感じはしますよねっていうか所詮ああいう世代の限界なんだろうなって思いましたね。


もはや実際にテロが都市部で起こるかもしれない!みたいな実際のリアリティとか近所の人が貧困で孤独死してるみたいなそういうリアリティに対してお気楽な文学とかってもはやもうただの物語でしかないですよね。リアルが完全にぶっ壊れかけているという現実のほうがよっぽどドラマティックであるのでまぁもちろんそういうのを描いている文学作品とかもあると思うので文学自体がお気楽だとは言うつもりはないんですけど、ただまぁこんな大変な時代にレトリックがどうのとかアナロジーがどうのとか酒と女がどうのとかなんたらの肉にバジルをちょっとかけて云々・・・みたいなことを言い続けられる能天気な感じっていうのがね、本当に温度差を感じますよね。そういうのを享受できる人たちは心の余裕があっていいなーと思いますけど少なくとも僕はそうじゃないし多くの現代の若者もそうじゃないと思うんでだから春樹とかって批判されんだろうなって思いましたね。


まぁでも春樹はいいんですよね。ああいうまぁ落語の師匠みたいな立ち位置なんで僕が揶揄したように「お家芸だなー」とかって温かかく見守ればいいんですけども、ただもうああいう町田康みたいな狭い世界のものを色んな言葉を使って面白おかしく書いたりとかどうでもいいことを無理やり伸ばして書いて売文するみたいなスタイルは完全にオワコンだなって思いましたね。そんだけ僕らの時代に余裕がなくなってるってことですよね。僕はそういう意味でそういうお気楽な世界に逃避するつもりもないし常にリアリズムと向き合っていきたいと思うわけなのでだからくだらない文学とか読んでるよりももっとイスラム思想について勉強しようとかって思っちゃうんですよね。


それでもまぁ文学なりの良さがあるし良い文学もあるんだろうなって思って文学にも目を向けている・・・というのが今の僕なんで別にアンチ文学とかではないんですけどただああいう世界の「ヌルさ」には反吐が出るなって思いますね。それでガラパゴス的な出来レースみたいなもんばっかやってる文学賞とか文壇とかのあのクソ加減って本当に全部爆破してもいいぐらい価値がないって改めて思いましたね(笑)町田康の本を買っても「又吉がむさぼり読む新潮文庫」とかって帯がついてきてそれだけでもう燃やそうと思うぐらい嫌悪感が出ますね(笑)


正直、村上春樹とかの美味そうな飯の描写とかも僕は真似しようとかって思わなくて「勝手にやってろボケが」って思っちゃって(笑)お気楽でいいねっていう感じしかないですね。本当に。ここ最近なんかまたメンタル的に調子悪くなってきたのも村上春樹とか町田康みたいな、良いところもあるけど自分に合わないところのほうがむしろ多いみたいな属性のものを読み過ぎてメンタルダメージが相当蓄積したんだと思うんですよね。凄く鬱っぽくなっちゃって。だからちゃんとした自分の感覚を戻すために何を見ていたか?っていうとイスラム原理主義関係のテロのドキュメンタリーみたいなものとかなんですよね。これはこれで凄まじく鬱になるんだけどちゃんとしたプロパーな鬱だなっていう感じがあるんですよね。スノッブなものに感じる鬱ってのはもう本当に食あたりみたいなもんで(笑)そこがドライブするものが愛か危うさの違いなのかなー?とも思いましたね。まぁそれはスタンスですからね。良い悪いではなくて幻想かリアリズムか?っていうところですよね。


まぁ三島の決起のメッセージが永遠に大衆に伝わらないというところの温度差ですよね。そういう絶望を感じますね。でも物凄い思想的な深さを極めたようなものが文学作品にあるのも確かなのでそこは自分にとっては毒にしかならないようなものを華麗にスルーしつつ読んでいきたいなって思ってますね。


そんな感じで。ではまた!