ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/Rockstaによる日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ハムレットさんへの返信。

ハムレット

 

一連のGuitar improvisation聴きましたけどよかったです。ある作品が良いとか悪いとかの判断って主観的で曖昧だと思われてますけど、映像とか文体がそうであるように、これは良い悪いってすぐにわかりますから。そう言う意味ではかなり残酷だと思うんですけど、出てる音はかなり「良い趣味してる」と思いました。あれを誰かの音源から取ってきてとかじゃなくて自分で出してるんだったらすごいセンスあると思います。商業的に見て可能性はないかもしれないけどもそれで何が悪いんだって、そういう境地にはとうに達しているようですからこのまま活動を続けてください。


友川カズキにはご存知かもしれませんが「Faute de fleures」ってドキュメンタリーがあったりします。Vincent Moonっていうフランスの映像作家でミュージシャンばっか撮ってる人の作品です。あと、Concert à emporterってシリーズでも友川カズキを撮ってます。こっちはYoutubeでも観れると思います。実はHaswellとダンスマニアから流れてここにたどり着きました。すごく好きです。Whitehouseとかsutcliffe jugendも好きなんですけどどうですか?既に過去の記事で取り上げられてるかしれませんね。

 

「an anthology of noise & electronic music」っていうアンソロジーがあるんですけど、その中でも一際音が大きいのがこいつらで、おじさんだし渋くてかっこいいな、こいつらだったら掘られてもいいな、そんなことも時には思いながらライブ映像観てます。

 

あとはSPKとかMassonaとかMerzbowとかXenakisとかKarkowski、ロック畑からだとPeru ubuとかビーフハート隊長とかソニックユースなんかも入ってます。Massonaのライブパフォーマンスは自身の身体を音に貫通させるっていう、嗜虐を行うのも自分ならそれを享受するのも自分っていう一人SM的なところもあって、性的でだけど知的なバックグラウンドもある?はずで好きです。ドゥルーズ=ガタリのテキスト、とりわけ「Captalisme et schizophrènie」と最も共鳴するのはマゾンナだったりとか思うのです。

 

二人はBoulezとかGouldをやたらと援用するけども、それよりもはるかにXenakisとかノイズ寄りの音楽と親近性が高いと思うんです。GouldとBachは大好きですけどBoulezの良さってわかりますか?私はわかりません。何がすごいのかも何がいいのかもわかりません。ただただ退屈で、なのに最高の現代音楽家とか言われてるので、わからないことが悔しかったりもします。たぶんシェーンベルクがイマイチよくわからないからブーレーズもダメなんでしょうね。


現代音楽だとLcu FerraiとかLa monte youngも好きです。Rossiniも最高です。彼こそは現代音楽の先駆的存在で、あれは方法論的にはテクノミュージックにかなり近いように思えて、彼が現代に生きていたら優れたテクノミュージックを作っていたと思います。彼は19世紀の人間ですけど、19世紀を一足に飛び越して20世紀に接続する、そういった音楽家だと思うのですね。

 

声という素材、彼の時代に手に入り利用可能だった音の中で最も可塑的で変形を加えやすい素材を、どこまでも遠くへ運んでいくこと。もはやそれが人の声ではなく、たとえば動物の叫び声となるように、または、ただの断片的な音となるような、そんな境域まで運んでいくこと、言葉から意味という重みを落としていき、純粋な強度を形成すること、彼の音楽はそういったもので、いわゆるオペラとは全く別物です。ゲラシム=ルカの現代詩のようでもあります。

 

たとえば、ヴァーグナーの、再生した瞬間からナチスの毒ガスのようなものがあたりに立ち込めるような気がする、ヒステリック丸出しの、通しで聴くことの極めて困難なオペラとは違います。ただ、ロッシーニでも良いのは「セビリアの理髪師」くらいまでで、後期の代表作と言われているもの「モーゼ」とか「ウィリアムテル」とかは伝統的オペラへの後退以外の何物でもなくつまらないです。あと、演奏によっては歌手が情感豊かに気持ちよく歌っちゃてるのがあって、そういう時は演奏が作曲家の意図を裏切ってると思うのですね。そういう歌手はまるで歌声に意味や感情が宿るとでも言わんばかりなんですね。それを正しい方向に導くのが指揮者の仕事でしょうね。


こういったクラシックな鉱脈とは別に、主に80−90年代のポップミュージックも好きで、ダンスマニアとかニューオーダーとかそこらへんの音がツボです。SPKもガチの方が自殺してから女性ボーカル加えてポップ路線に走ってきて、でも悔しいことにそれもなかなか時代感丸出しの好きな音出してるっていう。この前岡本喜八の「大脱走」っていう映画を見た時に、そのエンディングでPHYCHO HYSTERICSっていう元ジャニーズのデヴィッド宮原っていう相当うさんくさい人のバンドの音楽がかかるんですけど、音楽としてはクソでも一聴して好きな時代な音だなっていう、たぶん自分にとっては80−90年代って原風景というか故郷みたいなものなんですよね。

 

安っぽい故郷で評価しないけど、疲れた時とかにたまに休みたくなるような場所ですね。その時代の邦画とかはまさにそうですね。阪本順治とか崔洋一とか相米慎二とか深作欣二とか北野武とか大林宣彦とか岩井俊二とか釣りバカ日誌シリーズとか、映画としては評価しないけどもたまに観ると心地よいっていう。


概ね良いものは商業的じゃないし、商業的なものはつまらないものが多いし、自分が良いと思うものが市場で正当に評価されない、お金という共通の尺度に変換されない、ってことに悩むべきなのか、悩まなくても良いのか、正当にお金に変換されるように変わっていくべきなのか、悩まなくてもいいって開き直れるなら現実問題どうやって生活の基盤を築いていくのか、だけど、自分の労働力を切り売りするのは問題外だし、でも、それなら労働は労働と割り切って金儲けに邁進するべきなのか、または徹底的にデカダンスを貫いて、世捨て人な態度で、社会的には存在しないも同然のままでいいのかとかそういう葛藤はあると思いますけど考えても仕方がないですからね。


個人的にはここ一年ばかりでヴァルザー著作集を再読してしまったことで諦めがつきました。ゼーバルトとかニーチェとかベンヤミンとかムージルとかドゥルーズ=ガタリとかスピノザとかそこらへんを読むことはまだ有用性の観点からみても、社会的に弁明可能な行為でしょうけど、ヴァルザーの本は延々と戯言が続くだけで一切の有用性がありませんから社会的には認可されないでしょうね。幸福でぱんぱんに膨らんだ惚けた口から聖なる戯言がとめどなく溢れ出る、それがヴァルザーですから。しかし、ドゥルーズ=ガタリだってあれが戯言じゃなくてなんなんですか。

 

それをそれっぽいものに仕立て上げたり、祭り上げたり、パッチワークの材料にするために切り刻んだり、そういうふうに作者の意図を裏切ることが日本の哲学界では哲学的と思われているようですけど、これほどの裏切りはないと思います。社会的に可視化されるために、金に換金=監禁されるために市場という流れに入るか、その外で社会的には存在しないも同然の状態で自らの喜びを求めて存在するか。to be or not to be that is the question.あと客観的に見て保田與重郎はアウト=回路の外ですから。というか私も読んだことがないし、読んでいるという人すら知りません。

 

最後に、映像作品を倍速で観られるようですけどそれは私にはなかなか理解しがたいことです。極端な話、10分の長回しを5分に切り縮めるならそれは全く別の物になってしまうと思うのですけど。それは速読とは根本的に違った行為のように思えます。あるいは、わたしが映像作品に対していまだに不必要な幻想を抱いているためにそのことを理解できないのかもしれませんが不思議に思ったので。映画を観るということ、また見るという行為について。

 

Guitar improvisationなんですけど手練れの方に褒めてもらうと本当にうれしいです。あとやっぱり分かる人には分かるんだなっていう安心感があります。自分では良い音を出しているつもりで無駄に音楽歴は長いんで評価とか気にしないんですけどギターに関してはやはり始めたばかりなので音に関してそういったコメントをもらえると本当にうれしいです。今後ずーっとやり続けて極め切ってやる!という野望が強化された感じです。

 

友川カズキのドキュメンタリーは見てみます!それにしてもHaswellとダンスマニアからここに辿りついたというのはなかなか笑えました(笑)Haswellとダンスマニアという組み合わせがいいですね。両者ある種のスカムなんだけど天然というね、Haswellの近年の作品は本当に良い意味で酷いのばっかりで「あいつまた変なのやらかしてないかな?」って定期的に気になるアーティストの一人ですね。

 

Whitehouseは音源そのまま使ったものがあるんで聴いてみてください。

 

https://soundcloud.com/mimisemi/dedicated-to-robert-ashley

 

Sutcliffe Jugendは知らなかったです。今ちょっと聞いてみたんですけど正統派のパワエレながら音の質感が凄くいい感じですね。Come Organisationから作品を出していたようなので納得の音ですね。an anthology of noise & electronic musicは全部持ってますけど知らなかったです。ちなみにハムレットさんが言及しているSPKMasonnaなどのアーティストは僕も全員フェイバリットです。ただMerzbowはラップトップ初期とラップトップ以前オンリーですけどね。特に動物愛護とか始めてから逆に大嫌いになりましたが(笑)

 

Masonnaドゥルーズガタリとは確かに親和性ありますね。Masonnaってノイズとかキワモノ的扱いを受けたりっていうあくまでノイズアーティストという感じの評価しかないと思うんですがAntonin Artaudを地で行くようなところがありますよね。ノイズにしてもパンクにしてもとりあえず音を出したいあんちゃんが衝動的に始めたものだったりしてコンセプトなんて考えてなかったりするのが大半でも結果的に凄く哲学的な含蓄があるものに表現が昇華されていたり言語の積み重ねによって形成していく概念みたいなものを一気に身体と音というレベルで言語の介在無しに到達していることがあったりして、それは理屈で言えばいくらでも評論的になんでも言えると言えばそれまでなんですけど、でも結果的に特に抽象的な概念に関しては全くなにも無いところから無理やり言葉を見つけて作っていくようなものではなくてあくまで原始的なその昇華された抽象性というのを本質的に帯びたものからしか生まれないわけで、そういう意味でプリミティヴで破壊的なものほどそういった抽象性が元々内包されているという感じがするんですね。

 

逆に凄くもっと音楽的な普通のロックとかプログレッシヴロックでもいいんですけどそういうのには抽象性って滅多にないですよね。それはもうすでに音楽の時点で凄く具体性が高いからだと思うんですよね。はっきりとメッセージらしいことを言うボーカルとか動機づけがはっきりとしている音楽性だとか音だとかというところにおいてですね。でも原始的なものの場合、単純すぎるがあまりそこに抽象性が発生するというか内在されているというか、ドゥルーズガタリのテキストなんかがノイズ寄りの音楽と親近性が高いのもそういう理由なんじゃないかと思います。

 

ドゥルーズガタリの時代にノイズ的な音楽がそこまでオーバーグラウンドじゃなかったために言説に出てこなくて参照されなかっただけで結果的にドゥルーズガタリが述べているようなものが今僕が書いたような原始的であるがゆえに抽象的で衝動的で破壊的なパンクやノイズというのが本質的にはその言説に近いという感じだと思うんですよね。

 

Boulezは今聞くと大したことないというか別になんとも思わないんですけど、恐らく当時としてはまず指揮者としてRavelDebussyStravinskyなどの近代的なクラシック音楽の独自の解釈をしたというところが凄く進歩的だったんじゃないか?と思うんですね。僕はクラシックはあまり詳しくないですけど、有名どころの指揮者を聴いてもアカデミックな固い指揮者が多くてまぁもちろんKarajanなんかは好きですけど現代音楽がメインのバックグラウンドにある指揮者の印象主義音楽の解釈をするというのが極めて固い指揮以外ありえなかったようなクラシック音楽の世界において凄くノイズ的だったんじゃないか?と思うんですね。

 

相対的に当時の指揮者というのがプログレッシヴな人たちがいなかったので凄く先鋭的だったように思えたというかなんというか、まぁただBoulezの音楽自体はそんなに大したことないのは確かですね。最高の現代音楽家と言われるのは現代音楽にしては凄く分かりやすいからそういう評価をされているのかなと思いますね。さっきも書きましたけど指揮者としてオーソドックスなクラシック音楽の指揮をしていて独特の指揮をしていてなおかつ現代曲もぶっ飛んだ現代音楽に比べたら凄く聴きやすい悪く言えば凡庸なものを作っているのでクラシック業界の中で評価されやすい体裁を持っているっていう感じだと思うんですね。

 

だって僕からしたら偉大な現代音楽家ってやっぱりXenakisとかCageとかStockhausenですよ。Boulezはあくまでクラシック内での評価なだけで本当の最高の現代音楽家達は現代の音楽家達に影響を与えるぐらいの音の既成概念を壊したような人たちだと思うんですよね。XenakisにしてもCageにしてもStockhausenにしてもヒップホップやらテクノやら音響やらノイズやら計り知れない影響を与えていますよね。それに比べてBoulezはただのクラシック業界の中での評価という感じがしますね。

 

まぁ現代音楽といってもぶっ飛んだものからアカデミックなクラシック寄りのものまで色々あるので、Boulezは分かりやすさとクラシック畑の人にも評価されるっていう単純なポピュラリティの問題だと思いますね。例えばBoulezの作品を聴かなくても指揮だけは聴くという人も多いと思うんですよ。それこそ現代音楽は聴かずにクラシックは聴くという人も聴きますよね。それに比べてさっき僕が挙げたような現代音楽家の作品はクラシックしか聴かないような人たちは恐らく聴かないですよね。何しろ音楽性が全然違いますからね。だから別になんていうか分からないことを悔しがる必要はないんじゃないかと思います。

 

ところでLuc Ferrariなんですけど昔フィールドレコーディングをやってまして、その時のインスピレーションの源でした。手に入る音源は全部買いあさって聴いてましたね。好きすぎてSuper Deluxeでライブをやったときに見に行ったぐらいです。本人を間近で見たどころか僕が座った席というのがちょうど公演前に深い椅子にもたれかかっていたFerrariの間近の席で僕は「おお!Ferrariだ!」って思いながら畏敬の念を持ってチラチラ見ていたら本人と何回か目が合ったんですよね!こういう世代の大御所と近くで目が合うなんていう経験をしたのはこれが最初で恐らく最後でしょう。まぁそういうミーハーな話はともかく(笑)

 

Rossiniは熱心に聴いたことがないので聴いてみますね。僕はクラシックというかクラシック系の編成でやっているものに関しては逆になんでクラシック形式でやるの?っていうような倒錯したようなものが好きでIancu Dumitrescuやその妻であるAna-Maria Avramなどの諸作品が好きですね。まぁ本当に音響ファンが聴くようなものとして典型的なんですが(笑)Edition RZというレーベルから出るような一連の作家のものが大好きですね。Helmut Lachenmann、Jani Christou、Morton Feldman、Giacinto Scelsi、Jakob Ullmann、Volker Heyn、Michael Von Biel、 Gottfried Michael Koenig、Horatiu Radulescu、Christian Wolffとかあと「Acousmatrix The History Of Electronic Music」に入ってるような作家は大体フェイバリットです。Henri Pousseur、Konrad Boehmer、Herbert Eimert、György Ligeti、Bruno Maderna、Francis Dhomont、Luciano Berioみたいな感じですね。

 

この辺の好きな現代音楽を徹底的にコラージュしたAssemblageという自分の作品があるんで良かったら聞いてみてください。どれも一時間越えで凄く長いんですけど(笑)

 

https://www.mixcloud.com/Mimisemi/assemblage/

 

https://www.mixcloud.com/Mimisemi/assemblageii/


それにしても自殺後のSPKの良さを理解しているなんて「お前は俺か」という感じがしています(笑)Haswellやダンスマニアにも通じるキッシュさですよね。特にSPKが良いのは「ラジオでかかるような音楽をやりたい」とか言い出す前はハードコアなインダストリアルノイズをやっていたというところですよね。そこからなんであんな中途半端なディスコサウンドになるのか?っていう、この辺も僕が面白いなと思うガチアングラ勢の妙なポップスへの憧れってところなんですよね。

 

俺らはアングラだぜ!ってやってる連中は自意識過剰なんですけど天然でアングラやってる人ってアングラ意識とか特にないんですよね。だからこそ普通にポップスへの憧れを持っていたりポピュラーになることへの浪漫を持っていたりするんですよね。何を隠そう僕もそうなんですけどね(笑)ロックスターになりたい!って別に冗談でも何でもないんです。

 

商業性と所謂良いものの話は本当に難しいですよね。そこはまぁこないだベルカーヴとかって揶揄したようにめっちゃ言い方が悪くなるんですけど所謂知能指数の分布の問題なんじゃないかと思うんですよね。問題というより自然な現象ですよね。ベルカーヴの真ん中かそれ以下にいるような人たちが大半で、でも別にそれが悪いとかではなくて単純な数の暴力としての商業性というのを規定してしまいますよね。本当に良いものはやっぱり多少の難解さがあるし抽象的な理解度と極端なまでの感覚の鋭さとかを必要とするわけでまぁ別にその感覚という意味では知能指数と一致しなくてそれこそ知能指数が逆に普通より低くても音楽的な感性が異常みたいな人もいるので一概に言えないんですけど、ただまぁ世の中でくだらないものが流行ったりするってのは結局まぁそういう知能の分布なんだと思いますね。

 

近年の民主主義の崩壊なんかもそういったことが自明でなおかつそれが顕在化した例が世界でいくらでもあってまぁようはトランプが当選するということだったりしますよね。アメリカの2割ぐらいは頭良かったりセンス良かったりするけどそういう人の大半はニューヨークやロスのような都市部にいたりあとは田舎育ちでも行くようになって、でもまぁアメリカ人の8割ってIQが低い田舎者がカントリーサイドにいるわけですよね。共和党の支持基盤ってそれなわけで結局は商業的なものもそれと同じだと思うんですよね。安易なポピュラリティというか分かりやすいものがウケたり本質的に良いものじゃないものが評価されたりという。

 

僕はそこで長らく世捨て人系の態度を取っていたわけなんですがそれって行きつくのが基本ニヒリズムであったりあとまぁそういう生活からはパワーって生まれないんですよね。だからまぁ不可能でもそれを渇望するというか、それは具体的に自分が良いと思うものがどうお金という共通の尺度に変換されうるのか?というのを考えるようなシステム的なことではなくていつかはそうなるだろうというような、そういう普遍的な良さみたいなものにコミットする態度だと思うんですよね。

 

まぁぶっちゃけロマン主義ですけども例えばお金にならないのはそれがそこそこ良いだけですさまじく良いわけではないからお金にならないのかもしれない・・・みたいな、現状に甘んじることなく常に上昇し続けるということをマインドセットに組み込んでいくような方法論的な考え方ですよね。んでそれを究めれば結果的にお金も得れるしモテる!みたいに勝手に思っておけばいいわけで(笑)仮にお金やモテが付随しなくてもそれを渇望して日々取り組むことで得られる認識とかスキルとか音楽的な高みってありますよね。

 

自己啓発本とかにもよく書いてありますけど金持ちになりたかったら金持ちになりたい!って思うんじゃなくて特定の分野を究めるということだけ考えろっていうことですよね。お金は結果的についてくるっていう発想です。でもまぁノイズに至ってはそんなことないだろっていくらでも言えますけど(笑)成功したビジネスなんかもまぁ最初は金になるわけないとかって言われ続けてたわけですよね。でもやり続けた結果、大成功したっていうような。

 

ドゥルーズガタリに関わらずそして日本に関わらず哲学のパッチワークで食べていくとかそれが学会とかになって例えば僕はラカンは好きですけどラカン学会とかはクソだと思うわけででもまぁああいうのって戯言で食うためのプラットフォーム作りをしているっていうある種のマネタイズなわけで、仮にノイズで食うなんてことがありうるとしてもそれはラカン学会みたいなクソみたいな組織を立ち上げてマネタイズするようにそれを権威化するみたいなプロセスが必要なのかもしれませんが、でもハムレットさんがおっしゃるように僕が心の師匠だと思っている保田與重郎は戦前も戦後も全く変わらずに回路の外でいたわけですよね。

 

実家がエグイレベルの金持ちだったから可能だったというところはありつつも身余堂を建てて自分の文学・思想的態度を食うための商業のような売文にすることなくそのattitudeを持ち続けたどころかそういった売文をするような輩、つまりハムレットさんがおっしゃるような金に換金されるようなものとしての言説や思想や評論といったようなものを一貫して批判してきたわけですよね。まぁ批判してきたというより批判している文章もあるというぐらいのものですが。

 

まぁそりゃあんたは金に困ってないからいいけどさって言われたらそれまででも、でもだからといって金が必要だからといってパッチワークをする必要もないわけで、そもそも換金できるような意味でのValueを持ったようなものを前提とするものは例えばそれが広告という媒体が介在していたらそういう広告そのものと相反することがないような社会性を持つことが絶対条件とされるわけだし、そんな中でエッジーなものが作られるわけないですよね。というか作られませんよね。そもそも広告やら商業を前提としている時点ですでにもう音楽というよりそれはただの道具ですよね。広告や媒体といったものに付随する商品としての音楽ですよね。

 

僕が最近ロックと定義しているものはそういった音楽の貨幣化みたいなのと全く整合性が無いものかもしくは貨幣じゃないけど人気出たからマネタイズできちゃったみたいな、少なくとも初期の段階においては貨幣化とは関係が無かったものが結果的にお金にもなったというようなものなんですよね。だからそれはもう蓋然性の問題でしかないんだけどでもだからこそ商業に囲われることがない音楽を続けることは可能ですよね。それが別にただの蓋然性の問題なんだとしたら普段は存在は無に等しくても例えば何十年やってて100曲以上作っててその1曲がたまたまなんかのきっかけでバズったらそれはそれでいいですよね。

 

でもまぁ今の世の中ってその1曲だけバズっても残りの曲にはフォーカスもいかなかったりするわけで、でもまぁ今ってそんなもんだからとりわけ逆に商業性や音楽においてのプレゼンスなんてのを意識しなくてもすべてはそれこそストリーミングで流れるような流れゆくものだったりするので、だからこそ流れようがないようなものなんてのは逆に作るのが簡単ですよね。

 

一切のValueや既成概念を無視して作ってればそりゃストリーミングされるわけがないような音が出来上がったりもしますよね。逆にそれを無視して結果的にアウトプットが凡庸だったら悲劇なんですけども少なくとも勝手にやりたいようにやるということができていてある程度のアウトプットができていればもうそれはロックなんじゃないかと思うんですよね。で、そこでその「ある程度」を「最高」にまで押し上げるかどうか?っていうのが個人のモチベーションの問題なんですよね。

 

だから目的は最高に押し上げることなんであってモテるためでも金持ちになることでもないんだけど、ただ最高に押し上げれば嫌でもモテやお金がついてきてしまうということを考えれば「あー極めたらロックスターになっちゃってヤリたい放題かー」って勝手に思ってればいいんですよ(笑)これはまぁドゥルーズ的な生成やニーチェ的な超人論の換喩でもあるんですがそこにあるのは恐らくニーチェも悩んでいただろう思う超人とそんな超人がいないということや自分も実際は微妙だっていうところの理想と現実のギャップだと思うんですが、そこを自己啓発的に言えばそのギャップなんて意識せずにシステム的に最高に押し上げるということができればギャップなんて関係なくてむしろ最高に押し上げることが必要なんであれば今の時点でやるべきことが明らかになるんで超人とかお金とかモテとか商業性とか関係なく「今」に徹底的にフォーカスして物事を進めるっていうことですよね。「今」にフォーカスしたPower of Now!みたいなタイトルの自己啓発本とか今の大切さを説く本って色々ありますけどでもこれって結局はニーチェなんだと思うんですよ。

 

意志の力がまた次の今を作っていくんであって、「これだ!」と思ったものに金の糸目をつけないのもそういうことですよね。変な話、老後安泰でも今を殺して色々とまだ感覚とか身体が元気なうちにやれなかったことが大量にある人生よりもやりたいことをやり尽くす人生のほうがいいわけですよね。その結果、老後どうなろうがはっきりいって関係ないですよね(笑)

 

ただまぁ凄まじいパワーがあればなんとかなってると思うんですよ。逆にそのパワーが中途半端だったりそれこそ何かやっていることを最高にまで高められなかった場合、まさにどうなるか分からないわけで、最高の将来の担保は「これだ!」と思ったことを究めることに尽きると思うんですよね。ダメな場合、やっぱりどこかで二流止まりだったりするんだと思うんですよ。一流というと語弊があるかもしれませんけど美学的な意味でのカント的な崇高にまで昇華されたものは自ずとそこに美が宿ると思うんですね。まぁそれをさっきはお金とかモテとかって書きましたけどまぁ同じ事ですよね。極めればそれはついてくるという感じです。

 

やっぱりだからニヒリズムとかシニシズムとかアパシーってのが一番ダメだと思うんですよ。仮にニヒリズムアパシー時代精神なんだとすればそれに抗うのがロックでしょうね。自分という素のバイブレーションに常にDistortionとかFuzzをかけるみたいな感じですよね。んでそのうちDistortionとかFuzzをかけなくてもそれが素の音になるっていうことですよね。

 

あと最後に映像の倍速なんですけどもまったくおっしゃる通りで10分の長回しがあるようなアート映画を倍速で見たところで意味合いは変わってしまいますけど、僕が倍速で見るのは娯楽映画で例えばハリウッド映画とか邦画のアイドルが出ているような能天気な映画とか、それこそアートっぽい映画は昔散々見たので今はほとんど見ないんですよね。あとまぁテラスハウスみたいなのも見ますけど倍速で見るぐらいがちょうどいいですよね。ようは倍速で見ても意味合いが変わらないようなものを倍速で見るという感じですね。映像作品と言うレベルのものを倍速で見るなんて冒涜ですよね。それは幻想じゃなくて本当にそう思います。

 

でもなんか最後のまとめみたいになっちゃいますけど自分にとってのヒーローは保田與重郎なんですよね。ギターに凝り始めてからロックに凝り始めてからそれはより強くなりましたね。真のロックスターというか、世俗的なロックスターってやっぱり俗っぽさが付きまとうんですけど保田與重郎は孤高のロッカーという感じですよね。それでいて最高に繊細で美的で一切世俗に惑わされないという強さを持っていますよね。僕はリアルに保田與重郎的なデカダンスを経由したロマン主義にロック的な思想を感じているんですよね。

 

置き換えればようは音楽ってもう終わってるわけで言わばゼロの状態ですよね。終わっているとか世の中自体終わっているっていう意味でまぁ世界がオワコンだというのはだいぶ昔から言っていますけどそこからのデカダンスを経由しないと得られない美的感覚とロマンですよね。そこで例えばロックというのは消えつつあるものかもしれないけど保田與重郎的日本という世界観があるように保田與重郎的ロックという世界観があるわけなんですよね。それは人間性においての根源的精神性みたいなもので何も音楽がロック的形式を持つ必要はなくて、ただその精神性と美意識やあるべき姿というattitudeをロックとするみたいな観念のことなんですよね。

 

これが良いところは下手すると偏屈なナショナリズムにもなりかねない日本主義みたいにならずにロック主義なら世界革命的な精神性の連帯が可能というところにこれまた浪漫的ではありますけどドゥルーズガタリ的な生成論やネグリ・ハートのようなスピノザを原理とするマルチチュードを感じるんですよね。それは一貫して反資本主義的ですし反権威主義的なわけですよ。でもアナーキズムとは違って別に国家権力を否定するようなものではないわけですよね。そりゃ自明のこととして防衛としての軍なんてのは当然必要なわけで、でも能天気な既存の思想的な部分が薄いロックなんかだとこういうのに一貫して反対!みたいなダメ左翼的なものが大半ですからね。そういうステレオタイプを反復していればオッケーみたいな規範になってますよね。

 

でもまぁ僕が思う本質的ロックというのは違うわけでそれは時代錯誤的ですが凄く世界革命的なものというか、右も左も超越したような精神性の根源的原理という気がしているんですよね。