ノイズミュージックと主体性について。

mimisemi2008-10-07

風邪治ったよ。兵糧攻めで死にそうになった次の日にちょっと頑張って食料品を買いに行ったら、まぁ久々に外に出たっつーのもあってなんだか気分が晴れやかになってっつーかやっぱ外はいいね。あとやっぱり「外はいいね」って俺みたいな筋金入りの引きこもりが言えるような環境がこっちにはあると思う。日本みたいに異常に視線におびえたりする必要も無いし、「普通の人なら会社や学校にいる時間のはずなのに今こうやって街を歩いてるなんて変に見られないだろうか?」なんてことを心配する必要も無い。で、極めつけはズリネタ。大量の食料と数冊の本をイーストヴィレッジで買ってきて、んで久々に外出たからごちそうだってことでサブウェイのサンドイッチを食べたんだけど、まぁ別にサブウェイはイーストヴィレッジじゃなくてフォレストヒルズの駅前なんだけどね。で、帰るときにね、ちょうど俺が外を出ようとしたら二人組のブロンドのセクシーな姉ちゃんが入ってきてさ、で、俺が両手に大量のザーメンじゃなくて食料を持ってたんで、あれなんだよね、ドアを開けててくれたのね。で、その開けてくれているときにちょっとテレてる感じだったんだよね。それが可愛くてしょうがなくてもうね、風邪で抜いてなかったら帰ってからすぐこの二人をオカズに抜きましたよ。それにしてもさ、オカズにされてるって分からないことじゃない?結構怖いよね。俺もオカズにされてたりするのかな。ゲイに。


あ、んでね、ちょっと書きたかったのは他でもないノイズのことなんだけど、最近、SMKは復活しているわけだけど、なんかね、ノイズ放出してて思うのはさ、ノイズって基本的にただの機材の繋ぎ方なんだよね。インキャパとかを見るまでもなく、別にあの2人は特に専門的なライブエレクトロニクスを操ってるわけではないし、基本的にインキャパと同じ機材の繋ぎ方をすれば同じ音は出るわけだよね。インキャパってすんげーシンプルな時はオシレーターとマイクとテルミンぐらいしか使ってないからね。でもなんであの二人が凄いかってあんだけ長いこと続けているっつーのもあるけど、まぁあのライブパフォーマンスとパワーだよね。インキャパに「あんなの誰でもできる」っていうのは本当に野暮ったい物言いだよね。だからノイズっていいんだよ。別にたいしたことをやってるわけでもないし、高度な技術を駆使しているわけはないんだけど、でもあの音が出てるっつーのとあれを演奏してるっつーのがいいんだよね。そこで考えるのが音楽における主体性なんだよね。


古くはヘーゲルだったかが言ってたんだったか忘れたけど、人間の色々なことってさ、思考することにしても出力することにしても、様々な要素の積み重ねによって出てきた結果なんであって、それはなんというか、悲しいけども電源を入れるとテレビがつくように、人間の脳もまたそういったシステム的なことというか機能的なものによって動かされているんだよね。俺がこうやって書いたり考えたり音を出したりするのもシステム的なことの結果なんであって、そこに主体性があるかどうか?と言われると凄く微妙。俺の思考や考え方なんてのも色々なものの繋ぎ合わせなんだろうし、もちろん俺は思考してるつもりだし、引っかかる思想や哲学や政治学だの社会学だのっつーのは俺がぼんやりと考えていたことを的確にシステマティックに表したものが多いから、そこに思考する俺という主体が無いと、思想を取り入れる基盤というのが成り立たないとは言えなくもない。ただその基盤そのものが様々なもののコラージュによって出来ているのだとすると、やはりそれはただの機能的な結果でしかない。


というのを例えばノイズに感じるよね。凄い音は出ているんだけど、その原因というのを探ってみると、例えばマイクにディストーションが繋がっていたり、様々なコンパクトエフェクターが繋がっているだけで、別にそこに人間がいなくても、ただのスルーノイズだけで爆音は出るんだよね。マゾンナが良い例で、浅田飴の缶にピックアップをつけて、んでそれにディストーションかませばあの音は出るわけだからね。音が出ている原因自体はたいしたもんじゃない。例えば今なんてマックスとかリアクターみたいなのを使えば、このノイズのいろいろな機材の配線なんてのをラップトップで出来るわけだよね。それこそ一から自分で作れる。だから今までアナログでやってたことを全部パソコンで・・・なんてことが可能になる。外部入力から出力を入れて音を出すようなシステムを構築すればアナログとデジタルの融合なんて簡単だよね。浅田飴の缶をラップトップに繋げば君もマゾンナだ!


でもなんかそういうことじゃないんだよな。人生も自分の主体性も音楽も。いやね、電子音楽がね、例えばチュードアとかのやつとかがね、こういう配線ですって図があって、それ通り繋げばその音が出るから主体性が無いと言えるかもしれないけど、そのシステムを構築してるのってチュードアだからね、やっぱりそれは作曲になるんじゃないかな?いや、それ言い出したらリアクターのプリセットの自動演奏も作曲になっちゃうか。でも今なんてね、チュードアとかムンマがやってたことなんて誰でも出来るようになってるんだよ。もちろんそれは先人達の積み重ねがあるんだけど、やっぱりコンピューターとかデジタルプロセスとか、こないだのハズウェルのエッセイじゃないけどリアルタイムプロセッシングってのがこんなにも身近になったから、今まで不可能だったことが全然可能になったわけだよね。いや、何を今更って感じだけどね。10年前ぐらいからそうだからさ、だからまぁエレクトロニカみたいなのが盛り上がったんだろうけど、やっぱりあれだよね、こうやって俯瞰してみると、そこに音へのパッションみたいなのが無い抜け殻みたいな、なんつーかシステムの結果みたいなやつって全然心に残らないよね。当時はグラニュラーだなんだっつってそのサウンドと手法の目新しさに耳を奪われていたかもしれないけど、そんなものが新鮮じゃないどころかもう飽和してしまった今になってみるとさ、MSPだなんだっつって別にインテリラップトッパーの特権じゃなくなってるからねっつーかバレちゃった感じか。実はあいつらたいしたことやってなかったって。だからそういう意味で数あるエレクトロニカというか音響系もインキャパと一緒なんだよね。インキャパっつーか、何かしらのパッチだのソフトウェアだのプロセッシングだのの結果が音を規定しているのであって、そこに主体性が無いんで、別にたいしたことないじゃんっていうね。


だけどインキャパはもう主体性の塊みたいな音を出しているよね。それはそこに音を出す主体が存在するからなんだよ。機材が繋がれているから音が出ているというよりかは、あきらかにそこにその音を出そうとしている主体がいる。だからノイズって究極的に能動的な音楽なんだよね。それはマゾンナも同じ。まぁマゾンナの場合、スタジオワークのカットアップの技術が上手いからまぁあれは本当に音楽的と言えると思うけどね。いやね、まぁ楽器とかになるとさ、演奏とか作曲ね、そうなるとそりゃー機材だけあっても音楽は作れないでしょーっていう風になるけどさ、音楽を作るっつってもそれってJ-POPなんかが顕著だけど、あんなのコピペの最たるもんだよね。ムンベとかテクノは好きだけど、ガラージなんかが典型的だけど、ああいうフォーマットがあるっつー前提で曲を作ってるから、それもまたガラージとかムンベとかっていうパラダイムの中で現れたただの構造的な結果なんであってさ、そこに主体性があるか?っつーとかなり微妙だよね。実際、ガラージなんてまぁあえてなんだろうけど、ムンベなんかもさ、すんげー匿名性強いじゃない?なんたらDubsとかさ、T-なんたらとかさ、誰かが分からないような匿名性をあえて全面に押し出しているような雰囲気があるぐらいクラブ音楽ってのは曖昧なもんだよね。


だからこそにね、機材の配線で出てる爆音のノイズ音楽と、一定のフォーマットの上で成り立っている一連の音楽とさ、どういう差があるのよ?ってことなんだよね。むしろその機材の剥き出しさが全面に出ている電子音楽とかノイズ音楽のほうが魅力的なんじゃないか?って思うんだよね。機材やソフトウェアを操ってるんでこういう音が出ていますっていうのが自明な上であえてそこでまたとんでもない音を出すっていうさ、それに全身全霊を注ぐノイズ音楽ってすんげー純粋だと思うんだよね。もちろん近年の音楽的なメルツみたいなノイズもあるけど、あれはもう本当に文字通りの「ノイズ音楽」だよね。その辺の下手な音楽よりよっぽど音楽的だからね。でもさ、俺が好きなのはハズウェルとかサタンズトルネードとかさ、あとカルちゃんのライブみたいな、ただMSPとかリアクターとかVSTプラグインだとかの組み合わせで出ているんだけど、それにコミットしまくる演奏者っつーのがね、それが最高にいいんだよね。ラップトップでパルスをいじってるだけとかさ、ある意味で究極的な音楽だと思うんだよね。内容を明かしちゃえば他の人も同じ音が出せるっつーのがミソだね。昔のベル研究所みたいなさ、研究所にあるどでかいマシンっつー特殊性が無いんだよね。パソコンには。使いづらいRCAシンセサイザーを使いこなすミルトン・バビットとかさ、こういうのってインテリの特権みたいなのがあったじゃない?RCAのシンセを触れるっつー特権もあるし、それを使いこなしちゃうっていう頭脳的な特権もあった。でも今ってその辺に落ちてるソフトを使えば電子音なんていくらでも出せるからね。改めて色々な音楽ソフトをいじってて思うのはやっぱりあれだね、なんつーかいろんな音っつーか音楽ってシステム的な所産なんだよね。もちろん過去の限られた環境とか機材で作られたというところに凄さがあるっつーやつもいっぱいあるけど、例えば90年代中盤のミニマルテクノみたいなやつってさ、ホント、ふつーにリアクターとかのプリセットいじってればいくらでも作れるからね。いや、本当に良質なミニマルテクノはともかくとして、まぁありがちなやつってことね。フミヤのファーストとか酷かったもんなぁ。あととれまの初期のやつとかさ、ホント、パンクあがりの兄ちゃんが見よう見まねでテクノやってる感じで俺はモンド音楽としては大好きなんだけどね。


その不器用さみたいなのをラップトップ初期のメルツとかハズェルに感じるんだよね。ノイズをラップトップで必死にやろうとしている試みそのものが音になってるみたいなさ、そういう意味だとハズェルのライブのやつなんてさ、最初のやつも最近出たレコードのやつもそうだけど、リアルタイムに音探ししてる感じだもんね。いろんなライブの場でガンガン実験的な音出しをしてるんだよね。そういう意味でハズェルとかカルちゃんってのはハードコアな実験音楽をラディカルに実践し続けている数少ない実験音楽家達なんだよね。凄く貴重なんだよな。彼らのあの実験性。だから俺もね、ああいうのがやりたいっつーか、まぁ今やってるしやれているからいいんだけどね、出したい音ってのを別に機材の配線だけでもなんかのループだけでもエフェクターだけでもいいから、それをとにかく出しまくるっつーのがね、そこに主体性とか芸術性だとかなんて求めないで、純粋に自分の好きな音探しをするっつーのがノイズ音楽というか電子音楽全般の醍醐味なんじゃないか?って思うんだよね。俺はそこをずいぶんと勘違いしてた気がするんだよな。ノイズに芸術性みたいなのを求めていたような感じがあったんだよ。たいしたことやってないんだけど、やってないからこそコンポーザーとしての自分を押し出したいみたいな、厭らしい自己顕示欲みたいなのが出てるんだよね。それが凄く嫌ね。だから俺は自意識過剰なナルシスティックな音楽が大嫌いなんだよね。
自分に酔っているようなのが大嫌いなんだよ。俺は。


いや、そうじゃなくてね、ソフトがあって、んでそのスライダーをいじるだけで好きな音が出るんだったらもうそれでいいじゃんってことなんだよね。少なくとも俺にはそれが気持ちいい音なんだとしたらさ、それがプリセットであろうがなんであろうが、その音を出し続けるっつーのがね、凄く重要なんじゃないかって気がするわけ。だから主体性を捨てるんだよ。音楽に自意識なんていらないわけだよね。あと実存とかもね。その出したい音を出す音を生成するシステムの一つぐらいのもんでいいわけだよ。だから自分もソフトの一部みたいな感じでいいわけだよ。だからね、最近っつーかまぁここ数年ぐらいだけど、ようやくオヴァルの良さというか、マーカスの言いたいこととかコンセプトが凄く分かったんだよね。分かったっつーかようやく理解できたっつーのかな。昔はあのミュージシャンシップを完全に捨てているようなニヒルな態度が大嫌いだったけど、今は死ぬほどよく理解できるわけだね。だからもうオヴァルは良すぎてしょうがない。で、また音楽的にも素晴らしいからいいんだけどね。坂本龍一エレクトロニカをやるとダメになるのは彼の自意識なんだよね。坂本龍一が凄まじくナルシスティックだから、特に電子音楽みたいなナイーブなフォーマットで音を出すと、その実存が剥き出しになっちゃうんだよね。だからダメになっちゃう。坂本龍一エレクトロニカじゃなくて、本当に過去のね、彼自身のただやりたかったことを具現しただけみたいなさ、あの未来派野郎の音響系のトラックとかさ、あとあの現代音楽のカットアップのやつとかね、あとエスペラントとか、テクノドンのノスタルジアとかさ、ああいうのやってれば天才なんだよ。本当に。あ、そういう意味では愛の天使だったっけ?あのベーコンのやつのサントラとかさ、あとデリダのやつとかは割といいね。デリダのやつなんて本当にストイックだね。ピアノを直接指で弾いてるだけとかさ、まさしくそこに音を作る主体性が一切無いようなね、その無機質加減が絶妙なわけだね。あ、まだ完全にダメになったわけじゃないんだなって見直したよね。本当に。


だから俺もね、自意識過剰な表現だとかなんだとかっていうのを真顔で抜かすような音作りを一切やめることにしますよ。もうね、自分の好きな音しか出さないし作らないってことにするよ。それって作るって行為とどんどん離れるからどんどんピュアになっていくと思うんだよね。その行動のピュアさとは対照的に音はガンガンジャンキーになっていくと思うんだけど。あとそれが俺だとも思うしね。作曲とかオリジナリティみたいなたいそうなことは出来ないしさ、そんな才能もキャパも無いわけよ。ただ音に対してはマジでジャンキーだから、ただそれだけでもういいんじゃないか?っていうね。ノイズだったらサタンズトルネードとかハズェルとかカルちゃん聴いてて満足ならそれでいいし、出したかったら自分でやればいいだけだし、そこに主体性が無いっつーのがいいんだよね。ただその音を聞きたい自分っていうのがいるだけで、音を出すプロセスには出す目的に必死になる自分はいないんだよね。あくまでそれを聴く自分しかいない。これってのは日常単位で起こりうる欲求だと思うんだよ。あーこういう音が聴きたい!って思ったらソフトをいじってその音を出しちゃえばいいんだから。で、後で聴きたかったら保存しておくとか録音しておくとかね、俺が作る音ってのは、そういう音の記録でいいんじゃないかって思ったわけね。そのぐらいしか出来ないと思うし、それが一番いいと思うんだな。で、懲りずにそれを録音し続けるっつーのが重要だと思うんだよね。恐らくそれが美川さんがイーターのインタビューで言ってたような「続ける」ことの重要さなんだと思うんだよね。いや、ノイズってそんぐらいのもんでいいと思うし、そういうレベルのが一番いいし、自分もそういうのを作りたいよね。時間的ににも楽だしね。フィールドのやつとかは手間がかかりすぎて今は無理だからね。そういう時間的な縛りがないのもいいね。


ってことで今日は文がメインなのでツアー音源は無しで。

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