ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/徳の戦士/サタニストによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

射のイデア。

理想的な射のイデアが描けているかどうか?っていうところだよね。もちろんそれが正しいかどうかは分からなくてっていうかそれは善のイデアと同じでそれが善のイデアによってもたらされている善であるといったところで人間が思い描くイデアと本質的な善のイデアとの差異ってのは必ずあるわけだけど、でもそこでイデアに向かうエロスによってその差異を少なくすることができるっていうようなイデア微分するような感じだよね。その追及のプロセス自体が言わばタオ的なんであって結果的に精神修養になるんだけどでもこれはもともと精神修養をやっていたり志すような心がないと無理なんだよね。


そこがまさに弓は心で引くみたいな話に繋がるんだけど俺ってまぁすげー理性的だと思うのね。んでまぁ観念論的な武道の抽象的な言い方とかってのに批判的になりそうなんだけどこれは弓と禅についての話でも書いたけど理性的に考えるとそれが形而上学的な帰結みたいな言い方とか考え方になるってことなんだよね。でもそれはすげー分析的で論理的じゃないと掴めない感じであとはまぁセンスだよね。結局そういうのが射に出るってことなんだよね。もしくはその弓のやり方っていうアティチュードだよね。段がどうのとか名誉がどうのとかでそんなもんばっか考えてやってる人なら結局射もそんなものになるし雑念だらけでしかも権威主義的な意味での華法化というか射の本質から離れたものになるでしょう。


まぁそれはさ、いろんなやり方があるって言ってもやっぱイデアは一つだよね。まぁ別にいろんなやり方を否定はしないけどやっぱイデアでしょうっていうところに尽きるよね。結局イデア云々とか観念論とかじゃない凄く理学的な分析と実証とか身体へのフィードバックの結果、いろんな流派で奥義とされているようなところというような本質的なところで流派が消えるというか本質はここなんだなっていうところが出てくるわけよね。それがまぁいつも書いてる抽象度を高めると属性とか派閥みたいなのが無くなってそれは本質的なものとなるっていうところなんだけどね。


でもこれってまぁ哲学に没頭するのと同じでなかなか現代社会だと実行しづらいタオの話になるよねっつーかまぁタオっていうとあれだからまぁいわゆる「道」の話なんだけどね。結局、武道っつっても現代社会との関係性も踏まえた上でそれに適応するかの如く形が変わってくるわけでしょう。その結果がまぁ制定化されたような弓道とかスポーツとしての弓道ってところなんだけどまぁでもディープに道を究める以外はやってはいけないなんていう縛りを作る必要もなくてそういう意味で世俗化ってのは別にいいんだけどね。ただ本質的には凄くやれる人が限られるような世界なんだよね。


それは身体能力とかが抜群でも全然関係ない話で思想的なセンスだよね。やる上でどういうところにフォーカスするのか?とかどういうところにフォーカスしながら上達していくのか?っていうところで常にbecomingな状態にあるんだよね。理想的に成りつつあるっていうリアルタイムの生成体みたいなもんだよね。でもまぁそういうのがイデアとしてあったとしても実際にやってて直面するのが全然それが身体にフィードバックされないっていうギャップだよね。あとやってると疲れてきたり色々と体が痛くなってきたりその日の調子とかも含めて身体っていうところを介す上で必然的ないろんなエラーとかファジーなノイズってのがあるわけよね。


それももちろん理想的な射を常に心がけて「これだ」と思えるものを体に覚えさせるっていうところでエラーとかイデアとの誤差ってのをどんどん少なくしていくっていうプロセスだと思うんだけどこれはどれが欠けてもダメなんだよね。その日の稽古でダメだったところっつーかなんであんな変なところに飛んじゃったのか?みたいなエラーの細部まで解析し尽くすような執念というかオブセッションだよね。それと当然反復練習と同じで理想的な射になるように理想的とされているものを何回も読んで理解しなおすっていうんでそれってその場での理解とかなりの稽古を経てからの理解ってまた全然違ってくるからだから毎回その都度読み直す必要があるっていうかさ、まぁこれもbecomingのプロセスなんだよね。


でもこれって何が本質的なのか?っていうのを見極めるセンスが必要でさ、それが無いと見当違いなところばかりにフォーカスしたり全く上達にとって意味がないことをしちゃって時間の無駄になっちゃうというような浪費に繋がるわけで元々デフォでマスターするのにすんげー時間がかかるものを色々と無駄をして時間も体も労力もすり減らしていったら何も残らないでしょう。そこを徹底的に合理的にやるんだよね。だから毎回極端なぐらい分析的にやるわけだし体を動かしている時間よりも毎回引いた後に考えたり「今のはなんなんだ」っていうことを分析して考えるっていうような時間のほうが多かったりするんだよね。


だからむやみやたらに反省もなく分析もない中でひたすら「一日最低100射」みたいなノルマを決めて矢数だけ稼いでいくようなことをしていても全く意味がないしそもそも間違ったやり方でやっている場合、全くそれは技の体をなさないものになるわけだよね。筋トレにはなるかもしれないけども技術的には全く意味がないことをしているっていう死んだ時間と死んだ体を生み出すことってのが最大の恐怖なんだよね。


あと間違ったことに気が付かなくてでも体とか引いた感じがなんとなく手ごたえがあってそれが正しいとかこれでいいやみたいに簡単に思ってそれに安住するとかルーティン化するっていうことだよね。毎日進化しているわけだから毎日理想に向けて形が変わっていくわけでその中でまたエラーがその都度起こるんだよね。その繰り返しだよね。本当に。仮に真っすぐ飛んでいても間違ったやり方とか理想的な最大限の射のパワーを生み出すっていう技から見れば全く体をなさないようなものってのは結局意味がないからだから真っすぐ飛んだみたいなことは全くある意味で理想とは関係がないんだよね。


最適な最大限の技の効果を生み出すものってのはそれが仮にできれば中る以外ありえなくなるものなんであってそれが出来上がっていない状態で調子の良し悪しなんてのは関係ないんだよね。真っすぐ飛んでいてなんか調子が良いと思えるようでも完璧な情報が頭にあるわけじゃないし仮にめちゃめちゃ勉強して研究していても体とのフィードバックとの関係がまだ全然できてないっていうところでそもそもできているわけがないしできるわけないんだよね。


それは言わば仮の射のようなもんなんであってwork in progressのbecomingに成りつつあるっていう中での不完全な射なんだよね。もしくはたまたまビギナーズラックでうまくいくようなことがあってもそれを毎回100パーセントの精度で再現可能じゃなかったらそんなもんまぐれなんであって全くできたことにならないよね。それこそ毎回継ぎ矢が起こるほどの精度でまともになってると矢がダメになるからなかなか実行ができないってレベルまでの精度じゃないと完全とは言えないよね。言わばそれはもうマシンみたいな世界でしょう。


テクノロジーを駆使して和弓っていう道具を使って完全の精度を出すみたいな工業レベルの話だよね。そうなってくると必然的に完全なものが要求されるからだからそれは結果的に禅的に成らざるを得なくなるんだよね。当てようとするというよりかはこうこうこういうプロセスを経てやれば中る中らないっつーよりかは中るしかないわけでもはや狙う必要すらもなくなるっていうところなんだよね。じゃあそれはターゲットが動いたらどうなのか?って話なんだけどそれもようは仮にそういう状況にあるとすればただそれは射の角度が変わるわけで本質的にやることは一緒だよね。それはまぁ動くターゲットを射るっていう別の訓練が必要になるけどでも射の本質は変わらないよね。


本質的な射が身についていればあとは色んな状況に対応するっていうただの適応なんであってだからこそ本質的に追及するべきは本質的な射なんだよね。そこで射に人間性が出るというのも例えばそこで自分みたいな浮世離れしたようなことをやることは得意でも俗っぽいことはあんま得意じゃないというようなことでもあったりして、それは高度に抽象的なことであったり概念的過ぎるようなことを取り扱うのは得意でもリアル社会で必要とされるようなスキルとは全然関係がないというような純粋数学みたいな世界なんだよね。


もちろんそれは弓で狩猟することで手柄を立てられるような社会だったらそれは何よりのリアルスキルなんだけども今の世の中では全く意味がないスキルだよね。まぁでもスキルってそういう意味で相対的だよね。社会との関係性という中での有用性云々を言い出したらそんなもん相対的だから社会が変われば有用性なんていくらでも変わるっていうところなんだけどそういう相対性とそもそも関係がないというぐらいの高度な抽象性だよね。そんな社会云々じゃないんだというようなことだよね。


そういう意味でもやれる人は限られてるんだよね。そんなリアル社会と全く関係ないような浮世離れしたようなものに全身全霊つぎ込めるというほどの情熱を持てるかどうか?っていうのとそれを具体的にやれるのかどうか?っていうところですよね。変な話、なんかの大会に出るとか段位を取るとかのほうが全然実益っつーと変だけど社会的だよね。んでもそんなもんじゃなく求めるのは射のイデアだっていうことになるともう形而上学ですよね。


それは社会的なことに無欲だから段位だの大会だの競技だのってのに興味を示さないっていうことなんじゃなくてっていうかまぁ確かにそういうことに欲望を持ったことがないから元々無欲と言えばそうなんだけどでもある意味で欲望の塊なわけなんですよ。射のイデアを求めるというエロスは物凄いものがあるわけだよね。なんか仮に犠牲にしなきゃいけないことがあってもそれのためだったら全然余裕!というような執念だよね。まぁこれもようは欲望でしょう。それを習得したところで別にリスペクトされるわけでもないし人に見せびらかすわけでもなんでもなくてただそれにひたすら向かうっていう欲望だよね。それそのものを仮に得ることができたら変な話、億万長者になるよりハッピーなことなわけですよ。金で買えないものだからね。


かといってもそれはボタン一つで得られるようなものでもないし最善の射が解説されているっていう良いリソースってのはいっぱいあるにせよ射のイデアを得るための方法なんてのはマニュアル化されてるわけでもなければまさにそれは修錬と経験っていうものと一体になっているものなんであってだから机上の空論じゃないんだよね。抽象性と具体的な方法論と日々それを欠かさずやり続けるという執念と・・・っていうところの凄く人間臭いものの結果、得られるかもしれないものなんだよね。それはもしかしたら得るのは無理かもしれないけどでもそれはロマンとしてあり続けるんだよね。


んでも自分にとっては砂上の楼閣でもなんでもなくてすさまじく具体的なものなんだよね。でも恐らく仮にそれを得たところで説明できるとも思えないし説明しようとも思わないようなものだと思うんだよね。だからこそ仮に言えることがあるとすればそれはイデアに向かおうとするエロスっていうところに尽きるわけでそれは完全にディオニュソス的なものでやる中で日常では得られないような陶酔と情動レベルの快感と苦しみとその陶酔と快感を可能にするための創造性ととにかくいろんなものが研ぎ澄まされてないといけないんだよね。


んでもそれって何気に俺の根底にある「世の中はオワコンである」っていう認識とすげー関わりがあるよね。だからこそ別に何か期待しても意味ないし自分で作り出していくしかない。かといってもそれは他人も感じられるような芸術作品みたいなインタラクティヴなものを創造しなくても自分の生活なり生き方なり体験ってのを創造することは可能なんであってその究極の形の一つが自分にとっての弓なんだなっていう認識に至ってるよね。だから多分これはまだ今よりかはもっとやりたいことばかりがあった例えば5年前ぐらいだったらこうはいかないはずなんだよね。多分大変すぎてそこまでの情熱をもってやれなかったと思うんだよね。


色々あるone of themの一つに全身全霊をつぎ込むほどの余裕もないしほかにもいろいろとやりたいことがあったわけでさ、んで今ってそういうのをやり尽くしてきていてそろそろコンテンツ無くなってきたなーっていうところに突如として現れたダークホースみたいなもんでさ、本当に驚きだよね。その自分の生活の中においての弓のプレゼンスっていうのがどんどん大きくなってきててもはや今はもうそれ一色になっているっていうまさに三昧の世界なんだけどさ、んでコツを掴んじゃえばすぐできるようになるとか射が安定しだすというようなことではなくてその求めるイデアレベルのものをやろうとするのであれば大げさな言い方なしにもリアルに一万時間ぐらいは必要だろうっていうぐらいやらないとダメだろうっていうものなんだよね。でもそれも無駄に時間を費やせばいいということではなくて常に猛烈な研究と内省を必要とするものなんだよね。カジュアルさとは程遠い求道的な世界だよね。


かといってもそれをストイックに求めるということでもなくて別に実際はストイックでもなんでもなくてとにかく好きで楽しいからやるわけよね。そういう意味で快楽的なわけだ。でも求めるのは「やったできた!」とか「中った!」みたいな快楽ではなくてイデアに向かうというエロスの快楽だよね。その快楽原則の果てにイデアはあるわけだ。でもその行きつく先というのはまさに涅槃の世界だよね。そういう意味で本当に真の意味で小乗なものなんだと思う。でもそこにイデアがあれば救いは存在するというようなことだよね。かといっても敬虔であれば救われるのか?っていうことでもなくてそこは残酷に救われるものは決まっているわけなんだよね。


そういう意味で努力が結果に結びつくような世界ではないんだよね。ただでもイデアへ向かう蓋然性はあげられるかもしれないっていう潜在性だよね。すべての人にその蓋然性を上げるという道は開かれているけど涅槃に至る道というのは開かれているようで開かれていないんだよね。そこを開かれていると一応するのは民主主義的な作法というかイデオロギーなんであって実際のところは凄まじく狭い門なんだよね。そんな形而上学的なものなんだからそれが試験とか制度みたいなものとして世俗化できるわけがない。仮にそれが成立したとすればそれは完全に形骸化されたものなんであってそこに本質はないよね。


日々日ごろからイデア的なものへのエロスを渇望しているという精神状態によって必然的に弓というダークホースが顕在化したと言えるわけよ。で、その弓に向かう際の理想的な射のイデアを求めるというエロスから顕在化してくるかもしれないイデアへの手がかりだよね。極めて宗教的というかスピリチュアル的だけどもオカルト的要素は一切なくて実際は凄まじい理詰めの世界なんだよね。


といってもシステム化できるほど個々のプロセスが明白なわけではなくて暗黙知の次元というのが多く存在するそれでいて個人の生き方や実存、人生への考え方とか現実の捉え方というような複合的な要素もイデアの顕在化に関係しているっていう複雑極まりない世界なんだよね。まぁでもそこで神道的というかさ、武神にお参りするっていうのも神頼みってことじゃなくてそれはイデアの顕在化に関係する重要な要素なんだよね。全然ネタでもなんでもなくて。因果関係は無いかもしれないけど潜在意識とか抽象的なレベルでは極めて関係性のあるもので結果的にそれは因果関係として浮上してくるわけなんだよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。んじゃまた。