行方不明の象を探して。その51。

「HPSCHDのレコードを擦り切れるまで聴いたら今回の話はなかったことにしようという園長の申し出にキリンは大反対したのさ。だってキリンは飢えていたから動物園に入りたがっていたんだよ。でも俺は「それで手を打ちましょう」と強引に話を進めてしまったおかげで、取引が成立してしまった」

 

「でも擦り切れるまで聴くってその場じゃ無理でしょう?」

 

僕は海水で全身の砂を落としながら言った。マスター爺も擦り切れるまで亀頭を擦り続けた。結果的に裏筋が切れて軽く傷が膿んだ。傷が膿んだというと膿が出てそうだけど、ちょっとベトベトしているぐらいのレベルだから問題はなかった。

 

「話としてはこうだよ。レコードを持って帰って、擦り切れるまで聴いたら園長にそのレコードを見せることで、取引が成立するということなんだよ。キリンは猛反対していたから、だったらレコードを聴かないでそのまま返して謝れば動物園に入れてくれるんじゃないか?って言ってたんだけど、僕は動物園に入るのは嫌だったから、キリンに「じゃあそうするよ」と言いながらもHPSCHDを擦り切れるまで聴いて園長にそのレコードを見せに行った。園長は中古レコード屋で入念な盤室確認をするジャズレコードのコレクターのように盤を見た後に再生して、再生のし過ぎでチリノイズのようなものだだいぶ混ざっているのを確認してから、見たこともない笑顔でニコッとしながら「はいっ」と言って取引は成立した」

 

「園長も嬉しかったんじゃないかな。HPSCHDを擦り切れるほど聴くリスナーなんて世界を見ても数えきれるぐらいしかいないだろう」

 

「そうかもしれないねーそだねー」

 

「でも仮にだよ、象がさ、HPSCHDを擦り切れるまで聴かずにずーっとレコードを保管していたら話はどうなっていたんだろう?」

 

「それは来るべき動物園入園という状態が永遠に続くことになるよね。その間にもキリンはやせ細って飢えて最後には死んでしまうだろう。そうしないためにも俺はHPSCHDを擦り切れるまで聴くことを選んだわけだから、彼の命を救ったと言えなくもないんだよ」

 

「それでおしまい?」

 

「そう、それだけの話だよ」

 

と象は言ってビールの続きを読み始めた。象レベルになると飲むより読むという感じになる凄いだろ?想像できるかい?ベイベー?自由な散文万歳!

 

万歳しまくっていたからテンションが上がり過ぎて六本のビールは全部エンプティになった。ジョン・ケージの作品にエンプティワードというものがあるけど、イタリアでジョン・ケージがその作品の演奏というか朗読をしたときに、あまりに狂った内容なんで、イタリアの観客たちが騒ぎ出して最後にはカオス状態になるという場所に象もいたから、俺の声もそのレコードに入っているはずだと豪語していた。

 

もちろん本当にあった話ではない。はっきり目に見える具体的なことだっていくつかはちゃんと起こったにせよ、話はフィクションだ。実際にエンプティワードのレコードを聴いてみればわかるように象の「パオーン!」という雄たけびは入っていないはずだ。僕はそれを確認するためにレコードとCDの両方を買って何回も聴きなおしたけど「パオーン」という音は入っていなかった。

 

しかしそのことについては僕は象に喋りたくなかった。象はそのことを誇りにしているようだし、実際に彼はそう信じているかもしれないわけで、それに対して「パオーン」という音は入っていなかったという事実を述べたところで、彼の幻想を打ち砕くことになってしまって、何の得もないし、何しろそれに逆上した象にまた怒号を浴びせられて1ターン立ちすくんでいる間に次は体当たりが来て1パンで死んでしまう可能性があるからだ。

 

人はパンのみにて生くるものにあらずとキリストは誘惑する悪魔に対してそういった。僕も死神に対して人は1パンのみにて死ぬにあらずと言ってやりたい。

 

しかしパンが必要なのは間違いない。それは食料という意味で、それは象もキリンも一緒だ。

 

ただ絶望という感覚には敏感で、絶望ごっこを演じている、実家が裕福な苦学生のフリをしている輩とか、実存主義などに憧れて「人間は無駄な受難だ」なんてことを言いながら、酒に溺れているフリをしているやつらに関しては、そいつらと大した関係がなくても、ただの絶望ごっこをしているのだということがすぐに分かる。象もキリンも同意することだろう。

 

絶望に飲まれた人間の負のオーラは凄まじいものがある。そこには哲学も文学もない、ただ屹立した絶望があるだけである。その即物性と暴力性に言葉を失うのである。その暴力性は全くそんな素振りを見せていなかった人間が急に自殺したりするような、周りを驚かせるような暴力性だ。急に人の命を刈る存在。しかし周りは気がつかない。自殺者は自殺する前にSOSサインを出していると言われるが、そんなことはないケースの方が多い。

 

だから「まさかあの人が」ということが多かったりするのだ。絶望はそんなに甘いものではない。絶望とは刈るものだ。死に至る病だと言っていたのはキルケゴールだったが、キルケゴールの哲学は哲学なのではなく、当事者研究なのだ。問題は、それ自体が立派な主題となりうるような、例えば絶望のようなものとは無縁な、問題が全くないし今後も全く問題は起こらないということが問題なのだ。

 

彼のことは好きではないけど、やはりあそこまでイケメンだから話そうという気になるという意味では、やはりセクシャルな面はあるんだと思う。かといってもゲイではないし、バイというほどでもない。ヘテロ寄りのバイという感じか。ただ少年は特別で、美しい少年の美はイデアに属する美なのであって、それは性別を超越する。関係を持ったら法的にNGだけど、JCとJKと援交したことがあるし、強姦するわけじゃないんだから、利益相反しなければやっちゃいけないなんてことはないわけで。


明らかにそれらは自我から見れば外側に存在する、住まいから放りだされたとしたらどうすればいいか?と同時に自我に存在するものであるとも言える、金持ちは花でもいじってるのだろう、働いている人、奉公している人、何より苛立たしいのが運だということ、やりたくないことをやるしかないということを強制されている人、だったらもっと人生自体を面白みがあるようにするべきではないのか、そういうものに対する良い表現方法を模索すればするほど個人小説的なものに意欲が傾く、マリアは人がいい。