昨日の続きの続きの続き。

mimisemi2009-06-07

マッシュアップだけどね、リリースするやつが大体決まったんで、リリースしないやつはガンガンアップしていくね。で、今日のやつはデビルサマナーの天海のビジョンクエストとリアリティとCaspaのDubwarzのマッシュです。


http://mushroom.cage.to/mix/tenkaidub.mp3


はい。では昨日の続きね。


結局、教育だな。ポテンシャルがある人間に布置するリベラルエディケーションね。俺の近所ってほどでもないけどまぁそこそこ近いところに松下政経塾ってのがあるけど、ああいう場では何を教えてるのかな?ああいう場でステイツマンシップを叩き込んでさ、ステイツマンを政界に送り込むしかできないよね。俺はリアルポリティクスに関してはさっぱり分からないけどね、政府のシステムとかさっぱり分からないし興味も無いんだけどさ、でも政治のコアってやっぱステイツマンシップだと思うんだよね。政治家のあり方っつーの?それは学歴とかさ学力とか頭の良さとかより重要なもんだよね。ステイツマンシップを満たすようなポテンシャルが無いやつは政治家になっちゃいけないんだよ。そういう自浄のシステムを教育を通じて行っていくしかなさそうだな。


クソとか小便とかゲロとかの汚物まみれのタンクを綺麗な水を入れて純水化していくっていうね、ほとんど汚水よりかはちょっと汚い水のほうがマシじゃない?でもさ、政治とかで絶望的なのって投票とかに行ってもさ、投票しようって思う人がいないってことなんだよね。これがまた絶望を生むよね。もう無理じゃんっつーアパシーが生まれる。最初から興味が無いやつも考える余裕が無いヤツも真剣に投票に行ってるやつも色んな理由でポリティカルアパシーになっちゃうんだよね。で、バカが人気主義にダマされてバカみたいな政治家に投票しちゃって、んでまた政府が腐敗するっていうね、悪循環だよなー。ある意味でバランスがいいんだよね。悪循環っつーか民主主義を利用した悪政のシステムとしてはバッチリだよね。


恐らくシュトラウジアンっつーとあれだけどさ、まぁシュトラウジアンの定義にもよるけどね、まぁシュトラウス自信はマルクスみたいに自分はシュトラウジアンではないって言うと思うんだけど、まぁ呼び名はともかくとして、シュトラウス的な政治的なものの実行をどう実現していくか?って恐らくシュトラウス研究なりなんなりに携わっている人間の課題だよね。エリートっつって誰がエリートなの?っつーさ、ステイツマンっつってんじゃあステイツマンになりたいっつってどうなればいいの?とかさ、具体的な方法論の提示だよね。それがシュトラウス理論には足りないところだからね。まぁ簡単な話、政治家がシュトラウスを読んで理解すればいいだけのことなんだけど、まぁたぶん無理でしょ。読んだことで彼らが変わるとも思えないし。まぁいいや。これはちょっと話がでか過ぎるし、出来ればもっと先に解決したい話でございますな。ってことでまぁ今の俺としてはとりあえず研究を続けますよ。まぁ色々だけどね。シュトラウスだけじゃないから。


あとさ、アキナス読んでてさ、まぁアキナスについての本だけどね、全ての行動には政治的レゾナンスってのが存在してて、それが政治に影響するっていうさ、ジェネラル・ジャスティスってのが共通善にコントリビュートするっつーね、ようは個々の人間におけるヴァーチューの探求とかさ、人格の修養みたいなのが共通善にコントリビュートするっていうね、まぁ当たり前のことなんだけど、アキナスって本当にアリストテリアンなんだなって思ったね。いやさ、でもなんでね、例えば俺みたいな珍しぐらい清い心を持った人間が世の中で苦労するのか?ってさ、ダーティーなマインドを持った人間が多いからだよね。で、彼らの人格まで変えられないわけよ。もうああいうダメなやつらっていうのは世の中に存在しちゃってるからさ、こういうアキナスみたいな考えは村単位ぐらいでしかワークしないよね。コミューンぐらいの規模じゃないと実現は無理。社会にはクズがいっぱいいるからね。


だからこそさ、クズとかも含めた全ての人間をコントロールしてそいつらの意志とかに関わらず彼らが共通善にコントリビュートしてしまうようなダイナミズムをガバナンスによって達成しなきゃいけないんだよね。性善説に立ったりさ、人々が連帯できるとかっていう前提で始まっちゃうと結局、ネグリ・ハートのマルチチュードみたいな考え方になったり、コスモポリタニズムっつーかさ、そういうのになっちゃうんだよね。前提が間違ってると結局それってどんだけのページを費やそうが机上の空論じゃない?バカとかどうしようもない人間が大勢いるっつーなかでどうしていくか?っつーのをシリアスに考えなきゃいけないよね。政治的ですらないバカが大勢いるっつーこの世の中をネグリとかハートはどう考えてるんだろうね?非常に疑問だわ。あ、でもマルチチュードって本は面白いから読んだ方がいいよ。ネグリ・ハートの理論がダメだからといって彼らの著作がクソってわけではないからね。本当によく書かれているし意外と読んでて楽しいんだよ。


ところであれだ、机上の空論と言えばラクラウかな。ある意味でかなりオーセンティックな哲学に目覚めた俺にとって、こういう晦渋なポストモダン的な文章ってのを受け付けなくなってるっつーのはあるかな。理論が緻密なのは分かるけど「で?」っていう疑問があるよね。ムフは割とクリーンで優しいって簡単って意味じゃなくてソフトな文体なんだけど、ラクラウのは悪しきポストモダン的な書き方に汚染されてるっつーかさ、まぁダイレクトにそういう時代の人だからしょうがないんだけどね、無駄に晦渋な感じが凄く廣松渉に似てると思うんだよね。あと分かりづらいのを「分かりづらい」って言わないことに知的欺瞞を見いだすんだよね。俺は。


チョムスキーがさ、ネグリ・ハートの帝国を読んだ後に「分かりづらくて読みづらかった」みたいなことを言っていてさ、ようは納得しない?分かりづらい文章は分かりづらいんだよ。それを理解することが頭の良さを規定するんじゃないんだよね。それはパンピーよりかは明らかに頭が良いチョムスキーですら分かりづらいと言ってるようなものをパンピーがスラスラと読めるわけがない。分かりづらさと言えばスタヴラカキスのラカンと政治的なものだね。ラクラウとかの直結の弟子みたいなやつなんで分かりづらさまで似てるんだよね。ああいう文章を書く理由がよく分からん。ラカンの言葉遣いがレトリカルで分かりづらいからもっと標準的な言葉に直して政治との関係性なんかを書こうとかってなんで思わないんだろう?って激しく疑問だね。ラクラウもスタヴラカキスも俺は読んでるし未読のやつは読むけどね、でもなんか機会費用がもったいないっつー感じを受けるんだよね。時間をかけて眉をひそめながら読んでる割に頭に入ってこないっつーのかな?


で、それって言語とか独特の言い回しの問題でさ、理論が難しいとかっていうそういうレベルじゃないんだよね。だから「俺は馬鹿だ」って全然思わないのね。これは開き直りではないと思うんだよね。ハイデガーとかフッサールとかさ、ショーペンハウエルとかにしてもあのドイツ系の人達って言葉遣いが難しいじゃない?シュトラウ然りだけどね。でも読んでて楽しいっつーかさ、知的刺激を受けるんだよね。読んでて内容があるっつーのかな?そういう意味で廣松渉も一緒なんだよね。分かりづらい文章なんだけど得るものがあるんで苦労する価値があるっつーのかな?それに比べてラクラウとかクリッチリーとかスタヴラカキスとかランシエールみたいなさ、ポストモダンの残りかすみたいな人達の文章ってどうもそういう価値を見いだせないんだよね。言いたい事は分かるんだけどもうちょっと簡単な言い回しを使えばいいのになぁーってイライラするんだよね。押井守のオナニーを見させられてる感じっつーの?それはキミでやってくれればいいから出すときにはもっと分かりやすくしてくれって思っちゃうんだよね。


パブリケーションなりなんなりっていう媒体にするんだったらもっと分かりやすくしてほしいって思うね。恐らくポストモダン系の哲学が威力を失ったのってそのクローズネスにあると思うね。独特の言葉の言い回しとか書き方とか議論の進め方みたいなのが悪い感じでヘリテージされちゃっててさ、分かる人とか好きな人とかその界隈の人達にしか分からなくてさ、その哲学がオープンな割にオープンではないっていうレベルではなくて、単純に書き言葉とか言葉とかが分かりづらいとかさ、センテンスが長過ぎて戻らないと分からなくなるとかさ、そういう物理レベルでの分かりづらさっつーのでさ、支持されなくなったと思うんだよね。あれこそまさしくインテレクチャリズムっつーのかな?頭の良いソフィストの集団っていうイメージね。それがファッショナブルで人気があった時代もあるんだけど、今はイマイチっていうね。このコストパフォーマンスの悪さは考えものだよね。


彼らの議論とか理論がダメなんじゃなくてコストパフォーマンスが悪いからそれをなんとかしてほしいって思うんだよね。時間とか集中力って限られてるわけだからさ、無駄に時間を費やさなきゃいけないような文章を書いてほしくないんだよね。で、無駄に晦渋な割に得るものが少ないとなるとさ、そりゃー分かりやすくて得るものが多い方に人気っつーか注意が傾いちゃうよね。ポストモダン系の連中が過去の哲学者に勝てないのはそういう理由だね。彼らの小粒感とコストパフォーマンスの悪さは本当に酷いよね。そういう意味でさ、すんげー退屈なんだけど読んでりゃ分かるようなロールズとかさ、ドウォーキンとかマッケンタイアとかサンデルとかさ、アメリカの現代思想系って良いんだよね。アメリカらしくクリアに書きつつ抽象的な言い回しを極力避けるみたいなさ、俺が学校とかで散々注意されてるようなことだけど、そういうののお手本なんだよね。分かりやすさのお手本っつーか議論は高度で洗練されてるんだけど読めば猿でも理解出来るっつー書き方ね。やっぱ書き物ってこうあるべきだと思うんだよね。俺は。


ちなみにフーコー先生もポストモダン系は分かりづらいっつってたからね。この人はロシアの最高学府であるモスクワ大学で博士号を取ってて、んでそれがアメリカでワークしなかったっつーんでニュースクールでもう一個博士号を取ったぐらいの頭脳の持ち主だけど難しいっつってるんだからさ、その辺の若造がスラスラ読めるわけないんだよね。そんなやついたらなんかでデビューするべきだね。「猿でも分かるポストモダン」みたいな本を書いて出版するべきだね。どうもさ、「あれぐらいなら読めるよ」っていうやつの気が知れないんだよね。だったらブログかなんかで分かりやすい解説とか書けばいいのにって思っちゃう。ポストモダン系をスラスラと読むっつーのが知的ステータスみたいになってる風潮が許せないんだよね。まさしく知的スノビズムだけどこれってアメリカでも全然あるんだよね。


日本みたいな嫌みなポストモダンファンってアメリカにもいるんだよね。困ったもんだ。みんなプラトンとかなんで読まないんだろうな。あとニーチェとかね。まぁ読んでるのかもしれないけど、仮に読んでたらポストモダンとかに現ぬかすことが出来なくなると思うんだけどなぁー・・・。どうなんでしょう?まぁ別に個々が勝手にやりゃーいいことだから口出しする必要は無いんだけど、ジャズDJとかがさ、人気DJのプレイリストとかミックステープとかを参考にさ、ユーロジャズっつーかレアなジャズに大枚叩いてるのと変わらないと思うんだよね。ジャズで言えばプラトンはマイルスだよ。ジャズはマイルスのKind of Blueとかで入って、Bitches of Blewで終わるみたいなさ、ようはブルーで入って、んで他のを色々聞いた後に最終的にビッチェズがジャズの最高峰だ!みたいに思えてくる感じってのがプラトンなんだよね。恐らく。まぁ俺はマイルスにそこまでの思い入れは無いけど、でもユーロジャズなんかに高い金出さなくても、その辺で手に入るジャズで良いやつなんていっぱいあるんだよね。


でも若いやつはレア度とかさ、オルガンバーがどうのっつーんでそういうのを追いかけるじゃない?それって一昔の浅田彰がどうのでドゥルーズとか頑張って読んでた青年とかとあんま変わらないんだよね。基本的なの読んでないくせに、そしてアンシエントとモダンも知らずに一気にポストモダンっつーね、まぁ勝手にやればいいと思うけど、そういう連中が歳をとって言うことはさ「うーん、若いときは俺もそういうのいっぱい読んだよー」っつー表面的にスタイリッシュな哲学をかじってた若き日を回想するただのおっさんになるんだよね。ポストモダン哲学とか読みあさって、んでんじゃあ今何してるの?っていうさ、何を得たの?っつーさ、「若いときは俺もいっぱい本を読んだよー」とかってポストモダンに限らず、こういうことを言うおっさんとかって本当に信用できないね。絶対なにも理解してなかったんだろうなって思うんだよね。あとはまぁステータスっつーかポーズで読んでたみたいなね。バカバカしい。ホントに。だから特にポストモダン哲学みたいなのってアクセサリー的に消費されるんだよね。


で、話が一気に変わるんだけどさ、休みが始まってからの喪失感ってのが凄いんだよねっつーのは例の女の子達ね。どうせ付き合うなんて無理だろっつーのは自明でもいなくなるっつーか会えなくなると寂しいもんだね。これってさ、ラカン的なね、象徴的なものの欠如は妄想という形を取った想像的な構築物によって補填されるみたいなさ、まぁこの象徴的なものの定義にもよるんだけどさ、自分自身が考える自分の像ってのは他我なんだよね。


で、俺が失った女の子達という他者が俺の統一性を担っていたのにも関わらず、俺はそれらを失ってしまって、んで今は自分自身が認識する自我像という他我しか存在してないんだよね。恋愛というタームにおいての他者を失った俺の統一性たるや悲惨なわけだ。それは彼女達と実際付き合うということから生まれる統一性ではなくて、彼女達が俺の生活圏の中に存在するということで俺は統一性を保てていたみたいなことでさ、かっこいい自分とかモテている自分という自分自身が認識する自我像ってのがさ、女の子達によって担われていたわけでさ、それを失った俺ってもうモテ男じゃなくなったんだよね。モテ男だったのが嬉しかったというよりかは、やっぱり彼女達が生活圏の中にいたっていうのが俺にとって重要なことだったんだなって失った後に気がつくよね。で、頭を駆け巡るのは「あーやっぱ付き合っておけばよかったのかなー」っつー女々しい後悔ね。で、今の俺にあるのは彼女達とハッピーな感じになっているという寂しい妄想ね。これがまぁ想像的な構築物による補填なのね。恋愛という現象を担ってくれていた彼女達がいなくなったことで、俺はその欠如を想像的な構築物で補填するしかなくなるっつー悲しいことになってるわけね。


で、あと恋愛繋がりでさ、最近、ジョンナッシュを読んでるんだけどナッシュ均衡ってあるじゃない?全ての限りあるゲームには均衡点が存在するっつーあれ。数学音痴な俺としては数式を見てもさっぱりだったけど、でも概念は分かるよねっつーかナッシュとかのってさ、数式云々ってよりかは概念を数式で表してるって感じだよね。だから数っていうよりかは物事を数式で表すみたいなことなんだけどさ、これは俺が勝手に思ったことだけど全ての恋愛にも均衡点って存在すると思うんだよね。お互い求めるものとかさ、価値観とかは違うんだけど、でもお互いがこの均衡点ということに関して自明的だったらさ、むしろ恋愛とかの成功ってこの均衡点発見とそれの維持に尽きるよね。俺はセックス出来ないけど映画とか音楽とか哲学とかまぁー結局色んなことに詳しいよーみたいなさ、それでも良かったらどうぞってのがまぁ俺のやり方だったわけだけど、キャリアウーマンの人にこのことを話したら例えばAセクシャルの話なんかしたらね、女の子はそれを口実に断られてるとかって思っちゃう可能性があるってことでさ、まぁ作戦は大失敗だった可能性もあるわけだねっつーかまずは別に友達からでもいいじゃんってキャリアウーマンの人から言われたんだけど、やっぱ俺ってなんかあれなんだよね、まぁえらそうだけどさ、俺がAセクシャルですとかさ、精神疾患がありますとかさ、そういうのをいきなりさらけ出しても引かないで興味を持ち続けてくれる子っつーのかな?そういう子じゃないとやっていけないと思うんだよね。


こういうもののアクセプトが恋愛ゲーム理論を成立させるための重要なきっかけなわけ。ようは恋愛における均衡点を発見出来そうな子じゃないと恋愛は成立しないから、無理な子と付き合ってもダメでしょっつーのが俺の想定なんだけどね。恋愛というゲームを始められる条件を持った子じゃないとゲームは始められないって話ね。いや、もっとも恋愛ってのはゲームではなくて、そういった概念を超越したパッションなんだ!みたいな言い方が出来なくもなさそうだけど、まぁ俺はそういうのパスね。ある意味でちょー打算的なところがあるし、ゼロサムにならないゲームはやりたくないのね。みんなこういうので失敗してると思うんだよね。つまりは均衡点を見つけることが出来ずに、特に男だけ結果的にお金とか時間とか労力っつー支出だけが残っちゃってさ、後は何も残らないっつーか失恋だの別れるだのっつーさ、嫌な感じだけが残るっつーの?それってすんげー損だよね。俺はそういう無駄なことがしたくないから仮に可愛い子でも均衡点が見つけられそうな子じゃないと嫌なのね。


まぁこれはずいぶんとドライな概念だけどつまりはさ、仮に俺のことを好きだって言ってくれている子がいてさ、んでゲームを始められる条件を持った子だったら完璧!ってことなんだよね。ようはそれは俺が期待したいところなんだよね。大半は無理だけど。それが無理だったら無理なのは目に見えてるから始めたくないのね。まずは友達からっつって色々探るっつってもさ、そんなの最初から分かるじゃない?ゲームを始められそうな子かどうかっつーのはすぐ分かるよね。だから友達からっつーのもなかなか無い話だよね。恋愛を前提にしているなら、その友達付き合いすらも無駄だと思うわけ。メールを書いたりさ、メールをチェックしたり会ったり喋ったりっつーことが全部無駄っつーかさ、時間の無駄じゃない?で、色々なことに一喜一憂したりさ、その支出だよね。色々考えてみるとさ、俺が人付き合いとかに時間とか労力を割きたくないのってここにあるよね。価値のある人だったらいくらでも付き合いたいって思うけど、そこまでじゃないやつだとさ、やっぱ嫌だよね。これはマジで本音ね。面倒だって本質的に感じちゃうってことはさ、俺がその人に価値を見いだしてないってことだよね。逆に価値を見いだしている人ならそんな風には感じないはずだからね。


ところでさ、ラカン云々はまぁおいておいてもさ、喪失感は確かに凄いんだよね。なんだかんだで文句を言いながらも学校楽しかったんじゃんっていうね、でさ、面白いレイヤーがあるんだよね。まずはさ、例の大事件で結構後悔したりするのがまぁお転婆娘じゃない?で、学校が終わってからはさ、落ち着いてくると邪念が浮かぶっつーかさ、「やっぱ付き合っておけばよかったなー」とかって思う自分がいてさ、んでそれがクリティカルの子だったりするのね。そういうのが続いた後にセメスターが終わって2週間ぐらい経った今だとさ、「付き合っておけばよかったなぁー」って思うのが栗子だったりするんだよね。これはもう内面だよね。完全に。


前者の二人は可愛いけどアメリカンなのに対して栗子の控えめな感じっつーの?あの真面目そうな感じとかさ、穢れてない感じっつーのが凄く良いんだよね。顔は微妙なんだけど前にも書いたように徳井が言ってたようなまぐろのなかおちなんだよね。微妙な女性の良さってのがあるじゃない?ズリネタにするにもグラビアアイドルとかよりもさ、身近で微妙な美人っつーのかな?ちょっとブサイクぐらいが一番興奮するっていうね、変な男の科学ってのがあるじゃない?フォーミュラというかなんというか。それを栗子は体現していたなと思ってさ、結構後悔している自分がいるよね。もう3レイヤー目だけどね。顔はアンジェリーナ・ジョリーに似てるかな?微妙でしょ?すんげー可愛い感じじゃないのよ。でも妙な魅力があるっつー感じ?俺は別にジョリーは好きじゃないけど栗子は好きなのね。


で、一番好きだったのは栗子だったんだなって今更気がついたっつーか今更気がついてもおせーよって感じね。あと政治学のクラスでのさ、さっぱりノーチェックだった人ね。この人も別にすんげー可愛いわけじゃないんだけどなんつーのかな?ある程度歳を取った男子ってさ、あれじゃない?趣味が変わるじゃない?若い時に好きだった感じってののさ、この好きな感じってのが変わってくるんだよね。年相応になるっつーのかな?だから割と年上もいけるようになるっつーかさ、逆に10代の子とかになると子供にしか見えなくなるってさ、ようは成熟ってことなのかな?だから40代とかになったら40代ぐらいの女性が好みになるのかな?まぁでも恐らくまぁ20代後半か30代中盤ぐらいが限界だと思うけどね。いくら歳をとってもこの射程範囲は恐らく変わらないだろう。分からないけど。


なんつーのかな?栗子だけどさ、あのプレゼンで頑張ってる感じとかさ、あのめちゃくちゃ用意してくれる真面目な感じっつーのかな?ああいうのが可愛いんだよね。アメリカンガールとかだったら「知らねぇー」とかいってやらなそうなのを律儀にやる感じっつーの?結局俺って日本人なんだなってことだよね。こういう奥ゆかしさとかさ、清楚な感じが結局好きなんじゃんみたいなね、アメリカンって見た目は好きだけど中身はダメなのが多いね。とても付き合えそうじゃ無い子が多い。で、栗子さ、たまに学校ですれ違ったりするとさ、いつも深刻そうな顔をしながらロシア人の女友達の話を聞いてるんだよね。悩み相談とかしてるのかな?っつーさ、なんかあのシリアスな感じっつーのが良いね。能天気でバカじゃないところが凄く良かったなとっつーかアメリカ人が能天気過ぎるんだよね。完全にカルチャーの問題だと思うけど。いや、かといって別にお転婆娘とかクリティカルの子がダメってわけじゃないんだけどね。ただやっぱ内面って重要なんだなって今更思ったよね。見た目だと恐らくクリティカルの子とかお転婆娘がベストなんだけど、内面だと栗子がベストなのね。意外と俺ってやっぱ悩んでるんだよね。


前にADDの本を読んで号泣したって書いたけどさ、ああいう苦しみっつーのがいつもあるよね。で、苦しみしかないから自己肯定していくしかないっつーサバイバルとしての認識みたいなのがあってさ、そこからまぁ自分を半端じゃなく肯定するようになるんだけど脆いんだよね。恋愛に関しても同じ。これが俺なんだからさ、釣り合う子じゃないとダメでしょみたいなさ、選別してるようなえらそうな態度があるっつーか無いけどまぁ結局選んでるんじゃんみたいな贅沢なところがあってもさ、実際はもう誘いがあったらそのまんま突入できるような本能っつーかさ、ある意味で健全な男子のあり方っつーのかな?そういうのに憧れているところが無くもないっつーか憧れてはいないんだけど、求められることで見えてくる不在ってあるじゃない?出かけているときは家を不在にしているっていう概念は無いけど、不在通知みたいなのがさ、郵便局とか宅急便から届いてると不在感ってのを凄く感じるじゃない?不在だった自分というありもしない家での不在というさ、存在がそこには存在していなかったっつー不在感が存在するっつーか概念が介在することになるよね?この感じを恋愛に例えるとさ、いつもの俺は求めてないんだけど、機会があったりするとさ、一気に行けるような自分の男としての本能っつーかあり方の不在を感じるんだよね。普通の男だったらこうするみたいなのが全然無いのに絶望することがあったりするわけ。それは相手から恐らく普通の男子であることを求められたりしていることから発生するさっき書いたような不在の感覚だと思うんだよね。普段はそんなことを意識しないんだけど求められるとそれが無いことに気がつくっつーようなパラドックスね。


ジジェクが言うようなさ、欲望するってことは教わる事なのかさ、微妙だよね。だとしたら俺は教わっていなくてなおかつ本能的なものも無いっていうようなことなのかもしれないよね。いや、概念のレベルでは普通の男子だと思うんだけどね。かなり健全だと思うんだよね。普通に恋してるみたいな感じでしょ?でも表出の段階でミステイクがあるとすればさ、それは俺がただの腰抜けなのかさ、俺の本能に問題があるのか?だよね。前にも書いたように頭の良い人のバージン率が高いっつーのがあるけどさ、そういうのもあるかもしれないけどでもやっぱAセクシャル感が凄く強いよね。とてもじゃないけど押し倒せる感じがしないっつーのかな?押し倒すのって勇気がいることなのかね?キスとかにしてもどういうつもりでやるのかさっぱり分からん。概念のレベルではロマンチックなキスとかセックスがあるわけだけど、ピアノティーチャーを出すまでも無くさ、それはファンタジーのレベルなんだよね。まぁSMとかって意味じゃなくてあるわけがない幻想ね。こないだもまたピアノティーチャー見ちゃったけど、やっぱあのシンパシーは凄いね。あ、俺のピアノティーチャーに対するシンパシーね。あそこまで酷い事をしたりとかさ、人格が崩壊している感じはないんだけど、でも幻想が具現しない感じとかさ、あの場合、幻想の実現が悪夢だったっていう話だけどさ、あの相違がある感じっつーの?普通の恋愛感覚じゃない感じっつーのかな?


なんかさ、このダメな感じっつーか不器用な感じって自分でも凄いって思うよね。本から学べるようなことは色々と知っていたり学んでいたりするんだけど、実践的なことはさっぱりダメってさ、下手すると致命傷になりかねないよね。ある意味での危機を感じたよね。今回は特に。それこそ学者バカみたいになったら最悪だなっつーかさ、学者バカでも学者っぷりが半端じゃなかったらいいっつーかさ、その凄さで他が贖罪されるって感じだけどそうじゃない場合ただのバカだよね。これもバカの一種っつーかなんつーか。まぁ俺はそういう感じのバカさ加減ではないと思うんだけど、ただやっぱキューを見抜けない感じっつーのはやっぱダメだなって思うね。あれはやっぱサインなのか?っつーのをちゃんと受け止めるっつーか定義する必要があるっつーのかな?ピアノティーチャーで言うとあそこまでジュテームって言われまくってるのに断る必要ないじゃん!っつー感じ?そこまでしてSMっつーか幻想にこだわらなくてもいいじゃん!っつー感じだよね。あるがままの感じがあればそれはそれでいいじゃんっつーその自然さっつーのかな?


俺はある意味でその自然さを抑止しているようなところはあるかもしれないんだよね。でもかといってさ、あの大事件のときのあの嫌悪感は凄かったんだよね。トラウマがよみがえってたっつーのはあったかもしれないけど、そこまでお転婆娘の事が嫌だったとも思えないしさ、仮にあれが栗子とかクリティカルの子になってたら話は違ってたのか?とかさ、あの嫌悪感の原因が知りたいんだよね。で、結局まぁAセクシャルなんじゃんやっぱって気がするんだけどね。嫌いどころか割と気に入っている子とそういうことをしたくないっつーのはちょっとやっぱおかしいよね。エイズが怖いとかさ、そんなことは一切無いんだよね。やるのが単純に嫌なのね。でもここでさ、例えばね、ムラムラくるブロンドが俺を誘ってたら分からないんだよね。ムラムラするブロンドに欲情をしていてなおかつマジでやりたいって思ってたら俺はAセクシャルなんじゃなくて、ただのブロンド好きってことになるよね。この辺はまだ分からん。ムラムラくるブロンドに誘われてみないとなんとも言えないよね。


ってことで一旦終わります。まだあるけど続きではないのでとりあえずこれはこれで終わりね。

グラムシ思想の探究 --ヘゲモニー・陣地戦・サバルタン (21世紀叢書)

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