Bill Fontanaについて。その4。

あ、んでね、まぁ別に凄いってわけじゃないんだけど、水谷聖とDaniel MencheのGardenっていうコラボ作があってさ、Daniel Mencheっつーから何やるのか?って心配になるじゃん?で、音作りが面白いのがさ、high frequencyは水谷でlowがdanielっつー周波数コラボなんだよね。っつってもまぁ水谷のは蝉とか虫とかの高い音のフィールドだけでさ、んで相変わらずちょっと自分の声とか入っちゃってるんだけど、そこにMencheのたまに入るような「ブオーン」みたいな低音があってさ、これが絶妙なんだよね。これもまぁ一種のサウンドの異化だなとは思ったね。


やみくもにフィールドに電子音とかドローン混ぜればいいのかってそんな短絡的なことではないんだけども、んでもこのコラボはすげー成功してると思ったね。それこそまぁ低音が出ないコンポみたいなので聞いてたら普通のフィールドだからね。まぁでもちょっと音がいじってあるっぽいんだけど、んでも原音を壊すようなエフェクトはかかってなくてさ、結構いいんだよね。これ。こないだなんか6時間ぐらいずーっと聞いてたからね。


んでもさ、蝉のフィールドから鳥になったりね、そういう人工的なフィールドの移行ってのがまぁプレスクリヤンですよねっていう。だからまぁこれぞプレスクリヤンなんだよね。本当に何もなくて、まぁフィールドの音しかないんだけど、んでもMencheの低音入ってるしフィールドの展開ってATフィールドって意味じゃなくてフィールドレコーディングって意味での展開があるじゃない?そこにコンポジションを感じるんだよね。ようはこのコンポジションを感じられるフィールドってのが好きなんだよな。ただもちろんそこにピアノとか情緒的な生楽器とか入ってるやつは問題外だけどね。


ああいうのって本当にニューエイジ的なもんと仮に音響的なアプローチであれ根本的に変わらないと思うからね。ようはフィールドの音を活かすドローンとかちょっとした電子音なんだよね。よりフィールドが鮮明に聞こえるような音を足すとかってやっぱコンポジションなんだけど、でもこのコラボのGardenぐらいフィールドが放置されてるぐらいがいいんだよね。放置っつーよりかはほぼ原型のまま結構長く流れてるんだけど、でも音楽作品的な構築とか流れがあるっていう。そこがいいのよね。最小限の人間の介在しかないんだけど、それがフィールド作品っていうコンポジション作品を作品たらしめているっていうかさ、プレスクリヤンが作曲なのもまぁそういうことじゃん?これですよね。フィールド作品のコアって。まぁ俺にとってのね。


で、今の所、俺が定義するコンポジションらしいフィールドって言えるのって本当に少ないんだよね。いや、少ないから嘆いてるってわけじゃないんだけど、なんかさ、フィールドってキーワードは目につくんだけど、大抵が音楽の素材の中にフィールドがあるっていうさ、そこにすげーゲンナリするんだよね。まぁそういう人達はそれでやっていればいいんだけど、俺が求めている音って本当に少ないなっていう。だから自分で作るしか無いっつーイニチアチブが働くわけね。


そういう意味でフィールド素材って凄いんだよね。音の意味論っつーかなんつーか音のクオリアですよね。それは鳥の声を認識するクオリアとかって話もそうなんだけど、俺が言いたいのはフィールド素材が配置されることによって、その配置具合によって一気にフィールド音に対するクオリアってのが変わってくるんだよね。だから例えばバイオリンとか入ってきちゃうと「うわー・・・」ってなるのが俺のフィールド音に対するクオリアが変わるってことじゃん?2分ぐらいがずーっとフィールド音でさ、例えば波の音だったとして、波の音を聞いてた俺に対してバイオリンとかニューエイジっぽいシンセとかが入ってくることによって波の音がそっちと同化するんだよね。


で、一気にそれがニューエイジ音楽とかさ、俺があんまり好きではないタイプのフィールド使いをしている音響とかエレクトロニカ系の作品ってことになるんだよね。だからこそなんつーか人間の介在とフィールド音の存在がぶつかりあってないようなのがいいってことだね。いや、音楽作品でもあるかもしれないけどさ、それがね、アンビエント的な効果を出すために使っているとかだったら素材としてのフィールド音とかだからいいんだけどさ、中途半端なのあるじゃん?フィールドをメインにしたいんだが自分の楽器を弾きたいんだかさ、何をやりたいんだかさっぱり分からないやつって結構あるよね。フィールドっつって目につくのは主観的にはそういうやつのほうが多いね。で、そんなの買っちゃったら大失敗になるからすげー用心してるよね。まぁ今はネットで試聴できるからいいよね。


Scendで言えばさ、しつこいようだけどフィールド音とドローンとかコンクレートを加工したドローンとかね、そういう音とフィールドの音の共存っつーかハーモニーが凄いんだよね。で、部分部分はそれこそ「チャプンチャプン」みたいな水の音しかなってない部分とかがあったりさ、こういう空気感っつーか間とかが本当にすげぇーなーって思うわけ。逆あれだけあえて手を施さないでフィールドをかなり生に出すって凄い高度なことだと思うんだよね。


バカが一つ覚えでフィールドとかいってそれだけ垂れ流しにしてたらそりゃー分かるけど、ジムのScendは音の配置とかフィールドの鳴り方とかさ、展開とかがまぁ凄いわけね。最後にさっき書いたようなさ、水が落ちる音が全然聞こえないような音量で鳴ってるとかね、それが2分とか3分とかあるのかな。いや、ああいう配置でさ、ようは小さい水が落ちる音ってのがある意味での最終章になってるんだよね。楽曲の。で、エンドを飾る最終章なんだからまぁ情緒的だったりさ、まぁ大げさだったり終わりっぽい展開なのか?って思ったら水が落ちる音だけがひたすら続くっていうある種のミニマリズムっていうかさ、そういうところが本当に凄いんだよね。だから俺はこれにゾッコンなんだよね。昔から。本当に理想的な作品だと思うね。


んでね、唐突だけど、元相方にPCM-M10が気になるみたいなメールを送ったっつーかまぁ違う要件で送った中にそんなことも書いたら、まぁそっからフィールドとかの話になったっつーか俺が勝手にしだしたんだけど、今回書いたことと繋がることが多くてなおかつやりとりが良い感じだったんでメールのやりとりを貼るわ。まぁエントリーの一部として読んでくださいな。


まずなんつーか俺がね、あれなんだよね、録音物をさ、コンクレートモノにしてもなんにしてもそれをリズム風のループにしたりとかさ、なんつーか具体音を楽器にしちゃうみたいな感覚が凄く嫌いだみたいなことを書いてね、んで例えばこんなのがあるんだけどっつってURL貼ったんだけど、それは具体的過ぎる批判になるんで実際のURLはここには貼らないにしても、まぁそんな流れから元相方の返信の一部がこんな感じで。

それはともかく「具体音をすてきな楽音に」ってのはあるね。具体音=すてきな楽音、ってならいいけど具体音→すてきな楽音、ってなるときの「→」で具体音のよさを殺しちゃうみたいなのは残念だ。


前者でいえばkarafutoの二枚目の最後に入ってるStephanMathieuがレコードのぷちぷちで作ったリズムトラックとか。あとピエールアンリのぎしぎしドア。


後者は「甘栗むいちゃいました」のノリで「音楽やっちゃいました」みたいなやつあるじゃん。「なんと!こんなのでも**できちゃうんですよー!」というバラエティ番組ノリでチェーンソーでセリーヌディオン弾いちゃうとか。そういう大道芸がPCMレコーダとかMAX/MSPとかでハイテク化しただけのものはわりとあるよね。


アートだと「廃材で犬作りましたー!」的な。いわゆる抽象芸術と表象芸術のせめぎあい問題だね。オレ的には重要なんだけど興味ないだろうからはしょる。


で、俺の返信の一部

具体音に関してはさすがですね。俺が言いたいことを完全に理解してるっつーか伝わったようで良かった。まさしく俺が言いたいのは=と→の違いだったわけで。


ホントね、MAX/MSPとかデジタルプロセス系でなんでも加工しちゃうとかって本当に大道芸だと思うんだよね。ああいうので音響とかエレクトロニカとかエレクトロアコースティックとか言われると「なんだかなぁ・・・」って感じになるよね。


俺的にはアート自体は抽象がいいんだよね。表象は個々の心の中で起こればいいわけで、別にアート自体が表象してる必要はないんだよね。かといって別に抽象画が好きとかってことではなくて、なんつーか俺がコンセプチュアルな意味でダダとかデュシャン的なものとかあとはまぁデュシャンの後継者としてのウォーホールが好きなのってまぁここにあるんだよね。扱っている素材は具体的どころか、その辺にあるガラクタとか普通のシンボリックなものだったりするんだけど、作品として出されるというところに普通のものっていうものに対する抽象化が起こるみたいなさ、まぁ本当に異化だよね。


ミュージックコンクレートもまぁ俺的にはこれなんだよねっていうか魅力的なところがここだよね。具体音は具体音なんだけど、個別の意味とかアイコン的なものは無くなっちゃうみたいな。まぁあとはそれだけで出すとかっていうのでもデュシャン的な即物感があるよね。まぁ俺がミュージックコンクレートが好きな理由ってこれだけではないんだけどね。


で、元相方の返信。あ、ちなみに最初の「ですね」口調はニュアンス的に「ですねー」みたいな感じね。別に普段敬語使ったりしないんで。

表象と抽象の話はまあお互いちょっと書いただけで大概わかりあってることはわかるな。


(具体音=楽音)→音楽 の「→」は結構いいんだよね


具体音→(楽音=音楽) の「→」がダサいというか、ネタっぽいというか、矮小な人間界のノリだよね


なんか抽象と具体を「抽象⇔具体」みたいに対立させるのが常識ですみたいな常識あるけどむしろ「(具体→抽象)⇔表象」のが図式的には明らかに正確でしょ。具体物そのものは意味を付与しない抽象的な刺激をまず発生させるわけで、そうした無意味な抽象レイヤーのさらに先に表象レイヤーがあるわけじゃない。意味とか象徴とかの。なので具体→抽象のシニフィアンの世界と、表象のシニフィエの世界が対立するわけでしょ。


具体音がなんど音楽に!みたいな過度な意味づけがどうもつまんないのは、耳蝉君のいうように個々の心でやればいい表象がシニフィアンの段階でシニフィエの遊びに制限かかってるからだよね。でもテレビとかこういうのすごい好きだよね。ようはスペクタクルの隅っこのネタ作用なんだよね。


ウォーホルだったらキャンベルスープ缶は具体的なオブジェクトだけれど、それはアメリカ文化を表象すると同時に、抽象的な曲線や色彩を発生させてもいるわけじゃない。あれを情緒たっぷりの油絵で「アメリカの商品文化の〜」みたいなのが表面に出てたらそういう具体が抽象をブーストする異化作用はこれっぽっちものこんないでしょ。


コンクレートものはやっぱ具体を表象にまで踏み込ませずに抽象にとどめておくのがいいじゃない。それも理屈でやってるんじゃなくて、具体と抽象の世界の快楽のためだけにやってみたいなのね。ウォーホルとか缶詰を平面に展開した図面がなんか気持ちいいから缶詰なんだし、アンリなんかいうまでもないよね。ドアぎしぎしさせて「こ、これだ!!」みたいないい生活送ってるよ。


で、俺の返信の一部。

(具体音=楽音)→音楽 の「→」は結構いいんだよね


はあれだね、ハーバートとかだよね。マトモスなんかも現代音楽とかへの造詣が深いゲイのインテリがやってるんで、この辺を分かってコンクレートを使ってる感じなんで「こいつら分かってるな」って印象が凄くあるんだよね。


俺がホントにダメだよなぁーって思うのがまさしく


具体音→(楽音=音楽)


で、ある意味での還元主義っつーか人間中心主義なんだよね。ニューエイジの音楽とかが自然をも楽曲に取り込もうとするああいうダメさ加減っつーかなんつーか、それはコンクレート系でも十分に起こりうるんだよね。サウンドスケープでもエコ的な思想が入ってたりするとすげー嫌なんだよね。まぁこの辺は微妙なんだけど。


っつーのも例えばエコ的な思想が入ってるライナーとかを読まなかったら、例えばサウンドスケープ単体で聞いたら別に普通の森の音とかだったりしたらさ、まぁそれってただのサウンドスケープなんだけどさ、ライナー読むと「エコかよ!」って思っちゃうっつーか、まぁでもサウンドスケープ自体が良かったらいいじゃん!ってことなんだけど、まぁそういう意味でだから俺は純粋なサウンドスケープよりかは異化が起こっているサウンドスケープが好きなんだよね。でもそれ自体でも本来のサウンドスケープが持っているリラクゼーション的な感じっつーかアンビエントな感じはニューエイジ的な意味じゃなくて自然な形で保たれてるっていう。


で、それはまぁ本当に元相方が言うように快楽なんだよね。異化のコンセプトをやりたいっつーのもあるけど、基本的になんでコンクレートとかサウンドスケープを使いたいのかってまぁ音へのフェティシズムっつーかそれこそアンリのドアの軋みみたいな、コンクレートの快楽なんだよね。なんつーかある意味でTB-303的な音そのものへの快楽と似てるかな。あれも誰かが作ってるっつーよりかは303と909が鳴っているっていう現象的な感じがあるもんね。シンプルであればあるほどそういう感じって顕著で、だからこそ303モノってシンプルであればあるほどいいんだよね。


ってことなんだけど元相方の返信の中に俺が書きたかった異化作用のブースト感とかさ、具体とか表象の感じとかが上手く要約されてる感じだったんでまぁ使わせてもらったわけね。


で、まだリュックフェラーリとかの話があるんだけど長いんで次回にするわ。