リアル感覚=鬱感覚。

読書が軸モードに戻してだいぶ安定してきたかな。んでまぁ気分が割と戻ってきたからまた逆にゲームやりたくなって(笑)今売れに売れているというPlayer Unknownのバトルロワイヤル買ってみたんだけど2broの動画で見てたけどこれフレがいるから面白いんであって一人でやってもなぁーとか思いつつスクワッドモードがあるわけだしあとまぁ色々と話題沸騰中なわけでとりあえず安いしやっとくかってことでやってみたけどまぁなんか孤独感まぎれますよね(笑)


こないだ書いた別に当たり前だけど普通に英語圏の連中とは意思疎通ができるからオンラインでは国境がないみたいなことを書いたけどまぁそれを改めて感じるよね。アジアサーバーだと中国人ばっかで中国語が飛び交うんで北米サーバーでやれば大体英語でオッケーっつーね、ボイチャでこっちは発しないけどまぁボイチャほぼ必須みたいな感じだしっつーか開幕前が面白いんだよね。ボイチャがスクワッド以外でもダダ漏れ状態でそこでいろんな変な音出したり変な歌歌ってたりサンプリング音源みたいなのをループさせてるやつとか(笑)やっぱこの能天気さってアメリカの底力だと思うよなーって思いつつまぁただでもPaydayとかで散々チャットしたりしてやってたから別にまぁ感動はないよね。


まぁ何が言いたいのかというとこの日々の虚しさってのは別に人間関係の欠如とかじゃないし孤独感でもないんだよね。なんかんでさ、和辻哲郎全集読んでるっつったけどニーチェ研究とキルケゴール研究っつー初期のやつあるんだけど改めてこれって本当にニーチェ的だったりキルケゴール的なことなんだよなって思うよね。自意識がどうのとか何か認められたいのに認められない!みたいなことでもないそもそもの生きるということに付随する意味のなさだよね。まぁんで最近はそれはポストモダン後のペンペン草も残らないような時代的なことでもあるって言ってるけどそれで言うとまぁ先進国共通だよね。


あ、んでね、Ghaemiって人のOn Depressionっつーのをようやく買って読んでるんだけどまぁようは病的なものもあるけど病気とは言えない当然のリアリティ状態だみたいなことを言ってなくもないんだよね。で、一般的には認知のゆがみによって鬱が引き起こされてるからまともにならなきゃいけないっつーんで認知療法とかするんだけど実際は軽いうつ状態ってのはリアリティ状態なんであって例えばそういう状態では「俺ってすげーかっこいい!」とか「俺は才能の塊だ!」とかって思わないじゃん?(笑)


まぁ最近よく書く「でも合ってるんだよね」っていうそれに尽きるんだよね。現実的だからこそそんなに現実が面白いわけじゃないしなんか無駄に前向きになれるようなこともそんなに多くないっていうさ、まぁだから夢中になれることを常に渇望するわけだよね。それがエロスを渇望するという力の源泉にもなってるからそういう意味で究極のリアリティ状態とも言えるわけよね。そこでニーチェなんかはそういう痛みとかも肯定するっつーか肯定っつーよりかは力への意思を喚起させる素材なんだみたいな感じで必要悪だみたいなことを言ってるわけじゃない?抑圧があるからこそエロスがあるわけでまぁ例えばJKがみんな裸で歩いてたらエロスはないけど制服だからエロいわけでしょう。生脚という概念もそもそも服きてなかったら生もなにもないわけで隠されることの偉大さを感じずにはいられないんだけど人生も快楽がダダ漏れだったら逆につまんないだろうとは思うよね。


まぁ分からんVRとかが相当この快楽路線でだいぶヤバいリサーチとかやってるらしくてそもそもの快楽の定義が変わっちゃうのも時間の問題って気もするけどさ、でもなんだろうね、ゲームもいいけどやっぱ弓に勝るものはない!って改めて思うのはその体験が凄いからだよねっつー話からいつもVRでもそんぐらいの体験ができるようになると話は変わってくるってことになるけどまぁ別にこれは体を動かすものとゲームとって別のもんだから比べる必要はないんだけど俺が言いたいのは弓がこんだけ救いになっているということにまだ希望が持てるっていうことなんだよね。


ようはそういう身体なりリアルというものが介在する中で自分の身体能力のリミットとか知識不足とかも含めてそういうのをどんどんマックス解放していけるっていう楽しさだよね。言わばリアルにおける限界突破ですよね。で、コンセプト的にまぁ今まではそれが学問とかばっかだったけど身体関係のことでも尋常じゃないぐらいのめりこんだらどんな風になるんだろうか?っていうことだよね。まぁようは昔に毎日何百本も引いてた達人レベルになるっていうことだよね。それがまぁ可能だということだよね。まぁ学問もそういうコンセプトだったじゃんね。尋常じゃないぐらいのめり込んで極めるってことだよね。でもそれが当たり前になっちゃったからなんかまた新しいのないかな?って思うようになっているっていうだけでまぁ基本はとにかく好きなものは極めるってことだよね。


でもそれってのがやり始めはなんか始めた感があるけど当たり前になると強度が無くなってくるんだよね。あとまぁようは地道ってことだからコツコツな感じになって地味なんだよね。派手さがない故に単調に感じられたりするようになるってことだよね。なんかあれだわ、今日とかずーっと映画見てて本読んでないから読むからそろそろやめるけどさ、裸のJKに生脚という概念はないってのはなかなかエピックな考え方だと思うよね。その生脚のエロスに救いがあるってのがまぁ今の俺で言うところの弓に救われるみたいなことだよね。あとまぁほかにも救われるものは色々あるけど強度ばかりだとそれはただの垂れ流しで行きつくところはヤク中だろうっていうところだよね。JKが全員裸だったらそれはフローとは言えないだろうという。


あとまぁやっぱ読書いいっすよね。ほどほどに疲れるし弓とセットならよく寝れるしまぁそう思うと自分は身体なり頭を鍛錬という意味での酷使をしないとそれがストレスになるっていうことなんだよね。まぁだから大変そうなのに挑むのが好きなんだけどまぁこないだ病院行ってきたんだけど色々と常に続く軽いうつ状態のことを話しつつ色々と説明したら先生がまぁ合いの手程度で入れてくれた一言なんだけどなにげにそれだよなって思ったのが「挑戦することがなくなってきたってことですかね」ってことなんだけどまさにそれよね。まぁだからそう思うと例えば読書とかにしてもインプットの量も維持しつつ精読も同時にするみたいななかなかイムポッシブルなことに挑戦するだとかまぁ次は超人レベルなのかなとも思ってんのよね。そりゃ無理だろみたいな次元を目指すみたいなね、まぁ頭のリミッター外すってことだけどそれをさらに加速させるのは一つかもしれないなって思ったね。


まぁ今日はこの辺で。んじゃまた。