煩悩について。

mimisemi2010-01-25

我ながら最近は不気味なぐらいまともなエントリーが多かった気がする。まともっつーかかなり真面目ってことね。ってことでまぁあれだわ、まぁ通常に戻るわ。何を通常とするか?だけどあれね、まぁ基本的に日記みたいな感じに戻るってことね。


で、あれなんだよね、こないだ買いそびれた本があったからまた紀伊国屋に行ってきたんだけどさ、いやね、こないだ立ち読みしてスルーしてた「いたこニーチェ」って本なんだけど面白いんだよねっつーかこういう良い意味で世俗化した哲学本っていいよね。いつも敷居が高いものを低くするっていうことの重要性を言っているけどまぁそれを体現しているかのような本だね。ニーチェを研究してた人が研究者とか学者しか読まなそうな研究本を出すっつーよりかはもっとポップに出力するって結果的になんつーか社会にコントリビュートしてるっつーと大げさだけどまぁ価値がある気がするね。まぁ何を価値とするか?だけど一般向けの本ってやっぱ重要だよね。でもあれだよね、研究本とかも煮詰まるんだろうねっつーかもう煮詰まってるんだろうな。ニーチェをネタにする本っつーかニーチェだけで一冊とかなかなか難しいだろうね。解説とかならもう腐るほど本が出てて、んで独自の解釈とかになるとその解釈者のネームバリューっつーかなんつーのかな?「私の新解釈!」みたいなのを無名な人がやっても「誰が読むかよ。そんなの」って話になるじゃん?


で、あとまぁなんか結局一緒じゃん!ってことになるんだけど、まぁポップな哲学書とか学術書が増えたら増えたでもうそれも煮詰まったりするよね。しかもかなり早いスパンで。もちろんね、ニーチェだけじゃなくてスピノザとかさ、カントとか分かりづらい哲学なんかもどんどんポップ化すればいいとは思うんだけど、まぁ俺が言いたいのは一通り出ちゃったらもう終わりってことだよね。そう思うとやっぱ哲学って結局新しい哲学を形成するしかないんだろうなーとは思うんだけどまぁもう無いよね。何があるんだろう?って感じだよね。むしろ。哲学はヘーゲルで終わったとかハイデガーで終わったとかニーチェで終わったとか言われるけどさ、それってまぁある程度人間が考えそうなことが思索され尽くしたってことだよね。宗教とか実存とか認識とか意味論的なこととか。


で、今の人達は過去の遺産っつーとあれだけど、まぁ哲学者とかを引き合いに出して現代的なことを評論するとかまぁそんなことしか無くなるんだよね。でも俺が最近気になるのはさ、オリジンなんだよね。色んな体系を作ってきた哲学者達がさ、まぁ意図的に体系作りをしたかはともかくとして、どういうきっかけでそういう認識に至ったのか?っていうさ、なんでそう思ったんだろうな?ってのが気になってるんだよね。ある意味でまぁメタ的な哲学考察ってことになるのかな。


まぁそれはいいや。んであれなんだ、今日書きたかったことはさ、あれなんだよね、また電車でアンビリーバブルな女の子がいてさ、こないだまぁ買い物に出たときにアンビリーバブルな子に電車で会ったっつーかたまたま居合わせたってだけなんだけどさ、今回もまぁ凄かったね。アン・ハサウェイにちょっと似てる感じの子でさ、すんげーお洒落でキュートなの。ラブリーっつーの?で、ちょうど隣に座ってたんだけどさ、いい匂いがするんだよねーって気持ち悪いか。いやーすげームラムラ来るね。凄まじく自分の中のプリミティヴな本能みたいなのを感じるんだけどさ、日本人とかアジア系の子になんでそれを感じないのか?ってまぁただの好みだとは思うんだけど、それはともかくさ、こういう本能って結局あれなんだよね、種の保存ってことでしょ?ようは俺が可愛い子に種付けしたいって動物的な本能から思ってるってことだよね?だからセックスっつー快楽が生殖ってことに繋がってることでまぁ人類が途絶えないようになってるっつーか基本的に生きてれば子孫が増えるってことが植え付けられてるんだけどさ、だからこそまぁ子供を産むってことがイコールリスクになっちゃうような世の中になると少子化が進むのは当たり前なんだけど、まぁそれはともかくさ、それとこれとは関係無いんだよね。


世界的に不況だからっつーか別に子供は欲しいと思わないんだけどんでも本能的にムラムラっ!と来るわけじゃん?で、ブサイクにはムラムラっ!って来ないんだよね。俺好みの凄まじく可愛い子にしかそういうのは感じない。まぁあと色々ジャンルもあるんだよね。可愛いなーって思うけどムラムラしない子と先週の電車で会った子とか今書いてる子なんかはまぁ完全にムラムラ来るタイプなんだけど、でも別に俺自体は子供を欲しいと思ってるわけじゃないじゃん?でも男性的な本能が俺をムラムラさせてるわけだよね?なんなんだろうな?この矛盾。まぁもちろんね、欲情するってことイコール子孫の繁栄を願ってるってわけではないにせよさ、でも因果なもんだよなぁーって思うんだよね。実際は全然必要なことじゃないのに本能的にそれを感じることからそれに悩まされるって明らかに煩悩だよね。煩悩以外の何でも無い。だからといってこれがいけないことだとは思わないんだけどさ、ただなんか辛いよね。これって。「あー可愛かったなぁー」で終わるじゃん?別にそれで終わらせなくてもいいんだけど、かといってそう思うとさ、仮にこの子が彼女になったとしたって俺は可愛い子に欲情し続けるわけじゃん?可愛い子がいたら彼女がいようが「おっ!」って思って目移りするっつーかさ、まぁ基本的にそういう生き物だよね。特に男は。女もそうなのかな?


こういうのに俺はいつも動物性を感じるんだよね。すんげー動物的だよね。交尾する相手を探す欲情したオスそのものじゃん?で、人間って年がら年中発情期でしょ?これがそもそもおかしいよね。だって欲情する度に子供作ってたらさ、それこそ生涯で何千人っつー子供を作ることになるじゃん?それでいいのかね?人間って。そういう風にプログラミングされてるってことでしょ?逆を言えばメスを一人に定めて、んで子供を1人か2人ぐらい作ってそれでストップしてそこに留まるってすんげー不自然だよね。モロに色んな事我慢しすぎじゃん!っていう。まぁ別にセックスはコンドームつけてやればいいんだけどさ、でもまぁメスを一人に定めてるっつーのがもうすげー我慢だよね。


実際はうさぎみたいにさ、電車で「おっ!」って思ったらそのままパンツ脱いで飛びつきたいわけじゃん?でも理性がそれをさせないっていう。そうなると理性って自然とは相反するものってことになるよね?まぁ別に自然ってのが自動的に「善い」ことになるわけはないんだけどさ、でもなんでこんなに我慢しなきゃいけないことが多いのかな?ってことだよね。基本的に人間が欲求不満になるように出来てるってのがなんかすげー悲しいなって思うんだよね。良い思いを出来るのがイケ面の金持ちに限るみたいな。まぁ他の連中はそいつらなりの幸せを追求するしかないんだけど、んでもこれって妥協の産物なんじゃないの?っていう。基本的にまぁ楽して可愛い子とヤリまくって好きな物買って豪遊するって生活をしたいんだけど、まぁそれが出来ないから凡人でも可能な幸福の追求っていうのを個々が取り組むわけじゃん?でもそれって豪遊が無理だからっつー前提があるんじゃない?っていう。まぁそんな中であれだけどね、豪遊なんて無意味だって悟るんだけど、んでも仏陀みたいにさ、とりあえずそれも経験できるといいよね。可愛い子とヤリまくれるし好きなもん買って食ってなんでもできるけどまぁそれが虚しいから仏の道を志すみたいなさ、それって妥協じゃないよね。むしろ豪遊に勝る幸福というかまぁ人生の意味論形成に繋がるわけじゃん?


でもそれって豪遊を経験してないと分からないんじゃないの?っていう。最近俺が思うのはさ、悟りって全てを越えたところにあるなってことなのね。仏陀が凄いのはここじゃん?姉ちゃん達とヤリまくって豪遊してやりたいことやってたやつが悟りを開いたっていうさ、そのプロセスだよね。そのプロセスに煩悩だらけの生活ってのがあるっていうさ、逆にその経験があったからその虚しさが分かって滅することが出来たっていうさ、それって経験が無いと出来ないことだよね。有から無へっつーか、もしくは有であると思っていたことが内部から見て無だと悟ったとかさ、それってでも内部にいないと分からないことだよね。


俺に欠けているのはこれなんだな!って思ったのね。つまりは実体験ね。セックス然り豪遊然り。まぁ消費はある程度やってきた結果、まぁ意味が無いって分かってやめてるってのはあるから良いにしても他に関しては経験無さ過ぎなんだよね。俺。あれなんだよね、だから悟るってことはまさしく悟りなんで煩悩を滅するってことではないんだなってことだよね。俺は煩悩を滅しているんだよな。本当は可愛い女の子と遊びたいのに怖いから出来ないとかさ、別れたりすることがあるとその度に嫌な思いをするだろうからやらないとかさ、やってみたいんだけど合理的に考えると得るものが無いだろうみたいな想定が働いているんだけど、でもそれって経験してないから想定に過ぎないんだよね。何千人の女性と関わってきた男が最終的に「あんなものは無意味だ」って言うのとさ、全く経験が無いやつが言う「無意味だ」って言うのってやっぱ違うじゃん?ましてや後者みたいなやつがさ、無意味だと分かるから見たいな想定でちょっとした自戒も含めて煩悩を滅しているならそれって悟りじゃないよね。ただの我慢なんだよね。で、俺はモロに我慢してるなと。


それが無であると悟ったなら我慢なんてしなくてもやらなくなるじゃん?俺が馬鹿みたいにレコードを買わなくなったのもそうだよね。あれは相当洗脳されてたわけだ。レコードを多く持っていることがステータスっつーかかっこいいとかさ、とりあえず定番のやつは揃えておくとかさ、自分が欲しいっつー基準が外部的なものによって規定されてたっていうさ、で、今思うと所謂、メディア的なものに影響を受けて買ってたレコードとかも腐るほどあるんだよねっつーかレコードを死ぬほど買うって事自体がすでに洗脳の結果だったのかもしれない。その証拠に今は全然レコード欲しいと思わないんだよね。まぁある程度買い尽くしたっつーのもあるしね、あとは買い過ぎて大変なことになったっつーまぁ経験があるにしてもこれって死ぬほどハマってた経験があるから別にいいやって言えるんであってさ、実際は欲しいけど我慢してるってことじゃないんだよね。一時期は意図的にレコード屋には行かないようにしてたけど今は別に行こうとも思わなくなってるんだよね。そもそも欲しいと思わないから。まぁ洋服屋とかで1ドルとかでレコードが売られてたらまぁ見るけどさ、ん?でもそう思うと価格なのかな?んじゃあ俺が死ぬほど金持ってたらレコード買うってこと?もしくは1ドルの場合は買うっつーのは安いからっつー理由でなのかな?どこまでがそういう外延的な影響でどこまでが本質的な所謂、その音楽を聴きたい!っつー動機なのか分からんよね。


主体的に決めてるように思えることでも実際は外部的なものから埋め込まれた価値観とか考え方によって導かれてたらそれって主体的でもなんでもないよね。ただのマリオネットじゃん!っていう。マリオネット論で言うとまぁ可愛い女の子にしてもまぁレコードとかと一緒にするべきではないんだけどさ、まぁ本能に従うマリオネットってことになるよね。それによって動かされているわけでどこまで俺が本質的に可愛い女の子と付き合いたいって思ってるか分からないよね。そもそもなんで俺が可愛い子にあれだけ過剰な反応をするのか?ってのが分からないんだよね。まぁ理由なんて無くたっていいじゃん!それが恋というものさっ!って素敵な解釈もありだけど、これって怖くてさ、恋愛中毒の人っているじゃん?所謂、麻薬中毒と一緒でさ、恋愛ってまぁ何かが弾けて脳内快楽物質がすげーリリースされるわけじゃん?で、一種のまぁ陶酔状態になるっていう。まぁショッピングとかも一緒だよね。この脳内物質リリースを求めてるって意味だとさ、レバーを引くと餌が出てくるからっつーんでレバーをずーっと引くケージの中の猿とかと変わらないんだよね。どんだけリリカルな解釈を「レバーを引く事」に与えようが基本的にこの悲しいケージの感じってのは無くならないよね。


でもよくあるのがさ、健康のためにタバコ吸いません。酒やりません。無駄な消費しませんとかっていうとんじゃあ何が楽しくて生きてるの?っていうツッコミあるじゃん?それは煩悩に塗れている側の意見だって喝破できることではあるんだけどっつーか俺はそう考えてたけどでも違うなって思ったのね。だってモロに俺はそれをやりたいと今でも思ってるじゃん!っていう。可能なら毎日酒を飲んでいたいし体に悪くなかったらタバコとか死ぬほど吸いたいしってまぁ体に悪くないものを死ぬほど吸うって変な言い方だけどさ、条件付きでやりたくないんだよね。コストがかかるとかさ、酔うと今以上にダラダラしちゃうとかさ、さっぱり読書がはかどらなくなるとかね、まぁそういう利害関係的な力学から見てもまぁやらないほうがいいんだけどでもやっぱ我慢してるってところもあるってことから言うと全然超越しきれてないんだよね。完全に意味が無いならさ、可能でも別にやろうと思わないじゃん?だから酒を飲んでる人を見て飲みたいって思わないだろうし、タバコとかも潜在的に吸いたいとかって思わないはずなんだよね。


でもそれを我慢してるってことはそれって煩悩を滅しているだけで超越はしてないんだよね。あくまでそれは有と無の関係性の中で無を選んでるってことじゃん?悟りってのはそんな二項対立すらも越えちゃうってことだと思うんだよね。俺ってそれとはほど遠いなっていう。ましてやそんなレベルの低い二項対立の中で滅しているということを悟りだと勘違いして自分が達観できてるなんて思ってたらそれは大きな間違いじゃないか!っていう。そんなこと思ってたらそこから成長できないしレベルの低い悟りではなくただの煩悩の滅殺っていうところに留まっちゃうじゃんっていうね、下手な話、何かがトリガーされればそんなものすぐ外れちゃうかもしれないわけじゃん?まぁ別にそこまでして酒とかタバコを断つ必要は無いんだけどね、別にアル中だったとかじゃないわけだしさ、まぁいいんだけど、でも理想としてはさ、どうせやらないなら我慢じゃなくて完全にいらないものだって認識した上でやらないっていうことを選びたいんだよね。それが我慢じゃ嫌なのね。


で、それが究極的なのが女の子だよね。俺は16から酒を飲んでるから酒の経験はある程度あって、それで失敗したこともあるし、タバコも然りでさ、まだ好きだけどただまぁ経験から見てもあんまり俺にとっては良いものじゃないからあえて金出してやるほどでもないなって判断は出来てるよね。我慢しているという要素はあるけど、んでもある程度は経験によって「いらないや」ってことを選べているという主体性がある。消費然りレコード然り。湯水のように金を使って生活がダメになったとかさ、衝動買いばっかしちゃって実家からカードの請求が多過ぎるとかっつって文句言われたりとかさ、そういうアホな経験があるから学べてるじゃん?で、色々買えても結局まぁ何にもならないなってのも感じるわけで。あとまぁ元々欲しいものがそんなに多くないってのはあるよね。俺の場合、映画か本かスニーカーか洋服類だけだもんね。


で、映画に関してはまぁDVDはこっちに来てからだいぶ買ったけど今って変な話ネットで見れるやつとか多いじゃん?探せばあるよね。まぁ作品に金を出すってことは大切なのは分かるけどんでもそれを言い出したら音楽然りだよね。ネットでダウンロードできちゃえばあえて払わないよね。あとがまぁmp3の場合安いってのもあるよね。音楽に関してはむしろ買いたいと思うものがもう無くなったっつーレベルである意味でレコードと似てるんだよね。もう色々と買い尽くしてしまった感がある。全部ではないしまだまだあるにせよ、所謂、メモ帳とかに「あれが欲しい」って書いておくようなレベルのものはもう全部手元にあるってことなんだよね。だからもう探すって段階だよね。昔はリストのものを揃えるのだけで大変だったけど今はリストのものが全部そろっちゃったんで自分で探していくしかないっていう。


映画然りね。いつも書くけどまぁある程度見た感はあるよね。だからハリウッドのメジャー作品とかで意外と面白いものとかをあえて見るみたいなさ、そういう鑑賞になってるよね。所謂、古典の名作とかアートフィルムみたいなのは一通り見ちゃったみたいなところがあるから。いや、何が言いたいか?っていうと俺が消費するものってある程度もう消費しちゃったんだよね。消費で言うと実は今回わざわざ買い物に行った目的ってのは紀伊国屋に行くことじゃなくてジョーダン6のレトロが出たんで買うってことだったんだけどさ、まぁジョーダンに関してはマニアだから欲しいやつは発売日とかに買うけどさ、ジョーダンもレトロとか揃えていけば買い尽くせちゃうじゃん?


22とか23ぐらいあるけど実際欲しいのってそんなに多くないっつーか初期のやつばっかでさ、もう俺ってある程度持ってるからいいんだよね。まぁ4は昔から死ぬ程欲しくてまだ買えてないけど確か今年レトロ出るよね。絶対買うけどね。8と11はそこまで好きじゃないからスルーしてたっつーか金が無かったから買えなかったっつーのもあるけどまぁすげー好き!ってやつはもう大体あるよね。で、ある程度あって履いてると欲求満たされるじゃん?で、満たされると次!ってなってキリがないっていうけどジョーダンにはキリがあるわけでさ、まぁスパイクリーのやつとかさ、リングスみたいなのが出てるけどそういうのも何気に俺買ってるからね。だからキリあるんだよね。似たようなシミュラクラムが次々と厭らしいぐらい生産されてるけどさ、ナイキとかジョーダンね、でもキリあるじゃん?そういう似せたようなパチもんモデルみたいなやつって最初から買おうと思わないわけでさ、本質的にデザインが好きで欲しいやつって買えちゃったらもうそこで終わるよね。身につけてご満足じゃん?


で、こういうのに関しては別に滅する必要は無いと思うのね。本当に好きなんだったら「ナイキシューズなんて・・・」みたいな感じでやめなくてもさ、別に好きだったら買えばいいんだよね。まぁジョーダンとナイキは違うんだけどさ。そうそう。あとナイキって搾取の象徴みたいな感じがあってさ、well-educatedな人達は履かないみたいなさ、そんな風潮があるような気がするね。アメリカに。ナイキに関して流布したイメージがあるんで履いてるとダサいみたいなさ、知性を疑われるみたいなさ、そんなのがある気がする。あとはまぁ黒人とかの有色人種の記号的なものもあってさ、ストリート系とかじゃない学校の勉強できそうな白人とかが履いてるのって滅多に見ないよね。特にジョーダンは黒人か南米系とかの有色人種が多い。俺はそんなの関係無く昔から好きだから履いてるんだけどね。


まぁジョーダンと記号的象徴みたいなのは前に書いたからいいや。なんかでもああいう不自然なばらつきって絶対おかしいと思うんだよな。意図的に白人のミドルクラスはナイキとかジョーダン履かないっつーのもモロにそれってイメージの世界だよね。黒人のものだからみたいな。ああいうのってどうかと思うと同時にまぁ埋まらない溝みたいなのがあるんだなって気がするよね。別に日本ってナイキとかなら誰でも履くじゃん?ストリート系とかに限ったことじゃないじゃん?でもアメリカの白人って不気味なぐらい履かないんだよ。まるで敬遠してるかのように。特に女の子ね。あとファーストフード系もそうね。あれは卑しい有色人種とかが食べるものだ!みたいなコンセンサスがあるように思えてしょうがない。あれもイメージの世界だよね。ジャンクフードを食べるってことが知性レベルを疑われるっていうことになるから避けるみたいなさ、あとは有色人種ばっかが食べてるから白人は食べないみたいなね、Whole Foodsのサラダでしょ!みたいな。すんげースノッブだよな。どうもアメリカの白人って好きになれないな。なんか一方的な「私たちは違うのよ!」みたいな感じがある。まぁ歴史的にそうだったから今も残ってるっつーのは当たり前なんだろうけど目の当たりにするとさ、21世紀なのに結局差別ってあるんじゃん!みたいなさ、差別してんじゃん!みたいな。


いつも書くじゃん?マンハッタンを通る電車にはイケ面の白人とか綺麗な白人の女の子とかが多くてさ、まぁあと金ありそうなマダムとかね、で、クイーンズ行きとかになると有色人種増えるっていうさ、しかもなんか一気にどんくさい雰囲気になるっつーのかな?人種もさることながら見た目も関係してるっつーのが何なのかな?って思うよね。見た目が悪いと差別されんのか?っていう。差がすげーんだよね。ちょっとぐらいの差ならいいけどあれだけ露骨に差があるとねぇー。逆を言えばマンハッタンって美男美女の宝庫なんだよ。それこそ見た目で得してるみたいなやつが羽振りを利かせてる社会だから見た目が良い人が多い。それは人種限らずね。モロ見た目でアドバンテージ取ってるだろって人多いよ。マジで。だからまぁ俺も出会うわけね。マンハッタンを通ってる間はね。クイーンズにさしかかるとダメになるけど。まぁ差別とかじゃなくてね。そういうのもあって余計にクイーンズがダサイみたいなイメージがあるんだろうな。ブルックリンはなんとなく良くてクイーンズはダメなのね。ニュージャージーとかもダサイわけ。まぁ日本で言う所の千葉とか埼玉みたいな感じだね。やっぱトーキョーでしょーみたいな。


あ、話が逸れたね。あ、んで煩悩ね。そうなのよ。経験して分かったから滅する必要なんて無くなったってのが理想的な悟りだっつーのは書いたよね。で、煩悩を我慢している滅している悟りはただの我慢で悟りでもなんでもないっつーのも書いたよね。で、俺の悟りっつーか達観にはそういう我慢がまだまだ含まれているから全然悟りじゃねぇーじゃん!っていう。で、消費に関してはまぁこれも書いたようにさ、レコードとか映画に関してはやり尽くしたってのがあるってことなんだけど、まぁそれが一気に次は本に行ったんだけど本も最近で言えばだいぶ落ちついたよね。とりあえず読みたいやつってのはもう大体買って読んじゃった感じでさ、次はまぁその読んだやつを深めていくって段階に入ってるよね。だからもう乱読は終わりなんだよね。乱読して広めた知識とかをもっと深めていくっていう感じ?そうなると量いらなくなるよね。むしろ取り組むのに時間がかかるような本がメインになるんで結果的に本の出費は減るんだよね。それを読んで理解するのに時間がかかるみたいな本だから簡単に読んで乱読とか出来ないじゃん?だからまぁ出費が減るってことね。個別の本とかサブジェクトに取り組む時間が多くなるってことだわ。


いやね、本を買うことで物欲が満たされるってのはあるよ。まぁコンパチブルだったわけだ。物欲も満たせて無駄にならないものっていう最高の消費物が本だったんだけどこれもある程度買っちゃうともういらなくなっちゃうっつーかそんな何冊も買うようなのが無くなるってことなんだよね。だからホント、最近そうなのね。さっき書いた音楽と一緒で本屋行っても探さなきゃいけない。前はもう買うのがいっぱいで手一杯だったからまた今度っつって我慢してたようなやつとかいっぱいあったけど今は過去に我慢して買わなかったやつとかさ、スルーしてたやつとかも大体買っちゃってるからもう買うの無いんだよね。今は多分本は俺の部屋に800冊ぐらいあるけどさすがにこんだけ買うと自分の興味あるやつに関しては大体カバーできちゃってるんだよね。だから今後は読み進めていく上で必要になる本とかさ、読み進めていく上で次のステップとしてまた読む本とかさ、読んでる中で知っていく本とかさ、そういうのになるよね。あとはまぁ時間がかかる本が増えてるんでそんなバーっ!っと買えないってのがあるよね。まだ読み終えてない本がいっぱいあるから今買ってもしょうがないって感じなんだよね。今は。買う本が無くなったわけじゃないけどまぁラッシュは終わったって感じだね。


いや、だから落ち着いてるじゃん?むしろ消費したくても買うのがないみたいな感じじゃん?むしろ無駄遣いとかしないと金が使えないみたいな。まぁそんなことはしないけどね。で、あとゲームとかも例えばPS3とか金貯めて買えばいいじゃん!ってことになりそうだけど全然欲しいと思わないのね。買えなくはないけど全然欲しいと思わない。実際それはゲームやってて昔ほどのめり込めることが出来るようなのが減ったっつー実体験もあってあんまゲームに対する期待値みたいなのが過去ほど高くないってのはあるよね。これって我慢じゃないじゃん?昔は我慢してたけどさ、PS2安いから買うかっつって2年前ぐらいに買ってんで色々ゲームやってみたけどまぁそこまで面白いのも無いなってことで冷めてるんだよね。だから我慢しなくても別にそこまで欲しいとも思わないしやろうとも思わないから滅する必要も無いっていう。まぁ悟りとは違うけどまぁ経験によって「いらねー」ってなったっていう良い例だよね。本質的に気分転換以外いらないし、気分転換にもならないようなのが多いんで期待値も低いっていうさ、まぁさっき書いた有と無ではなく、その二項対立すらも存在しないっていう感じね。つまりは眼中に無くなるってことね。まぁいつかは買うんだろうけど煩悩みたいなレベルじゃないよね。安かったら気分転換にぐらいでまぁ適当に映画館に入って映画見るぐらいのノリだよね。コミットの踏み込み具合が全然浅い。


で、俺が克服できてない煩悩ってまさしく女の子なんだよね。いや、性欲はいいよ。俺はオナニー中毒だからそこは全然滅する対象でもないし克服する対象でもないからいいんだけどっつーのはまぁこれは了解してるからじゃん?我慢せねば!なんて滅するもんじゃないっていう。だからこれも有と無は無いよね。有しかなくて無がありえない有だよね。サオと玉がある限り。ただ女の子ってモロに我慢してるなっていう。いや、色んな煩悩が解けたり無くなったりしていって削ぎ落とされていった結果、ほとんど唯一とも言っていいぐらい目立つ激しい煩悩って意味でまぁその存在が際立ってるのかもね。もしくは煩悩が無くなったんで煩悩の指向性が残っているものに向かっている結果、それがエンハンスされたように見えてるっつーかなんつーか。で、結論としてはこれに関しては経験しないとダメだなって思ったね。


一生童貞でいいや!って思ってたしそれでもいいんだけど、ただセックスに対する興味が無いわけじゃないあってのは明らかじゃん?実際に俺にはやる勇気は無いと思うけどでも実際ムラムラ来てるってことはそれはもうやりたいって思ってるからなんであってそれは我慢してるってことになるよね?だったら経験しないと何も言えないっつーかさ、ここで達観して「これは煩悩なんだ」って思っててもそれって我慢じゃん?ただの禁欲だよね?俺は禁欲はしたくないんだよね。辛いから。必要ないものは無というよりかは空に帰したい。でも女の子ってのは明らかに俺の中で有で、でもそれを滅して生活の中で無にしているっていう状態なんでモロに我慢なんだよね。これじゃー悟りへの道は開けないよね。もう俺は悟りを開いているもんだって思ってたけど全然俺ダメじゃん!って思ったわけ。


一生我慢して終わりなんて死んでも嫌だし、俺の目標は悟りなんであってさ、仮に女の子って要素が俺の中でのオナニーとかね、好きなものは別に買ってもいいでしょ!っていうこととかね、所謂、それによって惑わされるような欲ではなく、自分の生に不可欠なものなんであればその存在を認めたいしさ、本当にいらないものだと思えば空に帰したいんだよね。でも女の子に関しては経験してないんでさっぱり分からない。で、悶々としてるっていう。これって思春期の青年とかと全然変わらないよね?これじゃーダメだってことで経験して悟りの道へ進もうと思ったのね。どうせ辛いだけだろうっつってもその辛さを経験して実際「こんなの二度とゴメンだ!」とかって思わないとダメだよね。セックスにしても実際やってみて全然良くないあんなのとかさ、吐き気を覚えたとかさ、そういうのが無いとダメだよね。「そんなものは煩悩だから」っつって達観したようなことを言ってる割に電車で可愛い子を見ると欲情してるんじゃ全然ダメだよね。


ちょっと遅いけどまぁこれを今年の抱負にしようかな。セックスするかはともかくとしてとりあえず恋愛経験を積むってことね。ようは悟りとか人生経験という意味での恋愛経験ね。無いくせに達観もクソもあるか!っていう。いや、最近書いてた労働にしたってそうじゃん?経験があるから書けるんであってさ、理論だけで意味ないとかって言ってるわけじゃなくて理論の基盤には経験もありますよってことだよね。でも俺が言う「恋愛なんて幻想だ」ってその意見がすでに幻想なんだよね。コミットするのが怖い自分がいたりやりたくても我慢してる自分がいるのを誤摩化してるってところがあるからさ、成立してないのね。ただの禁欲とか誤摩化しになっちゃってる。それじゃーダメでしょうってことなわけで。


ってことでした。まぁこれに関してはこっちに来てから発見したってことかもね。これまでは実際、女の子に真剣に欲情することなんて無かったわけだよね。可愛いなーとかって思う事はあっても真剣に好きになったということは一度も無かったって言っても過言ではない。それはこっちに来て真剣に好きになるということを経験したのでその強度の違いから今までのは全然本物じゃなかったって言えるわけ。つまりはまぁ俺がガイジンにしか興味が無かったってことだね。それがあたかも欲望が無かったかのように見えたんだけど実際はただたんにガイジンが好きだったっていうさ、それがまぁこっちに来て分かったわけじゃん?で、それを滅している俺がいると。でもそんなのただの禁欲で悟りでもなんでもねぇーよっていうさ、ある意味での俺の弱みでもあるよね。興味が無いとか言っておきながらかなり言っていることに虚偽があるっていう。ある意味で俺って他は無いじゃん?全部本当のことしか言ってないけどこれに関しては本当にごまかしがあるね。強い本能的な欲を我慢しているという事実がある以上、この顕在している欲とは向き合わないといけないよね。で、俺なりのまぁ考えが結局経験するしかないでしょってことなんだよね。経験してから判断しろと。今までもそうしてきたわけだし、やってないのは恋愛ぐらいだろうと。俺が本当に求めていないならいいけど求めているのが自分の本能からバレバレなわけで、それを見逃すわけにはいかないんだよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。