武道について。

そもそも弓がなんであるのか?って原始的な時代までさかのぼればそりゃ狩猟のためだったり殺し合いの道具だったりしたわけじゃない?んでまぁ日本的なコンテキストにしたってほかの海外にしたって基本的に兵器だよね。だからこそ銃が出てくるとだんだん使われなくなるだとかってことになるしクロスボウみたいな誰でも使えるものが出てきたりするとそっちのほうが使われるようになったりもするっていうのがありつつもイギリスなんかだとまぁ武士道とかと同じで一種の騎士道だよね。子供のころから剣術とかと同じ感じで弓術ってのも仕込まれてんでまぁ大人になって戦場に出るようになってなかなかの敵にとっての脅威になるっていうさ、まぁクロスボウと比べたときに圧倒的なのがファイアレートじゃないですか?あと農民でもクロスボウは使えたかもしれないけど長年ロングボウの訓練をすることで培われる感覚とかってのがあったわけで言わばそれって武器だよね。それ自体が武器だよね。つまりはスキルってことですよ。


武術ってそういうことだよね。何かを扱うときに必要なスキルでなおかつ極めるとその知識と経験自体が武器になるというようなものだよね。んじゃあ付随するような精神の涵養みたいなのが武術に組み込まれるべきなのか?ってまぁそりゃ関係ないよね(笑)そいつがクソみたいな人間性だろうが弓使わせたらすげースキル!ってことなんだったらもうそりゃ弓のスキルを認めるしかないでしょう。当たり前だけど人間性だの精神がどうのなんて完全に習い事化した後の形骸化したものにおける要素だよね。元はそもそも武なんだから元も子もないような人殺しの方法なわけですよ。まぁでもそれは訓練できないにしても戦場でちゃんと冷静に射ることができるか?みたいなことからまぁ単純に戦場における体の使い方とか戦いの流れの読み方だとかさ、なかなか言語化されるようなものじゃないようなものに至るまで武術ですよね。それは。


あ、なんか無駄に長くなりそうだから要点だけ書くか。まぁようは中るか中らないかなんてどうでもいいなんていうものはもう武術でもなんでもないですよね。それはカルチャーセンターとかでやるような習い事とか芸事ではあるかもしれないけどもはや武術じゃないでしょう。武術と武道は違うっつっても武術を極めていく道ってのが武道なんであって元は人殺しなんですよね。だからいかに射抜くか?とか中るだけではない威力っていう貫通力というのが必要だったりとかさ、作法なんてどうでもいいでしょう。というかそんなもんばかりが重要視されてなおかつ段が上がるにつれてよりその形骸化が顕著になるっていうね、なんかよく分からない品格だとか作法だとかさ、こんなの昔の侍が見れば笑われますよね。


で、結局まぁ別に的に中てるということを軽視するわけではないけどそれっつーよりかは作法だの入ってくるときの歩き方だの全然エッセンシャルじゃないようなところばっかりに評価の比重が行くようなものなんてどんどん本質から遠ざかるわけよね。それって例えるなら茶道でその作法だけやってシャカシャカ混ぜてるものは実際はなんでもよくてベーキングパウダーでも小麦粉でもなんでもいいみたいな(笑)話になるわけよ。抹茶じゃなきゃダメでしょう!っていうね、中らなくてもいいなんて別にお茶じゃなくても粉であればなんでもいいって言うようなもんだよね。


あとまぁ実際に相当色々読んだけど偉人レベルの先生方で中らなくてもいいんだなんて言ってる人なんかほとんどいないんだよね。的中率ってのが軽視されるようなものはもはや弓じゃないとすら言っている先生もいるわけでまぁそりゃ当然だよね。でもなんだろう、先生方とかもちゃんとそう言ってるのに現実の弓道ってなんであんな作法重視になってるのか?っていうところだよね。あとまぁこれって射礼と射の混同ってのもあるよね。ようは射礼って儀式的なものだったり伝統的なものだったりするわけでその流派の人とかが必要に応じて神事だのなんかまぁ色々とイベントがあるようなときにやればいいわけで一般人がやるようなもんじゃないよね。


別にこれはどうでもいいことじゃないのよ。んでもそれは流派の人がちゃんとやるから意味あるんであってさ、関係ない人が道場でこういうところばっかやってても全然意味ないよね。まぁでもあれだけどね、武道ってのが現代的な社会との釣り合いがあるような便利なものとして定義されるってのはまぁしょうがないとしてんでも忘れちゃいけないのがそれは人殺しの方法なんだってことだよね。別にモラルがどうのってことじゃなくてそれにまつわることで多くの血が流れてきたりその技によって死ぬ人がいたりとかっていうまぁそういうbloodyなものなわけですよね。


そんなものを精神の寛容だのっつって再定義すること自体が矛盾するよね。なんかまぁここはまた書くと面倒になるけどさ、まぁその肝心の精神の寛容ってのも前提としてその人が武士であるってことがあってそれは精神の寛容になるものでまぁいつでも技を使えるように磨いておくっていう臨場感が精神の寛容につながるっていうことで戦と関係ない人種の場合、それは精神の寛容になりようがないんだよね。だからこじつけてくるしかない。


だからまぁ芸事に成り下がるってのはまぁ前にも書いたけど戦国時代から数十年でもそういうのが横行してたわけでさ、まぁそれはしょうがないよね。まぁ別にとりわけ現代の武道がダメってことでもなくてまぁそもそも戦が無くなればそういうもんになっちゃうってことだよね。だからこそと言いたいんだよね。だからそういう芸事とかじゃない本当の武道をやっていくっていうか継承していくって人がいてもいいじゃない?ってことだよね。まぁんで前も書いたけどそれはまぁその武道の流派の末裔とかはそりゃやってるだろうけど別に俺みたいな一般ピーポーでもそういうのをやってもいいんじゃない?ってことだよね。色々ある中で芸事と化した武道をやらなきゃいけないっていう縛りもないわけでさ、あとまぁそんなルールもないもんね。まぁやっぱそういう意味でなんだろうな、戦国時代の後の武道ってのがまぁ芸事化した武道なんだとすれば元の武道ってのがやっぱ相対的に古武道とかって言い方になるんだろうね。


まぁそうなると一連の古武道を身に着けてないと気が済まなくなってくるっていうかまぁ侍が刀を使えないときに防御としてやっていた柔術とかってことになるけどまぁそうなると合気道だなーとかって思って合気道もやってみるかって思いつつっつーか合気道も興味があってやってなかったっつーのも一人じゃできないからっていう理由なんだけどもまぁこれはあくまでサブ的な感じでまぁがっつりやるなら道場に行けってことになるわけだからまぁあくまで知識のレベルでいいからやっておこうかなってことになってますよね。


まぁ合気道って別に古武道じゃないんだけどただまぁあれなんですよね、まぁ別に源流ってわけじゃないけどすんげー古いのだと諸賞流の古武術ってのがあってさ、まぁそういうコンテキストってことですよね。まぁでも現代でシステマティックな武術をやるならもっと良いのがあるってことになりそうだけどそこはまぁなんか歴史的に侍を辿るっていうコンセプトだよね。だからまぁなんだろう、やっぱ剣術・弓術・柔術ってことになるよねってまぁそれだけじゃないんだろうけどさ、まぁとりあえずそうだよねってことにはなるよね。


まぁんでもあれなんだよな、最近こういう感じでやりたいことがクリアだからあんま書くことないんだよね(笑)とりあえずやるべって頭になってて頭がそればっかになってるんだよね。まぁんでまたやっていく中で気が付いたこととかいろいろと出てくるだろうからまぁその時はまた書きますけどもね。ただまぁあれだよね、システマティックでインテグラルな感じってことだよね。弓道にしても言わば弓術が芸事化して変にマニアックになって作法だのなんだのっていう芸に成り下がってるわけでまぁ葉隠だったか忘れたけどただのそれだけをやる武芸に成り下がっちゃいけないってことは強く諫められてたよね。インテグラルな武のパートとしての弓術なんであってさ、それは色々ある武術の一つなんだっていうね、まぁだから戦闘において必要とされる武術のあらゆるものはマスターしたいってことになるけどそうなると棒術だの小太刀だのなんだのってことにもなるんだけどまぁ棒術は楽しそうだからやるかもしれないけどまぁコンセプト的にはそういう感じですよね。まぁでもやっぱ単純に居合と弓が好きなだけなんだけどね。まぁただそれをなんかインテグラルなネクストレベルの境地でやりたいなっていうところはあるわけよね。


まぁそんな感じですね。んじゃまた。