意識の連続性。

mimisemi2009-07-27

なんでこんなに集中できるんだろう?っつーかまぁあれだ、健全とは言い難いな。時差により早朝に起きようがさ、部屋は真っ暗でさ、あえて電気を付けずにペンライトっつーかライトスティックみたいなのをベッドの枕元につけてさ、んで耳栓して寝ながら読書ね。一日中真っ暗。外が晴れてようが雨だろうが部屋は真っ暗なんだけど、前にも書いたように洞窟を出て自分の洞窟で生きてる感じね。浮世離れしてるとはまさしくこのことだろうけど、読書とか思想みたいなのをやるのはこういう環境が一番なんだろうなって思うよね。実家じゃ絶対無理な雰囲気っつーか聖域って感じがするよね。俺の部屋。妙に静かでさ、んで妙に涼しいのね。地下の饐えたような匂いあとは本の匂いが最高なのね。


これっていいのかな?洞窟にずーっと隠れてるツァラツゥストラ気取りってわけじゃないんだけどね、でもやっぱこれが一番心地いいんだな。変な話、家族といるよりも心地が良い。空の概念そのものだよね。これ。俺がアメリカの地下で読書に耽っていると言えば耽っているんだが、俺がそうしなければそこには何も無いし、存在もくそったれも無いっつーさ、俺の実存に特出した必然性とかが無い感じね。洞窟の中に誰かがいようがいまいがあんま関係ないっつー話ね。俺がいれば俺の空間とか本を読んでる俺がいるんだけど、いなければさ、もしくは意識されなかったりね、物理的に金がかかってないとかさ、親の負担が無いとかだったらさ、まさしく空だよね。


なんつーのかな?地下にいる俺は他との関わりが一切無いっつーかまぁ関係性はあるんだけどね、維持されたままで完全に孤立するということは今のところないけど、日々の生活で言えば少なくともこっちにくるとそういうのが無くなるんだよね。で、そこにあるのは読書とか思索をする意識だけであってさ、まぁあとはオナニーとかもするけどね、でもそれは身体的なもんじゃない?排出とかね、食料を摂るのも然りね。ただあるのは意識だけっつーのを無駄の無い今みたいな環境だと凄く感じるし、意識や感覚や思考が冴えわたっているという感覚を凄く感じるよね。


そんな中で今日思ったのはね、例えばこうやって何か書くってことはさ、書くってこと自体が表すものっつーか日記的なものが表すのってその時点での意識だよね。意識のあり方っつーかな?それが記録されてるんだけど、その記録が持っている意志っつーのがさ、ようは書かれることで表れた意識っつーのは次の日の俺については知らないよね?ようは次の日の俺が感じるなり経験して得た何かみたいなのを昨日の意識は知らないわけだ。で、次の日の俺がまたその時点の意識を記録する。でさ、仮に各記録された意志がさ、独立した意志を持っていて、んで別々の意志とね、ようは昨日の俺の意志と一昨日の俺の意志と対話とかって出来たら面白いよねって思ったんだけど、恐らくその意志の連続性とかさ、時間軸に存在していた様々な断片的な意志同士の意思疎通がつまりは現在の俺の意識を規定しているんじゃないかな?って思ったのね。


まぁ意志ってのは存在しないっつーかさ、まぁ所謂、意識ってのはさ、実存するものとは違うじゃない?思考とかと同じようなもんだよね。ハイデガーが言う定義出来ないものとしての哲学の状態と似ているわけ。ようはそこにあることでしか存在することが出来ないという非存在的な存在ね。論理的におかしい気がするけど、でもそうなのよ。別にトートロジーでも無いのね。仮にさ、時間軸をスライス出来てね、個々を抽出出来たらさ、一秒前の意志と今の俺の意志との差って何があるのかな?仮にそこで意志同士でやり取りがあったときに何が起こるんだろうね?で、俺は言いたかったのはつまりはさ、現在の俺の意識っつーか意識がつまりはそういったね、時間軸をスライスした時に見えてくるゼロコンマ数秒単位で膨大に存在するその時々の意志っつーか意識ね、その意志っつーか意識同士のやり取りが今の俺の意識を規定してるんだよね。だから過去の意志とか意識は在ったものであるんだけど、それと同時に現在のものでもあってさ、で、それは非存在的なのね。何しろそれは意識なんだから。もちろんそれは前の意識のことを覚えているということで成り立つ意識同士のやり取りなんだけどね、何かの本に書いてあったけど、寝て起きたらさ、それってもう違う意識じゃん?でも昨日の事とかさ、自分っつー連続性のある存在を意識することで、そのときの意識が前の意識との連関というのを意識出来てさ、んで相互的なやり取りが生まれてまた現在の意志が規定されるんだよね。だから寝ぼけてると分けが分からなくなるのね。酔っぱらったりしてもそう。何しろそれは意志の連続性みたいなのが断絶するからね。


俺の勝手な解釈っつーか思った事だけど、恐らくね、awarenessっつーかさ、ソクラテス的な魂への配慮ってこの意識への配慮っつーのもあると思ったのね。ようは意識の連続性という存在性のあり方に意識的であるということね。無知の知もさ、無知を知る事で永遠の知への冒険としての愛知的な態度を発生させることが出来るっつーさ、ようは一種の心理モデルみたいなもんだよね。まぁモデルってほどドライなもんではないんだけどね、それと同じでさ、知とか無知の吟味っつーのもね、かなり意識とか思考とか意志の連続性への吟味と似てると思うんだよね。つまりは刹那的に意識が流動的に時間とか物理的空間によって流されていくという感じではなく、そういった外的要素とは独立したところに自分の意志なり意識というのがあって、その連続性というものは外部的なものには干渉されていないし、本質的に干渉は出来ないということに自覚的であるという態度が意志の連続性への配慮と吟味を持っていると言えるんだよね。


この意志のあり方はすんげー強いよ。マジで。強過ぎる。俺は分かったけどね、いつも持ち続けようと思うけど、まぁなかなか大変だよね。そういった意識のあり方を邪魔する外的要因っていっぱいあるじゃない?だからやっぱそういったものから身を守るってことは凄く重要だよね。魂の高潔さというと大げさだけど、まぁ清潔さってのはつまりはこういうことだと思うよね。それは魂への配慮と意識の連続性への配慮ね。それを吟味しながら現在の意識を規定していくというやり方が理想的な意志のあり方だねって思ったんで書かせてもらったんだけど、まぁ今日はこれ以上書く事は無いからこれでやめるね。

語られざる哲学 (講談社学術文庫)

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