ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

構造化されないということ。

mimisemi2009-07-28

覚え書きっつーか外に出る気がしねぇ。暗闇の中で読書のみっつーのが心地いいって前に書いたけど肉体いるのかね?俺。学校が始まるまでに一ヶ月あるんでやりたい放題だけどさ、その間にもちょっとやらなきゃいけないことが無くもないんだよねっつってもやれば数日ぐらいで終わることだけども。あーもうね、ここまで安静だとさ、実家のことっつーか親父のことばっか気になるね。不安ってのは色々なレイヤーがあってさ、それはマズロー欲求段階だかに似てるんだけど、あれをそのままとは言わなくても脱構築というか、フレームワークを不安にずらすとさ、大雑把に書くとやっぱ一番近いレベルの不安って身体とかさ、自分の周りにある不安なんだよね。


それは衣食住とかね、「明日のパン代は?」ぐらいのレベルだとその生存に結びついていることに関する不安が心を覆い尽くすのね。で、今の俺みたいにある程度の衣食住とかさ、あとは浮世離れモードで生活しててオッケーみたいな安静安住があるとさ、他者との付き合いの不安とかさ、バカに出くわす不安とかさ、視線恐怖とか無いじゃん?面倒な宿題があるとかさ、面倒なエッセイとかプレゼンがあるとかさ、そういうのも無い。ってことで不安の段階が上がってね、つまりはある程度まぁ実生活に根ざした不安に比べれば相対的に抽象度が高いと言える家族への不安になるのね。つまりは「親父大丈夫かなぁー?」って不安ね。


仮に親父が大丈夫ならもっと抽象度の高いさ、それこそ不安になってもしょうがないようなさ、「俺の将来どうなるのかなぁー?」とかね、別にやるべきことをやってればいいのに無駄なことに思考が働くようになるのね。まぁある意味で余裕のある不安だと言えるね。生存のレベルでの不安に常に苛まれてるなんてさ、それこそ生き地獄じゃん?それに比べたら抽象度の高い不安に苛まされている人達はまだマシと言えるかもしれないけど、意外とそうでもないのはさ、俺みたいなスキゾなレベルね。何もかもがうまくいってても言いようの無い鬱の要素とか不安の要素があるのね。そういう意味で芥川龍之介とかは極めて抽象度の高い不安に悩まされていたと言えるね。


あ、んでこれはあとに追加して書いているところだけどもね、政治的なものに対する配慮とか不安とかもある意味で抽象度が高いかもね。本質的にはそれは身体の一部と同等ぐらいのものであるんだけど、やはり現実的な衣食住とかへの不安で心が覆い尽くされていると、awarenessみたいなのがそっちに向かわないってのはあるね。だからもしかしたら成熟した市民社会ではこの抽象度の高いawaenessという意味で政治的なものへの配慮が生み出されるのかもしれないし、逆を言えば発展途上というとアレだけど、抽象度の低いレベルではオマンマのことしか考えられなくて抽象度も思考のレベルの低くなるのかもしれない。政府が煽る「不安のポリティクス」はこのマズロー的な構造で今俺が説明している不安の構造で言うところのレベルの低い生存への不安というのを駆り立てて本来の政治的なものへの配慮を生ませないようにしているという可能性もあるっつーかまぁ色々なところで言われてそうだけど、まぁ不安って支配するのには好都合な材料だよね。それは外的なものであれ内的なものであれ不安は強い拘束を生み出すよね。企業で言えば「クビにするぞ」って言うことで法に対するawarenessとか正当性への判断を鈍らせるっつーね、低いレベルでの不安、ようは生存への不安を駆り立てることで本質的なものへの配慮を鈍らせたりやらせないようにするっていうね、「イスラム過激派が襲ってくる」って不安を煽ることで政党とか政治そのものへの正当性やあり方への配慮を鈍らせるわけね。抽象度の低い不安で人々の不安を惹起すれば人間が生得的に持っている生存への不安によって色々な他の判断力が鈍るってことね。だから不景気とかはある意味で企業が労働力を乱用してぼろ儲け出来るチャンスであるし、経済的な不安とか外交的な不安とかっていう意味での政治のレベルでもそれらを利用して政府とかがやりたい放題できるってことだね。だから独裁者がまかり通り時代はいつでも不安の時代だったわけだ。みんな不安だからみんなカリスマを求めるしね。


あ、それはともかくだ、俺が今日書きたかったのはいつも書いてるような知的ヘゲモニーの話ね。まぁもう説明出来てるんだけど、今回っつーかあれだ、ブルデューの概念で説明すると分かりやすいんで説明しようっつーか覚え書き程度に書こうと思ったわけっつーのはね、ブルデューによればさ、生活のスタイルとか美的な好みとかすらもさ、ようは階級構造のあらわれだって言ってるじゃない?つまりはブルデューが言う文化資本なんだけど、これは個人的傾向とかに内在されているのではなく、もっと外在的というか、システム的な構造に組み込まれている要素の一つだと言うわけね。個人的な好みだとかセンスだとかはさ、個体差っつーか個性のあらわれだと思うじゃん?でもそういうのも文化資本という名のね、ハビトゥスみたいな感じで階級構造に組み込まれていると。


ようはさ、プロレタリア育ちならプロレタリアな生活習慣っつーかさ、それは言葉とかね、関西のドヤ街育ちの芸人とかがいくら儲けても人間的な品格が一切無いし身に付かないのはまぁこのハビトゥスそのものだと言えるけどさ、もちろんね、何が好ましいか?なんていう客観的基準は無いのね。強いて言えばドミナントイデオロギーとしてのね、「こうあるべき」みたいなさ、一般的にお上品だと言われるものがお上品なものだと定義して、んでみんなその上品さに向かうみたいなね、まぁマルクーゼが言う一元的社会みたいなもんで、まぁ言い換えれば一元的感覚というか一元的価値観だよね。そこには「上品さ」における多様性は存在しないわけ。スナッフビデオの再現ビデオを見た後、ラフマニノフを聞きながら寝ててもさ、それって上品さと倒錯っつーか趣味の悪さの混在でさ、キモくなるよね。


一概に猟奇趣味だとも上品だとも言い切れないさ、アイコンとしての上品さと倒錯が混ざり合っているのって定義不可能な複合体としての趣味というかハビトゥスになるじゃない?でもその人にとってはそれは趣味の良いことかもしれないよね。俺みたいにさ、August Underground's Mordumをさ、シミュラクラムとしての芸術だ!みたいに賞賛する人だっているじゃない?これを芸術だ!って言う人もいるわけ。でも一般的なアイコンとしての象徴化された価値観によればこれは猟奇趣味になるよね。でもアートとしてこれを楽しむというのはさ、趣としては上品というか知的だと思うんだよね。まぁ少なくとも俺はね。まぁ知的だろーって見せびらかすつもりはないんだけど、俗悪なハリウッド映画を哲学的な分析をして楽しむみたいなさ、ジジェクみたいな映画の見方ってあるじゃん?まぁジジェクは洗練されててさ、俺が言いたいのはまぁ哲学っつーか柳下みたいな人ね。


話が逸れたけどさ、学歴を取るってことは言わずもがなさ、まぁブルデューで言う学歴資本だけどさ、ホント、いつも書いてるようにチケットじゃん?それが知識とかね、その人の内面を表すものではないのにも関わらずさ、一種の免許みたいな感じでさ、通用するじゃん?っつーかまぁ車の免許みたいなもんだね。車の免許があるからっつって別に良い運転手だとは限らないよね。ボケ老人は高速道路を逆走したりするし、人を轢いたりもするよね。まぁボケ老人の差別をするつもりはないけど、判断力が鈍っているような人間に車を運転させちゃダメだよね。


まぁそれはともかくさ、ボケ老人みたいなのが学会で幅を利かせてたりするわけじゃん?内田裕也みたいに実力も無いくせに雰囲気だけでやってきたみたいな人ね。「ロッカー」って称号があってもさ、別に良いロッカーだとは限らないよね。学歴然り。博士だからといって凄いとは限らない。少なくとも俺はこっちでバカ博士を数人見たからね、全然学歴かんけぇねぇーって思ったよね。つまりはさ、まぁザックリ言うとね、経済的階級構造が規定するようなね、元々資本を持った階級の人達がその階級にいることを保つか、もしくは上に行くために受験やら学費にお金を湯水のように使ったりするわけだよね。文化的階級構造と経済的階級構造が重なり合うっつーのはそういうことだよね。これが相互に再生産を繰り返して階級を固定化するっつーのはプルデューの議論だけどさ、俺が言う知的ヘゲモニーってのは違ってここからの外部なのね。ようはシステムの外部に独自の文化的階級を作ってしまおうではないかという話なのね。既存の文化的階級構造へのコミットは経済的階級構造に属してお金を得るためにやるわけじゃん?だからさ、見た目の良い論文とかね、ボスに好かれそうな振る舞いをしたりさ、まぁその迎合のやり方と力学はまぁ悲しきプロレタリアのリーマンでも一緒じゃない?


でもさ、そこでさ、経済的階級構造へのコミットというのを除外するとさ、独自の知的文化って築けると思わない?ようはさ、世の中が何を言おうがさ、勝手な独自の知的活動をするみたいなさ、それは芸術においてもそうだけどね、金にならなそうな誰も読まなさそうな評論を書いたりさ、誰も評価しなさそうな音楽とか絵を描いたりさ、でもそれがカッコいいっつーとあれだけどさ、アウトサイダーってそうじゃん?で、カッコいいと思われることで既存の構造からスポイルされて構造化されるんだけど、独自のやり方っていつも流動的でさ、常に変わるじゃない?だから構造化され得ないと思うのね。いつの時代も分けの分からないことをするやつはいるけどさ、そういったね、既存のシステムとの折り合いを考えずに勝手に知的活動なり芸術活動を続けるということがようはさ、外部としての文化的構造だと思うのね。いや、あくまででも構造ね。ただシステムには組み込まれ得ない構造ね。そういった構造の中で多くの優れたアーティストとか思想家は自分たちの作品を生み出してきたわけだよね。


つまりは経済的階級構造と重なり合う文化的階級構造なんてスノッブなもんだってことなんだよ。それは文化足り得ない。まぁカッコ付きの「文化」だよね。相対的でさ、他人との優越を比べるためにあるような文化なんて文化じゃないよね。定義出来ないあやふやで分けの分からないものこそ文化を生み出すものとしての文化だよね。ようはプレ文化ね。それが文化となった時に文化ってのは発達するわけ。つまりは文化には常に内在化・構造化され得ない外部の知的活動としての文化活動が必要ということなのね。


で、これの良いところはさ、普段も俺が書いてるようにさ、勝手に自分で出来るんだよね。学校に行かなくてもさ、売れるとかさ、評価されるとかっつーのを意識しないでね、はっきり言えば投資無しで自分の感性を信じてやれるところにあるんだよね。つまりはそこに階級性は無いわけ。プロレタリアでもブルジョワでも絵は描けるのね。本質的な表現とか思想ってのは内野とか在野ではなくて外野から生まれるのね。言葉遊びをすればガイアが様々なものを生み出すのと同じことね。


もちろんそこでさ、どうやってその表現活動なり知的活動を続けるのか?ってことだけど、それは逆に下手に経済構造に組み込まれない勝手な場所でやってたほうがいいってことでさ、自分としては自分の労働力を売ることで生活の糧を稼いで、文化的活動は外野でやるっていうね、これこそが恐らく文化のあり方であろうし、知的活動のあり方だと思うんだよね。何しろさ、ウェーバーの官僚制じゃないけどさ、経済構造ってのに文化構造が組み込まれるっつーかさ、それが相互的になるとようは当たり前だけど依存し合うじゃん?常に資本っつーかカネの動きを見ながら知的活動を行わなきゃいけなくなるじゃん?つまりは外的な要素に内的な要素が左右されるようになるってことだよね。それはやればやるほど本来的な表現とは乖離を産んで最終的には疎外が生まれるよね。でも外野的なあり方を否定する既存の階級構造のあり方とかがさ、外野的なあり方を壊すのだとすれば、そこに文化の死滅が起こるよね。つまりは文化が育たなくなる。みんな経済構造に組み込まれた「食っていける」ことにコミットするようになってさ、本質的でスポンテニアスな表現とかとは離れていくことになるよね。それは単純労働によってヒューマニズムが踏みにじられるように、知的活動とか表現活動のシステム化とか構造化ってのもまた芸術性を踏みにじることになるんだよね。つまりは表現というところで疎外が起こるわけだ。


ではどうその疎外に陥らないようにするのか?っていうと逆説的だと今の俺が思うのはさ、表現のレベルで世捨て人になるってことなんだよね。ようは「世の中なんてかんけぇーねぇー」って態度で表現活動に挑むわけ。それは書き物でも小説でも思想でも音楽でも絵でもパフォーマンスでもなんでもね、「世間に迎合しない」というようなパンクスピリッツという事ではなくて、そんなことは念頭に置かない自分勝手さってのを常に保ちながらやっていけばね、疎外は起こらないのね。だってそこで行われる表現活動ってさ、いつも自分に忠実じゃない?他を気にしてないしさ、良く見せようとかさ、かっこよく見せようとか、少なくとも経済構造を意識しているときよりかは思わなくなるよね?それが表現のピュアネスを規定するわけだよ。ソクラテスが物事のエクリチュール化をあまり良く思ってなかったのもようはこの表現のフレッシュさだと思うんだよね。何かに組み込まれない生きた有機体としての物のあり方とか表現のあり方ね。


で、今の俺はさ、それをずーっと外部でやってるんだよね。経済的階級構造へのコミットが大学資本なり学歴資本なり文化的階級構造なわけでさ、つまりは俺がカネを使って学歴を取るっていうのは経済構造へのコミットだよね。でもそれと表現とは関係ないどころかさ、俺はそのやらなきゃいけないやっつけ仕事的なね、経済構造へのコミットになるべく時間を費やさずにね、なるべく自分の表現っつーと大げさだけどさ、世の中とは良い意味で繋がっていない自分の空としてのあり方を模索しつつ、そこで表れて来る様々な表現物をさ、ネットに曝したりね、自分で感じたりして楽しんでるんだよね。まぁオナニーだけどね。だからまぁ俺がやってるのってニートの暇つぶしっつーかモラトリアム的なんだけど、何気にすんげー文化的なのね。外野で文化的なものを育んでるわけだからさ、これほど人間っぽい生きかたはないよね。ヒューマニズムそのものでしょ。


疎外が必然的に起こりうるシステムに全力でコミットすると自分を失ってうちの親父みたいになるんだよね。ある種の近代化社会が産む大量の廃人だよね。うちの親父も残念ながらそんな感じになってるっぽい。今は。だから心配なんだな。俺は。ところでさ、どう?良くない?資本いらずのね、階級構造を意識しなくても出来る勝手な知的活動ってさ、最高じゃない?文化的な差異化なんてのを意識することもなく、支配階級とも関係ない生きた表現ね。生きた知というかシステムにコミットしないことで疎外を避けるという外野的な実存のあり方ね。ただ注意しなきゃいけないのはそれはあくまで二分法の中に存在する外野ってことで、ポストモダン的などこにも属さない外側ってことではないからね。そんなもんは無いから。プラトンで言えば知を愛するフィロソファーというあり方もあくまで臆見を愛するフィロドクシーという存在ありきで定立している存在なんだってことね。だってみんなが知愛者だったらさ、それがデフォルトで知愛者なんて定義は生まれないじゃん?対立する何かがあって定義ってのは生まれるんだよねっつっても何もかもが二分法でいいってわけじゃないんだけど、物事を理解するモデルとしては使えるってことね。


文化的階級構造を意識することもコミットすることもなくそれらとは離れた場所で文化的なことを行うというのがね、つまりはヒューマニズムってことなんだよ。ただまぁあれだけどね、またソクラテスになっちゃうけど、たまにまぁ市場に出て人と会話したり表現物を発表するのもいいんだけど、それはあくまで表現物のエクセレンスを担う要素としての市場であって、それが目的化したら終わりっつーかつまりはそれが文化的階級構造と経済的階級構造にアートが組み込まれてスポイルされるってことなんだよ。で、俺が言っているのはアヴァンギャルドとも違うのね。アヴァンギャルドってのはモロに内部を意識した行為じゃない?だってさ、「他とは違う」とかさ「ラディカルな」とかさ、関係性っつーか価値体系が相対的じゃない?アヴァンギャルドってだから元々構造化されてるんだよね。ケージがフリージャズをさ「あんなもん全然フリーじゃない」って言ってるのと同じ事ね。ジャズって構造の中で「自由」と言っているだけで、実際はジャズという名の構造に構造化された表現がフリージャズなのよね。だからといってフリージャズを批判したいわけじゃなくてね、フリーとジャズって言葉は二つの相反する言葉ってことなのね。だってフリーは脱構造じゃない?で、ジャズって音楽の構造なりメソッドだよね?だからメソッドの中の自由なんてありえないわけ。それは自由意志が無いと考えている全ては神の意志によるものと考えるような宗教家と同じ事ね。その中で自由を謳歌してもしょうがないでしょっつー考え方ね。神という概念と自由という概念が両立しないということと同じ。


ただね、俺が言いたいのは構造の話なんであって手法の話じゃないのね。構造の外でモロに保守的でメソッドに沿った時代遅れなジャズをやってもいいし絵画をやってもいいし日本画とか水墨画をやってもいいわけ。別に外部だからアウトサイダーだからっつって何もかもが前衛的である必要は無いし、前衛性と外野性ってのは関係ないのね。


ってことでした。まぁもうちょっと勉強が必要だけど、恐らく解脱とか涅槃みたいなのもね、自我の脱構造化だと思うのよね。ニルヴァーナで表現活動をするってのがまぁ俺の言いたい本質的な文化活動ってことなのね。ではどうそれを文化発展に役立てるか?っていうとまぁ結局は構造的な囲い込みが必要になるけど、でもそれはまぁただの結果であっていいのよ。本人は恐らく食えるようになるしマズローの言う欲求段階みたいなのも満たせるようになるしさ、所産としてはいいのね。ただそれが元々目的化してるとアウトだよってことなのね。そういうのを文化に骨肉化出来ないというブラインドな連中がまぁ世の中には多いわけだけど、まぁそりゃーしょうがない。いつの時代もそうだったわけだから。だから別に無理に売り込みなんてしなくていいのよ。あればあるだけでいいの。なければないでもいい。それが表現ね。


あ、んで補足。


元相方の話だとその構造化された関係性の中で生まれるものにも良いものがあったり独自性を持ったものが生まれることもあるので、「構造化」ということそのものを頭ごなしに批判は出来ないということで、まぁそれはおっしゃる通りでね、表現に関して言えばよーこさんの場合、廣松用語で前に書いたやつなんだけどね、アートなるものがどうやって感性的与件を越えたイデアルなものとして立ち上がってくるのか?っつーのを、ようはそれを「アートである」と認識するといったような、それがアートとして展示されていたり、アートとして存在しているという存在性そのものが鑑賞者との相関的な形成態を形成して、んでそれが共有可能なイデアルなキャラクターを獲得していくってことの相関的な形成態を形成しやすくするためのお手伝いというか配慮をしているというのがよーこさんの表現でね、まぁ優れた表現者ってそれをやってるんだと思うんだけど、あくまでコアにあるのはさっき書いた空としての表現ね。涅槃から出てくる表現ね。こういった高度な配慮によって既存の構造と距離を置きつつ共生したりすることが出来るんで凄いね。だから俺はよーこさんは本当に凄いと思うわけ。俺もまぁあんな風にさ、自分の表現で経済構造と外部から繋がっていたいなとかって憧れるよね。って話でした。

若い研究者のために

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