理想郷アルカディアとギメル。

mimisemi2009-05-02

学校休んだわいいけど天文学のクラスでテストがあったらしくてさ、フェールしたら最悪だからメイクアップテストの調整してくれって先生にメールしてみた。まぁDとかでもパスできりゃーいいんだけど、ただやっぱGPAを考えると最低でもCは取っておきたいよね。いや、風邪はだいぶ良くなったけどでもまだまだバリバリテロリストねっつーかこの状態で外出たら悪化するか菌をバラまくことになるっつーレベルね。今週はもうずーっとだからまぁ休みだわ。



ところでさ、アルカディアの話を続けたいんだけどさ、昨日は恐ろしく長かったと思うんだけどっつーかまぁ今日は手短かに行くけどね、NHKにようこそ!だかっていうさ、アニメあるじゃない?引き蘢りの話のやつ。まぁ小説か。俺はアニメを見たんだけど。で、まぁ細かい内容はともかくとしてさ、まぁ話の帰結としてっつーかネタバレになるけどね、まぁ90パーセントの辛い現実を向き合っていこうっていう話じゃない?ポジティブというよりかはリアリスティックというかさ、でもまぁ引き蘢り側も彼女も美形だから本当に助けようが無い引き蘢りと比べたら完全にファンタジーレベルなんだけどねっつーか元引き蘢りで今は隠修士に昇格した俺に言わせてみればやっぱ引き蘢り具合が弱いっつーかさ、酷い引き蘢りはあんなもんじゃないっつーのはまぁ引き蘢りが見れば誰でも思う事だろうね。世の中で言われる廃人っつーイメージ以下の廃人って存在するんだよ。前の俺みたいなのね。まぁ今も一歩間違えれば逆戻りだけどね。


まぁいいや。内容はともかくさ、なんでこれがアルカディアなの?っつーとさ、ギメルがさ、「人々が望むものが真実だ」みたいなこと言うじゃない?で、これの何が悪いって。これに俺はマジで反論出来ないんだよっつーのまぁ昨日も散々書いた事だけどさ、仮に90パーセントが苦痛っつーことが自明だったらさ、生きてる意味って何なの?って思うのは当たり前だよね。でもその割にさ、みんな自殺を否定するっつーかまぁ俺もこないだのオカルト話の文脈では完全に反対派になったっつーか自殺が怖くなっちゃったっつーのがあるんだけど、「生きてれば良い事もあるさ」ってただの気休めじゃん?でもそう思いながら生を肯定したいのが人間だよね。つまりは90パーセントが苦痛だって認めないことが真実だってことになるじゃない?そんなこと考えてたら生きられないっつーのがあるけど、でもそれを考えないってつまりは真実から目を背けてるってことだよね?


現実を直視するとキツいからいかに自分を誤摩化しながら生きていくか?というのが処世術になったりさ、サバイバル術になったりするわけだよね?だとしたら、フィールグットステイトみたいなさ、幻想なんだけど人々がある程度幸せを感じられる世の中を作るってある意味必然になるよね。人々が幻想でもいいから幸せを信じたいっつーか幸せを感じながら生きたいんだったら社会もどんどんそういう風な真実や現実とは遠ざかった夢の世界になっちゃうよね。夢の世界に乗れるやつはいいけど落ちた奴は死ぬしか無いみたいな社会ね。これとギメルのアルカディアってどういう差があるのかさっぱり分からないんだよね。結局みんなまぁ洞窟にいるわけじゃない?で、洞窟の中でもそれが理想郷だったらそれでいいじゃんっつーのがね、まぁギメル的な立場だけどさ、まぁ現実って洞窟の中の割に居心地があんま良く無いっつー最低の洞窟なんだけどさ、でもどの道、洞窟なんだったらそれが物質界だろうが想像界だろうがあんま変わらないじゃんって思っちゃうんだよねぇ。だってそもそも真実とかって見たらさ、実存主義的になっちゃうよね?


両親がファックしてたまたま受精に成功した所産が俺っていうさ、それ以下でもそれ以上でもないっつーさ、そんなやつが現実にのたうち回っているっていう話でしょ?でも大半の人はそれを認めたがらないよね。命の背後にある意味論というよりかは、命が先立っての意味論を求めるようになるじゃない?それがまぁ人生そのものになるわけだけど、生に意味があるっつーか人生に意味があるって考えながら生きるのってさ、その人の価値観だからいいんだけど、でもそれはもうすでにイデアに生きてるよねってことになるんだよね。実際はそうじゃないんだけど、でもその人の脳の中ではそうなっててさ、それを元に世界の知覚なりが行われているんだから、イデア的な概念を通した知覚ってことになるよね?入ってきた情報の反射というような脳科学的っつーか即物的な知覚ではなく、そこにアイデアっつーかさ概念が介在するわけだよね。で、人生は素晴らしいものだっつーかさ、人生には意味があるとかって思って生きるってことはすでに思っていることで事実っつーか真実とは関係ない話だからもうそれはイデアなんだよね。


だから結局、ギメルのアルカディアとどう差があるんだよ?って話になるんだよね。マザーコンピューターがてめーの頭ってだけで、基本的にポジティブな理想郷がそいつの頭の中で形成されているわけでさ、それがなけりゃー生きてけないっつーのはアメリカンドリームが無いと生きていけないアメリカ人とかさ、まぁ人間全般そうだよね。夢ってのを持たないと生きていけないみたいなね、まぁ無い人もいるだろうけど、それはもう心頭滅却のレベルだよね。絶望しすぎて我を捨てているという人も多いだろうね。日々の糧だけが得られればいい、だからこんなご時世に夢だのなんだのってぬかすやつがムカつくってそのロジックは理解できるんだよな。でもさ、逆を言えばイデアが無ければこの夢否定のニヒリストみたいな生き方しか出来なくなるんだよね。夢とかぬかしてるやつがウザいって言うような究極的なリアリストね。で、俺はこういうタイプのリアリストにはなりたくないって思うのね。あくまで俺はリアリストでアイデアリストだからさ、リアリストだけにはなりたくないんだよね。ここでなんつーか画像とギメルのセリフを挿入してみたりなんかして。


ギメル:見たね……見てしまったね ぼくの このエリアの真の姿を…………ごらんの通り ここは真の理想世界じゃない仮想現実という名のいつわりだよ。いつわりでも 人々が望む平和な世界を与えるのは いけない事かい?みんなが信じたい事、それが真実なんだ。暴いてはいけない真実を見てしまった君を 生かしておくわけにはいかないよ。


だからなんつーのかな?誰もギメルを責められないんだよね。アルカディア市民も責められない。ギメルは属性で言えばロウだよね。仮に現実がコンピューターに頭を繋いでいる人間だったとしてもさ、その人がその世界観の中で幸せならそれていいじゃんって話なのはさ、現実っつったって結局はさ、セックスの所産によってある自分っていうだけじゃない?まぁ流れる水の一人みたいなね、でもそれを認めたく無いっていう時点ですでにもうイデアだってのはさっき書いたけどさ、そう思ってる時点でもうさ、何かしらの外部装置に脳をコネクトしているんだよね。現実を認めちゃうとアルカディアの場合さ、イスに座っているコンピューターに脳を繋がれた人間でさ、現実の場合、さっき書いたような夢だのぬかすやつはウザイっていうようなリアリストだよね。両方悲しいよね。でもこれがまぁ現実だよね。偶然によって幸福になれる人もいれば、恵まれた家庭に生まれて何不自由無く育ってこれる人もいるわけでさ、まぁこの辺の不平等さに関しては昨日書いたと思うんだけど、偶然性を除いてしまえばさ、人間ってみんなイスに座ってコンピューターに脳を繋げているようなもんだよね。世界っていうのがあるように見えて実は我々のイデアの所産っていうのが現実だよね。


まぁ唯脳論みたいな話になるけど、だからさ、そもそもね、それが物質的であるのかイデア的であるのか?なんてことは重要じゃないんだよね。触れるからとかそこにあるからってことがリアルを規定するんじゃなくて、その人がリアルだと感じるものがリアルを規定するんであってさ、結局は個々の定義なんだよね。リアリティって。だから俺のリアルは萌えにあるっっつって二次元に生きているオタクもさ、まぁ彼らは究極的なイデアに住んでいる人間ってことになるし、まぁ秋葉ってそういう意味でアルカディアチックだよね。オタクのアルカディアっつーかさ、オタクのイデアが表出したのがあれだよね。元々無いものでも物質化させちゃえばそこにあるものになるんだもんね。フィギュアとかゲームとか本とかさ、そこでの現実と非現実を分けるものってフィクションかノンフィクションかぐらいの差なんであってさ、あとまぁNHKにようこそ!でネットゲームの話が出てきたけど、あれもまぁイデアの世界だよね。で、アジアだとイデアの世界に入りすぎて現実界のことを忘れちゃって死ぬとかさ、結局ああいうのも人間ってのが本来的にイデアに生きるものだからこそイデアに死ぬんだっつー良い例だよね。ああいうのはただネットゲームだったというだけで、我々にもああいう悲惨な死ってのはありえるんだよね。つまりはイデアの中で描かれた夢だのさ希望だのさ自己実現だのさ、そういうのに没頭して結局ダメで自殺しちゃうとかさ、過労死するとかさ、実際はそんなのありませんでしたーとかさ、これってまぁネットゲームに没頭して死ぬのとあんま変わらないよね。実体がないものを求め続けながら疲弊していくというプロセスは一緒だよね。


まぁ俺はもちろんイデアの実現を現実界で達成するということに価値観を置くアイデアリストだから現実世界を批判してイデアに逃げるつもりはないっつーか逆を言えば現実なきものってのが俺は大嫌いだから、まぁそういう意味で究極のリアリストなんだけどね、でもさ、装置としてのイデアっていつまでも必要だしみんな必要とするしそれは仏陀ですら解決できなかった問題なんだからね。仏陀はまぁ全ては幻想だって思っててそりゃー悟ってて良かったんだけど、全てが幻想だっつー事実に耐えられないっつー人々が多いっつーのをクリアできなかったんだけど、それをクリアするのがまぁアルカディアイデアマシーンだよね。そういうのに耐えられない人はイデアに行けばいいし逃げればいいわけ。自殺よりかは幾分マシなんだから。自殺を踏みとどまらせる方法としてはやっぱさ、生きてれば良い事もあるよっつーのを理念とかアイデアのレベルじゃなく現実のレベルとして提示できるということだよね。そういう意味で決心した人達にとって「命を大切に」みたいな看板を掲げたって意味ないんだよね。そんなの大噓なわけだしさ、大切なものを守るために辛過ぎる事が多いんだったら守る事を破棄する自由だって認められるべきじゃないか!っつー自殺者達の心の叫びに誰も答えられないんだよね。


それに答えるには現実の素晴らしさを説かなきゃいけないわけでさ、そんなものが苦痛に比べて小さいものである以上さ、残念ながらNHKにようこそ!みたいな自殺防止啓蒙キャンペーン的なものに関してもまぁ根っこからの自殺主義者にはワークしないんだよね。では自殺主義者にワークするものとは何か?っつーとまぁ現実には存在しないけど、まぁ昨日から俺が書いているギメルが作った幻想的理想郷アルカディアね。肉体を保ったまま苦労をせずに戦争も殺し合いも憎しみあいも無い世界に生きるっつーのはさ、もうイデアの世界しかありえないよね。ギメルを倒すってことはさ、ホスピスにいる人達を「どうせ死ぬ運命なんだ」ってみんな殺すようなもんなんだよね。なんとなくゲームをやっている感じはギョッ!としてしまって、「こんなの間違えてる!」っつってギメルを倒したい気分に駆られるわけだけど、んでもちょっと待てよ?ってなるんだよね。彼らの幸福を奪う権利をなぜ俺が持っているんだ?っていうね、俺は彼らの幸福を奪う権利があるのか?っていうね、それはさ、リアリストからの一方的な価値観の押しつけになっちゃうんだよね。まぁそこで新しい救世主の名前を入力するならいいんだけど、あそこでコンピューターを壊すってなるとさ、彼らのイデアの世界を一方的に間違ったものだと批判して壊すってことでさ、これってはっきりいって人権侵害だよね。オタク的パラダイムへの批判も同じね。所謂、オタク的なものをキモイっつって批判したりさ、「実際の恋愛をしなさい!」なんて言うやつらとかね、何も分かっちゃいないんだよ。まぁ俺は実存レベルでは全然普通の恋愛が好きな人だけどね、まぁ倒錯しているけど、この辺は全然まぁある意味で健全なんだけど、恋愛だってイデアの所産である以上、あり方なんて恋愛する主体に委ねられるわけで第三者が文句を言えることじゃないよね。


だから俺はオタク批判っつーのにマジで反対なのね。あれは価値観の否定だから本当にダメだと思う。こういうあり方だってあるのにそれをさ、特にイケメンとかさ、芸能人とか勝ち組みたいなのが諭すように負け組に言ったところでさ、それって全然説得力無いんだよね。説得力があるとすればさ、二次元オンリーのブサイク喪男みたいなのがさ、まぁ均等な女子と付き合って、んでリアルの恋愛の素晴らしさを知ってさ、んでセックスの素晴らしさとかも知って、んで知り合いの二次元オンリーのブサイク喪男達に「実際の恋愛も悪く無いよ」とかさ「セックスって素晴らしいものだよ」とかさ「ヌルヌルしてて気持ちよかった」とかさ、こういうのがまぁ現実なるものの最大の肯定だよねっつーかまぁ説得材料だよね。洞窟にいた元囚人が娑婆の空気の素晴らしさを囚人達に上手く語れるようにさ、やっぱ「元」じゃないといけないんだよね。最初っからモテまくりだったりさ、ふつーにやってきたようなやつがオタク批判ってそれはフィールドが違いすぎるんだよね。モテてるお前等に何が分かるんだ!ってことでしょ?思うに自殺願望者への説得っつーのもやっぱ一番効果的なのって元願望者の意見だと思うよね。なぜ自分が自殺を思いとどまったのか?とかさ、自殺を思いとどまったことで良かったと思えることとかさ、それってどんな自殺防止キャンペーンより効果があるよね。俺はまだプロセスの最中なんで完全に生を肯定は出来ないんだけど、まぁそんなことを言えるような日がくればいいなとは思うね。


俺みたいなのが生を肯定したときにはその生は幻想じゃなくてマジな生だろうね。自殺はダメ!みたいな一次元的なプロパガンダじゃなくて多元的な意見っつーかね、多元的な観点からの肯定っつーね、思うに生って何回かは否定が介在しないと完全なる肯定には至らないと思うんだよね。それはあたかもさ、欲望に身を任せた経験がある仏陀が一切の欲望を幻想であるって悟れたようにさ、生に関しても正反対の死というものとの関係が近ければ近いほど生の価値ってのが見えてきたりすると思うんだよね。つまりは肯定も否定もどちらかが元肯定派だったりさ、元否定派っつーのが逆に回ったときに真の価値が見いだされるっていうかね、一次元的ではない価値観というのが見いだされると思うんだよね。「命を大切に」みたいなスローガンはそういう意味で空虚だね。これ自体では何の意味も無い。だから説得力も何にも無い。なんで大事なのか?っつーのがさ、親からもらったものだからとか、そういうクリシェとかじゃないね、本当の命の価値っつーのをそこで表せないと何もかもが空虚なシニフィアンを化すよね。ただの防止キャンペーンの薄っぺらいスローガンになっちゃう。こういう部分でも哲学って果たせる役割って大きいと思うんだけどね。哲学が答えを見いだせるとかね、哲学に逃げれるとかっていうことじゃなくて、ようは知の総体としての哲学に触れたり巻き込まれたりコミットすることで見えてくる何かがあるってことなんだよね。それは哲学っつー書籍のジャンルみたいな概念ではなく、もっと広い人間の英知っつー概念で考えるんだよね。その概念のデータベースを注意深く参照したり研究することで見えてくるかもしれない自分なりの生の肯定とかさ、人生の意味とかね、だからまぁ考える事って重要なんだよね。別に哲学読まなくても哲学できるからみんな真実を怖がらずにやりゃーいいと思うんだけど。


信じたい事と真実は違うっつーのは俺がよく書いていることだけど、真実に人々は耐えられない。だから信じたいと思うものを真実だと思って生きるわけだけど、それだったらギメルの電脳世界と変わらないじゃないかっていう話なんだよね。世界が大体そうなんだから、だから誰もギメルを責めることは出来ないし、彼を悪人扱い出来ないんだよ。そういう意味で俺はまぁギメルを凄く評価するっていうと変だけど、それこそ中学ぐらいからずーっと引っかかっていたっつーかお気に入りの思考のパラダイムがギメルとアルカディアでさ、俺の中でこのモチーフってデカイんだよね。当時はマジで衝撃だったから。まぁ今ほどクリアには考えられなかったけどね。でもまぁ昨日、ふとしたことで思い出してんでまぁ色々と考える機会があったわけだけど、信じたい事を真実だと思って、んでみんなそれを心のどこかでフェイクかも?とかって思いつつも信じたフリをし合いながら生きていくっつーのがさ、まぁ社会ならね、だったらまぁギメル的な統治を徹底的にやったろぉーじゃねーか!って俺は思っちゃうよね。それが電脳であれ現実世界であれ人々が幸福だと思う事が最善のことならば、それを最高善として措定しつつ、真実など覆い隠して徹底的に幸福をバラまいてやろうじゃないか!って思うよね。まぁ俺が統治者ならって話ね。何しろもうこの最初の命題っつーのははね、真実に人々は耐えられないので、彼らが信じたいと思うものを真実だと思って生きるっつーね、これが覆されない限りギメルはいつでもどんな世の中にも潜在的に存在することになるんだよね。で、俺みたいな現実主義者がそれに則って徹底的にコントロールしようとするようになるよね。人々に真実を見据える力や強さが無いのなら、そこにあるのはもう偽りという名の社会しかないよね。偽りベースでしか社会が回らないなら偽りベースでアルカディア的な理想郷の設計をすればいいじゃないかって話になるね。それはユートピア理論とかではなく、ガバナンスの技術としての理想郷的パラダイムっつーね、それを体現したのがギメルだよねっていうね、アイロニーだけども、俺にはあれが凄く現実的なものとして見えるよね。



って信じられているうちはハッピーなわけよね。



ってーな感じで物語を失った人達はアンハッピーになるわけ。オバマに熱狂するアメリカ国民と救世主を求めるアルカディア市民との差は何?ってなかなか難しい問いだと思わない?人々にはやっぱり大きな物語と幻想が必要ってことなんだよ。それはカリスマティックな政治的人物からアメリカンドリームから理念から人生の意味論までさ、物語を失うと人々は生きていけないんだよね。