行方不明の象を探して。その50。

英語で言うところのYouにあたるものの訳語が「お前」なんだろう。「あなたは座っている」というより「お前は座っている」というほうが小説っぽいからお前になった説に決定しておこう。暫定的に。この暫定という字面も強そうで好きなの。暫定ってなんか凄く反りがある太刀の名前みたいだよね。暫定剣みたいな。

 

数学者はコーヒーを数式に変換するのだという。だったら小説家は?村上春樹と言えばパスタ。でも小麦がダメだからなんたら豆が原料の細麺を茹でてトムヤンクンをスープにして食べよう。でも茹でる鍋がないから米を炊く鍋に麺を突っ込んで茹でたら焦げ臭い臭いがしてなんだと思ったら鍋のパーツが溶けかかっていた。

 

温めたから溶けたのか、元々そうだったのか、今となっては知る由もない。よし汁もトムヤムクンでファイヤーエムブレム君と知る良しとして考えれば麺が文章を書くという定理に落ち着く。

 

「はぁー落ち着いた。さっきはどうなることかと思ったよ」


カフカは俺みたいに暇すぎてやることが無さすぎて小説を書いていたわけじゃなくて確固たるドライブ感があって小説を書いていて仕事が忙しすぎて小説を書けなかったときは自殺を考えるぐらい追い込まれていたのだ。それに比べて俺は暇すぎる。暇がドライブして小説を書いている。

 

こういう自己言及と何で書くのか?とか書いている自分を実況したりするのはロジェ・ラポルトが永遠とやっていて多分、彼はそれに行き詰って小説を書くのをやめた。邦訳が出ていないのでフランス語をちまちまとこんにゃくこんにゃくにかけて煮て読んだ。自己言及のまた自己言及をするとだな、その書いている自分というのがリアルな自分では自意識の投影になってしまってつまらなくなるわけで、書いている自分も当然、ノンフィクション的なでも結局、フィクションのキャラクターが投影している自意識じゃないと書いている俺がつまらない。

 

ここでの書いている俺とは誰のことか?俺にも分からない。キャラクターが書いているのか俺が書いているのか、そういえば結構前に俺は夢の中でマンハッタンらしきところに家族と住んでいる夢をみた。マンハッタンなのに海が近くにあって「ずーっとここに住めればいいのにイミグレ関係で出てかなきゃいけないときがくるって考えると残念だな」とかって思ってたらおしっこで目が覚めて

 

「夢か」

 

と思って「マンハッタンって?」って思い返すと夢の中で見ているマンハッタンの現実のマンハッタンが全然違うことに気がつく。現実のマンハッタンは別にそんなにいい場所ではない。言い方が相当キツくなるけどつまらない場所だ。劣化した東京みたいな。ただ街のパワーが凄いのとゾンビしか歩いていない日本に比べたら街のヴァイブスは最高だと思う。

 

そんな環境が楽しくて俺はマンハッタンに住む夢を見ていた。それは夢を見ていたという現実でのドリーミングでもあるし夢を見ている自分が見ている夢という意味での夢でもあるし、そもそも俺が俺であるということがどこかに飛んで行ってしまっていた。飛ぶことはないだろう。まぁでもどっかに行ったんだ。

 

そしてまた夢から覚めると俺は俺だということに気がつくしマンハッタンはそんなに思うほどいい場所ではないということに気がつく。これはどっちなんだろう?夢で見たマンハッタンが現実のマンハッタンなのか、俺が目覚めて気がつくマンハッタンの質感がマジのマンハッタンなのか、でもプルーストが言っていたよな、現実を拡張する最強の方法は見方を変えることだって。

 

ってことは夢の中で見たマンハッタンをマンハッタンだと思えばいいのではないか?そう思って渡航費や生活費を稼いでマンハッタンに行ったら夢の中で見たマンハッタンが現実に広がっているかもしれないじゃないか。

 

これは現実に在り方として全く変わりが無く、現実はホログラフィックで幻なのであるから、どっちもマンハッタンだろう。記憶のマンハッタンと夢のマンハッタン。でもそれを分けているのも恣意的な意識の問題でしかない。荘子みたいだねって言われてもさ、荘子を誤読している頭の悪い俺って言うキャラクターを表現したかったって言っても伝わらないからメタでネタバラシをするしかないんだけど、そのネタバラシをしている俺は一体誰なのか?

 

そういうアブストラクトなニュアンスが勝手に物語を更生し始めたら顔の無い作家は怒らない。経験的にそうであったから。でもウルフみたいになったら身体に岩を巻き付けて入水自殺しそうだから気を付けないと。死と凄く近いものです。

 

でもなんであんな高校生が頑張って書いたような小説しか書けぬのだろう?やめたらいいのに。何回も言うけど俺なんかは一年の出来事がさ、父との墓参りが二回あるぐらいなんだぞ。夜の静寂なんてのを感じる間もなければ余裕もない。でもそれは余裕がないという意味ではなくて余裕があり過ぎて感じる間もないということだ。

 

小説の定義に救われる日々である。ステレオタイプと書かずにステロタイプって書くと急にステロイドっぽくなるのは言葉の響きのせいね。いや、自由な散文でいいって最高過ぎないか?カフカは色んな情景が頭に常に浮かんでいたからそれを自然に描いていればそれが小説になったらしいってのが最近の研究で分かったのか、結構前の研究なのか、ラッキーなことに俺もカフカタイプだ!

 

イメージが浮かび過ぎて寝れなくなったりというネガティヴな作用しかないと思われていたものが、特に意味が無くてもそれを散文として表せばそれが小説になるんだったらいくらでも書いてやる。マスター爺だってなぁ、もっとイメージがあるんだぜ。でもなんだろうな、イメージって。緑の金網っていうか、市が建て付けるような金網あるべ?通学路はそんな感じだ。そこで

 

「マスターベーションだ」

 

って言っているのがマスター爺だ。金網があるのかどうか分からない。でも情景は完全に浮かんでいる。でも難しいのが値段設定で100円なのか500円なのか、100円だとあまりにもケチ過ぎないか?500円だったら中学生にとっては結構な大金だからマスター爺を通報しなくてもマスターATMとしてちんちんを擦るのを鑑賞すれば500円もらえる機械のように思っていればウィンウィンだったんじゃないのか?

 

誰にだって生きる理由がある。マスター爺も同じだ。これは軽犯罪になるのだろうか。でもマスター爺の人生はもうマスター爺としての人生でしかなくなってしまう。


そんなことを考えながらその間に地便をとりまく静寂に恐れおののくのである。何が怖いのか自分ですらも分からないのに時々鳥肌が立つことがある。自分を欺いて生きてきたように思う。その結果、生み出されたのが面接官に執拗に迫られる類の無駄な空白である。どんな類だってんだ。しかしそれが完全に無駄なのか?と聞かれたら、平和に何のストレスも問題もなく過ごせてこれたので、生物的に全く無駄ではないということに気づく。楽しくはないけどつまらなくもない。


仮に絶望の淵に立たされていたら、それだけでそこから言いたいことが腐るほど出てきそうなものの、幸い恵まれているせいで、そういったこととは無縁で、趣味的に「絶望とは何か」的な内容の文学書や哲学書を読んでみるものの、絶望の当事者ではないので、絶望については詳しいかもしれないが、それは全く無縁の存在で、言わばエイリアンのようなものかもしれない。

 

でもエイリアンって襲い掛かって来るよね?シガニーが撃退するイメージがあるな。絶望に打ちひしがれていればそれだけで絵になりそうなものだ。そんな絵しか見たことが無いし、色々なことに恵まれすぎていて絶望とは本当に無縁の世界に生きている。それでも絶望を味わわざるを得ない人が多いのを見ると、本当に幸せで申し訳なくなってしまうことがある。かといってもそれは「幸せだ」と感じる幸せではなく、それは相対的に、何の言われもないのに絶望的な状況に立たされている人たちが多すぎるのを見て、良心から自分の退屈を幸せだと感じなくてはいけないというような義務感に駆られる。


そして慢性的な言葉にできない倦怠感に悩まされ続けることになる。適当にカラ元気をふかしてみてもすぐにエンジンがぶっ壊れる。そもそも作り上げられてしまった空白を埋めることなどできない。そこを執拗に迫られても答える術がない。心の平穏を物理的に乱されることはないものの、神経質の恐怖が精神を蝕むことはよくあることだが、例えばこのような面接官に空白について執拗に迫られることを想像したりなんかすると心の平穏は一瞬で乱されてしまう。

 

しかし面接官に空白について執拗に迫られることは今後一切ないし、今までもなかったということを考えると、それは趣味で心の平穏を乱しているだけで、退屈さから来る自分へのサディズムなのかもしれない。でもこの面接官やけにムカつくんだよな。こいつがエイリアンか。シガニーが撃退するイメージ。ガムランの音とAkiraの脳波が合うのはどういうことだ?外は五度。寒そう。