Bill Fontanaについて。その3。

では続きです。


あと書き忘れがあるんでね。角田さんのことを忘れるわけにはいかないだろうっつーか角田さんのやつも一時期狂ったように聞いてたときがあったけど、つまりは俺が求めているコンセプトとか音ってのをやっているアーティストが滅多にいないんで見つけるとすげー入り込んじゃうってのはあるよね。でも角田さんってメタ的なフィールドレコーディングをやっているから、だから俺的には角田さんって音響作家なんであってフィールド作家ではないんだよね。所謂、さっき書いたようなフォンタナとかワトソン的なガチなサウンドスケープではないっていう。いや、サウンドスケープなんだけど、常にメタ的な音響アプローチがあるから、だからなんつーかサウンドスケープって感じがしないんだよね。wrkがそうだけどまぁ凄く現象的なんだよね。


角田さん本人もそんなようなことを言ってたと思うんだけど。実際、角田さんって作品がフィールドに限らずなんつーか音とか音波っつー現象を扱っている作家って感じがするからさ、その音波的な素材とかモチーフの一つとしてのフィールドって気がするんだよね。だから良い意味でフィールド的じゃないってことだね。いや、フィールド的なのだけを並べれば十分フィールド的ではあるんだけど、それはちょっと違うかなっていうか、角田さんのやつってまぁ全部持ってるわけじゃないっつーか正直まぁ告白すれば好きだったものも含めてケージとかチュードアみたいなのですらほとんどの電子音楽とか実験音楽みたいなのを売った時期があったけど、まぁ今の俺で言うジャズみたいなもんか。まぁそんな流れの時に売っちゃったんだよね。


まぁそれはともかくとして俺が持ってた限りので言えば角田さんのやつって音波系のやつとかフィールドとかのやつとかが混ざっているというよりかは、音響とか音波物としてそれがアルバムとして入ってるって感じだからフィールド的に聞けるようなやつだけを聞くっていうアプローチがそもそもおかしいんだよね。まぁそんなの聞く側の自由なんだけど、あの音波的なトータリティっつーのかな?聞こえない低周波とかも含めた全ての音波に耳やら関心を向けるって感じだと思うんだよね。そういう意味でのまぁ音響っつーか音波作家なんだよね。音響っつーと一時期流行ったやつがあったけど、まぁそういう意味じゃなくてガチの音響作家ってことね。


ところでさ、前に書いた地球系のサウンドスケープだけどさ、エコ的な思想とかが入っているのはまぁはっきり言えば大嫌いなんだけど、なんつーかあれだよね、それは写真でもそうでさ、エコ的な思想が入った屋久島とかの写真みたいなのってすげー嫌なんだよね。屋久島のサウンドスケープっつってエコ的な観点から聞くのとかってまぁサウンドスケープ自体が優れていればまぁ聞くとは思うけどさ、んでもまぁコンセプト的には関心しないよね。俺が興味あるのは前にも書いたように恩田晃的なまぁ写真的なサウンドスケープなんだよね。屋久島みたいなさ、誰がとってもそれらしくなるようなアイコン的なものとかじゃなくてさ、写真で言えば近所の公園を撮影しましたみたいなさ、でも別に発表する目的でとったわけじゃなくて良かったからとったみたいな、そういうパーソナルなものだよね。


そういうところにサウンドスケープの作家性って出るわけじゃん?それがつまりは作家性だよね。半ば無意識的にそこの音を切り取りましたみたいな感じ?まぁんでまた俺の話になっちゃうけど、俺はまぁ全部ミックスなんだけどね、そういうのを全部一つにしちゃうみたいな。でも興味あるのはさ、違うサウンドケープとかさ、違う観点とか指向性とかね、距離感でとられたものが同時に鳴ってます的な感じじゃなくてメルトダウンなんだよね。全部混ざっちゃってゲシュタルトが崩壊するみたいな、そういう溶ける感じだよね。そのまぁメルティングな感じを出したいっていうかなんていうか。


ところであとあれだ、Eric La Casaだな。ほぼ完璧なのは彼だな。ホント、それこそ「うわーやられたー!」的なものを作るのが彼だね。特にThe Stones of the Thresholdはヤヴァいなって聞いたの最近なんだけど。それこそフランス繋がりで言えば俺がリュックフェラーリに求めてたのってこれでさ、俺的にはまぁプレスクリヤン的なコンセプトって言い方が正しいか分からないけど、「何も無い感」で言えば彼が後継者っつーかさ、リュックフェラーリがもっと極めれば良かったのにってところをやってる感じだよね。まぁ結局、リュックフェラーリって中途半端な現代音楽家でさ、時代的にもフィールドって意味でケージなんかと並んで語られることが多いけど、まぁたまたまなんだよね。別にフィールドで凄いやつ作ったわけじゃないし、まぁ先駆者だったってだけだよね。


そう思うと先駆者はことごとく滅びてるなぁーって思うね。ケージだってあのチュードアがたまにチャンスオペレーションかなんかで音を挟んでずーっとケージが朗読してるやつとかさ、ロアラトリオとかにしてもまぁフィネガンズウェイクの朗読とかすげー余計だもんね。別にずーっとランダムにテープ操作してりゃーいいのにって思っちゃうんだけど、そういう意味で割とフェラーリとかケージに比べれば現代的な作家が俺の聞きたい音を作ってたりコンセプトでやってたりするのを見るとさ、なんかまぁやっぱいいよなぁーって思うよね。まぁ俺基準でアレなんだけど、まぁ俺にとっての音って意味でいいよなぁーってことね。逆にEric La Casaがケージぐらいの年代の人でさ、現代の人がケージみたいなことやってたら絶対好きじゃないと思うからね。フェラーリもケージも先駆者であったという意味で評価できるだけで音楽作品自体を今でも評価できたりするのってまぁはっきり言ってないよね。まぁ正直言えばケージで言えばロアラトリオぐらいだよね。フェラーリで言えばさっき書いたようにミュージックプロムナーデとプレスクリヤンの第一ね。


あ、んで書き忘れてたけどさ、音の切り取りっていうことなんだけどね、分かりやすいかどうかは分からんけどさ、つまりはその録音した作家とそこにあった音との関係性の物語みたいなのを聞く感じなんだよねっつーかそういう切り取りが好きなわけでさ、例えば屋久島とかさ、有名なサウンドスケープの名所みたいなところだとまぁ相手が地球じゃん?録音してる人とその音との関係性ってそれこそ富士山を撮っている写真家みたいなもんでさ、まぁ富士山を撮っている写真家が悪いとは言わないけどさ、でも作家と富士山との関係性って無いっつーか物語性が無いじゃん?あくまで自然と人間って感じだよね。エコ的な姿勢のサウンドスケープってのはほぼ例外無くこれだよね。


だからつまらんのが多いんだけどさ、あとはまぁせっかくエレアコっぽくても思想がエコっぽかったりするとクソだったりして、まぁ正直苦手なんですよね。そういうの。ニューエイジとかでさ、イーノとかとは違った意味でニューエイジアンビエントってあるじゃん?きたろうみたいなやつっつーのかな?すげーわざとらしいシンセのパッド音みたいなさ、ああいうのと自然音混ぜるとかってよくリラクゼーションCDとかいってあるけどさ、ああいうのもつまりは自然を相手にしている音なんだよね。つまりは自然賛美っつーかさ、自然への憧憬とかさ、自然主義的っつーかまぁようは自然を賛美する一種の神秘主義だよね。だからこそ自然の音にはパワーがあるみたいな胡散臭い波動論みたいなのが出てきたりするわけで。まぁ実際、科学的にそういう波動があるなら別だけども、まぁ俺はそういう思想には全く興味ないのね。


でも俺は自然が好きでさ、それはもっとカオス的な意味なんだよね。あれは究極的なチャンスオペレーションじゃん?まず再現不可能なcombinatorics的なさ、離散的な個々の音の集合体とか組み合わせとかさ、もしくは波長とかね、そういうのがあるじゃん?偶然のシンフォニーみたいな。意図が無いんだよね。でもそれがすげー良かったりするわけでさ、「うわーすげー!」ってたまに別にその辺歩いてても音が良かったりする時があるじゃん?そういう意味での自然なのね。


だから別に山奥とか行かなくてもまぐれですげー良い音の瞬間とかってあるわけだけど、あくまでそれは主観的なんだよね。いつもはうるさいのに今日はたまたま静かで自分の心も穏やかでんで普段は聞こえないような音がそこから聞こえてきたとかさ、見えてきたみたいな、それこそまぁその個人とその音空間との関係性なんだよね。そこに生じる内的な物語なんだよね。それは共有できないんだけどさ、そこをあえてそういうものを即物的にペタっ!と貼っちゃうみたいなさ、そこにまぁデュシャン的なものを感じるわけね。個人の物語っつーコンテキストを破壊して、むしろ物語が無いと成立しないようなサウンドスケープをあえて物語無しで貼っちゃいますか!みたいなところだよね。で、それを重ねていくとまぁ何も無いものになるっていうかさ、何も起こらない架空のサウンドスケープになるんだけど、まぁそれがプレスクリヤンの真髄だと思うんだよね。


そういう意味でフォンタナはなんつーかケージ的なものとフェラーリ的なもののバランスが良いんだよね。凄く。だからまぁ俺は一番好きなのかもしれないね。ずーっと好きな作家って滅多にいないわけよ。でもビルフォンタナだけはそれこそ10年前に知ってからずーっと俺のコアの中にい続けた作家だし、今またまぁ勝手にマイブームが到来してるわけね。純粋にテープコンポジション的な意味で言えばさっき書いたEric La Casaがトップだな。Eric La Casaはやっぱりコンクレート的なニュアンスとサウンドスケープ的なニュアンスがハイブリッド的に存在してるってのが音世界として素晴らしいんだよね。凄くだからまぁそういう意味で抽象的な言い方になると美しいんだよね。ピュアなコンクレート的な美しさがあるっていうかなんていうか。


でもあれだよね、リュック・フェラーリってさ、ようは俺みたいにプレスクリヤン的な何も無い感じをある意味で最初にやったっていうさ、ロペスのLa Selvaとかもそうだけどさ、録音した場所が一カ所であれ数カ所であれさ、何十時間もとったやつをエディットしてまるで一時間の間にサウンドが展開しているように聞かせるとかってコンポジションだと思うしね、いや、唐突にウィキから引用するとさ、

1960年代初頭までに、「エテロジゴート Hétérozygote 」の創作に取り掛かる。これは、「組織化されて詩的な、しかしながら物語性を指向しない」環境音を用いた、磁気テープのための作品であった。録音された環境音の利用は、フェラーリの音楽語法の特徴的な部分となっている


このエテロジゴートのコンセプトだよね。ただプレスクリヤン以外さ、エテロジゴートで言ってもなんつーかやっぱミュージックコンクレートなんだよね。恐らくフェラーリって志向がコンクレートなんだよね。その中にサウンドスケープ的なのもあるっていう。だからサウンドスケープ的に聞こうとしてもすげー違和感があるっつーかさ、かなりうるさいミュージックコンクレートだよね。で、俺が思うにEric La Casaなんだよね。フェラーリが過大評価されているのはオリジン性だけなんであってさ、フェラーリ的なコンセプトを高いクオリティで作ってるのってEric La Casaだと思うわけっつーか他にもいるかもしれないけど、まぁ彼ぐらいしか浮かばないからね。


あとはやっぱなんつーかフェラーリの一連の作品のさ、コンセプトは良いのに音的にビミョーみたいなところをさ、すげーテープ音楽的に高いクオリティで作品を作ったのってジムオルークだと思うんだよね。ジムの初期以外俺はさっぱり興味がないんだが、やっぱりまぁさっきも名前が出たScendが一番いいよな。これは別にジムというよりかはフィールドを使った音楽作品で一番好きなやつって感じだよね。DisengageとかはTzadikからのTerminal Pharmacyの40分のやつとScendの間ぐらいって感じでさ、良くも悪くも知的な現代音楽的風なんだけど、Scendは電子音楽の歴史から言っても凄くてさ、特にまぁGunterみたいなさ、ああいうまぁ静音系のサウンドアーティストとかって出てきたじゃん?


90年代半ばぐらいかな。まぁ活動自体は結構やってるのかもしれないけど、割と見かけるようになったのが90年代後半だと思うんだけど、そういう意味でなんつーか5年ぐらいある種の音響的なサウンドに対して先行してたっつーかさ、かといって音響系というだけではなくて、なんつーか静音系の極力音を排した感じみたいなアプローチも同居してて凄いんだよね。それこそ現代音楽とかミュージックコンクレートの歴史的作品でさ、それこそシェフェールからフェラーリから・・・みたいな流れに位置づけていいぐらいの感じっつーか何気に俺は一番クオリティも高いと思うんだよね。電子音楽にせよ具体音楽にせよアプローチが独特とか、なかなか使えない機材を使っているってだけで、別に音楽的な感覚とかセンスってそこまで優れてるわけじゃない作家って多いじゃん?現代音楽に。


でもジムってすげーんだよな。初期はもう本当に現代音楽的っつーか若手現代音楽家だったわけだよね。で、実験的なものとか前衛的なものの閉鎖感とかバカらしさに嫌気が指して一気に路線を変えるんだけどさ、んでもまぁ歴史で見れば根本的には変わってないんだけどさ、まぁでも本当に凄いよね。俺の中でジムオルークは初期においてのみ本当に独立している凄い音楽家なんだよね。90年代後半からのはまぁ別に個人的に好みじゃないってだけで才能が枯渇したわけではないんだけどね。メタムキンのRules of Reductionもいいね。


まぁこれは本当に映画っぽいイメージ的な音の使い方だけど、でもなんつーかジムは何気にコンクレート音の使い方が上手いんだよね。今ではそんな面影が無いんでアレだけど何気にミュージックコンクレートの作家として凄かったみたいな。いや、本人は嫌がるだろうけど俺は本当に彼の初期っつーか90年代前半の作品を評価するね。Scendはあれだ、もちろん持ってるのはLPなんだけどアートワークも凄まじく良いんだけど、なんつーかおつなんだよね。消えそうなぐらい小さい水が落ちる音とかがレコードからしてくるって現象が俺は大好きで。音を聞こうとしてレコードの出力を上げるとレコードのノイズのほうが大きくなっちゃうっていう。


ところでさ、妙にまたこんな感じでフィールドについて考えてたらさ、フィールド熱みたいなのが出てきてさ、んでふと思ったのがさ、録音機材ってどうなってんのかな?と思ってさ、で、3年前ぐらいにICレコーダーとかさ、Ipodの録音機能とかどうなんだろうな?とかって思ったんだけど、去年にPCM-M10っつーソニーのPCMレコーダーが出たらしいんだけど音質が良いみたいなんだよね。DATより良い音質で録れるとかなんとか。いや、分からんけどさ、DAT調子悪いから買うと思うけどね、いや、俺が夢に描いてたような機器だよね。いや、DATってね、ポータブルでもなんつーかポータブル感が無いのよ。それこそ恩田晃のカセットみたいな感覚で外に持ち歩ける感じじゃなくて「DATを持っていこう」みたいなガッツリ感があるんだよね。それこそまぁデカいカメラみたいなもんだな。


デジカメならなんとなくバッグに入ってたとかさ、小さいやつね、それってまぁ凄いじゃん?で、そういう感じなんだよね。これ。本当に携帯型音楽プレーヤーみたいな感じでさ、こんなの出たらフィールドレコーディング界に旋風が巻き起こるじゃないか!とかって思ったんだけど、そもそもフィールドなんてやってる人そんなに多くないだろうしっつーかいや、純粋にフィールドだけならいるかもしれないけど、そこからミュージックコンクレートとかエレアコを作ろうって思う人はあんまりいないんだよね。いや、この手軽さからすげーフィールド音が流行りそうな気がしたんだけど、まぁそんなことないのかな。いや、過去にはさ、それこそシンセみたいな感じでさ、高価だったり扱いが大変だったりして普通の人はあんまり持ってなかったとかさ、いや、大昔の話ね。で、DAtで言ってもそうだと思うんだよね。まぁMDとかあったかもしれないけどさ、でもここまでガッツリフィールドできるって凄いと思うんだよね。しかも値段が3万以下だし。


あ、でもまぁあれか、そもそもコンクレート好きだったりサウンドスケープ好きだったやつはDATが高価だろうが買ってやるんだよね。俺みたいに。だから別にDATに変わるかDATに負けないぐらいのポータブルな録音機とかができても別にそれがフィールド人口を増やすわけではないんだよね。そりゃーだってデジカメが普及したからっつって写真家が増えるわけではないのと一緒だよね。あんまり別に機材の扱いやすさとか値段って関係無いよね。ただでもさ、もうすでに録音に狂ってた中学の頃の俺とかさ、あんぐらいの頃の俺がこんな機材に出くわしてたらそりゃーすげーことだなって思うんだよね。いや、んでDATでちゃんと録音するようになったのは17歳ぐらいの頃だよね。


その頃にすでに自分なりにサウンドスケープとかミュージックコンクレートのアイデアを導きだしてたって凄いなって思うんだけどさ、まぁいつも書くように驚きのほうがデカかったんだよね。1947年だかにシェフェールの列車の習作があってさ、いや、あれを聞いたときは本当に度肝を抜かれたね。こんなの半世紀も前にやってたのか!ってまぁーそりゃー感動したね。で、その後にまぁコンクレートとかサウンドスケープって概念がある意味で所与の概念的にもう存在するんだなってことを知ってさ、んでサウンドスケープとかコンクレート的なものを探したんだけど、あんまり無かったよね。


まぁAvator/Ohmっつーレーベルは好きだったし、これは今でも売らないで持ってるんだけどね。特にChristof Migoneっつー人のやつが好きっつーかVEXってやつなんだけど。ただあまりに完成度が高すぎるのと、なんつーかあと楽曲っぽいんだよね。素材はコンクレートだけどクオリティが高過ぎて音響作品になってるんだよね。いや、これはこれでいいんだけど、俺はもっとコンクレートとかサウンドスケープが地で残ってるようなのが好きなんだよねっつーか求めてたわけね。Illusion of Safetyなんかはテープ音楽的な感じとコンクレートな感じとノイズな感じが同居してて面白かった記憶があるけど、まぁこれはかなりノイズ的だよね。Bad Karmaってやつを持ってたけど結構聞いたなぁー。いつ頃か分からんけどジムも所属してたユニットなんだよね。


んまぁでもあれだ、コンクレートはコンクレートだよね。これはこれで好きだけどやっぱりサウンドスケープとその異化なんだよな。本当にそれだよ。音同士を混ぜ合わせたりしてコンテキスト的な意味合いを無くすみたいな手法ってミュージックコンクレート的だけどさ、んでもそれをサウンドスケープでやりたいみたいなところがありつつも、でもやっぱデジタルプロセスとかさ、そういうのは嫌なんだよね。具体音をデジタルっぽい処理したやつかはすげー嫌いだから。まぁ変なノイズリダクションとかはいいんだけど、まぁ俺がやる音操作ってEQ操作だよね。


つまりはまぁ周波数操作だよね。エフェクトとかかけ過ぎると全然素材の意味とかなくなるからさ、だからまぁそういうのには興味ないんだよね。いや、かけ過ぎるやつばっかで作るやつとかならいいんだけど、もうあんまそういうのには興味なくなったんだよね。昔は結構作ってたけどっつっても意外と少ないんだよな。まぁ比べるのはおかしいけどミックスとかのペースに比べたら明らかに遅いっつーか寡作だよね。まぁそれでいいんだけどね。量作ろうとは思わんからね。エッセンスが入ったようなのを一つ作りたいっていうのがすげーあるね。だからまぁJ太郎に捧ぐとかFunky Kinky Grooveとかさ、リリースすらしてないし、分からない人いるだろうけど、まぁ俺のコラージュっつーと語弊があるんだけど、まぁ本当に俺の作品があるわけですよ。ジャンルがつけられないような。あれってようはあれで満足なんだよね。完全にではないからまた似たようなコラージュ系は作るかもしれないけど、んでもまぁ今の所はないかな。


ってことで容赦ない感じでまだ続くんでこの辺で切りますです。