浜ちゃん黒塗り続編と俗流保田批判について。

例のガキ使騒動の発端になったかもしれない黒人作家さんのクソっぷりっつったらありえないよねっつーかああいう人にありがちな論理の飛躍のまた飛躍ね。黒塗りを東京オリンピックでもやりかねないとかどんだけアホなんだっていうまぁなんか言及する必要もないほどのクソっぷりでぶっちゃけどうでもよくなったんだけどでもまぁ何をもって差別とするのか?っつーのは表面的なあれは差別だ!みたいなのではない本質的な差別を考えるうえで重要だよね。

 

そう思うとこの辺だとややこしいのがまた商売臭いフェミニストだよね。なんでも女性差別だとかさ、それこそ時代的な観点とか抜かして明治とかの文学を出してきて女性差別だとかそりゃまぁ今の観点から言えばそうだけど当時はそういう女性観がデフォだったんだったらその作家が差別主義者だったわけではないじゃん?女性の扱いがそんなものだったっていうことなんだからね。そこを飛ばして表現の部分だけとか絵面だけ取り出して差別だ!っていうことのコンテキスト不在感だよね。

 

ぶっちゃけ今回のガキ使の件も今例に出した例えばフェミニスト夏目漱石なんかの文章なり小説の一説を取り出してきて女性差別だ!こいつは差別主義者だ!なんて騒ぐのと同じだよね。っつーかいつも思うんだけどこれって騒ぐことに功名心っつーのかな?最近書いてる保田批判についての批判なんかもそうだけどなんたら批判って自分が世に出たいとか認められたいっつー承認欲求なんだよね。多分。それで名をあげたいとか有名になりたいとか本当にくだらないよね。

 

色々と騒ぐのもそうじゃんね。自称作家なんて一番いかがわしいわ。何かと言えば名を売ることしか考えてなさそうっつーかさ、それで論を展開すると差別と言えばこの人とかっつってメディアで呼ばれたりするからね。大声出してた方がいいわけだ。本当に卑しいと思うわ。ましてやそういう差別っつーセンシティヴで重要なトピックを自分の飯のネタにするとか名を売る媒介にするとかクソ過ぎるでしょう。差別反対運動とか基本的に運動系のやつがいかがわしいのもこれだよね。なんかの運動してるっつー自己満足感とかようは実存なんだよね。それを言いたいとか大声で言うっていうことにスポーツ的なものを見出してるっつーかさ、でも本当に差別を考えるならこんなことにならないじゃん?もっとそれこそラディカルに差別とは何か?って考えるっていうことになるよね。

 

まぁただ今回の件に関してはあとはまぁ取り決めっつーかさ、そりゃ差別があった国の歴史の話でしょで済むけどそれで済まない人とかそういう歴史はあったわけだから配慮は必要でしょうっていうことすらも無かったのか?っていうこととかさ、でもこの配慮こそがいけないわけでね、それがまぁ学のなさって言えばそれまでだけど別に天然で普通にエディマーフィーのコスプレをするっていうことがそのまま無知ってことにはならないでしょう。全然コンテキスト違うもんね。んでもこれでようはガキ使なんてネットで見れるわけだから実質的にこういう人種ネタってもうそういう一方的な決めつけで自主規制になっちゃうんだろうなって思うと悲しいよね。差別だ!って騒ぐことで生まれる差別ね。

 

ユーモアとして例えばアメリカのお笑いの番組で「日本の電車」みたいなのがあって七三のサラリーマンが無表情でありえないぐらいぎゅうぎゅう詰めの電車に乗ってるみたいなのを笑うっつーのがあったとして別に笑っていいわけだよね。我慢してる側からすると不快だろうしやりたくてやってるわけじゃないんだけどでもまぁ実際そうなんだからしょうがないよね。別にそれを笑いのネタにしたっていいでしょう。人種的なものとか独特の文化のものを誇張して笑いにするって別に手法としてあるわけだしようはこれってビジョンなんだよね。俺らがどういう世界を望むのか?っていう話だよね。何に関してもピリピリしてるっつーのでいいわけ?ってことだよね。嫌でしょそんなの。

 

 

少なくとも黒塗りは差別になるからいけませんっつールールは日本にはないわけだからさ、それを差別してない根拠として特に特別配慮することなく普通に扮することができるってことをそのままにしておくべきだよね。過去で言えば山ちゃんがレクター博士に扮したり板尾さんも笑ってはいけないでやってたけどあとまぁシャイニングのジャックニコルソンとかね、んで別にそういうアメリカ俳優ネタでエディーマーフィーってのがあるだけなのにね。日本に13年マジで住んでたらそれが分からないってどんだけ鈍いんだ?って話だよね。

 

あとここがアメリカ人の嫌なところなんだけどやっぱ自分たちが上だと思ってるから基本的に日本人が後進国の国にいって偉そうな気分になるのと同じような感覚があるんだよね。自分たちの感覚が最先端だからこんな極東のところの変わった文化に適応する必要はないとかって思ってすげー長くいたりしても永遠とアメリカンのままでいたりするんだよね。あっちの学校でもさ、アメリカ人とかまぁ外国人専用の幼稚園だか学校に行きながら日本で育ったっつーやつがいて結構長くいたのに全く日本語喋れないんだよね。

 

で、俺はアジアで育ったんだとかって言うしね。いや、そこ日本でしょっていうなんでアジアっつー言い方になるの?っていうさ、いや、それはアジアでも日本は特別でしょってことじゃなくてなんでそんな長く住んで育った国をアジアって呼び方するわけ?ってことなんだよね。こういうオリエンタリズムには本当にイライラするよね。あとまぁ当たり前のように英語が喋れるっつーか普通に英語で聞いたりするじゃん?でもここ日本だから!って思うよね。日本人がアメリカにいって「すみません」って道の人に聞かないでしょう。いや、でも国際感覚あったら英語喋れて当然だろうっつーか英語なんだぜ!みたいなのが根底にあるんだよね。これと同じなんだよね。黒塗りなんてダメでしょ!って押し付けをするってのも日本に来て当たり前のように英語を喋ろうとするやつらの感覚と同じなんだよね。

 

で、問題なのはアメリカかぶれが結構いるってことなんだよね。いや、国際的な感覚で言えばそうでしょうって平気で言っちゃうようなさ、前にももクロだかの黒塗りネタを差別だ!って言い出したのもニューヨークだかの日本人記者だったりしたんだよね確か。あー分かる分かる(笑)あっちにいるアメリカかぶれの日本人の感覚ねーっていうさ(笑)

 

これってタチ悪いのが黒人を笑いものにしてるわけじゃないっつーのを知ってるはずなのに日本人って遅れてるよねーって言いたいだけでそういうの書いちゃうみたいなさ、文化の違いと差別観の違いって全然違うからね。それが本当に黒人を笑いものにしてるなら大問題なんだけど違うわけじゃん?黒人そのものを笑ってたら例の商売臭い黒人作家の言い分とかもそのまま通るんだけど全然違うからね。ましてや差別だ!っていうには意図があるっていうエビデンスの裏付けをしなきゃいけないわけでさ、そこを黒塗りっていう形式だけ持ってきて批判するなんて言語道断だよね。こういうのには本当に抗わないとダメだと思うね。それで言うと保毛尾田保毛男問題も本質的に差別とは?ってのを考えるうえで同じだよねっつってもまた全然これも文脈違うんだけどね。

 

これの場合、明らかにゲイってのを誇張したキャラになってるけど別にこういうのって昔からお姉キャラとかっているわけだしさ、あ、それはロボアニメだろうがなんだろうがあるじゃん?でも別にそれってそういう人もone of themだからっていうpeople感があるわけじゃん?逆にあれかな、差別で言うと例えばオタク風の見た目をしてるやつが通り魔やりそうとか幼女誘拐してそうとかこういうのは差別だよね。でも別にオタクキャラを誇張して笑うことは差別じゃないよね。ただこういうのに比べると人種なんて全然レベル違うよね。ホモとかオタクってのは差別されそうだけど黒人って少なくとも黒人に対しての差別の文化が無い国ではそういう感覚すらないよね。まぁ滅多にいないから珍しいってのはあるにせよ差別はしないでしょ別に。

 

そもそもこの黒人紛争問題を同じ差別ネタ枠としてホモとかオタクと同等に語ること自体がもうそもそもマズいんだよね。そんなカテゴリーに本来いないものを差別だ!って騒ぐ人は無理やり持ってくるわけだからね。PCばかりが重要視されてどんどんユーモアとか表現の多様性が無くなっていくって最悪だよね。なんでも自粛するとかあとまぁ騒ぎたいやつらが差別だ!とかこいつこんなことしてる!なんつってつるし上げるとかさ、そういう監視社会って最悪じゃんね。まぁ例の黒人作家さんは全くそんなことも考えずに差別だ!って言い続けるんだろうね。どんどん生きづらい社会が形成されるだけなのにね。

 

あ、なんか思ったより長くなったけどあれなんだよね、別にそんな長く書くようなもんじゃないんだけど本当に書きたかったのが重要な点としてっつーか一気に話題が変わって俗流保田批判なんだけど別にこれは保田批判に限らずなんだけど政治的なことについて語ってても具体的なビジョンがないとかプラクティカルなことが書いてないっていうことが政治性の排除なんだって考えるっていう誤謬だよね。不在と排除は違うでしょ。マルクスから政治性を排除してヒューマニティーっぽいところだけつなぎ合わせたらそれは政治性の排除だけどそもそも言及されてないっていうものを排除扱いするってのは大きな間違いだよね。

 

それはそもそもそれについて語っていないわけだし語るつもりもないから書いてないんであってそこを書いてあることと具体性のなさを不在ではなくて排除にすることで勝手に農本テオクラシーって定義しちゃうとかさ、それを何らかの政治性があるものとして定義する場合、その政治性の要件が満たされてないと成立するわけないよね。そこでんじゃあ仮にヒューマニティ的なロマンだけが語られていて政党がどうするべきとか政府はどうあるべきだっていうことが書いてないっつーもんがあったとしてんでもそれを政治的言説として定義しちゃったらそれってロマン主義アナーキズムとかって勝手に言えるじゃん?

 

政府についての言及がないから政府はいらないと思ってるんだっつー勝手な決めつけですよね。アナーキズムなんてのはどういう理由で政府がいらないのと政府に代わるようなものが中間集団でおこなわれるとかっていう徹底的なガバナンスのシステムが語られてるわけだよね。こうこうこういうわけで暴力装置である国家というのはいらないんだっつーところまでいってやっとアナーキズムになるわけだ。全く言及されてない=アナーキーじゃないんだよね。

 

本当に戦後左翼系のロマン主義批判とか戦前批判って酷いのばっかで呆れるんだよね。というかでもこんなのがデフォとされるから保田がファシスト呼ばわりされるんだろうなっていう無知って怖いよねってことなんだよね。本当に。左翼的な言説であったり一見リベラルっぽいPCばっちりな意見みたいなのが排除したり良くない作用をするのってすげーあるんだよねって改めて思うよね。本人は絶対的な民主制っつーかさ、日本の場合、戦後左翼的な借り物のただのアメリカのガバナンスの方法であった日本に輸入されたアメリカ式民主主義みたいなのを絶対的なもんだって信じ切ってるからこそそれ以外にありえないと思うから他を一切認めなくなるんだよね。これも思考停止の一つなんだよね。

 

ましてや戦後の民主主義なんて統治するのに便利な方法をプロトコル化したようなもんなんであって憲法的な理念とかないじゃない?そういうのが永遠に今も続いてるんだなって思うと本当にやるせない気分になりますよね。別にそれが全ての原因!とまでは言わないまでも自律性が本当に失われたんだなって思うよね。そういうのが無くなってきている!って懸念してたのが浪漫派とかでもあったと思うんだけど戦後になって体制が変わってよりそれは進んだわけだよね。

 

何しろ原理がないわけだし理念もないし全部借り物でそれがなぜか?ということよりかはこれが決まりですって最初から規定されてるものに盲従し続けてるわけだよね。本当にそういう意味でそれは別に日本に限らずなんだけど原理を考えないとダメだよねってことなんだよね。別にそれが浪漫派的なものである必要はなくて色々なものを根本的に考えるっていうことだよね。それがルールだからってことじゃなくてなぜなのか?ってことを問うってことだよね。その問い続けるっつーことが結局は結果的に原理の追求になるわけだよね。だからもうそれは自ずと文化性を持たざるを得ないわけだよね。

 

なんか全く関係なかった保田の話と黒塗りの話が繋がってきたなっていうね、これは意外だったけどまぁでも原理を考えるってそういうことだもんね。関係ないことがないぐらいだよねそれは。そこをやっぱ偏屈なナショナリストとか国粋主義者が日本原理とは?なんつって考えるってことじゃなくて普通の日本を思う人が考えられるようになるといいんだよね。全くそういう意味で右翼臭さのないナショナリズムっていうかね、逆にまぁ右翼臭いのってもうダメだよねっつーかダメなのが多すぎるし保田も実際に戦後とかにチンピラなんだか思想家なんだか分からないようなのともかかわるようになってより印象が悪くなったなんてのもあったりなんかして、まぁ俺は右翼を否定しないけどやっぱ古くからの右翼ってもうダメだなって思うんだよね。

 

なんかそういうことじゃないんだよね。真に国のことを考えるって意味でのナショナリストだよね。それは新右翼なんて言われる人たちもやっぱり右翼臭いわけだからもっと無臭の自然なものにしていかないといけないんだけどまさにこの「自然」っていうことこそが保田の思想のコアにあったりしてまぁこれについては今後も色々と書くけど右翼臭くない右翼ってのは本当に可能だなって改めて真の意味でのルーツ的な右翼とかも含めて読んでて思ったよね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。