人生がむなしいです。その4。

例のコメンタリーの続きじゃないんだけどでもまぁ実存系なので続きとして書くけどさ、昨日のヴァーチャルリアリティならぬリアリティヴァーチャルなんだけどさ、ハイデガーの被投性をアプリオリセカンドライフ的な、目的とか理由とかなくとりあえずアバター作られてそれをやるしかないみたいなのを人生って考えたときにさ、人生自体を「行う」という行為性によって考えるってのが昨日のエントリーだったと思うのね。


まぁそれだけじゃないんだけどそれは一つじゃん?それは行う事で作り上げていくものだからそれをアートとして看做して目的や意味はないけど芸術性を高めるみたいな意味で人生を高めるっていうか自分を高めるっていうかさ、ただデフォでそれじゃ気合い入り過ぎだから別に気合いなんていらないよっていうまぁ適当にやれればいいのに・・・って人には適当にやる機会とか余地を作らなきゃいけないってことでそういう人が適当男扱いされてさ、食いはぐれるとかさ、それはないと思うんだよね。自己啓発系の本がある種の人達に辛いのはそこじゃん?そんなパワーねーよ!って人はどうすればいいの?っていうさ、バリバリモードじゃないとデフォで無理ゲーとかクソゲーになっちゃうっつーのもあれだよね。まぁそういう意味でみんな食える社会がいいわけだよね。そういうのもあってまぁ広い話をしてさ、まぁ変革の必要性とかもそこにも含まれてるんだけど、まぁちょっと話が逸れたんで戻すけどね。


そのやる人生だよね。人生に対する能動性ね。セカンドライフ自体どころかセカンドじゃなくてファーストにしたってライフに意味はないじゃん?それはニヒリスティックな意味ではなく客観的な意味でね。そこでまぁ主観的に意味を与えたりエンジョイするってのが結局は手の込んだ人生を自分で作るとか演出するってことになるからそれはelaborateするってことだからartなんだっていうさ、でもまぁそれはパワーがある人しかできないことだよね。俺が言いたい人生をelaborateするってのは結局はまぁその力の源泉ってことで考えるとやっぱニーチェ的な力への意志なんだよね。でもみんながみんな超人じゃないしポテンシャルの違いがあるんだからさ、それをデフォにしてスタンダードにするってのも息苦しいって話じゃん?


なんか無駄に前置きが長くなってるけどさ、じゃあどうすればいいの?っていうとやっぱ自然体しかないと思うんだよね。頑張れる人は頑張るってことが自然体なんだろうしさ、俺の場合は何かにハマってないとすぐ憂鬱になるからって意味でもまぁ何かにハマることを求めてるんだけどさ、まぁある意味で今回のね、例の質問者が言う「むなしさ」に抗えないって認めちゃうってことだよね。


認めた上で対症療法的な感じで人生を生きるしかないっていうさ、それでもまぁ俺は克服する道とか考え方があればいいなとは思うしそういうことは考えるけどさ、ただまぁ「悟り」みたいなので済ませない論理の悟りなんてのもあるよなぁーとは思うよね。人生の定義なんて論理で定義は不可能だしさ、そんなのもう論理学じゃないじゃん?でもまぁ自分なりの仮説を論理的な手法を使って導きだすってのは一つだよね。でもそれはドライなロジックじゃなくて逆に人間臭過ぎる実存主義的なさ、もしくは文学的過ぎるようなフレーバーの臭みをロジックで消すみたいなさ、そこでバランスがとれるような気がするんだけどね、結局んでまぁ何が言いたいか?って前と一緒なんだよね。


ようはその自然体の話ね。何かに抗うこともなく焦る事もなくマイペースにっていうさ、でもそれってゆったりって意味だけじゃないからね。ガツガツしている競争の中を生きるってのがマイペースって人もいるしさ、つまりはマイペースって自然体ってことだと思うんだよね。じゃあ何がその自然を保証するのか?っていうとさ、結局はいつも書いてる能動性と受動性の話なんだよね。何かをやるってことは能動性がいるし大変なことだけど好きな事とか快楽に関しては能動性っつーよりかは本能でそれをやる感じじゃん?そこに種の生存というものをトリガーしてるのが生物全般だよね。


穴があったらファックするぐらいの楽な感じでファッキングなライフを送るにはどうしたらいいか?ってさ、やっぱりそこはオーガナイズされた本能って気がするんだよね。快楽原則に法っているという意味で無理をしていないし凄く自然なことなんだけど、かといっても本能剥き出しというバカみたいな感じじゃなくてそこに理性があるっていうさ、それがつまりはまぁ方法論的に生きるってことを「やりたいこと」とかにそのまま置き換えるっていうさ、まぁよくある話だけどね、でも今後はそれしかないと思うんだよね。労働力も必要とされてないんだしさ、必要な所には過剰なぐらい労働力が供給されてるわけでさ、そんなの必要とされる分だけやればいいんだよね。じゃあ他は?っつったらもうやりたいことやればいいと思うんだよね。それが文化を育むわけだから。


でさ、数学と哲学の話になるけどさ、例えば紙とペンがあれば出来るとかって言われるけどさ、つまりはこれってなんつーかやるっつー行為そのものが内在化されるってことなんじゃないかな?って思ったのね。つまりは机に向かうだとか教科書を開くだとか何かを起動するなんてことがなくて自然に頭がそれを考えちゃうっていうさ、その素質だよね。それが数学者とか哲学者の素質の一つなんだと思うよね。そこでまぁ数学の場合、数学的な概念を扱うキャパってのが必要でさ、向いてない人はさっぱりダメって言うじゃん?でもそれはバカって意味じゃなくてさ、他の分野ですんげー功績残してたりするけど数学は全然ダメとかさ、あ、何の話をしたいんだろうな?俺は。


あ、内在化の話ね。で、結局その最強の自然体ってのはその内在性にあると思ったわけよって前にも書いた事なんだけどね。やるやらないとか向かう向かわないではなく自然にしていればそれをやってしまうっていうさ、で、そこから喜びとか充足を得られるってことが幸せに繋がると思うんだよね。幸せは考え方に依存しているところもあるけど、人生に対する能動性にもよると思うんだよね。だからこそそこは自然体っていうさ、能動でも受動でもないっていうところでのなんつーか自然な行為としての人生っつーのかな?まぁ適度に拘束時間があったほうがメリハリが効くって人はそれでいいし、それもまぁその人の自然だからね。


オイラーは息を吸うように計算したって話があるけど自然体ってまぁこういうことだよね。だから本当に最近は極めるってことがさ、ガツガツとした泥臭い努力では達成できないことだなって思うのね。達人はそれを自然にやっちゃうわけだから。なんかの職人にしたって朝の4時に起きて工房に行って丸一日作業に没頭して帰って来るだけの生活を何十年もやってるとかでさ、でまぁ技術が匠の域で誰にも真似できないっつーんだけど、そもそもその生活スタイル自体が真似できないじゃん?なんでそこまでハマれるの?っていうさ、普通の人なら精神的におかしくなるって生活を平気でしてるんだよね。その人にとっては恒常性を保つのにその生活をすることがベターだっていうさ、それがようは達人って気がするんだよね。


で、俺が数学に関して悩むのはここなんだよね。まずマスターぐらいなら誰でも取れるってのはよく分かったんだよね。それはやっていけば分かるんだよね。取り組んでれば惰性で取れるよね。そういう意味で他の学問とかと同じかもね。ちゃんとリサーチペーパーとかやったり文献読んでればまぁ相当なバカじゃない限りとれるっていうさ、でもそういう次元じゃないじゃん?博士号になると達人の域か?っていうと全然そんなことなくてさ、数学で言えば意味のないことを複雑にやってるだけってのが多いらしいんだよね。博士論文とかって。逆に大成するような人とかはマスターの時にすんげー面白い論文書いてるっていうさ、その面白い論文っつーか研究ができるのか?ってことでさ、これもズバリ才能だよね。計算だけできても数学なんて全然ダメだよね。エンジニアとか技術者関係ならいいかもしれんけど数学は心底センスだなというのを最近達人の仕事を理解できるようになってきている俺が感じることだよね。


分かることは増えていくけどそれが故に壮大さというか先人の偉大さってのがステレオタイプな偉大な数学者みたいな話じゃなくて数式からダイレクトにそれが伝わるんだよね。見えてなかったものを数式で可視化しちゃうみたいな世界なんだよね。それが言わばcreationってことなんだと思うけどね。いや、こういう仕事できなかったらあんま数学とかやる意味がそれこそ無い気がしてさ、だからこそまぁ無力感に苛まれると気があるんだよね。楽しむだけならいいけどプロパーでやっていくには敷居が高過ぎるしさ、誰でも出来るコースだとつまらない論文書くコースだからそんなの数学者でもなんでもないからやりたくないんだよね。


そこそこ誰でもやれそうなことに本当に興味が無いってことだよね。別な言い方をすれば。でも別に俺が何かやってやる!とかって野望を持ってるってことじゃなくて面白いことをやりたいなっていつも思うわけじゃん?誰でも書けるただのインクのシミみたいな研究論文なんて書くつもりはないわけよ。それこそ自分でやっててつまらなさすぎて発狂すると思うんだよね。「んでも数学選んじゃったから書かなきゃいけない・・・」なんてなってたらもう不幸の道を踏み出してるよね。


恐らく十中八九そいつは数学者として大成しないだろうしさ、そこにやっぱりね、達人レベルのものが介在するものってやっぱり快楽だと思うんだよね。楽し過ぎてハマるっていうここだよね。これが人間をハマるということに導くことなわけでさ、何が楽しいのか分からない人にとっては全然分からないんだけどやってる本人とか分かる人達は凄い!とか思ったり面白い!って思ったりするんだよね。


まぁあくまで素人考えだけどさ、そういう意味で数学者って本当に芸術家みたいなもんなんだよね。そんぐらいそれで食うのが大変だし面白いのを作るのは楽じゃない。ただ中途半端なデザイナーとか数学者というよりかは計算屋みたいなさ、そういう道はなくもないっていうことなんだけど、そこに全く興味がないんだよね。いやさ、潰しが効くから数学がいいなんて思ってた時期もあったけどさ、それはやっぱそこまで好きじゃないから言えたことだと思うんだよね。


かなり好きになってきた今ではつまらない数学と面白い数学ってのが完全に自分の中であるんだよね。結局やっぱ哲学と一緒なんだよね。で、その面白い!と感じるのはことごとく純粋数学寄りでさ、応用が効かなさそうないかにも食えなさそうな数学ばっかなんだよね。結局だからまぁ哲学と同じような感じになっちゃってるんだよね。どの道それで食える可能性はすげー低いって意味でさ、哲学とか政治哲学と比べたら数学はまだマシだろうって思ってたのがある程度好きになってみて自分の好みから言うと自分が好きな数学の分野は哲学並に一般的には必要とされないようなもんばっかでさ、だからまぁ似たり寄ったりなんだよね。


だからどうすればいいのか本当に悩んでるんだよね。ちょうど2年前ぐらいにコミカレで数学をとってさ、んでまぁ集合論とか群論とかを始めて知って感動したっていうさ、まぁあの衝撃だよね。で、半年後ぐらいに専攻を数学に変えてさ、んで完全に数学コースで行こうと思ってたらまぁ帰国することになっちゃったっていうさ、でも数学なんてどこでもできるよなぁーって学問的には納得したってのがあったってのは当時も書いたよね。


で、そんな感じで帰国から一年経ってみて気がついたのが今日書いたようなことなんだよね。好きな事を自然体でやれるか?っていうさ、能動と受動の話なんだよね。狂うぐらいハマれないと相当な先天的な才能がない限り無理ってのは明白なんだよね。one of themとしてたしなむ程度とかだとやっぱただの好事家になるんだよね。ディレッタントというかなんというか。はっきり言ってさ、数学の時間も意図的に作るようにするとかやってる時点で無理してるじゃん?そもそもハマってるやつはそれしかやらないわけで。


で、まぁ最近のね、実家の手伝いとかクーラーが壊れたっつーんでリビングにいるしかないってことが強制的な学究生活を作り出してるってのは前に書いたじゃん?で、ああいう状況で数学やるとマジで他の世界に行くような感じでかなりのトリップ感があるっていうさ、それを始めて経験したのはチャイティンのgodel turingを図書館で読んでたときだよね。あれは本当に興奮したよね。哲学以外の分野であんなにハマれる領域があったなんて!って自分でも驚きなわけだったんだけどさ、で、好きになればなるほどもっと好きになっていくっていうね、それはあるんだけど、でもなんかまだ全然足りないと思うんだよね。で、それは努力でどうにかなるようなもんじゃないじゃん?それを無理にやるのがシュトレーバーだよね。ああいうのは見苦しいしこんな歳で数学始めてシュトレーバー型になるなんてダサ過ぎてやってられないからそれは絶対嫌だなって思うんだよね。一番惨めな図式だと思うのね。


だからつまりは自分と対峙しなきゃいけないんだよね。どんぐらい数学が好きなのか?っていうさ、その度合いを見極めなきゃいけないよね。それがあって進めるものだと思うね。そこからまぁ才能の壁とかにブチ当たったりするんだろうけど、そもそも好きな度合いが尋常じゃなければそんなのぶっ壊していくと思うんだよね。そんぐらいのパワーというか好きなパワーがあるのか?ってことだよね。なんとなくじゃ本当にやっていけない分野なんだよね。いや、本当に。


あ、あとね、物理は完全にないなって分かったね。それは分からん、相対的なのかもしれないけどね。数学がどんどん好きになってるんで同じような好きのレベルだった物理を追い抜いちゃってるってことなのかもしれないけどね。でも物理の研究をしないか?っていうとやるわけでさ、まぁ研究っつーか学習ね、ただどちらが好きか?と言われればダントツ数学なんだよね。そういう意味で学科どっちにするかなぁー?ってもはもう完全に無い気がしてるよね。でもそういうレベルじゃ数学って極められないなって思ったわけで。


なんつーかまぁ合気道とか柔道とかみたいな「道」なんだよね。それは哲学然りだけどさ、俺が好きになってるのってもう自然科学的な意味合いじゃないんだよね。物理だと自然科学的な意味合いが強いけど数学はもう純粋にそれが好きでしょうがないって感じになってるよね。で、話が逸れてるように見えるかもしれないけど、ようは俺が言いたいのは実存をそのまま数学に置き換えられるか?ってことだよね。そんぐらいのレベルでやっていけるのか?ってことだよね。


で、それはやっぱ分からんのよね。なんかでもさ、武道とかってその自然とか自我との調和っつーかさ、鍛錬による心技体って気がするんだよね。技術だけでもだめで体が無いといけないし、訓練するしか無い技も必要っていうさ、それが揃ってこその武道っていう定義はつまりは達人っていう定義に重なると思うんだよね。数学はそういう意味で武道的な度合いがすげー高いんだよね。計算っつー力が必要だし色んな定理なり理論を使ったりするっていう技が必要だしさ、何より岡潔が言ってたような心が必要なんだよね。この全ての統一感が無いとできない気がするんだよね。そんぐらい敷居が高い学問って感じがするんだよね。まぁ俺が思う数学ね。どうでもいいゴミ論文を大量生産する業界的な意味での数学ではなくて。


そういう意味で俺が数学と向き合うってことが自分と向き合うってことに繋がっててさ、で、色々と知るってことが鍛錬にも繋がってるし、まぁ計算は全然やらないけどさ、結局はまぁ実存的なんだよね。凄く。数学ということ自体が俺にとっては凄く実存的な意味合いが深いわけね。だから今みたいな時期に自分と数学を通して向き合うってのが凄く良いっつーかまぁキツいときが多いんだけどそこから逃げないってことがやっぱ実存ってことだと思うんだよね。


むなしさからの逃げではない実存ってのを数学を通して生きられるか?ってことだよね。そういうのを考えること自体が哲学的行為であったりするわけでさ、哲学研究じゃないよね。哲学を実践とかフィロソファイズするってことが哲学ってことだからさ、だからまぁ文献学的なものに関してはもう完全にスルーなんだよね。まぁまだいくつか政治哲学関係で読みたいのはあるから読むけど文献学的な読み方はもう一切やめにしたってのはあるよね。だから哲学の本が凄いペースで増えるってことはもう無くなると思うね。あとはもう実践するしかないっていうかさ、そこもまぁようは哲学=人生っつーか実存ってことになるってことだよね。実存と深く向き合える学として、鍛錬の学としても数学と哲学って武道的なんだよね。俺はその両方を極めたいと思ってるわけだ。


でもそれは自分の無力感を感じるとかね、地頭大丈夫なの?っていう不安とかさ、そういうのと隣り合わせで快楽主義的な楽しい感じもありつつ精神の崩壊とも近いものなんだよね。でもそういうのを通してむなしさとも向き合えるよね。むなしさと向き合うにはやっぱ実存と向き合うしかないわけよ。かといってもこれが答えとかじゃなくてさ、プロセスだよね。それでまた今度どうなるか分からないしね。


明日も手伝いあるから今日はこの辺でやめるわ。あ、んで最近読んでいる本を貼っておくね。





この森毅シリーズは全体的に面白いんだよね。数学の本ってさ、何かにも書いてあったけど説明を明確にするために文章捨ててるやつ多いじゃん?機械が書いたような無味乾燥のが多いっていうかさ、味が無いんだよね。でも森毅のやつって味があるんだよなぁー。死んじゃったけど今更数学教育者として凄かったんだなって思ってるわけよ。エッセイの類は読んでたけど数学関係は分からなかったから読んでなかったんだけどさ、上のやつは全部良いと思うね。



で、この流れでこれを読むとこの本の良さが凄く分かるんだよね。それはオイラーの贈物を通して学習するという段階ではなくて、大体内容は全て把握しているっていうところで再読するとその構成っつーか本としての完成度の高さを感じるんだよね。数学の本って特に大学の先生方が書いたようなのって本当に悪書が多いと思うんだよね。値段だけやたら高くてさ、だったら洋書のほうが名著がゴロゴロしてるし断然数学の場合哲学と一緒で英語のほうが分かりやすいじゃん?で、俺が思うに数学系の良書って日本の場合、そこまで専門的でもないけど一般書でもないっていう微妙なレベルのところで良い意味でちょっと啓蒙レベルが高い数学啓蒙書ってのに良いのが多い気がするね。



これとかは欧米の数学書並の丁寧さがあるんだよね。先生方が大学のテキストとかで使う自分たちが書いたやつとかってクソみたいな本ばっかなんだけどさ、このぐらいの価格帯で手に入るっていう数学系の本だと大学ゴミ出版みたいなのと比べて本当にレアなグルーヴがあるのを出してるのがちくま学系文庫だよね。ちくまはレアグルーヴの宝庫だと思う。


あ、んで解析とかって苦手だったんだけど最近考え方が変わってっつーか身に付いてきたのかさ、分かるようになるとどんどん面白くなるんだよね。だからまぁ意外にも最近は解析系のばっか読んでるんだよね。本当はもっと代数と幾何と数論をやるつもりでいたんだが。まぁ今月中に買うやつがあるんだけどまぁそれは買ったらまた書くわ。代数とあとトポロジーの本ね。



だいぶ前に書いて全然読んでないけど本当にフレンドリーな感じの数論の本なんですよ。これ。



これも前に買って途中で挫折して読んでないから読むつもりなんだけどさ、これが凄いのって数学書の割にやたら文字数が多いってことなんだよね。ようは定理がこうでこうだからこうであるみたいに述べてるバカみたいな本と違ってさ、一個一個の理論の事細かいディティールがすげー丁寧に語られてるんだよね。大変だけど数学書というよりかは読み物として通読するってのは結構アリだと思うんだよね。そこから見えてくるものってのが何かありそうな気がするのね。