Bill Fontanaについて。

Bill Fontanaなんだけどさ、響きの生態系っつー本で知ったのがもう10年近く前でさ、もうその時からすげー気になってたんだけど、横浜のタワレコでwergoのやつを買ったのがまぁそれこそ10年前にぐらいなると思うんだけどさ、いや、本当はこの本に載ってたVirtual Natureってやつなんだよね。いや、Landscape Soundingsだったか。いや、忘れたけど、こないだまぁBill Fontanaのことをいきなり思い出してさ、んでネットで買おうと思ったんだけどどこにも無くてさ、いや、あったんだけどね。オーストリアのレコード屋なんだけど。注文したけどマジで届くの?って感じなんだよね。いや、オーストリアを信じてないってことじゃなくて、実際は在庫が無いんじゃないの?っていうさ、そんぐらい無いのよ。Bill FontanaのCD。wergoのやつは当然wergoだけあって手には入りやすいんだけどORFのやつは本当に無いよね。


んでまぁだいぶ前にも書いたと思うけどさ、いや、今見つかったんで貼るわ。抜粋して。

サウンドスケープについてもさ、イマイチ自分なりの答えが出ないっていうか、そもそも録音された音ってのはすでに採取された音ってことでサウンドスケープではなくて「サウンドスケープだったものの記録」になるんだよね。ようはなんつーかさ、サウンドスケープサウンドスケープ足りうる条件ってのは例えば偶然性だの終点の無さだとかってことだと思うんだけど、どういうことかっていうと、例えばそこでさ、誰も一分後に子供が声を発するなんてことは予言できないわけよね。まぁいいや、駅とかで。それもマイクとテープがあればさ、録音できるわけ。リアルタイムに音を紡ぎ出しているサウンドスケープを録音できているわけだけど、ここでまぁアンビバレントなことが起こるってーのはすでに録音された音ってのは採取された昆虫みたいなもんで、そこに自然性は無くなるのね。虫取り籠に入ってるって時点ですでに人口的な要素が介入しちゃってる。


まぁもっとも重要なことってのはそんなことではなくて、録音されたサウンドスケープってのは当然、さっき書いたような偶然性や終わりの無さっていう要素が無くなるよね。10分録音したんだとすれば、その10分の音の記録ってことで、10分で終わっちゃうわけ。そこにある音というのもすでに偶然性が無いというのは録音されたものであるから、例えば4分20秒あたりで子供が泣き出すとかってのがすでに時間的な存在としてそこにあるわけで、それは偶然でもなんでもなく「偶然だったもの」なわけよね。ってことでさ、人間が誇らしげにサウンドスケープを録音したって言ったところですでにそれはサウンドスケープではなくサウンドスケープの死骸なんだよね。


で、そのサウンドスケープを使って音楽を作るなんてのは昆虫を解体してコラージュをしているようなもんで、極めてマッドな行為だよね。でも人間って何かさ、自然とかコントロールできないものをすべて人為的にコントロールしたいとかっていう欲求があったりするでしょ?でもね、俺が自然の音だとかって思ったところで、俺のラップトップに存在する自然音なんてのは自然音の形をしたデジタル音なわけで、そこに特別な自然性は無いわけよね。ようは自然性を発見できるということが極めて認識的で、前にも書いたような、俺がこの音を録音したというその時の記憶によってのみそのサウンドスケープのアクチュアリティが俺の中で想起されるだけで、それってのは観念的なもんでその音そのものの自然性なんてのは当然無いわけよね。


ベンヤミンアウラって概念があるでしょ?オリジナルの作品にしか宿らない何か特別なものっていうさ、まぁ芸術の一回性みたいなもんね。それみたいなのがすべての音っつーかサウンドスケープにあるんだけど、録音されたサウンドスケープというのはすでに死骸だから当然劣化が起こるし、アウラは当然録音機には継承されないわけ。だからなんつーか凄くさ、あれが完成しないのよ。例のサウンドスケープのやつ。作り手って当然作ってる段階でそれを何回も聞くから飽きてくるでしょ?っつーか、その何回も聞く行為によってさ、そのサウンドスケープの音ネタ感ってのが凄まじく露わになるわけ。もちろん俺は自然をコントロールしたいんじゃなくて、音に対する認識とか感覚とか記憶ってのをグチャグチャに異化したいだけなんだけど、なんかでもどうもね、その音自体が常にそこで流れてないとなぁーって思うわけよ。


ようは例えばどっかの駅の音が欲しいと思ったら、常にその駅のリアルタイムなサウンドスケープがそこで鳴っているっていうね、だから毎回聞くごとに音が違うっていうさ、そういうどっかで鳴ってる音のリアルタイムな組み合わせってのをやりたいんだけど、それってビル・フォンタナ的な音響彫刻でさ、少なくとも録音作品では出来ないよね。だからそれを再現することしか俺には出来ないんだけど、まぁそれでもいいか、とりあえず。でもこうやって改めてフォンタナの名前を出してみるとほぼ同じようなコンセプトでやってたりするのよね。俺。これってパクりじゃん?とかって思ったよね。今。


大体凡人がやることなんてのは過去の繰り返しとか既存のものの組み合わせのバリエーションに過ぎなかったりして、本質的な新しさとかオリジナリティなんてものは存在しないんだよね。悲しいことに。まぁそこで新しさとかオリジナリティだけにフォーカスしてるやつらっているけど、どうも見ていて痛いのはアレなのよ、そういうのを追求しすぎてただ奇抜になっているだけっていうね、そこに芸術的な輝きとか美しさってのが無いわけよ。だからまぁいいかなと思って。別に完全に新しい必要なんて無いかなとかさ、そういうのばっか考えてると何も作れなくなるからね。


コラージュとは違った意味でね、まぁ俺がコラージュに魅せられてたのが17とか18ぐらいの時で当時のあだ名が「今コラ」だったりしたこともあったんだけど、その後にもっと空間的なコラージュに見せられたっつーのがフィールド音楽なんだよね。まぁ前にも散々書いた通りなんだけど、所謂、フェラーリ的なケージとは違う「何も無い」感じってのはね、特に何かが起こっているわけでもない何の変哲も無い普通の風景音ってのを前後関係関係なくそこだけ取り出してきて、んで他の関係ないフィールド音と混ぜ合わせることでそれを異化させて架空のサウンドスケープを作り出すって手法はさ、スカム的コラージュがダダ的なのであれば、フェラーリ的コラージュってのはシュルレアリズム的なんだよね。


そのフィールド音の何らかの音がリスナーによっては何かを想起させる音にもなるかもしれないし、それらの音が制作者の意図とは離れたところで半ば無意識的な領域でリスナーの聴覚に届くっつーのがね、凄くシュルレアリスティックだし現代的なんだよね。俺はコラージュもサウンドスケープ音楽も自分で思いついたつもりだったんだけど、過去にやってた人がいてまぁガッカリしたっつーのはよく書くことだけど、そこで元相方とユニットをやってたときにこのジレンマを話したら「フィールド音を使うということがフェラーリの特権なんではない」って言われてかなりハッとしたんだよね。ようは俺はオリジナリティという名の虚無にとらわれすぎていたわけでさ、別に手法がやり尽くされたものであれ、自分がやりたかったらまぁ自分なりにやってみればいいじゃないって話なんだよね。この辺の話は椹木野衣のシミュレーショニズムって本に詳しいんでそちらをどうぞ。


フィールド音楽の魅力ってのは凄いもんがあるんだよね。音というアイコンではなく空間という音の総合体みたいなのすらエポケーして取り出してきちゃうんだからある意味で究極的に暴力的で人間的なんだよね。俺の試みだったのは音の異化であったりフィールドにおいては様々な音を混ぜることで架空のフィールド音を生み出すっていうことだったんだけど、いまだに全然実現できてないんだよねっつーかやってないっつーのもあるんだけどっつーかまぁフィールドのやつ結局完成してないっつーか完成はしたんだけど満足してないっつーかね。このフィールド音楽っていうまぁある意味での現代音楽の手法の一つみたいになったのを現代音楽的なコンテキストを踏まえた上で実現させたのがジムオルークのThe Rules of reductionっていうメタムキンっつーフランスのレーベルから音の映画だか耳のための映画だかっつー種類で出てたシングルサイズのCDね。


これはもうフィールド音楽っつーかフェラーリ的フィールド音楽の完成系なんだよね。ちなみにジョンゾーンのレーベルから出てたタイトル忘れたけど、あのネオンの看板のジャケののやつね、ターミナルなんたらってやつなんだけど、これもThe Rules of reduction的手法というか趣があるんだけど、こういうところにジムオルークの天才性を見るよね。その後まぁいきなりポップ音楽とかやりだすんだけど、ジムって何気に音の哲学者なんだよね。物凄い深い音の理解と現代音楽的な音楽の認識があるんだよね。でもまぁモンドミュージックのインタビューにもあるように前衛音楽とか実験音楽だとかの閉鎖的なね、机上の空論さ加減に嫌気が指してやめたっつーんだけど、その机上の空論の例えとしてミルトン・バビットが出てきていたのが興味深かったね。ようはすんげー数学的理論を駆使して作った音楽っつわれても別にリスナー分からないじゃん?っていうそういうジレンマね。


それを言いだすとクセナキスもダメじゃんって話になりそうなんだけど、クセナキスの場合、純粋な音の凄さってのがあるからまぁ電子音楽としての価値が高いんだよね。まぁ電子音楽だけじゃなくまぁオーケストラ作品とかにしてもそうなんだけど、よく聞けば分かるんだけど、ペルセポリスみたいなのとクセナキスの例えば70分越えるようなオーケストラ曲っつーか具体的に言うとKraanergみたいなのって、実質的な差ってあんま無いんだよね。あくまで俺の主観だけども、まぁ例えばMIDIで例えるならさ、MIDIで打ち込まれたペルセポリスのデータを元にオーケストラ作品化したのがクセナキスのオーケストラ作品って感じで、あくまでクセナキスって音を音として純粋に扱っているんだよね。


だから電子音楽作品とオーケストラ作品の差ってのがあんま無いのね。どちらも純粋に迫力のあるクラスターノイズみたいな趣があって、そのバイオレントさ加減はへイターズとかハフラートリオみたいなのを連想させるんだよね。だからクセナキスってノイズ音楽系のフィールドでの評価が高いわけ。ちなみに小杉武久はチュードアをノイズ音楽のオリジンとして評価するみたいなことを言っていたと思うんだけど、確かに純粋なエレクトロニクスの饗宴って意味だとチュードアはあえてハーモニーを気にしないフリーな電子音楽という意味でのノイズ音楽のオリジンなんだよね。


インフォレストみたいなのが典型だけど、やっぱ一番威力があるのはLovelyから出てる電子音楽集ね。小杉武久が奇声を発しつつチュードアがエレクトロニクスをいじりたおすっつー構図はインキャパ的かもしれないわけで。ちなみにイタリアのね、crampsっていうところから出ている現代音楽系の流れではあるんだけどアカデミックな領域ではあんま評価されなかったみたいなね、例えばマルケッティみたいな電子音楽みたいなのがまぁもっとぶっ飛んでる感はあるよね。イタリアってあのMBのボックスを出したレーベルとかさ、妙にアカデミックな領域ではイマイチ評価されなかったラディカルな電子音楽みたいなのに凄く強いんだよね。


フルクサス全般もアカデミックという視点から言えばほとんど黙殺っぽい感じだしっつーかまぁ今では歴史的な価値があるんだろうけど、例えばライリーとかヤングみたいなのってヒッピーの電子音楽みたいな感じだったわけじゃない?当時は恐らくね。でもさ、現代音楽の領域でも電子音楽に限っては割とぶっ飛んだのが多いっつーか妙にマルケッティとかライリーやヤングみたいなのとリンクするのがあって、だからまぁ電子音楽って面白いんだよね。ロシアのウラジミールなんたらスキーも面白い電子音楽を作っていたし、ドイツのWDRとかさ、フランスだとINA-GRMとかね、アメリカでも名前は忘れたけどなんつーか当時は各国がこぞって電子音楽の研究施設みたいなのを作ってたんだよね。国営でやっててさ、日本にもNHK電子音楽のスタジオみたいなのがって、有名なのがあの塩なんたらっつー人の作品集だけど、こういうのが国営で営まれてきたっつーのがなんか凄くいいよね。今はそれが完全にアーカイブ化されて聞けるわけでさ、良い時代だよね。


ちなみにフィールド音楽で言うとさ、前にも書いたけどずば抜けているのがフランシスコ・ロペスね。あいつの電子音楽とかノイズ系はさっぱりイマイチなんだけど、フィールドに関しては天才的でさ、確か彼は哲学の教授だったと思うんだけど、まぁ音に対する認識がそれこそ哲学的なんだよね。レインフォレストのやつにしてもさ、徹底的に考え抜かれているのがさ、何時間も録音したレインフォレストの音をあえて擬似的なサウンドスケープにすることに成功しているんだよね。ようは生の録音では2時間ぐらいずーっと同じ音が続いてるんだけど、作品ではレインフォレストの様々な変化ってのが自然ながらも意図的に人工的にドラマティックに仕上げられているんだよね。実際のレインフォレストにいたらあんな多種多様な音の変化を1時間で堪能できるわけないんだけど、それを人工的に作り出しているのがロペスのレインフォレストなんだよね。こりゃー凄いよ。マジで。通称アメリカ3部作って言われてるやつでは他にニューヨークのビルの音のみで構築されたビルディングっつー作品があったけど、これまた凄いんだ。音的に退屈だけどコンセプトはバッチリ。


それこそビルのさ、「ブーン」っていうモーターの音とか何かのハム音とかさ、ニューヨークのビルのノイズのみで構成されてるのね。これもありふれた音の光景を集めて布置することで架空の音の世界を作り上げるって意味では大成功してる作品なんだよね。あくまで普通にある日常の音を集めてきて過剰に聞かせることで音楽作品としての価値を作り出しているっていうか、そこに作者の手が加わるってことでそれが作品化されているっていう意味ではデュシャンのレディメイド的発想でもあるんだよね。ありふれたものではあるんだけどそれを集めてきて署名して出しちゃえばその人の作品っていうね。まぁロペスの場合、音の機能美とか構築美みたいなのがあるからデュシャン的な究極的な即物感ってのはないんだけど、でもマテリアリスティックで芸術的って意味ではデュシャンと共通しているものがあるよね。


で、ロペスのアメリカ三部作の完結編であるWindってやつはまぁ名前忘れたけどどっかの島の風の音だけで作品が構成されているんだけど、風って耳によって作り出されている音なんだよね。耳がああいう形してるんで、音が耳も込みで反射して聞こえてるわけでさ、それをマイクロフォンで録音してそれだけ聞かせるってかなりラディカルなやり方なんだよね。風ってあんま音として認識されてないじゃない?ノイズですらないよね。むしろ風ってさ、風によってその場に起こっている何かの振動なりさ、音の反射だったりするわけじゃない?風自体に音は存在しないんだよね。それをさ、無人島みたいなところで風の音を純粋に採取してメスを入れるってすげーナイスなコンセプトだよね。まぁ音的にはただの風の音なんだけどね。意図的ではないんだけど、風の音が凄く効果的に音響効果をもたらしているのが水谷聖のYokosawa-iriね。これは俺の中のフィールド音楽でのベストなんだよね。これを越えるフィールド作品ってのはこの世に今のところ無いね。それぐらい空間を引き出すことに成功しつつ、手が加えられていないように見えて、明らかにそれが作者の主観によるフィールド音の音の切り抜きなんだなっつーのを作品を通して感じることが出来るのね。


これがなんつーか癒し系とかいって発売されている「山の音」とかとフィールド音楽が違う決定的な理由ね。作者の切り抜きなり編集という主観が介在していれば、それによって完成された作品ってのは音楽作品なんだよね。で、あまりにYokosawa-iriが完璧過ぎてまぁなんかあんま俺がフィールドやる必然性ってのを感じなくなったんだよね。あれは衝撃だったな。音を切り抜いてくるっていうさ、空間的なものを保持しつつ作者の作品たりうるものにしているアーティストの手腕っつーのかな?それを水谷聖のフィールド音楽に感じるんだよね。ちなみにフィールド音楽のコンピの傑作は地味ながらもThe sound of natureってやつね。あ、そうだったっけな?タイトルがThe sound of natureでアーティストがThe nature of soundみたいな言葉遊びがあるフランス産のコンピなんだけどね、その筋では有名なフィールド作家が作品を提供していて面白いんだよね。


傑作っつーのは言い過ぎだけど、自然の音っつーのに焦点を当てたコンピって意味だとかなり貴重なんだよね。まぁもっと行くとまぁEarth Earのコンピみたいになるんだけど、The day of soundだったっけな?世界のフィールド作家みたいなのが持ち寄ったフィールド音がノンストップで午前0時からの世界の24時間で繋がれているっつーすんげーコンセプチュアルなコンピでさ、例えば夜中の0時あたりのマンハッタンの地下鉄のフィールドっつってさ、んで次に別の国の0時半ぐらいの街のフィールドって感じで、その世界の時間とフィールドっつーのがノンストップに繋がれているのね。すげーコンセプトだと思わない?24時間だったか12時間だったか忘れたけど、まぁそんな感じでね、例えばさ、昼間の東京の地下鉄の音っつって次に昼間のパリの公園の音っつって同じ時間の違う空間で繋がっているわけ。概念が空間的なんだよね。それを音でやってるのが凄い。ちなみに日本からはYuko Nexusが参加してたね。


ちなみにこの一連のフィールド音楽みたいなものの先駆けっつーか、一番それを意図的にやってたのがビル・フォンタナね。彼はそれをインスタレーション的にさ、リアルタイムにやっちゃったから凄いんだよね。使われていない駅の音とどっかの公園の音みたいなのをさ、リアルタイムに送信して、んで一カ所で流すみたいなのをやっててね、こりゃー凄いよね。マジで。ちなみにフォンタナの音楽作品ってのはほとんど全てが廃盤でずーっと手に入らないのね。もう10年近くずーっと欲しいと思い続けているのがフォンタナの作品なんだけど、まぁネットから聞けるやつもあるんだけどね。でもフォンタナの場合、なんつーかCDっつーかさ、パッケージで聞きたいんだよね。


フェラーリがまぁまぐれで哲学的な、ケージの哲学的な沈黙の音楽作品とは対照的な沈黙の音楽作品をあくまでまぐれて作り出せたのであればね、フォンタナは地でやっちゃった感があるんだよね。まぁフェラーリみたいな先駆者がいるんだけど、自明だったかはともかくとしてそのコンセプトを拡大したのがフォンタナって感じでさ、まぁGod father of field recordingなのがビル・フォンタナだよね。で、まぁフォンタナがゴッドファーザーなんだとすれば、まぁフィールド界のプリンスみたいなのがクリス・ワトソンだよね。まぁ年齢的に両者とも変わらないのかもしれないけど、ワトソンはキャバレーヴォルテールとハフラートリオの発起人でもあってさ、歴史的に面白い人なんだけど、バイオレントなノイズっつーかラディカルな音楽とは対照的なフィールドをはじめたっつーのは別に歳とったから丸くなったってわけじゃなくて、ようは音のフォーカスなんだよね。ノイズに焦点を当てている時点ですでに彼らの頭の中ではノイズと音楽と音の境界線ってないわけでさ、その境界線の無さを考えればフィールドとノイズって静と動みたいな関係性みたいに見えるけど実は近いのね。

いや、凄いビル・フォンタナへの熱い思いが書かれてるんでもういっかーって思ったぐらい長いな。ちなみに死骸のコラージュを作りたいのは俺なんだよね。フォンタナは認識的な異化というか、wergoのやつのライナーにも書いてあったと思うけど、コンテキストとか場とかを排除してそれだけその場に持ってきちゃうみたいなデュシャン的な即物性なんだけど、そこで俺的にはシュールレアリズム的な異化が起こってるから面白いなって思うんだけど、つまりは俺がやりたいのはそういう異化とさ、あとはエレアコとかミュージックコンクレート的な感じだよね。だから完全にフィールドというわけでもなく、かといってエレアコというほどエレアコでもないっていう。


いや、そんなことを考えてたら作り終えずに放置されてた例のフィールドのやつを完成させようと思ってさ、この思いを実現させるべく作ってるんだけど、いや、かなり死骸感がいいなぁーと思って俺のアイデアってやっぱフェラーリとかフォンタナとかぶっているところがあるんだけど、でも俺独自のコラージュ感っていうか死骸感があってさ、それがなんつーか尺が長いコラージュみたいな感じになってるんだよね。フィールドなんだけどそこまでフィールドっぽくない感じっつーのかな?いや、いいなと思ったね。だから完成させようと思って。元はまぁその長年やり続けていたビル・フォンタナ的なアイデアリュック・フェラーリ的なものなんだけど、インスパイアされたものとしてはジムオルークのscendなんだよね。で、その「死骸」としてジムの初期から中期ぐらいの諸作品からのフィールドを音的に使っているっていう。いや、自分で取った鳥の声とかさ、車の音とかでもいいんだけど、んでもそれって俺にとっては俺のフィールドレコーディングなんだよね。言わば生もの。でもジムっつーか他人がとったフィールドに関して言えば本当に死骸で、特にジムみたいな全体の一部として使われてるやつとかって俺にとっては凄く「モノ」感覚が凄くあってさ、いや、マテリアルって意味でのモノね。


だから水の音とかまぁなんでもいいんだけど、凄くまぁマテリアル感があるんだよね。そこに俺の生もののフィールドも混ぜたりするっていうさ、そういう異化だよね。で、結果的にそれが人工的なサウンドスケープ的に聞こえたりもするんで、だからフォンタナ的なコンセプトも達成されてるっていう。他人のアイデアのコピペって感じだけどさ、でもまぁこれって俺がずーっとやりたいことだったわけで。なんで完成させないのかな?っつーのがまぁつまりは自分の中でまとまってなかったからなんだと思うんだよね。


で、最近なぜかまとまってきたっつーかここ1週間ぐらいでいきなりなんつーかフィールド音源みたいなのに意識が行き始めてさ、んでまぁフィールドのやつの制作に戻ったわけだけどね。でも常に9割ぐらいできてる感じだからまぁアレなんだけど、つまりは音の作品としてはまぁ別にある意味で完成されてるのかもしれないけど、本当に俺がやりたいことのエッセンスを全て入れることができているのか?っていうところに凄く批判的でいるから、だからまぁなかなか完成しないわけだけど、結構まぁ今回貼った過去のエントリーのやつとかみてもまぁ自分なりに答えは出てたんだなぁーっていう。ただまぁ具現化してなかったんだなっていう。まぁ放置ですよね。


んでまぁフォンタナの話に戻すとさ、こうやってまぁ日本に帰ってきたわけだけど、ライナーとか見ると英語読めるんだよね。だから読んでみたらさ、いやね、全然知らなかったんだけど、なんかさ、いや、10年前ぐらいに買った当初はただのサウンドスケープだと思ったんだよね。響きの生態系に載ってたようなフォンタナ的なコンセプトを期待してたら「あれぇー?」ってなったっつーかそうなったまままぁサウンドスケープとして聞いてたんだけどライナー見たらモロフォンタナじゃん!っていう。細かいディティールは忘れたけど、サンフランシスコのベイエリアの音とかどっかのヨーロッパの教会だかの鐘の音とかゴールデンブリッジだかの橋の音とかさ、それがまぁようはミックスされてるんだよね。いや、フォンタナでしたね。あまりにバランスが良いんでさ、ベイエリアで近くに教会があるようなところで録音してると思ってたんだよね。


ちなみに鳥の声とかはどっかの森らしくて。すげーなぁー!と思ってさ、いや、でも観念的だよね、音だけ聞かされたら分からないじゃん?それこそ10年前の俺と同じように。でもコンセプト理解するとなんかすげーな!って思えるっていうかさ、でもそれって音楽的にどうなの?って気がするけど、俺が好きなのはコンセプトなんであってさ、かといって音がどうでもいいってことではないんだけど、ただなんつーか俺は凄くヴァーチャルなサウンドスケープみたいなのに凄く魅せられるんだよね。それはまぁ今回貼った過去のエントリーで散々書いたようなことなんだけど、初期っつーかさ、それこそ10年前ぐらいからの5年間ぐらいは音そのものの異化を目指してたっつーかやってたんだよね。音のモジュレーションだよね。


引用が無駄に長くなり過ぎて、まぁリンクで良かったかなーとか思いつつ、激しく長いので何回かに分けますね。あと言及されたやつを適当にアフィっとくね。