マルコメ味噌のラベルはマルコXに見える。

mimisemi2007-11-03

結局ね、言語が言葉を作り出すのか、言葉が言語を定義しているのかってことなんだけど、ようは補修の例のノークレジットのライティングのクラスでエッセイを書いていて思うのが、基本的に何らかのアイデアがあればね、ようはその問いだとか書かなきゃいけないことに対して意見があれば仮に英語のボキャブラリーや表現力が無くても大体のことは書けるだろうって思うわけ。んじゃあ自分のエッセイを見てみて凄まじくジェネラルでつまらなくて良い評価も得られそうに無いってことになるとさ、それは仮に俺がそのエッセイを日本で書いても基盤はつまらないっつーかたいしたこと無いってことだよね。ただ実際、そうじゃないと思うのは、相変わらずクソしながらとか考えることはようは言語がアウトプットを左右するということがありうるということなわけ。ようは最近、特にこうやって意識的っつーか英語で若干喋れる自分ってーのと日本語で喋るもともとの自分っていうのがいると相対化できるようになるわけ。つまり個々の言語を持った自分というのが独立して顕在化してくるっていうプロセスの中で自分のパーソナリティみたいなものを言語の中の自分から感じ取れるようになるんだけど、まぁそれがいつも書いているような、英語を喋るときの自分と日本語を喋るときの自分の違いなんだけど、英語を喋るときは限られた語彙と表現で物事を説明したり表したりするんで、表面的にになったり稚拙になったりするんだけど、ようはその稚拙さとか薄っぺらさというのが本質的には自分の考えから来ているのではなくて、それが言語に左右されているということなわけ。ようは限られた語彙と表現と文法の中で考える俺というのがいて、こうやって休み無しで考えることなく思ったことをダイレクトに書ける母国語で考えている俺というのがいるんだけど、こうやってガーッっと書けるということの裏づけの一つは明らかにこれが母国語だってことなわけ。ようは文法や語彙や書き方をそこまで気にすることなく忠実に自分の考えを文字で表せるというアウトプット。それに対して英語で書くときとか喋るときの自分というのはさっき書いたように限られた材料の中で書くので、そもそもの思考そのものが稚拙になってしまうということなわけ。考えるときに日本語で考えてから英語にしているのではなく、これは英語に慣れたというのもあるんだけど、考えるときも英語になる。だからその言語の未熟さにアウトプットが依存してしまって、結果的に出るものが稚拙になってしまうっていう。例えばウォール伝の場合、文字が文字を読んでくるみたいな、ようは書きながらどんどんと考えが出てきて、それが連鎖していって結果的にそれが一日分のブログみたいな形になるわけだけど、これは極めてアイデアがそのまま顕在化していると言えるわけで、基本的にはその考えとアウトプットの間に言語的な問題は無いわけ。それがまたアカデミックなものだとかちゃんとしたものになったら別だけど、ウォール伝はそんな場じゃないし、そんなものを書こうとは思わないからいいんだけど、英語の場合っていうのは例えるならGM音源だけで作るMIDI音楽みたいな感じなんだよね。日本語で書く場合が近代的なサンプリングとか様々なシンセシスとかありとあらゆるものを使って音楽を作れるワークステーションだったら、俺にとっての英語はFM音源なんだよね。たださっき書いた疑問というのが、基本的に書きたい曲があったら音源がショボくても、例えば綺麗なメロディーというのは伝わるし、ようは曲全体の骨組みというのは聞き手に伝わるでしょ。だからFM音源でちゃんとした音楽が作れないやつってのは、なんでもかんでも出来るワークステーションに移行したところで、たいした曲は書けないということになるんだけど、この辺がちょっと疑問でようはワークステーションというインターフェースそのものが運んでくるアイデアとか音ってのがあるでしょ?FM音源MIDIというだけだったら、音楽のアイデアはそこ止まりだけどなんでも出来るとなったら、例えばハーバードみたいに様々な音を集めてきて、それをリズムにするとかっていうアイデアが生まれてくるしっつーかハーバードの考えがインターフェースに依存しているという意味ではないんだけど、まぁそれはさておき、ヒップホップ的な方法論をポップスでやるためにこういったソフトウェアが必要だとかサンプルが必要だとかっていうアイデアがも出てくるでしょ。で、結果的に出来る音楽というのはその作者のアイデアを忠実に再現したものとなるんだけど、それをFM音源MIDIシーケンサーで表すとなると凄まじくプアなアウトプットになるっていう。出来ないことも多いからね。サンプルは使えないし、ブレイクビーツのループは当然使えないし、複雑なシンセシスも出来ないっていう。ただ学校側っていうか先生は別に社会学的な視点だとか専門的な視点をエッセイライティングに要求しているわけではなく、ベーシックな質問事項にベーシックな答えを順序だてて理論的にアカデミックエッセイライティングの書き方で表せって言うんだけど、これってのは逆になんでも出来るインターフェースで完全に作者のアイデアを表した何かを作るという前提がありつつ、んじゃ一時期YAMAHAが無理やり作ってたドラムンベースMIDIデータみたいな感じでアウトプットしてみようか?ってことなわけで、それってのはようは限られた音源の中で、基本的にはサンプル音楽であるドラムンベースを表すというのは、逆に高度なことっていうことになるんだよね。音はショボいけどやってることは高度なんです。これってのがいつも書く母国語以外で勉強をするディスアドバンテージってことで、ようは100ある能力の中の半分以上も出せない中で普通の平均的なアメリカ人とやっていかなきゃいけないわけで、それが100いるとしたら、んじゃあ半分すら出せないってことは、元の人の能力が200は必要ってことなんだよね。200能力のある人がディスアドバンテージのあるアメリカの大学で半分の力を出せて100で他の生徒と並ぶっていう。そういう意味で俺はようは前に書いたように努力で100を出すというプロセスは踏めない人なんで、もともとの能力というか脳が必要ってことで、100以上無いとやっていけるわけがない俺みたいなもんがってことなんだけど、それをまぁエッセイライティングで表すと同じことで100あるライティング能力の中で50も出せないわけだから、200ぐらいのもともとのライティング能力とか思考力が無いと、言語っていうアウトプットのディスアドバンテージによって能力がそぎ取られるわけだから、キツイよってことなんだよね。んじゃあそれを解決する方法は何か?っていうと一つは前に書いた涙ぐましい努力でそれを克服するか、もう一つは言語の壁を乗り越えて100ある中の100を出せるようにするってことなんだけど、俺が目指したいのが後者で前に書いたように後者が出来るようになればはっきりいって普通の大学で勉強することなんてさほど難しいことではないだろうって思うわけ。それこそ前に書いたような、ちゃちゃっと宿題とかやらなきゃいけないこと済ましちゃって、もっと本質的に自分が取り組まなきゃいけないことに労力と時間を費やすっていうことなんだけど。こうやって普段、俺が思っていることを書けるというのはやはりそれは母国語だからで、この考えを英語で書くとなると、それこそ凄まじくプアになるわけだ。だから抽象的な概念とかややこしい考えは捨てちゃって、英語で表せることだけを書こうってことになるから、結果的にアウトプットが表面的で稚拙になっちゃうんだよね。やはりこれは言語による問題で、根本的な脳の問題ではないんだよなってこうやって書いてて改めて気がついたね。ようは英語でもウォール伝を書けるようになれば問題ないってことでしょ。いやーでも楽じゃないよね。んじゃあ今日から英語で書いてみるか?とか思うんだけど、こうやってスラスラかけないことにストレスを感じるんでやらないんだよね。だから伸びないっていう。クラスメートでもさ、「家に帰ると勉強しないから学校に残って図書室で勉強する」とかってやつが多いんだけど、基本的に勉強ってストレスなんだよね。楽しくないからやらない。家に帰ると他に楽しいことっつーかやれることが増えるんでやらなくなるわけ。だから図書室っていう、それしかできない環境の中に自分を置いて無理やりやるってことなわけでしょ?それは宿題とか読書なら出来るかもしれないけど、書き物ってのはなかなか出来るもんじゃないよね。やるべきなんだろうけど、なかなかね。ウォール伝を学校の図書室で英語で書いてみるとかさ、やればいいのかもしれないけど、やらないよね。ただあれだった。フリーライティングを試してみようってことで、算数の時間がベーシックなことをスローにやりすぎているんで、とりあえず書きたいことを英語でバァーッと書いてみたら意外とクオリティが高くてビックリしたんだよね。Dominant Ideologyについてってのをなんかのアカデミックなものに寄稿するつもりで書いたんだけど、なかなかそれらしいっていうか、まぁそりゃ表面的で稚拙なんだけど、エッセイのそれとは比べ物にならないぐらいちゃんとした感じに出来上がったんだよね。ようはこれってのは自分の得意分野というか、書きたいことがあるので、言語のディスアドバンテージで能力を削られてもまだまだ数値が残ってるってことなんだよね。例えばんじゃあこの算数の時間に書いたものの元々のライティング数値というのが得意分野っつーかアイデアがあるものってことなんで200あったとしたら、そぎ落とされてもまぁ80は残っていたんで割とまともに見えるんだけど、市の金があるんで、そのバジェットを子供たちのためのバスケットボールクラブを作るか、コンピューターの無料セミナーを開催するか、どっちがいいのかってのを書きなさいって言われてもさ、別にたいしたこと書けないじゃん?日本語で書くなら一瞬で書けるよね。コンピューターセミナーのほうが建設的だってのは近年ではコンピューターってのは技術者だけじゃなくて一般人の生活にも深く根ざすものになったので、特に今後を担う子供達の世代がコンピューターを使えるべきであるみたいなさ、まぁメインアイデアがこんなものだったら、例えば付け足しで、仮にコンピューターを持っていない貧困層の家庭の子供達でも無料セミナーを開催することで、平等的な技術を学ぶ機会を提供できるとかさ、そんなのいくらでも足せるじゃん?この楽加減ってのはね、今までにも書いてきたようにようは日本語で考えるということはようはそれは母国語なんで思いついたことを忠実に書き表せることが出来るんで、ようは考えただけでそれがエッセイになりうるから時間もかからないし楽ってことなんだけど、英語で考えるとなると、ようは文のストラクチャだとか語彙だとかグラマーだとかを気にしなきゃいけないんでなかなか進まないっつーかその辺に気を使う脳の労力とアイデアを書き表すための労力と・・・って感じで、ようは脳のリソース配分がバラけちゃった面倒なんだけど、日本語というか母国語の場合、言語に費やすリソースというのを最小化できるってことなわけで、ようはメインのエッセイを書くというそのオブジェクト自体にリソースを費やせるっていうね。もちろんエッセイを書くと言うこと自体が総合的な言語のコンポジションなのかもしれないけど、ようはその構造だとか語彙だとかをひねり出してくる労力は英語のそれと比べれば全然少ないでしょってことなわけ。ってことでやっぱり留学生の大半がライティングに苦労するのはこういうことだね。喋るのは簡単だけど書くってことは本当に大変なわけだね。ましてやそのアカデミックライティングっていうフォーマットに忠実に則って書くということになると本当に面倒。喋るだけなら「あれがこれでこうなんだけど、俺の言いたいことはあれで、あれがこうなるからああなるってことを言いたいわけ」ってことで通じたりするからね。それはそれを補うボディーランゲージとか、断片的な語彙と語彙の組み合わせで出来るような、ようは会話のヒントというのが聞き手に生まれるでしょ。前後の文脈からこの人が何を言いたいのかというのをその発せられた言葉だけではなくもっと他の要素でも総合的に理解できる材料が豊富にあるってところなんだけど、書くのが大変なのは、そのほかの要素が無く、全てはその文字に表現が依存するので、ましてやディティールや何かを的確に表すということが困難なわけだよね。それは別に英語に限らず、母国語でのメールだってそうだよね。メールだとなかなかニュアンスが伝わりづらいんだけど、面と向かって喋れば説明するのが楽っていう。まぁそんな感じで言語ってなかなか面倒なのと、特に英語で勉強するってことがいかに大変かっていうのを改めて色々と思い知らされるよね。だから英語圏で暮らすことなんて楽なわけだ。ある意味。適応力と行動力とちょっとした語学力があればいいだけだから。ただ大学で勉強するとなると
まぁ必要な能力を生活と対比することは出来ないんだけど、ようはその言語に依存する要素が凄まじく多いっていうか、ほとんどが言語に依存しているってところなんだよね。だから英語が上手くならなきゃ学業も一向にはかどらないし、無駄な涙ぐましい努力が必要になったりするわけ。まぁそれは俺は無理だからね、だからとっとと英語をマスターするのが一番手っ取り早いってことなんだけど、まぁ楽じゃないわけだ。マスターしようと思ってマスターできるもんじゃないからね。ってことで対策としては暫定的なテスト対策のための勉強だとか暗記だとかっていうことに終始することになるわけで、これはまぁ俺に一番向いていないことなんだけど、とりあえず今、やらなきゃいけないことってのの大半がこういったことなわけで、とっととこんなスパイラルから脱出したいというのもあって、まぁ英語力というのが俺にとっては大学でやっていく中でも根本的で本質的な要素なんだよね。あと英語下手だと舐められるからね。特にアングロサクソン系のやつらに。有色人種は自分たちのバックグラウンドもあるのか、前に書いたように英語が訛っていようが間違っていようが割と聞いてくれるっつーか、コミュニケーションしてくれるんだけど、アングロサクソンのan畜生どもはこっちの英語が下手だとこっちを「有色人種の下種」みたいな扱いをするんだよね。ただですらあいつらは平等とか民主主義を建前で言うけど、実際は自分たちがなんだかんだで一番っつーか白人が一番優れてるなんて思ってるし、特に綺麗めな白人女なんてアジア人の男を人間だと思ってないからね。あの思い上がりっぷりは凄いよ。街歩いてても思うんだけど。その点では日本人の女の子ってのは、ある意味でブランドっていうか、まぁある程度可愛い子というのと日本人的な特徴を兼ね備えた子というのに限るけど、アングロ社会でもまぁ妾程度には扱われるというか、人間として扱われる下地がそのブランド力によってあると思うんだけど、ようは過去の黒人がそうであったように、ascribed statusによって差別されてたわけだけどっていうか実質、普通に今でも存在するけど、有色人種なんてのは基本的にそういった黒人と同じっていうか黒人が露骨だったからアメリカ的な差別を表す中で例えやすいんだけど、黒人が差別されてるのと同じだからね。で、加えて英語が下手ってことになると劣等人種の中でも特に下種の部類になるわけ。それはいかにアホなアングロ野郎どもが人を見た目とか表面的な限られた材料の中で判断しているかってところなんだけど、そういった意味だとね、いつも書くように黒人のほうがよっぽどクレバーでいいやつが多いわけよ。ようは差別の歴史を知っているのと、ディスされる気持ちというのをある意味で民族的に理解しているから、基本的に人種差別というのを憎むわけ。だって自分たちが被差別者側だからね。だから割と移民とかあんま英語を喋れない人達にも寛大なんだけど、白人どもってのにアホが多いのは、基本的に自分たちが最強の人種だって思い込んでで社会的にも特権階級だみたいな、歴史的なすり込みプラス現状というのがあるから、思いあがりがどんどん加速するわけ。だからいつまでたっても差別がなくならない。というのは馬鹿が多いからなんだよね。だからいつも俺が書くようにレイシストというのは大抵が馬鹿なわけ。物事を深く考えられない薄っぺらさというのがその人種差別という形で出てしまっている愚かな連中。歴史的なことを含めて差別したりするのも歴史と個人とを一色にしているオオバカどもってことだ。なんとなくだけど、こっちが日本人って分かると妙に嫌な態度をとる中国人がいたりするんだけど大抵が馬鹿だね。ああいうときは中国共産党は下痢以下だけど、中国人も中国共産党と同等みたいな下痢がいっぱいいるんだなって思っちゃう。もちろん良い中国人は基本的に馬鹿じゃないし英語喋れるね。英語片言な中国人ってのはなんかルードなやつらが多いイメージがあるんだけど、それだけ価値観が一定でアメリカに順応しない馬鹿ってことなわけだね。その国の言語を覚えないってこと自体が馬鹿だから、歴史とかごちゃまぜにして日本人というだけで失礼な態度をとるっていうのもメイクセンスだな。だって馬鹿だから。考える能力がある人は歴史なんて大まかなことと個人とをごっちゃにしないわけよ。まぁそう思うと韓国にも中国にも日本にも馬鹿がいっぱいいるってことだねってことで恐らくアメリカを見ても同じなのを見ると世界ってのの大半が馬鹿で占められているらしいって思っちゃうね。だから前にも書いたように俺はこんなくだらない連中とゲームをするのはごめんだから、とっとと引退して山に住みたいってことなんだけど。民主主義ってのは大事だけど、基本的に俺は人々を信用しないね。もっと一人一人が賢ければ国自体もマシになるはずなのに、そうじゃないってことは馬鹿が多いってことでしょ。日本でも中国でもアメリカでも。こういうことをずーっと書き続けると最終的にエリート主義みたいになっちゃって、なぜか俺の考えとは正反対のファシズムとか全体主義に行き着いちゃうんだけどなんか難しいよね。まぁ結論としては差別ってのは馬鹿がやることなので、馬鹿は馬鹿なりに馬鹿って見られたくないから差別はやめようって浅はかな考えでもいいのでやめてください。あと白人へのコンプレックスだとかっていうのも持つのをやめてください。あいつらの大半は馬鹿です。あんま日本と変わりません。それより黒人への偏見をなくしてください。あいつらにはいいやつが多いです。主観ですけどね。1900年代初頭からの黒人活動家やその後の市民権運動に携わった黒人達のことをもっと知ってください。いかに白人が優秀で黒人が劣っているなんていうことが偏見によって捏造されたことであるというのが分かるでしょう。俺の夢の一つはまぁこういう当たり前の正論をちゃんとした英語でアホな白人どもに知らしめることなんだよね。お前らがいかに馬鹿かというのが俺の文章から分かるだろうとか、俺のスピーチから分かるだろうとか、そんなことを言ってみたい。アホな白人どもに気づかせてやりたいね。ただアメリカの黒人ももっとマルコムXとか読むべきだけどね。まぁいいや。そんな感じです。