宇宙と言語。

mimisemi2008-05-01

いきなりだけど宇宙について思ったことがあるので、なるべく短く書くね。


今日、まぁ哲学の授業があって、まぁこればっかりは学校と言えども何より楽しみというか楽しいことなんだけどってーのはゲームとかよりも楽しいわけだけど、まぁデカルトをやってるのね。もうセメスターほぼ終わりなんだけど、俺が質問しすぎてるのか、まぁ俺のクラスだけなんか特殊らしくて進みが遅くて他のが全然できないんだけど、それはともかくデカルト曰くまぁ無限ってのは定義できないらしいんだわ。それはあの例の有名な完璧なトライアングルと一緒で、実際それはありえないので、あくまでその存在は観念にのみ留まるという意味で無限ってのもまぁ完璧なトライアングルと一緒で、それは神とかの「完全性」ってのが実質ありえないから神も無限と一緒ってことなんだけど、そこでまぁ例の綺麗な人がさ、哲学のクラスのね、俺が質問しようと思ってたんだけど、もうやめておこうかなと思ってやめたんだけど、この人が「じゃあ宇宙はどうなんですか?」って聞いたのよ。先生に。あ、んでその前に書いておくけど、ようは数字の無限ってのが記号でしか表せないように、全てのことには始まりがあるので無限がないというのは、仮にそれが終わりのないものであっても、始まりがあればそれは拡大すればするほど限界の壁を常に壊しているという意味でそれは無限足りえないわけだ。で、なんでここで宇宙か?っていうと、宇宙もまぁ無限と言われているでしょ?科学的にはどうか分からないけど、まぁ無限というとなんとなく宇宙ってイメージがあったりなかったりする。で、この質問に対して先生はまぁややこしいトピックだから今話してもしょうがないってまぁオミットしたんだけどっつーか別にこれは先生が馬鹿なんじゃなくて、話がデカルトから遠ざかっちゃって、なおかつ時間を割かないとそれが説明できないんで、今はやめようってことだったんだけど、あのさ、ビッグバンってあるじゃない?ホーキング博士だったっけ?今でもまぁ議論はあると思うけど、ビッグバンによって一気に宇宙の空間が拡張したというか、始まったと考えれば、宇宙もまた無限ではないんだよね。当たり前すぎてゴメン。で、思ったのが宇宙ってのはパイだなと思ったわけ。パイは3という始まりの数字があるけど、割り切れないんでずーっと終わらないんだけど、それはデカルトに沿って言うと、それは無限でもなんでもなくて、3っていう始まりがある時点で制限があると。パイというものはその制限を常に数字を出すことによってその存在というか数を拡大しているだけなんであって、無限というコンディションはありえないってことなんだよね。別にデカルトがパイについて言及してたわけじゃないんだけど、まぁんであれなのよね、ビッグバンってのが3なのよね。で、その広がっていくプロセスは小数点以下の数字っていうさ、だからあれなんだよ、実質、デカルトが言ってたように人間のアイデア以外無限ってのは存在しないんだよね。だから神も常に定義ができないものとしてあるんだけど、カントなんかは宇宙なんて存在しないとか言ってたらしいんだよ。いや、それがリテラルな意味で宇宙は存在しないという意味ではなくて、人間が持っている観念的なイメージでの宇宙なんてのは存在しないっていう意味だとまぁ言えてるわけだよねっていうのは当時の科学なんて限られていたし、宇宙に関する知識も限られていたわけだ。ただまぁビッグバンで宇宙が誕生したとすれば、それはパイの3にあたるわけで、もう無限というものは観念でしかありえなくなるわけ。まぁ別に元々宇宙が絶対的な無限だなんていう定義が一般的かどうかは分からないんだけどね。


人間って何かを定義するときにはリミットを作ることで頭にストックすることができるんだよね。だからそのリミットが無い無限だとか神だとかっていう概念は常に定義できない。そこで思うのがそもそもの定義なんてのも曖昧だなっていう風に思うのが、まぁソシュールとかじゃないけど、まぁあれじゃんね、言語がそのアイデアを規定しているだけで、人間が言語ってのを使ってる時点でそれはもうすでにリミットなんだよね。しかも意味とかってのは物凄く言語に依存するんで、そもそもの何らかの概念の普遍的なものなんて存在しなくなっちゃう。普遍的という言葉とユニバーサルという言葉がリテラルな意味では意味が一応同じとしても、それは日本語と英語でシェアできない概念の違いというのは常に存在するよね。そこは俺がいつも書いてるような、英語で書かれたものの翻訳本を読んだところで、元が持っていたエッセンスが相当劣化してしまうというのは訳者の力量不足でもなんでもなくて、言語の違いなんだよね。そこでまぁよく書いているように西洋で話されている言葉というのはオリジンが似ていたり、ただの派生語が点在しているだけで、元々の言語が持っている概念というのはシェアできているんだよね。元が一緒で、その形態が変わっただけなので、そこまでの違いは起こらない。もちろんそこでも言語によるニュアンスとか概念の違いはあるだろうし、派生語がその言語として確立されるプロセスの中で精製されて洗練されるものというのは多くあるだろうし、それがまぁ現存する言語を規定する諸要素の一つだとは思うんだけど、例えば日本語なんて全く西洋の言語とシェアしている概念が無いんだよ。オリジンが全く違うんで言葉の持つ概念が全然違う。もちろん翻訳というのは出来なくもないけど、かなりそれはこじつけになっちゃうんだよね。だから哲学書とか思想書の翻訳本が難しいのはある意味で必然的というか、それは内容が難しいというよりかは、そのほかの言語で書かれたものであるからそれが複雑であればあるほどその意味が言語に寄り添って立ち上がってきているわけだよね。だから機械的に翻訳したところで、エッセンスってのが伝わらない部分は相当多い。


で、もっと話を進めると、仮に同じ言語であっても、さっき書いた脳にストックする定義の話に戻るけど、言葉の定義って厳密に言えば個々で全然違ったりするんだよ。例えば一つの単語の構成要素が10あったら10が同じではない。人によってはその違いは微々たるものかもしれないけど、確実にアクチュアルに10が10伝わることはないというのはもうすでに言語の限界なんだよね。特に日本語みたいな複雑な言語に関してはそれが顕著で、だからこそ察する文化というか、意味を読み取るということが文化的に重要視されるんじゃないかと思うわけ。ようはそれは日本人の振る舞い的な要素というよりかは、かなり言語によるものだっていうことね。もちろんそれだけではないんだけど、ただでも人間の振る舞いが言語によって規定されている部分というのは相当大きいよね。だから英語で話すときは人格がちょっと変わるとかってのもアメリカナイズというか、アメリカンウェイで喋るというよりかは、アメリカ英語という言語が持っているキャラクターがすでにアメリカンウェイな人格を持っていて、喋る人間は常にその限界というかパラダイムの中でしか喋ることができないので、喋っていることや性格なんかも言語に影響されちゃう部分ってのが相当多い。


アメリカではなんとなく分かったとかじゃなくて、完全なコンセンサスを取るっていうのが、特に日本に比べれば顕著で、なんとなくという理解が良くないことだっていう文化的なバックグラウンドがあると思うんだけど、それは英語が極めてリテラルな言語だからなんだよ。定義されている言葉の数々が凄まじくアクチュアルで、そのセンテンスにおいて相互的に機能することによって立ち上がってくる単語自体の意味というのが、恐らく日本語に比べて相当多い。だから例えば英語ってのは一つの単語でもいろんな角度から使えたり、それだけで色々カバーできたりすることが多い。アクチュアリティという意味だとある意味では抽象的かもしれないんだけど、でも逆を言えばその単語が包括している意味というのが広い分、そのセンテンスの中で機能することによって立ち上がってくる意味の数々が非常に多くて、それを英語ってのは人々の頭の中で広く定義されて理解されているんじゃないかなって思うわけね。だから言うことは物凄くダイレクト。その意味だったらその意味しかない。もちろん遠まわしな言い方とかも出来るけど、言語が凄まじくリテラルでアクチュアルなので、日本語ほどニュアンス的なものの多様性の複雑さというのは無かったりする。もちろんそういった英語っていう分かりやすくて他人に伝えやすい言語であっても、それは究極的に言えば定義は個々に委ねられているので、構成要素の10あるうちの10が確実に伝わるということにはならない。でも日本語のそれと比べたらだいぶ伝達度は高いわけで、だから恐らく論文なんかは英語で書くのがベストなんだろうね。最近、ホント、英語に慣れてくると、特にエクリチュールに関しては本当に日本語は無駄が多いと思う。無駄が多い分、そこで伝えられる微妙なニュアンスというのがあるわけで、ある意味で物凄く繊細な言語ではあるんだけど、でも英語的には機能しないので、だから英語とか他のアルファベット言語で書かれたエクリチュールってのが日本語に変換されたときはもう無駄の塊みたいになっちゃうわけ。だから読むのが大変なの。その点では日本語で書かれた本というのを
ネイティブの日本人が理解するというレベルでの理解度はなかなか外人には到達できないレベルとも言うことが出来ると思う。フランス語から英語に翻訳された本ってのはさっきも書いたようなことだけど、言語のオリジンが同じだったり似ていて、もともとの単語なりの概念が似ている部分が本当に多いので、それはただのアルファベットの違いだったりするわけね。極端な言い方だけどね。でも日本語の場合だと、アルファベットを変えるんじゃなくて、まさしく変換しなきゃいけないわけ。日本語に。だから劣化が起こるのは必然的だし、それは言語のシステムの違いというよりかは、もともとの言語の定義の違いによるものが多いんだよね。


ただですら言語というのは限りがあって、理解が大変なものなのに、その中でも特に特殊な日本語というのを使ってる日本人というのは世界的に見ると相当不利だなって思うわけね。英語だとかアルファベット系だとかっていう似たような言葉の類似物がドミナントなこの世界で物凄くマイナーな言葉を使っているわけだから、そりゃ不利なのは当然だよね。もちろんそこで日本が他国に頼らずに自分の国で何かを生産して海外に輸出するというヘゲモニーっぽい立場だったらいいんだけど、確実に日本ってのは一部のものを除いてサバルタンなわけよ。どうしても他国のものを介したものでしか吸収できないものがあったり知ることができないものがあったりする。そこで言語というのが凄く問題になってくるわけだよね。音楽にしても大半のものは西洋のものだし、別にリリックを理解しなくても音楽は理解できるからいいんだけど西洋的な概念で作られたものというのが大半だから、そこで言語による差異を持っている日本人というのが西洋的な概念を理解するときになされるプロセスというのはさっきも書いたような変換なんだよね。ダイレクトには絶対理解できない。思うに言語習得のポイントはここにあって、言語のストラクチャを学ぶというよりかはその概念を学ぶことがエッセンシャルなんだよね。ってことで俺みたいにこっちで大学に行きつつ生活をするっていう環境がいかに言語のストラクチャというよりかは概念を理解するのに適した環境かというのは言うまでもないし、逆説的に言えば、英語学校ってのは究極的に言えば意味が無いんだよね。あれはあくまで言語のストラクチャを教える場所でしかない。仮に先生がネイティブでも、それはネイティブが英語のストラクチャを教えているだけで、そこに概念は無いんだよね。まぁ日本人の英語教師に比べたら英語のニュアンスというのは学べるかもしれないけど、散々書いているように言語を規定するものってのは極めて土着的なものだから、その場にいないと学べないんだよね。そういった意味で「西洋」と大雑把に仮定して話を進めると、西洋ってのは言語も含む西洋的な概念を歴史的にシェアしているというか、そもそも西洋的なものルーツが一つあって、他のものというのは全て派生物でしかないと考えると、違う言語でも概念の変換が必要ないというのはある意味で必然的なんだよね。それは西洋的な暮らしとか文化っていうものでも同じかもしれない。もちろん個々を見れば違いがいっぱいあるんだけど、ニューヨークに住んでて思うのは、ここで生活していければ大抵の西洋の場所で問題なく暮らせるだろうなって凄く思うんだよね。この普遍性というのが西洋文化の強みだし、英語の強みなんだよ。俺がニューヨークでやっていければ他でも問題なくやっていけそうというのは、とりあえず英語が出来れば西洋で暮らしていけるっていう、まぁ例えは安直だけど、そういったことに近いわけ。だから英語ってのは政治的なヘゲモニーでもなんでもなくて、単純に分かりやすくて、広くその概念がシェアされているドミナントな言語という意味でユニバーサルランゲージ足りうるわけ。ドミナントという言い方をすると支配的だけど、逆を言えば、それを利用しちゃったほうがそこに乗ることができるので便利だし、習得が楽だとはとても思えないけど、でも日本語みたいな他のややこしい言語に比べたら相当シンプルで分かりやすくて、なおかつさっき書いたように言語が意味する概念というのが非常にアクチュアルでリテラルだからコミュニケイティブな言語であるとも言えるわけ。


もちろんそこで日本語がダメだって言うわけじゃないんだよ。日本語ほど多様性に富んだ言語は珍しいってわけで、そんなややこしい言語を生得的に操っている日本人というのは逆を言えば言語習得の限りないポテンシャルを秘めているということが言えるわけ。一見、言語習得に関しては物凄く不利のように見えて、実は物凄いケイパビリティを持った日本語というのを使うのが日本人なわけだから、ポテンシャルは高いわけ。だから本当の意味でのバイリンガル足りうるのは恐らく東洋人とかの西洋言語を使わない人達だと思うのね。フランス語を喋るフランス人が英語を喋れても、それは類似的な言語を応用的に利用しているにしか過ぎなくて、英語とフランス語で共有されている言語のルーツの部分は似ていたりするし、そこでニュアンスの違いというのは東洋に比べれば微々たるもんなんだよ。ただ非西洋言語圏の人達が西洋圏の言語を使うとなると、そのストラクチャもさることながら、まずはその言語の概念を理解しないといけないわけね。これは物凄く大変なことだし、単純な言い方をすればカルチャーディファレンスを超越しないといけないわけで、はっきりいって面倒なんだけど、その超越ができちゃえば、本当の意味でのバイリンガルになれるというのは、西洋的な概念で考えてアウトプットできるという能力と生得的な東洋的な概念で考えてアウトプットできるというのを同時に兼ね備えることができるわけで、この価値ってのは類似語を応用的に使うのとはわけが違うんだよ。


ってことで話を宇宙に戻すと、基本的に全てのものは制限があるので無限というのはありえない。無限と同等に言語は語れないんだけど、概念の限界という意味では言語ほど限界があるものも珍しいと思うんだけど、それを拡張できるというポテンシャルを持っているのが日本人だと思うわけね。日本人っていうか非西洋圏の人達ね。まぁあくまでこれは日本人目線だから、西洋人から見たら東洋的な概念を理解することが、その概念の拡張に繋がるってわけだけど、なぜか西洋人はこういうことをやらないよね。まぁ差別的な意味に結びつける必要は無いんだけど、まぁ東洋ってのは西洋スタンダードから見れば変わってるなってぐらいの印象なんだろうね。サイードオリエンタリズムじゃないけどさ。だからたぶんあれなのよ、下手に英語を批判したりさ、日本語の素晴らしさとかっていうのをナショナリスティックに言う前にまずはドミナントな西洋圏の言語を理解しちゃったほうがいいね。批判はまずそれからだね。世界で西洋的な概念がドミナントっていう事実は変わらないんだから、そこで自分たちの言語に逃げちゃうってことは、まぁ鎖国みたいなもんだね。海外から来る何かも常に日本人的な概念に変換して理解することしかできない。そうじゃなくて両方の概念で海外から来る何かを理解したほうが多様性があるんだよね。それがまぁさっき書いたような言語云々ではない観念的なバイリンガルという意味ね。たぶんだからあれだね、英語みたいな西洋圏の他言語を習得するってのはグローバリゼーションに飲み込まれるとか欧米化されちゃうってことじゃなくてそれに抗うっていうことなんだよね。やっぱり欧米的な概念にいつまでも丸腰でいてはいけないと思うんだよ。もしくはそれを受動的に受け取るだけじゃいつまで経ってもダメ。そこでやっぱり支配的なものにコミットしていきつつ同化しないという立場が今後の世界的なあり方を考える上で凄く重要なんじゃないかなって思ったんだよね。ようは言語のメタ言語的な拡張というのは今後は以前に比べてより有効になるんじゃないかなって思うのね。その最初のステップとしては英語ってのは本当に最適なわけよ。


短く書くとかいって結局長くなっちゃったな。他にも書くことがあったんだけど、もう今日はいいや。いっぱい書いたから。んじゃあまたね。

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